過去を生きる 1-1
目が覚めたのは夕方を過ぎた頃だった。 鈴が頑張っていてくれたのか、身体の傷は大まかには治っており、幾らか治っていない部分もあるが、痛みが思ったよりもなかったことに安らかさを感じる。
今日はもう夕方だ。 不慣れな携帯電話を使ってインターネットのニュースにタイニーアイランドの記事がないことを確認し、立ち上がる。
腹が空いている。 とりあえず着替えるか、血塗れで動くのもよくないだろう。
血液がべったりと固まっていて、服と皮膚を付ける接着剤のようになっている。 皮膚が剥がれてもいいかも思いながら無理やり脱いで、適当に羽織ってから替えの服を取り出す。 いや、髪にも付いてるから先にシャワーを浴びた方がいいかと考えながら扉を開ける。
「あ、先輩! 起きましたか……って……なんで、上、裸なんです」
「利優がいると思っていなかったからな。 料理作ってくれていたのか」
「そろそろ起きるかな……と。 んぅ、隠してくださいよ」
適当に頷いてから脱衣所に向かう。 適当にシャワーを浴びて血を落とし、匂いまでは落ち切らないと諦めながら風呂から上がる。
少し新しい服は治りきっていない傷に痛みを与える。 また動けば多少出血しそうだと思いながら、利優の元に向かう。
料理をしている姿は手慣れている様子で、背が低いため台に乗りながらではあるが、淀みのない動きでテキパキと動いている。
彼女曰く、好きでしていることらしいけれど、何が楽しいのかは、いつに見てもよく分からない。
「先輩がボクを守ろうとするのと一緒ですよ」
「……口に出ていたか?」
「顔を見たら分かります。 もう、四年近い付き合いですから」
「……悪いな」
「謝ることじゃないですよ」
利優は面白そうに笑いながら、机の上に料理を並べていく。
気まずさを覚えて思わず溜息を吐き出す。 もう四年も迷惑を掛け続けているのか。謝って済む話を越えている。
料理を並べ終えた利優は俺の隣に座り、俺の半分ほどもない料理を前に手を合わせた。
「いただきます」
「……悪い」
黙々と口に運ぶ中、利優は俺がいない間のことを楽しそうに話す。話の腰を折らないように相槌を打ちながら聞く。
相変わらず鈴にべったりと引っ付いているらしく、そのことばかりだ。
「……そう言えば、先輩って鈴ちゃんには優しいですよね」
「そうでもないだろ」
「好きなんですか?」
「いや……まぁ好きは好きだが、色々と恩が多いからな。 それは利優もだが。 足を向けては寝られないな」
「……膝枕してほしいって意味ですか?」
違う。 いや、してほしいが……。 視線を彼女の脚の方に向ける。 ズボン越しにだが、細い脚が見える。
「します?」
「いい」
利優は食べ終えた皿を片付けながら、俺の方を見る。
「美味しくなかったですか?」
「いや、美味い。 ……こうしてもらうのも申し訳ないな、と考えていただけだ」
少しして俺も食べ終えて、食器を運んで洗おうとしたが利優がスポンジを離さないため洗うことが出来ない。
「先輩って、基本的にネガティヴですよね」
「そんなことはないと思うが」
「そんなことありますよ。 先輩の大好きなボクが毎日ご飯作ってるのに、期待とかしてないじゃないですか」
「そもそも、付き合いたいと思っていないからな」
「知ってます。 捕まえて自分だけのものにしたいとか、そういうのですよね」
「……利優じゃあるまいし」
水道水をコップに汲んで、椅子に戻ってそれを飲む。
利優のことは好いているが、利優は恋愛感情で俺を見ていない。 同情心を利用するような真似はしたくないので、諦めるしかない。
いずれはガムの言っていたようなことになるのかもしれないと思えば気が重いが……それも恩返しや罪滅ぼしには都合がいいかもしれなかった。
「……先輩って、いい人ですよね」
「ないな」
「先輩からしたら、ボクが危ない方が得なはずです。 だって、先輩のおかげで今は危なくなくなってますから、先輩と一緒にいなくても大丈夫になりました」
利優は洗い物を終えて、手を拭きながら俺の隣に座る。
もう風呂には入ったあとだったのか、食べ物の匂いがなくなればほんの少しだけの石鹸が香り、着飾っていなくとも彼女が女性であることを意識させられる。
左手で自分の脚を握って考えたことを誤魔化しながら、利優の言葉を聞く。
「先輩はボクのことが大好きですから、ボクと一緒にいたいですよね?」
答えることは出来ない。 そうだと言えば利優は無理をしてでも一緒にいようとするだろう。 違うと言うのは分かりきった嘘だ。
利優は俺を見てクスクスと笑い、指で頰を突いてくる。
「ボクは……先輩と一緒にいたいですよ」
「……馬鹿だな」
「好きですから」
真っ直ぐに言う彼女を直視することが出来ない。 嬉しさと情けなさが合わさって、見られるのも嫌な顔をしているだろう。
いつの間にか、外の景色が暗くなっていた。 綺麗な夜景などはなく、立ち上がって開けていたカーテンを閉める。
小さな窓だったが、カーテンを閉めると存外に……部屋が狭く感じられた。
いつの間にやら増えている利優の私物のせいもあってか、あるいは人が一人多いからなのか……普段よりも遥かに狭く、小さい空間のように思えた。
「先輩は……いつも寄る辺ない顔をしています。 ここにいるのが、違うみたいな」
「俺のことは放っておいてくれ」
少女の顔を見ることが出来ない。 捨てられるのも恐ろしく、近寄られるのも罪悪に苛まれる、少女の手が服の裾を引いて、俺の口から酷く情けない息が漏れ出る。
先輩、と利優が俺を呼ぶ。 蒼くん、と少女が俺の服を引く。
「蒼くんは……優しい人です。 たくさんの人が、多くの辛いことが、貴方を傷付けてしまった。 ……悪くない、先輩は悪くない」
「そんな言い訳が、通じるか」
「ボクには、通じます。 他の誰が、誰もが先輩が悪いって言っても……。 ボクはその言い訳を信じて、先輩が悪くないって思います。 だから……そんな、一人みたいな、嫌です。 今も一緒にいるじゃないですか」
利優が強く服を握って、俺の身体を引っ張る。
少女の小さな顔に大きな水の雫。 世界で見たどんな生き物よりも、あるいはこの世界に不釣り合いだと映るほどに、美しい生き物だった。
逃げるようにその場に座り込むが、それでも利優は真っ直ぐに俺を見る。
利優が優しく美しいだけ、自分の醜さが際立つ。 優しい黒い眼の奥に映る男は、古いものから新しいものまで傷だらけで汚らしく、相貌も酷く不恰好だ。
人のために泣いている彼女と比べて、母を殺したことをダシにして傷付いたと彼女を引き止めているなど……あまりに醜い。
「先輩がどんなに悪い人でも、卑怯者でも、クズでも。 好きです、貴方が」
「俺は──」
少女の瞳が閉じて、映していた醜い男が視界から失せる。 ゆっくりと近寄ってくる少女のかんばせ。
石鹸の香りと少女自身の香りなのか、いつもの匂いが鼻腔に入り混み、頭の中が少女のことで埋め尽くされてしまう。
ゆっくりと近寄ってきて、少女の恥ずかしそうな湿った吐息が唇を撫でるけれど、何をしようとしているのかが理解出来なかった。
例えば隕石が降ってくることを警戒しながら街を歩く人がいるだろうか、あり得ないこと……少なくとも俺には到底考えられない出来事で、それ故に……彼女が汚れると思っても、拒むことすら出来なかった。
少女の吐息が止まって、別の生物だと思わされるほど柔らかい何かが唇に触れる。 湿気た感触、薄く柔らかい、少女の閉じた目から目が離せない。
強く押し付けられることはなく、ほんの少し……掠らさせるだけのように触れて、離れていく。
真っ赤になった利優の顔は、童女らしい悪戯なものではなく、女の子らしい恥ずかしそうなものだった。
いつまでも、子供だと思っていた。 見た目が幼いことや、少し前までの俺を気にしない様子から、そういうことをするとは思っていなかった。
思わず自分の唇を触り、利優の唇を見る。
可愛い小さなそれが俺のものと当たったのなど現実離れしていて、白昼夢を見たのかと疑ってしまうのも仕方ないことだろう。 けれど、彼女の言葉がそれを否定する。
「先輩が……道理に合わないから、付き合いたくないって言うなら、それでもいいです。 でも、ボクはどんな言い訳でも頷きますから……二人の時だけは、自分のことを悪いなんて……思わないでください」
利優は赤くなった頰を隠すように、俺の胸に抱きついて顔を押し当てる。 背に手を回すことも出来ず……情けなさばかりが残る胸中を隠すように彼女の頭を撫でた。




