過去を生きる 1-2
利優が持ってきた漫画を読んでいる横で、ひたすらトレーニングをする。 唇の柔らかさを思い出しそうになり、必死に身体を動かして誤魔化す。
彼女の方を見ようとするが、顔が漫画本で隠されていて見ることも出来ない。
「……まだ治ってないんですから、ほどほどにした方がいいですよ?」
「善処する」
「する気ないですよね。 ……今日は泊まっていきますね」
「帰れ、同じマンションだろ」
「お布団持ってくるので、一回は帰りますけど」
「そのまま部屋で寝ろよ……」
今の気分では襲いかねない。 キスをしてしまったせいでタガが外れてしまいそうだ。
可愛い、利優はやはり可愛い。 椅子の上で膝を抱えている姿も小動物じみていて抱きしめたくなる。
キスもしたし、少しぐらい抱きしめてもいいのではないだろうか。
利優がこちらを見て首を傾げ、抱きしめようと思ったところで我に返る。
「……本当に、一度帰ってくれ一応送るから」
「同じマンションなんで、いりませんよ? あ、布団運ぶのは手伝ってほしいですけど」
「……布団持ってくるのは本当にやめてくれ。 ……さっきのことも含めて、利優の父親に顔向け出来ない」
「ボクのお父さんがどうしたんですか?」
ある程度信頼して話してもらい、利優を託された形になるのに……手を出してしまった。 それに加えてこんな狭いマンションの部屋で同棲など、また殴られても文句が言えないだろう。
というか、浮かれた気分をどうにかしたいので数発殴られに行きたいぐらいだ。
「……少し話をした。 利優のことを大切に思っていたから、申し訳ないと思うんだよ」
「んぅ……。 ボクの年齢だと普通ですし、どうせ先輩と結婚することになるでしょうから、そんなに気にしなくていいと思います」
「お前、鈴との約束はどうした。 応援するとか言ってただろ」
「鈴ちゃんもボクがお嫁さんにもらいます」
利優が欲望を平気で口に出すようになった……。
あまりにめちゃくちゃで、少し引いてしまう。
「正式なのは無理ですけど、ボクは鈴ちゃんとずっと仲良くしたいのです。 なので、三人で暮らすんです。 楽しいでしょうし、いいですよね?」
「……利優の父親に殺されても文句は言えないな」
そうなったら、ではなく言わせた時点でだ。 どちら付かずな反応ばかりしていたからこうなったのだろう。
いや、鈴のことは何度か振っていたが……いつの間にか流されていた。
かと言って、キスをしたのに利優から逃げるのもダメだろう。 ここまでしておいて離れるのも道理に合わない。
近いうちに謝りに行った方がいいか。
「先輩はボクのお父さんのことを気にしすぎです。 本当にどうしたんですか」
「もし自分に嫁入り前の娘がいたとして、ロクでもない男の家に入り浸ってるうえにキスまでされていたら……そう考えるとな」
「…………遠回りなプロポーズですか?」
「違う」
利優は椅子から降りて、床に座り込んでいる俺の方に近寄り、耳元で囁くように言う。
「それとも、このまま一緒に寝ますか?」
「……帰れ」
俺の反応を見てクスクス笑う彼女から顔を逸らす。 からかわれているのだろうか。
俺の前に来た利優は、やはり……どうしようもなく愛おしい。
撫でたショートカットの髪は洒落っ気などは感じられないけれど、丁寧に手入れをしているのか軽く触るだけでゆらぐように流れる姿は絹の糸のようだった。
その顔立ちは幼気ながら整っており、大きくぱちりぱちりと動く目、小さく薄い唇、うすらと赤くなった頰、ほう……と吐かれた彼女の吐息が俺の頰を撫でて、おそらく俺の感嘆の息も同様だろう。
その小さな身体を抱き寄せる。
抵抗もなくなされるがままに俺の胸に収まった少女は、俺を見上げてにやにやと笑みを作って俺を抱き締め返す。
「んぅ、ボクが大好きすぎて、耐えられなくなってしまったんですか?」
冗談めいた笑顔はいつ見ても可愛らしく、何度この笑みに命を救われたかも分からない。
軽薄だ。 薄べったくて、軽くて、情けない。
醜い俺を受け入れてもらえると思えば、封じ込めていた思いが遅れて溢れ出してくる。
利優のかんばせに、雫が落ちた。
「え……。 えっ、あっ!? えっ、なんでですか!? ご、ごめんなさい? 先輩、泣いて──!?」
慌てて俺の手を押し退けて利優は立ち上がり、その場であたふたと手足を動かす。
「ごめん」
「い、いえ、泣きたい時ぐらいあるはずで──」
膝立ちになって、彼女の胸に抱きつく。
甘い少女の匂い、胸は思春期らしい膨らみはなく……それが彼女らしくて少し落ち着いてしまう。
「────好きになって、ごめん。 迷惑を掛けた。 君から居場所を奪った。 鈴と揉める原因を作っている。 いつも面倒を掛けさせる」
涙が彼女の胸元を濡らし、頭を撫でられながら想いを漏らす。
「分かっているんだ。 利優のことを思えば、好きになどならず、機械的に守れた方がいい」
「んぅ、ボクは……蒼くんに好かれて、嬉しいですよ」
「不合理だ。 こんなクソ野郎に好かれて、嬉しいなど」
強く頭が抱き締められて、涙が利優の服に染み込んでいく。
少し押せば彼女が耐えられずに倒れて、痛くないように抱き締めながら、押し倒す。
「……こんなちんちくりんを好きになる先輩も先輩ですよ」
「可愛くて、優しくて、暖かい。 お前より愛おしい人がいる訳がない」
床に利優の髪が広がって、逃したくないと彼女のことを抱き締める。 体重なんて倍以上あるのに、それでも利優は恐れる様子もなく俺を見る。
「ボクは、貴方が悪いなんて、思ってません。 だって……こんなにも優しい貴方が……いじめられる理由なんて、あるはずがないのに」
責めてもらいたかった。 ずっと、利優に怒られれば……母に叱られているような気がするからだ。
「無理な肯定だ」
「それでも構いません。 ……先輩の好きとは違うかもしれませんが、貴方が好きです。 今だけでも、辛いことを忘れてください」
卑怯だ。 あまりにも、散々人を不幸に陥れた癖に……自分だけは少女を手に入れようとしている。
抗えるわけもなく。 上から彼女に覆い被さるように抱き締め続ける。
「もう一度、ちゅー……します?」
頰が赤くなり、小さくうすい薄桃色の唇が小さくすぼめられる。 目をぎゅーと閉じている姿も幼げで可愛らしい。
我慢も出来ず、顔を近づけて……二回目のキスをする。 柔らかい、暖かく、少し湿っている。 あまり長くしていると嫌かと離し、自分に嫌悪感を湧かせながら顔を上げた。
瞳を潤ませて、頰を赤くした利優は口をゆっくりと開く。
「……さっきもそうですけど……ちゅーって、甘酸っぱくないんですね」
そりゃそうだろう。 唇を付けただけで味がするはずがないと思いながら利優を離して、座り直して髪を整えている彼女を見て気がつく。
本気で言っている、この娘。
「……唇を触れさせるだけなら、味がするわけないだろ」
「ん、誇張表現なんですね。 ああいうのって……」
「いや、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「いや、まあ……そんなところだ。 俺も詳しくはないしな」
首を傾げている利優の頭を撫でて、これから何を話せばいいのか分からず気まずく感じる。
座ったままにじり寄ってくる利優から逃げるように下がるが、それよりも早くに利優がきて、べったりと引っ付かれる。
「……先輩が泣いた顔、初めて見ました。 いつもボクとか鈴ちゃんが泣かされてばかりですから、ちょっと嬉しいです。 写真撮ってもいいですか?」
「やめてくれ。 鈴に見せる気だろ」
「二人でちょっと楽しむだけです。 他の人には見せませんから」
「鈴は他の人に入るだろ」
「ボクのお嫁さんになるので入りません。 ……ダメです?」
「やめてくれ。 酷い恥だ」
利優は楽しそうに俺を見る。 こんなに可愛い女の子と二度もキスしたなど、信じられない。
「服、先輩の涙で濡れてしまっていますから、外に出たらバレちゃいますね。 先輩の顔も、多分洗っても泣いた跡は残りますし」
「……俺はこっちのソファで寝るから、利優はベッドを使ってくれ」
「あの血の付いたやつですか?」
「シーツを変えればいいだろう」
「んー、変えなくてもいいです。先輩の匂いがあった方が落ち着きますから」
送ることが出来ないなら、同じマンションとは言え一人で帰らせるわけにもいかないので泊まらせるしかない。 別の部屋で寝るなら、任務の時と変わらないと割り切ろう。 あとはこれ以上利優を見ないようにしたら、襲いたいなどの気持ちも多少は収まるだろう。
「……あと、基本的に能力で鍵を閉めて俺が侵入出来ないようにしてくれ」
「一緒に寝てもいいですよ?」
耐えられる訳がない。 今でさえ、利優の感触を思い出して頭から離れなくなっているのに、これ以上近寄ってしまえば理性など簡単に崩れるだろう。
逃げるようにソファに向かい、利優が来ないように手で払う。
「ん、先輩のツンデレ!」
デレてはいても、ツンをした覚えはない。




