《冬 金練》
金練は一一歳の冬至からはじまった。
初日に行われた岩渡りはゴツゴツし岩やツルツルした岩の上を駈ける訓練だ。
あの櫂の大けがもこの岩渡り中に起こった事故だった。
修忍里では夙川村よりも安全対策はしっかりと考えられているが、多少の危険は伴うので初日は安全講習と実地見学だけだった。
崖下には色んな物を混ぜた粘土が敷き詰められており、落ちた時は五点着地などはせずに、背中から落ちるように指導された。
下が柔らかいので、足や頭から落ちると潜ってしまい却って危険なようだ。
また広い範囲で修行を行うには邪魔にもなるようで、安全紐は用意されていない。
これは櫂にとっては好都合だった。
あの落下時の事を全ては覚えていないが紐が切れた瞬間の「ビーン・ブチッ」という感触だけは今でも忘れられない。
夕食後、叙里は一人早めに小屋に戻り黙々と草鞋の手入れをしている。
草鞋に不思議な液体を塗っては、小屋に運び込んだ岩にくっ付け、何やら色々と試している。
液体に何かを混ぜては草鞋に塗って岩にくっ付ける。いろいろ試すがどうにも納得がいかないようだ。
ガコッザザー。
急に戸が開き櫂達が小屋に戻ってきた。
叙里は草履と液体を隠そうとアタフタと小屋中を小走りに動き回るが、気が付くと懐に入れていたようだ。
「叙里、それ何」
団丸は興味深そうに叙里の懐を覗き込む。
「うわっっと、これは、その。」
「もうバレてるよ。草履に何か細工してるんでしょ。」
櫂の鋭い指摘に叙里は観念したように、懐から草履を取り出した。
「これは吸着草鞋といいまして、あれっあれあれ。」
どうやら手にくっ付いて取れないようだ。
「あれ、もしかしたら。」
手に付いた草履をブンブン振り回す。
何度か手を振るとヒュンと草履が手から離れて一つは壁に、もう一つは囲炉裏の灰の中へ飛んで行った。
飛んで行った草履にはビヨ~ンと手から糸を引いたような粘液が伸びている。
叙里はその粘液を指で掬いネチョネチョとこね回すが、「だめだ」と首を横に振る。
櫂達には何がダメなのかさっぱり分からない。
「岩渡りの下見はどうしたのですか。」
櫂は夕食後に桃と団丸に連れられて岩山へ見学に行っていた。
その帰りがあまりにも早いので何かあったのかと理由を聞いたようだ。
桃と団丸は目を合わせ、黙り込んでしまった。
櫂にもこの空気感が伝わってきた。
しばしの沈黙のあと、
「崖には行ったけど、見学だけだったけど。」
言葉が続かない。
櫂は岩渡りの開始地点に行っただけで微妙に滑る岩肌に恐怖を覚え、それ以上先には行くことが出来なかった。
「そうですか、これが間に合えばよかったのですが。」
叙里は壁から剥がした吸着草鞋を見つめ肩を落とす。
吸着力は段々強くなってきたが、粘度が足りずに未だに試行錯誤していた。
さっきは懐の汗が粘着物質に作用して粘度は増したが今度は柔らかすぎた。
「そっか、明日は使えないのか。」
桃もがっかりしている。
団丸は何故か囲炉裏に飛び込んだ草履を掘り出すと。
「あ~芋が~」
囲炉裏に隠していたらしき焼き芋に草履が突き刺さっていた。
「芋が~」
泣きながら芋を割り、悲しそうな顔で草履を叙里に手渡した。
それを受け取ると叙里の顔色が急に変わった。
「こっこれは、これは。」
叙里は草履の裏側を手や顔につけると
「これは~」
今度は小屋に持ち込んだ小さな岩にくっ付けた。
「汗と灰と芋が。汗が、灰が、芋が、汗が~灰が~芋が~」
そう言いながら何度も岩に押し付けては外し、投げ付けては外している。
そこには完璧な粘度の吸着草履があった。
叙里が作っていた粘着物質に汗と灰と芋が混ざったことにより、遂に吸着草履が完成したようだ。
「櫂、明日からこれを使って下さい。」
よほど嬉しかったのか、叙里は涙声だ。
「あっありがとう、叙里。」
櫂もつられて泣きそうだ。
「よかったね櫂。」
桃も若干鼻声だ。
「わっわっわ~ん、かい~、じょり~、いも~」
必死に抑えていた団丸の本泣きが小屋中に響き渡った。
火渡りの時はズルがバレて怒られたけが、この吸着草履はバレても「修業は技能を高める訓練だから、このような物は使わないように。」と注意だけだった。
後から聞いた話では、実際に戦忍になると同じような液体を塗ることもあるらしい。
その調合は長老だけしか知らない秘伝なので、独自に作った叙里はある意味では凄い奴なのかもしれない。
その叙里の吸着草履は最終日までに更に改良が加えられ、最終日の試験では櫂が三位、団丸八位、桃九位、叙里は一二位だった。
これは櫂たち四人組の最高成績だった。
そしてまたしても蓮が一位で奏が二位、この二人は本当にすごい。




