考える必要がないこと。 人はそれを幸福と呼ぶ。 1-1
思い出さなければならない。
俺がどうやって生きたいのかを。 そのために、利優はここまで尽くしてくれたのだろうから。
選択しなければならない。 どうやって生きるかを。
今の俺の始まりはーー母を殺したあの日、あの夜、その瞬間であったことは間違いがなかった。
◆◆◆◆◆
漫画に書かれた主人公はヘラリと余裕の笑みを浮かべながら、拳銃をホルダーに戻す。
昔から、いつからかも分からないほど昔から「強い」ということに憧れを抱いていた。 それを元に柔道やら剣道やら合気道やら……と他にも様々な習い事を受けていたが、どうにも強くなったとは思いがたい。
近所の同年代の子供には勝てても、大人には勝てないし、漫画やテレビの中のヒーローみたいな強さはない。
その中で、この漫画に出てくる主人公は銃を持っているだけで、手からビームを出すことも素手で岩を砕くこともしない。
自分にはそんな力はない。 だから、ある程度近しいその主人公に憧れを抱くのも仕方ない。
銃で悪い奴を倒すなんて妄想をしながら、過ごしていた。 ああ、していた。
俺は、初めは強くなりたくて、銃を使いたかった。
自分でやりたいと言い出した手前、辞めることも出来ない大量の習い事があり、そのため一日に一話ずつほどしか読んでいないせいで漫画を読み終わるのには時間がかかった。
読み終わる前に、その話の終わりが来た。
壊れた扉、初めて嗅ぐ火薬の匂い。 篭りねばり付くような血液の色。
自分には漫画のような力はない。 違った。
よく知っているはずの母は、俺の家を壊した何者かと戦ってーーいや、その何者かから俺を守って、大量の血を流す。
けれど、恐怖よりも前に興奮が頭を支配していた。 母は超能力としか思えないような力で何者かを制して戦っていて、俺はそれが漫画と重なり、たまたま敵の持っていた銃が俺の足元にあった。
そこから先はよく覚えていない。 気がついたときには母が死んでいて、俺は何者かの死体をひたすら殴っていた。
記憶の混濁こそあるが、確かに俺は引き金を引いて、母を殺したのは間違いがなかった。 どうせならば、その記憶も失われていればーーなどと、あまりに情けないことを今でも思う。
どれぐらい時間が経ったのかは分からないが、大きな音を立てながら戦闘をしているのに、警察が来るよりも前なので時間にしては数分なのだろう。
味方を名乗る奴がきて、連れ去られた。
疲れ果ててその男に掴まりながら眠ったら、目が覚めたときには知らない場所にいた。
今でさえ、その場所がどこにあるのかは分からないが、日本ではない外国。
何人かが分からない、何語かも分からない言葉を話す人が周りを取り囲んでいて、俺に銃を握らせてーー俺を連れてきた日本語の話せる男に師事をさせた。
知らない土地で、能力の勉強と、戦場での生き方を学ぶ。
能力者としては弱い部類のレベル4ではあっても、戦場では主要な武器である火器に対する適正は、下手なレベル5よりも戦闘においてのみであれば強力である、と教えられたのを覚えている。
ひたすら続けられた戦闘訓練の後、次は俺が男と同じことをする順番になった。
具体的な説明もないまま戦場に向かって走り、能力者や能力者ではなくとも能力に適正のある者を戦場で拾って連れ去る。
楽な仕事だった。 銃火器の感知が出来るため、人を見つけるのは容易で、撃たれたとしても干渉して当たらないように曲げたり、観測した斜線から逃れるだけで死ぬ可能性は減る。
そして適当に言い含めて連れて行ったり、軽く弱らせて誘拐したり。 楽な仕事であるが、死が隣にあったために、無駄なことを考えることが出来ずにいて、あまりに甘美な生活だった。
母を殺したことも、自分が無茶苦茶なことをしていることも忘れられる。 善悪を考えずに済む。
考えずに済む以上に、幸せなことなどないだろうと今でも思う。
そして、風変わりな指令が下りた。
少女を攫え。
◆◆◆◆◆◆
風が吹いて少女の髪の毛が揺らされる。 初めて見たときとほとんど変わらぬ姿はあまりに美しく、感嘆するような、あるいは手に届かないことを悟るような溜め息が漏れ出た。
あの日吐いたそれも、今日吐き出したこれも、同じ意味を持つのだろうが、その意味は俺には知りえない。
「……相変わらず、利優は綺麗だな」
長い考えの末に導き出されたのは、質問の答えではなく少女の姿への感想であり、俺の願望を吐き出すことも出来ずにいた。
「本当に美しく、幼いけれどーーそれでも欲求を抑えられないぐらいだ」
少女は言葉から逃げるように顔を伏せて、けれど恥ずかしそうに頬をうすらと染めた。
「利優。 失望してくれ、俺にはない。 願望なんてないし、やりたいこともない。 あるのは利優に向けている汚らしい性欲と、楽な方に流れる怠惰な惰性だけだ」
ヌルい。 人として半端に生きていて、悪くはあってもよさはない。
「そんなこと……」
「あるんだよ。 ……鈴は育ちが良いから、悪い奴に憧れを抱くとかだろうけれど、勘違いだ。
俺は怠惰なだけで、楽なことが好きなだけでしかない」
利優は俺を睨み、手を振り上げてーー頬を叩こうとしたのだろうがーー俺の胸元を叩く。
そのまま俺をぽこぽこと殴りつけて、謝る。
「ごめんなさい。 ごめんなさい。
でも、それは許せないです。 先輩は何も分かってないです。
先輩にはいいところがいっぱいあるから、鈴ちゃんは好きになったんです。 それは鈴ちゃんも馬鹿にしてます」
「実際……馬鹿だろう。 俺なんかに構うなんて、利優もな」
そう言い捨ててから、俺を叩いた体勢のままにある手を払う。
「好きだ。 利優」
「言ってることが……めちゃくちゃです」
「……そうだな」
自覚している。
俺の言っていることはめちゃくちゃで、俺はあまりにも欠けている。
「先輩は……幸せになるべきなんです。 絶対、絶対、絶対ぜったいぜったいぜったい……」
「あまり俺に構わないでくれ。 好きなんだよ」
噛み合わないのは、どうしてだろうか。 俺と利優との関係だけではなく、鈴との関係も含めて。
一人一人の思いは強いのに、それを支える関係があまりに薄く軽い。
砂浜の上にタワーが立っているような、不安定さがそこにあった。 あるいは俺がいなければ、上手くいっていたのだろうか。
「構いますよ。 ……だって、ボクがいなかったら、鈴ちゃんと先輩がもっと仲良くなって……」
涙が流されて、俺はそれを拭ってやることも出来ずに、目を逸らして道を見る。
「利優がいなければ、利優がいなくともーー俺は利優に恋をしていたよ。 それは間違いない」
「無茶苦茶です。 言っていることが」
利優はそう言うが、間違ってはいない。 全てが理想なのだから、理想を思って恋い焦がれれば、利優に恋をするのと同じことだ。
「なんで上手くいかないんだろうな」
「……ここに連れてきたら、雰囲気で先輩が改心すると思ってました」
「無茶苦茶だな」
「無茶苦茶です」
あまりにも、辛い。 この世で最も辛いことは、何だろうか。
親を撃ち殺すことか、片想いの相手に振られることか、同情されることか、夢や願望を持てないことか。
ああ、どれも俺には馴染まず、一つの答えが唇にまとわりつく。
「考えることか」
それが不幸の始まりのように思う。 真っ赤な実など、なければ良いのに。




