考える必要がないこと。 人はそれを幸福と呼ぶ 1-3
能力による意識が朦朧とする感覚はゆっくりとなりを潜めて、まだ多少は残っているが問題ないぐらいだ。
「あ、もう平気なのか?」
「ああ、悪いな。 心配させて」
「いや、んなもんするはずもねーけどな」
そう言ってから「早く出てけよ」と顎を出口に向ける。
長居する意味もないので、外に出る。 医務室はまだ空いていないだろうから……と思ったが、雑な方法で血液の採取は終わったのでもう用事はないのか。
何か他にないかと、行き当たりばったりで考えながらバケツを戻しに倉庫に向かう途中、異能処理班の部署にいるにしては小綺麗なスーツを着ている壮年の男が立っていた。
「……白兼さん、お久しぶりです」
「ああ、久しぶり。 丁度コーヒーを淹れたところなんだが、間違えて二人分淹れたんだが、飲むか?」
誘うのが下手か。 間違えて二人分淹れた、なんてあるはずがないだろう。
目の下にクマを作っている男はそう言いながら俺の前を歩く。
あくまでも目上の人であり、それでも一切敬うつもりはないが、俺はこの異能処理班の中でも「裏切る」可能性が高いと思われている存在だ。
下手なことは出来ないのは確かである。 ベタベタなゴミのような文句であったとしても、それは変わらない。
廊下はトンネルであるが、扉を一つ抜ければ普通のオフィスのような内装の部屋になる。
急激な見た目の変化に違和感は拭いきれないが、違和感にも慣れたものだ。
座り慣れない良いソファに座るように促され、大人しくそこに座って、目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばす。
「若者にはジュースの方が良かったかな」
「いえ、白兼さんの淹れたコーヒーは美味しいので、こちらの方が」
もはや隠す気もない言葉に、たどたどしく言葉を返す。
コミュ二ティ能力の低いおっさんと、無礼な若者はどちらの方がマシなのだろうか。
そんなたわいもない考えを他所にコーヒーを啜る。
舌の先が熱さに負けたように味が分からず、けれど舌の奥でコーヒーの酸味と苦味がくど過ぎない程度に感じられて、口内から鼻に嫌味のない苦さを含んだ香りが抜けていく。
まぁ、美味くはある。
「頑張ってるみたいだね。 学校への潜入」
「ありがとうございます。 けれど、発見されたテニスの能力者を確保出来たのは独力ではなく……塀無の協力によるところが大きいです」
「謙遜する必要はない。やはり君は熱心に取り組んでくれている」
微妙な空気は空調の風に流され、白兼は髭の濃い顎を気まずそうに撫でながら、本題を切り出す。
「……君がここにきてから、そろそろ3年か」
「はい。 ……感謝しています」
「正直なところ、君を初めて見たときは驚いたものだった。
塀無がわざと捕まって潜入することを命じられていたと思ったら、反対に誘拐犯を捕まえて持ってきたんだからな」
熱いコーヒーを口に含む。
利優は、あまり丁寧には扱われていない。 何かしらの組織内の政治的な関わりがあるのだろうが、与えられる仕事のほとんどが潜入捜査である。
どうにもならない不快な感覚が口の中で粘り着いて、それをコーヒーで喉奥に流し込む。
「……反対に潜入をされてしまったのかと疑ってしまったよ。 当時はね。 それに……今もそれを疑っている人もいる」
「そうですね」
言外に、スパイであると疑う言葉に、軽く頷く。
この組織でのし上がるような野心があるわけでもない。
「だからね、その疑惑を晴らした方が、処理班の中の結束が強まるように私は思うんだ」
俺の頷きを待っているのだろうが、俺はそのまま話を聞き続ける。
「……前にいた場所のことを、教えてはくれないかな」
「すみません。 それは出来ません」
幾度か行われたやり取りに、白兼は不快そうな息を吐き出す。
少しばかり温くなったコーヒーのカップに手を触れて、離す。
短い時間がすぎて、白兼は俺を見る。
「……俺がここにきたのは、塀無がいるからです」
「話せば彼女がいなくなるわけでもないだろう」
この言葉で通じないのは、白兼が一切俺のことを信用していない証左だろう。
もしも鈴に同じことを言えば、話すことにより状況が大きく変化することぐらいは察してくれるだろう。
信用がないのは、そもそも唐突にこの組織にきた俺のせいであるが、これでは話が通じない。 いや、言うことで通じるが、それを話せば状況が大きく変わる。
何人、この組織に前の組織の連中がいることか。 どちらがどちらのスパイであるのか、あるいは上の方でズブズブに癒着している可能性も大きいが、どちらにしろ。
公表してしまえば状況は変わる、変わらざるをえない。 あるいは変わらないように、それを知る者の排除か。
ロクなことにはならない。 そもそも組織内が腐っていると言ってこの男が信じるだろうか。
「俺がここにいるのは、塀無がいるからです。
彼女を守るつもりがないのならば、言うことは出来ません」
「……一切守られていないわけではない」
「利優……いえ、塀無が爪弾きにされているのも確かでしょう。 危険な潜入ばかりやらせて……」
もはやつまらない演技をすることをやめて、丁寧語を使っている以外は敵対する者に対する言葉になった俺を睨み、白兼はコーヒーを飲み干した。
「それは君が話さないことも一因だろう」
「ッ! 当時14歳のガキに、ここまでして情報を聞き出す必要のある組織に潜入させようとしていただろうが!!
クソみてえな一瞬でバレる嘘を並べてんじゃねえよ!!
…………俺は、この組織に尽くす気はない。 利優をしっかりと守るつもりならば、命を捨てて尽くす。
だが、平気で利優を捨て駒にしてる現状。 この組織のために利優の安全を脅かす行動はとれない」
コーヒーを飲み干して、カップをゆっくり机に置く。
「コーヒー、ご馳走になった。 美味かったよ」
「……ああ、昔からこれは得意でね」
扉をくぐって、ため息を吐き出しながら頭を掻く。
激昂してしまったせいで、あるいは熱いコーヒーのせいで熱くなった喉を触り、もう一度ため息を吐き出す。
やってしまった。 組織内に味方を増やす必要があるのに、怒鳴り、怒りをぶつけた。 しかも上司に。
白兼には人事権がない上に直属の上司でもないので、すぐには関係ないが、心象は最悪だろう。
どうにも感情的なのが治らない。 そのせいで、また一人敵を作ってしまった。
早い内に、組織内の味方を増やす必要があるが……白兼の言った通りに、俺はスパイ疑惑があり、利優は捨て駒だ。
鈴は協力してくれるだろうが、下っ端で言っては悪いが数合わせにしかならないだろう。
単純な俺の力は大したことがない。 組織内の発言力は完全な0であるし、能力も器用ではあるが強くはない。
目を掛けてくれている角には話した方がいいだろうか……。 下手に言えば、熱血なところのあるあの人は面倒なことを仕出かしそうでならない。
適当に鉄やらを集めて、受付の女性に預けていた武器を返してもらう。
異能処理班の部署の外に出て「いっそのこと」と呟く。
「日本支部のお偉いさん、有栖川の人に直接話を……」
などと、組織の上の人物に直談判をしにいくなんて馬鹿なことを呟く。 そんなことをして上手くいくとは思い難いので、ただの馬鹿な想像でしかないが。




