過去を生きる 2-2
俺が帰ることが出来たのは、あるいは茫然自失のまま死なずにいられたのは鈴がいてくれたからだろう。
彼女を無事に返さなければならない。 その思いのおかげで我を見失わずに済み、ある種の現実逃避の賜物によって寮であるマンションに戻ってくることが出来た。
ロクに物を考えられずに部屋に戻ったときに、手を繋ぎっぱなしであったことや、鈴を部屋に送り忘れていたことを思い出す。
「悪い。 少し呆けていた。 手間になるがここから部屋に送るな」
「いや、蒼が心配だからもうちょっといるよ。 明日お休みだし」
「……悪い。 助かる」
鈴が驚いたような表情をする。 ソファに座っていると鈴がエアコンを付けて、湿気た空気が過ごしやすいものに変わっていく。
俺に気を使っているのか、鈴は何かを言うことはなく、手慰みのように利優の私物を整えたりた部屋の整理をしながら、伺うように俺を見ていた。
「……さっきの話、本当なのか」
「うん。 ……間違いないよ。 ……たまたま、一緒だった、とか……かもしれないけど」
それはないだろう。 冷静に考えても、間違いなく母を殺害したのは俺の師匠だ。
……信頼していた。 のかもしれない。
長い時間世話になっていた。 恩人だとも思っていた。 裏切ったことへの罪悪も多少感じていたが、今の感情は自分にも理解出来ない。
怒りとも、絶望とも、喜びとも、失望とも、どのような感情にも属さない……混沌とした心だ。 バラバラになるのを感じて、目の前が白くなったり、黒くなったりと忙しない。
「蒼……大丈夫?」
かろうじて自死やらをせずにいられたのは、鈴のおかげだろう。 利優の私物を動かすのに紛れて、銃やらナイフやらを遠ざけていたらしい。
俺の行動にも気を配っていて、鈴は本気で俺が自殺すると警戒しているようだった。
死にたい気分なのは確かで、気がつけば死のうとしていてもおかしくなかった。
「大丈夫だ」
そんな言葉が言えるのは……この感情があまりに整理出来ずにいるおかげで、辛いのかすら判別つかないからだ。
視界すら覚束ない中、いつの間にやらエアコンの音が聞こえなくなっていることと、毛布が掛けられていることに気がつく。
「……寝てたか?」
「いや、起きてたよ。 ……今は寝ない方がいいかも。 トランプとかする?」
「いや、いい」
「蒼の大好きな筋トレする? 腕立て伏せしてる上に乗ってみたいな」
「……いや、いい」
今はただ、時間が流れてくれればいい。 そうしたら、多少は動けるようになることを知っていた。 母を殺した時……いや、母を失った時もそうであった。
強い思いであっても、忘却はする。 少しずつ記憶も感情も溶けて失われていくのを知っていた。
ふと思う。 どうせ失われる記憶に価値などあるのだろうか。
「蒼……」
手が握られる。 痛いぐらいに強く握られて、それほど思われているのだとやっと理解する。
「分かっている。 先程までと何の違いもないことぐらい」
結局は気の持ちようだ。 分かっているけれど、割り切れるはずもない。
甲斐甲斐しく俺の世話を焼こうとしてくれている鈴はどう思っているのだろうか。 見捨ててくれれば気も幾分か楽になる。
「……利優を守る意味は、もうなくなった。 完全に。 俺がいなくとも安全なようになり、もう贖罪も必要ない」
「うん……でも、その……」
「約束したから、死ぬことはしない。 時間はかかるだろうがいつも通り振る舞えるようになるだろう」
良くなっただけだ。 殺していなかった、嬉しい。 多分そうのはずで、驚きを精神的な苦しさと誤解したのだろうと、無理矢理にでも思う。
ああ、だが……もう、やれることが本当にない。 利優のためを思えばいない方が都合良く、鈴にも同様だろう。
「蒼……ほら、でもさ、これから楽しいことも出来るじゃん! 悪いことしてなかったんだから、気を使わなくてさ!」
「……ああ」
「ボーリングとか、カラオケとか、ゲームセンターとか、色々あってさ! 一緒に行こうよ! 利優ちゃんも誘ってさ」
「……そうしようか」
俺が頷くと、鈴は明るく振舞っていた顔を歪ませて、ボロボロと涙を零してしまった。 何故だと思って彼女に手を伸ばすが……やはり身体に力が入らなかった。
「蒼は、何がしたい……? これから、自由になったじゃん。 子供みたいに遊んでもいいしさ」
何がしたい。 その問いの答えは出るはずもなかった。
今までずっと何かをしなければならない、するべきである、してはならない。 そうやって行動を決めてきたというのに、今更やりたいことを尋ねられても答えが出るはずがなかった。
「……分からない」
「……利優ちゃんと結婚したいとかでもいいよ? 気を遣わなくて」
「俺が幸せにしてやれるとも、思えない」
鈴の言葉が詰まる。
困らせるつもりはなかったけれど、上手く考えることも出来ていないらしい。
不意に、欲しいものが頭に浮かんだ。
「……生きる意味が、欲しい。 何のために生きたらいいのか、分からないんだ」
それがあれば、生きていられる。 どんなに辛いことがあろうと、そのことを果たすために生きることが出来る。
鈴と利優を悲しませずに済む。
少女は一瞬だけぼうっとした後、何度か瞬きをして……俺の手を握り締める。 深く、重く握る。
「……わ、たしを……生きる意味に、して。 蒼は、私のために生きて。 死んだら、泣いちゃうから」
彼女は縋るように俺の身体を抱き締めて、喉奥から絞り出すように言った。
「蒼の人生を、私にください」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
トントンと脚を地面に当てて慣らしてから、息を整える。
組織の中にある練習場だが、朝早いこともあり、まだ誰の姿も見当たらない。 集中出来る分だけ好都合だった。
まず歩く動作から確かめる。 戦闘が多いと予定外に筋肉が付いたりしてしまい、左右のバランスが若干乱れてしまうことがある。
内臓などをはじめとして人体自体が左右非対称なので多少は仕方ないが、可能な限り均等につけた方がいい。
身体を動かすことで身体の現状を一通り理解し終え、問題ないと判断して、次は武の型を通していく。
俺のいた組織で扱われている武術は、一定以上の能力への適正を前提としている。 銃を操る能力のような個々の能力ではなく、少し物を動かすといった正しい練習をすれば誰にでも出来る汎用的な能力の扱いが必須の武術だ。
異能【練武】。 自身の身体を観測しながら、ほんの少しだけ身体の表層を操り、動きの瑣末なブレを矯正することにより、通常の何倍もの早さで決まった型を身体に覚えさせる。
それによって通常では人が至れないほどの技を正確に身に付けるのだ。 他の武術では不可能な複雑且つ煩雑な動きを体得することが可能となっている。
それによって短時間で型の練習を終えて、少し予定よりも早いが練習場を出た。
同門のクライ辺りと組み手でもして技のキレを確かめたいが、あれ自体信用ならないし、俺と二人で何かをしていれば無闇な誤解を生みそうで、そもそも幾らでも出れるだろうが軟禁されているので無理だろう。
軽く外を走って鈍らないようにだけして、マンションに戻り、合鍵を使って鈴の部屋に入る。 まだ眠っているようで、部屋は静かだ。 寝室に使われている部屋に入ろうか少し迷ってから、意を決して入ることにした。
八時には起こせという約束だった。
薄暗い室内に入り、少女のすーすーとした寝息の音を聞く。 丸まって寝ているらしく、背中がめくれて肌が見えていることに気まずく思い、掛け布団を隠すように掛けてから彼女の身体を揺する。
「鈴、起きろ。 どこか行くのだろ」
何度か声を掛けながら揺さぶると、鈴はしんどそうに目を開けて、一気に見開いた。
「そ、蒼!? なんで……って、あっ……」
鈴が思い出したように頰をかいて、気まずそうに俺を見る。
「お、おはよう」
「ああ」
昨日のことを思い出してか、彼女は俺へと手を伸ばして、何故か頭を撫でる。
「よしよし」
「……なんだ突然」
「そうは言っても、身体は素直だね。 えへへ」
別に元々嫌がってもいないだろう。 パジャマ姿の鈴から目を逸らして、その場から離れる。
「あっちで待っているから」
そう伝えて、寝室から出る。 ……まだ気持ちに整理はついていない。 だが、幾らかだけマシになったように感じる。




