怪物
全国で一斉に行われた特定精神検診、その初日。
異変は、早くも起きた。
ところは時代維持部隊広島方面尾道支部。
この尾道では瀬戸内海の海水面上昇により、港町であったかつての街並みは、千光寺公園をはじめとする高台を残して水没。街としての機能の中枢は山の上に移っている。
かつて尾道大学であった校舎を接収し、尾道支部としていた。
その一室、研究室の面影を残すそこに、支部長の執務室があった。
「何と言いましたか? 」
支部長――御堂班座は切れ長の眼を睨むように細め、怪訝な声を上げた。
彼女はまだ三十にも満たない年齢であるが、その実力をかわれ支部長にまで上り詰めた人物だ。そうそうの事では動じない事で有名だ。
その彼女が眉根をひそめるのは、珍しい。
「……もう一度報告しなさい」
「は、はい」
まだあどけなさの残る新卒の女性職員が、委縮の色をありありと見せる。眼鏡の奥に、うっすらと涙すら浮かんでいた。
言葉の圧力。視線の圧力。
それは班座が尊敬する切上月光の影響が大きい。
月光ほどではないにせよ、その鋭い視線に新人はたじろぎつつ答えた。
「本日午前一〇時より、特定精神検診対象者を体育館に集め、CAREによる検診を行っておりました……」
元々が大学だったため、施設の真裏、坂になった先には体育館が存在している。
そこをそのまま利用する形で検診を行っていたのだ。
今日集まったオッサンの数はおよそ五〇〇。
無論、体育館には入りきれない。
かつて校舎であった建物の前の広場から、行列を成して体育館へ向かっていた。
逆に、体育館から出ていくオッサンは、生気なくのろのろと敷地の端、旧校門前のバス停まで歩いていく。
しかも、そうなっていないオッサンはいない。
つまり、検診を受けた全員が時代矯正を受けた事になる。
そんな姿を見ても並んでいるオッサンたちが逃げ出すことは無い。逃げでもすれば、家族に迷惑がかかるのがわかっているのだから。
そのオッサン達が三〇〇人もCAREにかけられた頃、機械が異常な数値を叩きだすようになった。
数字だけみれば、三〇〇〇〇人に相当するエネルギーを吸収したのと同じレベルだ。
新人が泡をくって報告に来るのも無理はない。
が――
「有り得ないでしょう。機材の故障ではないですか? ……いえ、三日で壊れるはずがない……操作ミスでは?」
「うう……それは……ないと思います……他の職員とも何度も確認しましたから……」
新人がおどおどと答える。今にも消え入りそうな具合だ。
「仮にそうだとして、その数値に原因は?」
「わ、わかりません……」
「わからない……とは?」
班座の語気に微かな苛立ちが乗る。
「それが……マニュアル通りに検診を行っているだけなんです。……でも、マニュアルにあるような数値にならないんです。……一人一人が基準値を大幅に超えて……このままだとサイココンデンサの容量を超えてしまうかもしれません……」
サイココンデンサとは、その名の通り精神エネルギーを貯めておく装置だ。
特定精神検診に使用される計測・治療機器であるCAREは、対象の脳をスキャンする。そして時代適応を阻害するストレスを感知すると、それが持つ精神的力場をコンデンサに異動させるように出来ている。
精神にまつわるものとはいえ、エネルギーは実在し、コンデンサである以上、容量も存在する。
この検診会場に用意されたCAREのコンデンサは対象となる人数に合わせて、余裕を持たせた一〇〇〇人分の想定だ。三〇〇〇〇人分にも達するなどあった場合、どのような事態を引き起こすか、それは班座にもわからない。
しかしどこか危機感が表情に無いのは、上が決めて割り振った容量だ、例え問題があったとして、それは私の責任ではない……そんなふうに考えていたのかもしれない。
そんな彼女も、先日オジスタンスを取り逃したことで降格処分となった式堂綺羅星と芳賀刃羅琉の事を思い出すと、考えを改めた。
次期幹部候補と目されていた二人ですら、平へ降格とは、背筋が寒くなる。
自身に降りかかる恐れのある火の粉は払っておかねばならない。
「……要領をえませんね。……仕方ない。私も現場に行き――」
直後、爆音が響き渡った。
鼓膜をつんざく大音声。支部のガラスが砕けんばかりに振動する。
「……っ!?」
事ここに至って、班座は事態の深刻さを理解した。
爆音の聞こえて来た方向はまさしく体育館である。
慌てて飛び出した彼女が見たのは、転がるように坂の上から逃げてくるオッサンたち。
そして、後を追うように噴き上がるどどめ色で不定形の何か。
班座は直感的にそれが何であるかわかった。
オッサン達の中から絞り出されたストレスは、今やタガが外れ、溢れだしたのだ。
それは、荒れ狂う大しけの海に似ていた。捨てられず溜まる一方だったタバコの吸い殻に似ていた。台風の日の吹き荒れる風に似ていた。ゴミ捨て場のポリ袋に似ていた。赤子の泣き声に似ていた。
それは怒りだった。それは悲しみだった。それは絶望だった。
そして、怪物だった。
不定形のそれは周囲のブロック塀を打ち壊し、木々を引き倒し、土石流のように押し寄せ、むせ返るような加齢臭と共に、班座の意識をあっという間に刈り取っった。