《春 水練》
春分を知らせる狼煙が青龍神社から立ち昇った。
櫂は修忍里に来てから二回目の春を迎えた。
水練の初日は予想通り水渡りだった。
水渡りには大草鞋の手入れが必要になるので、例外的に当日ではなく前日の今日に発表された。
櫂は大草鞋の手入れをしながら夙川村で蓮に一回だけ勝った時のことを思い出していた。
「なあ叙里。やっぱり大草鞋は必要なのかな」
隣で同じく大草鞋に丁寧に油を塗り込む叙里はチラッと横目で櫂を見る。
「大草鞋ってこのままでも重いのに、裏に油を浸み込ませるだろ、滑りやすいし、水を吸うともっと重くなる。」
「・・・」
「わざわざこれ付けなくてもいいんじゃないのかな。」
「・・・」
「だって草鞋を付けない方が軽いし早く足が回ると思うんだけど。」
「・・・」
「なあ叙里は本当にどう思う。」
櫂は以前から疑問だった大草鞋の件を叙里に話した。
「・・・」
「それにあの油も要らないと思うけどな。」
「草鞋は必要だし、油も塗った方がいいですよ」
面倒くさそうに叙里が答えてくれた。
「そうかな、滑るから邪魔だと思うよ。」
「では、どのように水の上を歩くのですか」
「歩くんじゃなくて走るんだよ。」
「そうですか、では現実的な話をしますが、足裏の面積だけでは浮力が足りません。」
「ふりょく・・・。」
「僕が勝手に名付けたのですが、水が上方向に押す力のことです。」
「水が押す・・・」
何を言っているのかさっぱり分からない。
「潜水すると耳がキーンとなるのは分かりますよね。」
「うん、だから耳抜きするんでしょ。」
「そうです。それは水には物体を押す力があるからです。当然ですがその力は上方向にも働きます。」
「そうですか。」
櫂は何故か叙里と同じ口調になっていた。
「その力をたくさん受けるためには、水と接する場所を大きくしなければなりません。」
「では、何で油を塗るのでしょうか。」
「油は草鞋が水を含むのを防ぐためで、塗るから浮くのではありません。」
「違うよ~!」
団丸が割り込んできた。
「だって、油は水に浮いてるよ。」
櫂には叙里のふりょくの話より団丸の油は水に浮くという方が納得できた。
「そっか!じゃあ油は塗ったほうがいいのかな・・・。」
団丸の妙に説得力のある言葉に考えを改めるべきか迷っていると。
「好きにしてください。」
叙里は呆れたようにボソッとそれだけ言うと、大草鞋を壁に掛けて奥の寝床に行ってしまった。
その後は櫂と団丸で油は塗った方がいいか、塗らない方がいいかと深夜まで大いに盛り上がっていた。
翌日、河原では黒組達がそれぞれに手入れした大草鞋を足にしっかりと結び付けていた。
その中で櫂と団丸だけが草鞋ではなく足の手入れをしている。
櫂は禅を組み精神集中しながら足の裏を黙々と揉んでいる。
団丸は足の裏に丁寧に何度も何度も油を塗り込んでいる。
桃と叙里は呆れて二人を無視しているようだ。
その様子を見ていた教忍頭幸軌は
「櫂、団丸、大草鞋はどうした。」
「この方が軽いから付けないでやってみる!」
団丸は自信満々にそう告げた。
「櫂も同じか。」
「うん、このままやるよ。」
禅を一時中断してそれだけ答えると、すぐに目を閉じまた禅に集中した。
そのやり取りに黒組中の視線は櫂と団丸に集まった。
「では今日は特別に初日でも本戦を行う。しかも班の対抗戦ではなく、個人戦にしよう。」
水渡りの個人戦は櫂と団丸から始まったが、二人とも直ぐに沈んでしまった。
二人は午前の水練が終わるまで三刻の間ゴツゴツした河原で正座をさせられた。
夙川村で蓮に勝ったのはなんだったのだろう。
ジンジンと足の感覚が麻痺した中で櫂はその理由を考え続けた。




