過ぎ去った過去は尊い夢の様1-1
目を覚ませば、今しがた見た夢を思い出したくなくて目を閉じる。 けれども俺はまぶたの裏に夢を映した。
まぶたの裏の映像と夢との差異は、解像度の違いと正確さだろう。
夢は薄らぼやけていて場面も飛ばし飛ばしだ。 思い出してしまう映像は焼きつく様にハッキリと、何一つの間違いもなく正確に思い出される。
悪夢から目覚めれば、悪夢よりも酷い思い出。 重い頭を上げて、部屋から出ようとノブに手を掛ける。 ヌルリと不快な感覚に血液かと手を見れば、普通に寝汗が大量についていただけだった。
熱中症で痛む頭を掻きながら台所に向かえば、まだ夜の二時ぐらいのはずなのに明かりがついていて、入れば利優が小さく微笑んでいた。
「んぅ、先輩。 飲み物はホットミルクでいいです?」
「暑い」
「リビングは冷房効かせてますよ」
「……ありがとう。 ホットミルクはやめてくれ」
ぼーっと馬鹿みたいにソファの上に座りこめば、すぐに利優が盆の上に牛乳の入ったコップを持って入ってくる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
俺の横に利優が小さく座り、隣で牛乳を飲んでいる。
こくこく、なんて利優の喉が鳴る音と、エアコンの風の音だけがこの部屋に溶けていて他は何もない。
悪い夢を見て目を覚ましたら、好きな女の子が優しくしてくれたなんて、俺はまだ夢の中にいるのだろうか。
偶然にしてはあまりに都合がいい。 けれど、それもいつものことだった。
「俺が悪い夢を見て起きたとき、いつも利優も起きている」
利優は小さく頷く。
「先輩って、案外顔に出ますから。 分かるんです」
「……そうなのか」
ゆっくりと息を吐き出して、ソファに身を任せながら目を閉じた。
マヌケな奴だ。 そう自分を笑っても、気分が晴れそうにはない。
ただただゆっくりと話しもしない時間が続く。
意味がある時間なのかは分からない。 けれど、いつもこうしているだけで落ち着いているのは確かだった。
赤い血は何度も見た。 繰り返し、手に衝撃が響いてそのあとに見える光景の一部でしかない。
赤いのは血液だから。 ヘモグロビンの色。 鉄が酸化した色でしかないーーなどと思える筈もなかった。
特に今でも夢に見る。 俺が初めて人を殺した色は、今の季節のようにヌルリとした湿気は、忘れようもない。
小学生の時分。 漫画を読んで、その中の主人公に憧れを覚えていた。
だからだろうか。 初めて見た能力者という存在、襲われながらも同じく能力によって抵抗している母、足元に転がっていた拳銃。
俺はーー。
「先輩、牛乳温くなっちゃいますよ?」
幼いかんばせを軽く傾げるように、利優は俺に言う。
結露で水に濡れているコップを触るが、血と誤認はしそうになかった。
年に数度、こういう日がある。
年に数度、悪夢を見て。 年に数度、真夜中に飲み物を飲もうとして。 年に数度、利優が静かに寄り添ってくれている。
「もう温いな」
「入れ直しましょうか?」
「いや、これがいい」
これだけの時間、一緒にいてくれたことの証拠のようで妙に嬉しく思う。
「先輩って、ボクが大好きですもんね。 ボクが入れたものは全部飲んじゃいますよね」
利優がケラケラと笑って、俺に笑みを見せた。
「……ああ、好きだ」
思わずそう言って、利優の手を握りしめる。 幼い子供のように見える利優の頬はりんごのように赤く染まって、隠すように俺の腕に染まった頬を押し付けた。
「ダメですよ……。 ワガママですけど、無茶苦茶ですけど、ボクは鈴ちゃんも好きなんです」
握りしめた手は握り返されることはない。 濡れるような熱い吐息が俺の腕に当たる。 俺のものになることはない。
「鈴を「応援している」か」
「……ごめんなさい。 先輩のことは、大好きですよ」
そんな気持ちばかりの慰めが嬉しく感じるのはおかしなことだろうか。
吐き出した息はやけに生温くて、不快な感覚に落ち入る。 けれど、隣にいる少女は愛おしくて仕方がない。
「悪い」
鈴はそんなことでは気を悪くすることはない。 なんて言葉を発するほど情けなくもなく、それに……鈴がどうとかは俺を振る言い訳でしかないだろう。
分かりきっていた。 分かっていた。
利優が俺のことを男として見ていないことも、俺以上に鈴のことを好いていることだって、とっくの昔から、今の今まで確信は続いている。
なら、俺はなんで好きだと告げたのか。
分からない。 分かっているのは、俺の吐息が酷く熱いことだけだ。
「悪い、利優」
悪いと思っているのならば、そんなことはしていいはずもないだろう。
俺に寄り添っていた肩を掴み、小さな肢体をソファの上に組み敷いた。 驚いたような利優の高くか弱い声に息を飲み、薄く汗ばむかんばせに浮かべられた小動物のような表情が堪らなく嗜虐心を煽った。
利優には一生を掛けたとしても返しきれないような恩がある。 なのに俺はなにをしているのか。
好きだと言って、断られて、力付くで組み敷いている。 どこまでも愚かなのだろうか。 けれど、それでも俺は彼女が欲しくて仕方なく、仕方ない。
どうしようもないような征服欲は身体の奥底から煮えて口から荒い息となって吐き出されていく。
「利優、俺はーーーーもっと前にこうしておけば良かったと思っている」
ゆっくりと顔を近づけて、利優の吐き出した吐息が俺の唇をなぞり流れていく。
「悪ぶっても、変なことをするフリをしても、全然怖くないですよ。 優しい人って、知ってますから」
利優はまっすぐに俺を見て、心底当たり前のように微笑んだ。
組み敷いていた手から力が抜けて、拘束を解く。 利優はその姿勢のまま俺の手を握って笑みを浮かべた。
「違う」
「分かってますよ」
「違うんだよ。 俺は、本当に利優を無理矢理に……襲おうとしていた」
時がゆっくりと流れて、荒く吐き出された息が積もるようだ。
「軽蔑してくれ。 俺はそういう奴だ」
「しませんよ。 だってボクも……」
利優はそう言ってから、首を横に振った。
「ボクの方が、絶対に悪い子ですから」
俺は首を横に振る。
「……嫌わないでくれますか?」
「嫌われるならまだしも、嫌うことはない」
なら……と、利優は俺の身体に寄り添うように小さな身体を付ける。
燃え出るような熱情を少女に向けるのか。 俺は利優を見ないように、天井の照明を仰いだ。
「先輩、ボクってすごくズルいんですよ。
鈴ちゃんの応援をしてるって、ずっと前から約束してるのに、先輩が無理矢理ちゅーしてくれたら……言い訳も出来るかなって、思っているんです。 ずっと」
利優はそう言って微笑んでから、俺の頭を撫でた。
「ごめんなさい。 ボクがいい顔したがる、卑怯者で」
そんなこと、などと否定しようと否定したいと思っても、否定の言葉が思いつかないのは半端な仄暗い喜びのせいだろうか。
「ボクは卑怯者ですよ。 先輩が好きだと思うに値しないです」
ブレスレットを軽く触って、目を閉じる。 思い出すのは許されない殺しの罪を負ってからのこと。
「悪い。 ……好きだ」
何も変わることはなかった。 変えることは出来なかった。
温い牛乳は酷く不味かった。




