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零の夜

作者: あぎょう

少年漫画の読み切りを意識して書いたつもりです。割と大きなどんでん返しがあります。20分程度で読めるものですので、ひまつぶしにどうぞ。

大都市。プラトンシティ。

超高層ビルがいくつもそびえ立つコンクリートジャングル。昼間は人波であふれ、夜には豪華絢爛な色合いの光を放ち続けている。その眩い光の道から外れ、まるで世間から追いやられたようにある、薄暗く、汚い路地裏の奥に、彼のアジトはあった。

地下へと続く階段。その先にある、分厚く堅牢な鉄の扉の前に、一人の少女が立っていた。

十五・六歳ほどの年齢。肩までかかる亜麻色の髪。タートルネックとベストを着込み、膝丈下のスカートをはいている。その手には大きなアタッシュケースが握られていた。

少女はしばらく扉の前で立ち尽くしていたが、ついに意を決して扉をノックする。

ゴンゴンゴン、という鈍い金属音が闇夜に鳴り響いた。

「どうぞ。」

くぐもった声が扉の向こうから聞こえてから、少女はゆっくりと扉を押す。ギギギと嫌な音を立てて開き、光が差し込む。

そこは、内装というものをまるで無視したような部屋だった。

床、壁、天井に至るまで全てコンクリート造りであり、至る所にひび割れが見える。時代遅れの蛍光灯が、点滅を繰り返してその空間を照らしていた。目の前の部屋には木製の小さな机と二つの椅子が向かい合うように位置している。それらもこの風景と似合ったように、腐りかけ、古びたものだった。

 そこには人の影は見当たらなかった。ふと左の壁を見ると、ドアが大きく開け放たれていて、そこから雑音が聞こえてきた。人はいるらしい。

「……失礼します……」

少し怯えるように言うと、おそるおそる部屋の中に足を踏み入れ、そのドアを覗いた。

そこには、ソファに腰掛ける男の後ろ姿があった。彼の正面にはテレビデオがあり、何らかのテレビ番組を観ている。彼の周囲を見ると、カップ麺の容器や紙くず、その他雑貨類などであふれていて、その部屋が彼の生活圏であることが分かった。

男は彼女に気付いて、首だけ振り返る。

「! ……おやおや。」

少し驚いたように声をあげると、ソファから立ち上がり、その全貌を晒した。

真っ白なスーツを上下に身につけ、中に黒色のYシャツ。ネクタイはしておらず、まるでホストのように襟元を広げていた。しかし、全て皺くちゃのヨレヨレで、埃や汚れにまみれていて、清潔感というものは一切感じられない。見た目二〇代後半ほど。両瞼に垂直な縦傷があるのが印象的だった。

「これまた可愛いお客さんだ。どうしたんだい? 迷子にでもなったのかい?」

男は紳士的な、丁寧な物言いながらも、どことなく馬鹿にするような感じで言う。マイペースに身なりを整え、埃を払い落としながら彼女へ近づいた。

「ここはおまえさんみたいな、一般の人が来るようなところではないのだが……どうしてこの場所を……?」

「……街のギャングから情報を買いました。」

「フフッ。ずいぶん危ない事をするね……気に入ったよ。話があるなら聞こう。そこの椅子に座るといい。」

と、さっき一瞥した、今にも足が折れそうなボロボロの椅子を勧められた。少し躊躇するも、ゆっくりとそれに腰を下ろす。男はテレビデオの電源を消し、奥の方へと姿を消すと、ゴソゴソとなにやら物音を立て始めた。

十分ほど経過して、男が両手に、マグカップを持ってやってきた。片方を少女の前に置き、向かいの椅子に座る。中には湯気を立てたコーヒーが入っていた。

「遅くなってすまないね。コーヒー豆のしまい場所を忘れてしまった。」

笑いながらそう言うと、静かに自分の分のコーヒーを口に注ぐ。少女は目の前に置かれたコーヒーを見向きもしない。切羽詰ったような、余裕のない表情をしていた。

「あの……私、ハーティルといいます。お金なら、あります。」

床に置いていたアタッシュケースを机に置くと、ダイヤル式鍵錠の四桁の番号を合わせて、中身を開き、それを男に見せる。

隙間なくびっしりと、札束が詰め込まれていた。

そして、少女ハーティルは懇願するように、悲痛な面持ちで言い放った。

「お願いします! あいつを……スペードを、殺してください!」

男は静かに微笑むと、右手に持ったマグカップを机に置いた。

「スペード……あの大財閥のスペード社長さんかい?これまた大物がきたね……まあとりあえず、どういう経緯があったのか話してごらん。興味が沸いてきた。」

「は、はい。実は私……」

「ああ、その前に、」

男が手で話を遮った。

「俺の紹介がまだだったね。君は当然知っていて、だからここに来たのだろうけど、間違いでないとも限らないだろう? 俺の顔を知っている人は少ないからね。一応、名乗らせてもらうよ。」

そう言うと、男は懐からほぼ平らにつぶれた帽子を取り出すと、拳を中に突っ込んで元の形に戻し、頭にかぶった。上質な、それでいて皺くちゃな、橙色の紳士帽である。

両瞼の垂直な縦傷が、道化師のメイクのように見えた。

「隔絶された至高の存在。最初にして最期の切り札。」


「『殺し屋ジョーカー』はこの俺だ。」


裏稼業の中で『殺し屋ジョーカー』の名を知らない者はいない。

どんな標的をも仕留めるといわれる、伝説の殺し屋である。しかし、その代わりとして莫大な報酬を要求するため、並の富豪では雇うことすらできないという。そのために、裏稼業の成金達の間では、『最期の切り札』として重宝され、また、その顔にある独特な傷跡から、人は彼を『ジョーカー』と呼ぶ。

ハーティルはコーヒーを一口含めた後、語り始めた。

「レイラック一座という劇団をご存知ですか?」

「レイラック一座?ああ、数日前に謎の失踪を遂げたというのを新聞で目にしたよ。世界的に有名な劇団で、家族全員で興行していたそうだね。」

「……私、その一人娘なんです。」

「へぇ……」

ジョーカーは面白そうに微笑む。

「実は、失踪なんかじゃないんです。……私と父を除いたみんな……スペードの部下達に殺されたんです……!」

ハーティルはうつむきながら、感情を押し殺すように言う。

「スペード財団といえば、金融、石油、自動車、雑貨類に至るまで、様々な分野を経営しているトップ企業だが、裏稼業まで勤しんでいたとは、たいした努力家だね。いったい何が目的だったんだい?」

「……『輝聖石シリーズ』のうちのひとつ。『アクアストーン』です。」

「……世界に一〇個しかないといわれている、幻の宝石のことだね。」

輝聖石シリーズ。

それぞれが、特有の澄んだ色合いをしており、素人でも区別できるほど、他の宝石とは一線を画している。約三〇〇年前に作られてから、その輝きは多くの人間を魅了し、虜にしてきたといわれる。値段にして五〇億はくだらない価値がある。

「レイラックの家系に代々伝わる家宝なのですが、それをスペードに狙われたのです。」

「ふむ………スペードが大の宝石好きというのはよく聞くが、彼の財力をもってすれば金で取引出来るはず……なぜそのような暴力的手段を……?」

「……最初はそうでした。見たことのない大金を目の前に積められ、ぜひ譲って欲しいと。勿論、丁重に断ったのですが、その後何度も取引を持ちかけてきて……そしてある日の夜に  」

「   夜襲をかけられた。と、」

ジョーカーが彼女の言葉を先読みする。ハーティルはなお、うつむいたまま。

「……私の目の前で、母と兄二人が殺されました。私と父は、その『アクアストーン』を持って逃げ出しましたが、途中ではぐれてしまいました。」

「おとなしく宝石を渡せばよかったものを……命より大事なものはないというのに………まあ、殺し屋である俺がいうのもなんだが」

と言って、自嘲の笑いをもらす。

「彼らスペード財団の裏の顔を知ってしまった私達を、彼らは最初から生かしておくつもりはありませんでした。『集団失踪』という形で、なにひとつ証拠を残さず、隠蔽するつもりだったのです。」

「……今、宝石はどこに?」

「私が持っています。失礼ながら、あなたを完全に信用するわけにはいかないので、どこに隠しているのかは教えられませんが……」

「フフッ。つれないこと言うねぇ。まあ、正しい判断だ。」

コーヒーを片手に、静かに飲む。

「今こうしている間も、彼らは私達を探しています。私はともかく、父はなんの後ろ盾もありません。殺される前に、彼らを止めて欲しいのです。」

「なるほど……復讐や自己保身よりもまず、父の安否を想うか。すばらしい親子愛だね」

しかし、彼は心打たれる様子もなく、可笑しそうに笑う。

「これは銀行から引き落とした、レイラック一座の全財産です。五千万あります。」

ハーティルがケースの札束を指して言う。

「これで足りなければ、一生をかけてでも払います。もう私達が生き残るには、スペードを殺すしかないんです! 何より、殺された母や兄や、一族全員の形見ともいえる宝石を! 私達の魂を! みすみす彼らに奪われたくないんです!」

強い口調で、強い意志でそう言い放つ。

「あなたなら、常に護衛を傍に置く程に用心深いスペードさえも、なんなく殺せると信じています。どうか、お願いします!」

深く頭を下げる。その声はわずかに震えていた。

ジョーカーはすでに空になったマグカップを机に置く。ハーティルのコーヒーはすでに冷えてしまっていた。

そして、彼は微笑む。

「……おまえさん。ついてないねぇ。」

「……え?」

呆気にとられたような返事。なお、ジョーカーは微笑む。

「全くついてないよ。最悪だ。まさしくジョーカー(ババ)を引いたよ、おまえさん。よりによって今、この俺に、その話を持ちかけるとは……」

「ど、どういうことですか……?」

「あれをごらん。」

ジョーカーが部屋の天井の一角を指差し、ハーティルがそれを目で追う。

そこには、最新の監視カメラが備えられていた。まるでその空間とは異質の物。それがひとつのみならず、天井の全ての隅に備えられて、一切の死角もない。

「実はつい先日。とある大富豪から、ある男と女を殺すように依頼を受けたんだが、そいつらの居場所がわからないらしい。探すことは俺の専門外だから、彼の部下がそいつらを探し、見つけるまでここで待機するよう言われてね。だけど、その依頼主は常に護衛を傍に立たせないと気が済まないほどの、ひどく慎重で疑り深い性格でね。俺がおかしな行動をとらないよう、部屋に監視カメラを備え付けたのさ。だから四六時中、今も監視員が見張っているわけだ。全く。プライベートもなにもあったもんじゃないよ。」

「な……なにを……」

言いながら、ハーティルは動揺していた。

最悪な想像が頭に浮んでいた。

「なんでもそのターゲットは、とある失踪事件の生き残りでね。あまり放って置くといろいろ不都合だから、殺してしまおうというわけさ。宝石のありなし関係なく、ね。」

「…………!!」

ジョーカーの顔がひどく、いびつに歪んで、可笑しそうに、愉快に、愉しそうに言い放つ。


「俺のターゲットは、レイラック・ハーティルと、レイラック・バロック。おまえさんと、おまえさんの父親だ。」


一瞬。沈黙が流れた。

突然。ハーティルが椅子から勢いよく立ち上がって後退し、その拍子に椅子が横倒しになる。顔を蒼白に、目を剥かせる。気持ちの悪い汗が止まらなかった。

「う……嘘よ……そ、そんなのって……!」

声どころか、体中を震わせる。足に力が入らず、壁に背を預けて立っているのがやっとだった。その様子をジョーカーは、微笑みながら見ている。

「まあまあ。そう動揺しなさんな。この場で殺すつもりはないよ。……というか、俺にとっておまえさんはもう、無関係だ。」

「……どういう…こと?」

「……そろそろ来る頃かな?」

ジョーカーが部屋の壁にかけられた古時計に目を移して呟く。それと同時に、入り口の鉄製扉が勢い良く開け放たれた。

直後、黒いスーツに身を包んだ数人の男が室内に流れ込んできた。

突然の出来事にハーティルは呆気に取られて身動きすらできず、二人の男に羽交い絞めにされた。あがいて抜け出そうとするが、両腕は完全に脇で挟められて拘束されていた。

「な、何よ!どういうことよ!」

ハーティルは吼えるように叫ぶ。

「言っただろう?この部屋の様子は、四六時中観察されているって。おまえさんがここに来た時点で、すでにスペード社の方々がこちらに向かって移動していたってことだよ。やっぱり宝石のありかは聞き出したいし、または別の理由で、捕獲したいところだったからね。」

「………! もしかして、今までの話は時間稼ぎ……?」

「ご名答。」

ジョーカーは満面の笑みを浮かべる。

「殺し屋が、赤の他人のどうでもいい与太話を聴くか? 探偵でもあるまいし。ターゲットと報酬さえ分かれば十分なんだよ。」

「くっ………!」

ハーティルは悔しそうに奥歯を噛み締め、ジョーカーを睨みつける。

「おっと。そんな怖い顔しないでくれよ。こっちも仕事なんでね。おまえさんの運が悪かっただけさ。……いや、俺に殺されなかった分だけ、不幸中の幸いというところかな。」

小馬鹿にしたような薄気味悪い笑みを浮かべる。それが益々彼女を苛つかせた。

「最良の判断を、どうも有難うございます。」

黒スーツの男の一人が、ジョーカーの前で軽く頭を下げる。サングラスを掛けていて、髪形はオールバック。他の男達とはどことなく纏う雰囲気が異なっていた。

「あんた方のボスとは唯一のお得意さんだし、彼の性癖も理解しているよ。大切にしとかないとね。」

「勿体無いお言葉です。私、今回指揮をとらせていただきます、ダイアンと申します。よろしくお願い致します。」

「ん。よろしく。」

ジョーカーが適当な感じで返事をする。

「早速、報酬の半分をお渡しいたします。」

ダイアンは、部下である後ろの男から大きなトランクを二つ受け取ると、それをジョーカーに差し渡した。

「おや?いいのかい?仕事(ころし)はしてないんだけどねぇ。」

「目的は達成されましたので。」

「そう。悪いね。」

ジョーカーは悪びれながらそれを受け取る。トランクの中に全て万札が入っているとするならば、五億はくだらない。

彼はそれを掲げて、ハーティルに見せつけた。

「分かったかい? せめてこのくらいは持ってこなきゃ。五千万ぽっちじゃ仕事にならないよ。一生をかけて払うとか。そんな口約束、この裏稼業(せかい)で通用するほど、甘くないぜ。」

「…………!!」

ハーティルは口を閉ざす。眉間に皺をよせて、ただ怒りのまま睨みつけた。

「ジョーカー様。実はさらに幸運なことに、先程、もうひとりのターゲットを見つけました。」

ダイアンが静かな声で言う。もうひとりのターゲットとはつまり、ハーティルの父親。レイラック・バロックである。

ハーティルの顔がますます青ざめる。

「おお。すごいねぇ。良いことには良いことが重なるもんだ。ハーティル嬢が宝石を持っていると分かった以上、気兼ねなく殺せるというわけだな。」

嬉しそうに、声を弾ませる。

「OK。早速出かける準備をしよう。」

そう言うと、男達が速やかに外へと出て、ジョーカーがそれに続く。ハーティルも二人の男に拘束されながら連れて行かれる。机の上には、レイラック一座の全財産と、スペード財団の報酬半分、冷え切ったコーヒーが残った。

一列になって狭い階段を上り路地裏へ。表通りに出ると、黒塗りの高級車二台が待ち構えていた。一台はハーティルとダイアン一行の『拉致組』。もう一台は、ジョーカーと他二人の男の『仕事組』が乗り込む手はずである。

「は、放して!放せぇぇ!!」

このままでは、父が殺されてしまう。

ハーティルは必死にもがき、抵抗するが、労力の無駄にしかならなかった。しかし、彼女は最早こうすることでしか、対抗する手段を知らない。

「それでは、ジョーカー様。御武運をお祈りします。」

二手に分かれる直前。ダイアンが丁寧に頭を下げてジョーカーを見送る。彼は、激しく暴れるハーティルに視線が移ると、目の前に立ち、薄笑いを浮かべた。

そして、絶対に聞き漏らしがないように、ゆっくりと確実に、はっきりと言い放った。

「じゃあね。ハーティル嬢。おまえさんのパパ。殺しにいくよ。」。

直後。

彼女は食いかかるように、ジョーカーへ身を乗り出す。拘束されているがために、両腕の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げるが、そんなことは関係なかった。

「ぅぅ……うああああ!」

獣のごとく呻き、叫ぶ。瞳からはとめどなく涙が溢れ出していた。憤怒。憎悪。悲哀。あらゆる負の感情が、彼女を支配していた。

ジョーカーはそんな彼女を前に、ただ冷ややかな笑みを浮べ続ける。

「    殺してやる……!!」

ハーティルがジョーカーを見上げる姿勢で鋭く睨みつけて一言。唸るように呟いた。

「……フフッ。ハハハハ!殺し屋を前に、面白い冗談だ!」

ジョーカーは口を開けて、大声で笑い飛ばす。

「安心しなよ。苦しませず、楽に殺してあげるから。」

彼は最後にそう言い残して、車の後部座席に乗り込んだ。その他二人も続いて乗り込むと、車は光輝く大通りを走り去っていった。

そして、ハーティルは突き飛ばされるように後部座席へ押し込まれると、二人の男から両脇を挟まれた状態で、車が発進する。彼女はすでに抵抗する気力もなく、うなだれるばかりである。

今、最後の希望は潰えた。


「しっかしほんとに、あんた方の社長さんは慎重だね。」

車を走らせてから暫くして、ジョーカーが運転手の男に向けて話しかけた。

「ひどく臆病すぎると言ってもいい。相手はただの一般人だろう? あんた方だけで事足りるんじゃないかい?」

「……おっしゃる通り、スペード様は過ぎるほど疑い深く、慎重です。故に、護衛以外は、側近に腕の立つ者を置きたがりませんし、殺し屋を雇う時も、直接接触することを避け、必ず監視をつけています。反逆や裏切りをひどく恐れているのです。しかし、ここ数年の貴方の働きに、スペード様は大変感心しておりまして、スペード社『裏隊』の専属暗殺者として雇いたいと考えています。」

『裏隊』とは、スペード社の裏稼業を行う組織である。その勢力は表の世界と同様に、国を動かせるほどの支配力を有していた。

「ふぅん。そりゃ有難いねぇ……」

ジョーカーはまんざらでもないというように微笑む。

「ですから、今回の仕事はこれまでの『褒美』と、専属へと検討させていただくための『贈物』とお考えください。」

「確かに、こんだけの仕事で一〇億はボロイね。」

フフフッと笑い声がこぼれる。

「あんた方以外に高い報酬を出してくれるお客はいないし、長い付き合いだ。前向きに検討してみるよ。」

「ありがとうございます。我が社は目的のためなら、金を惜しみません。何卒よろしくお願いします。」

運転手が礼を述べてからまもなくして、車はあるビジネスホテル手前の路肩で停止した。同時に、助手席に座っていた男が外へ出て、後ろのトランクへ回り、その中から巨大な旅行用トランクを取り出した。

「ターゲットは二〇七号室に宿泊しています。死体は持ち運びで、決して証拠と痕跡は残さぬよう、お願い致します。」

死体をトランクに入れて移動することで、あたかも旅行者の一人として振る舞いながら運ぶことができる。あとは痕跡さえ残さなければ、謎の失踪事件を作り出すことができるのだ。

「ああ。分かってるよ。あんた方もいつも通り、殺しの現場を見に来るなよ。」

ジョーカーは車から出て、それを受け取ると、

「俺の美学なんでね。」

さらに念を押すように言ってドアを閉めた。

黒塗りの高級車がその場を走り去った後、ジョーカーはトランクを引いて転がしながら、ホテル入り口へと向かった。


一方。ハーティルが連れてこられたのはスペード財団本社ビルである。

地上二〇〇メートルの最上階。ハーティルは手錠をはめられ、前後を男に挟まれながら、高級な絨毯が敷かれる廊下を歩く。精神的ショックは多大であり、足取りもおぼつかない状態である。

やがて、ある角を曲がった先に社長室が見えた。その扉は上質な木材を使用していて、高級感溢れる彫刻がなされていた。にもかかわらず、その様相とは似合いつかないような機器が横に設置されている。

一から九までの番号が入ったキーボード。掌サイズのパネル及びマイク。液晶画面。

パスワード入力、指紋、声紋認証の機器である。スペードの異常なまでの慎重深さを象徴するような光景だった。

先頭を歩くダイアンがそれらの認証を行うと、『OK』の文字が液晶画面に表示され、扉が観音開きにゆっくりと開いていく。「失礼します」とダイアンが挨拶し、中に入った。

そこはまるで別次元の世界だった。

普通住宅一軒がまるごと入るだろう広い空間。その床一面には高級な赤い絨毯が敷かれ、向こう側には、夜景を見渡せる巨大な窓があった。天井から吊り下げられる豪華なシャンデリアの他、絵画、石像、剥製、など、億単位クラスの美術品や芸術品が視界に飛び込む。

部屋の奥。街の夜景を背景に、スタイリッシュかつ豪華な机と椅子が置かれていて、そこに一人の初老の男が座っていた。彼の護衛である筋骨隆々の男二人が、彼を挟むようにして立っている。

その男こそ、スペード財団社長。スペード・ウィルソンである。

白髪の禿頭。重力に逆らうように跳ねた立派な白い口ひげを持ち、恰幅のよい体格をしている。彼の右手人差し指以外の全ての指には、巨大な宝石が付属した指輪を九つ嵌められていて、それぞれが鮮やかな色彩を放っていた。

彼のお気に入りの宝石。『輝聖石シリーズ』の指輪である。

「やあ。待っとったよ。」

スペードはにっこりと笑うと、立ち上がって彼女らへと歩き出す。その笑顔はまるで屈託がなく、好々爺のように見えた。

「お待たせしました。例の娘です。」

ダイアンがそう言うと、男二人がハーティルを乱暴に引っ張り、先頭に突き出す。そのまま無理やりしゃがませて、手錠で拘束された後ろ手を押さえつけた。

スペードは、彼女が完全に立ち上がれない状態になるのを確認してから、その場に近づき、護衛もピッタリと離れずに、その後に続く。相手が少女だろうと、彼は警戒心を緩めない。

ハーティルは鋭くスペードを睨みつけた。その反抗的な姿勢を前に、

「うむ。元気の良さそうな子じゃ。」

数歩離れた所から、笑いながら言う。

「さて、宝石うんぬんの話の前に、ひとつ君にお願いがあるのじゃが。」

スペードは彼女の顔を見下ろして眺めると優しく、甘い声で言った。


「ワシの娘にならんかね?」


「……なっ…?」

ハーティルは耳を疑った。

一瞬。彼の言っている言葉の意味を理解しかねた。

「つまり養子じゃよ。君を気に入ったのじゃ。慎重深いこのワシが、わざわざ君とこうして面会しているのも、一目会いたかったからじゃよ。」

「………」

彼女は言葉を失った。

ジョーカーのいう『別の理由』とは、つまりこういうことだったのだ。

「好きなだけ、好きなものを買ってやるぞ?一生何不自由なく、贅沢させよう。望みならば、この人指し指に嵌めるはずの、『アクアストーン』の指輪も諦める。どうかね?」

ニコニコと微笑みながら、右手人指し指を向ける。

断ればどうなるかは分かっていた。

この話を断る以上、彼女は宝石のありかを示す『地図』であり、スペード財団の裏の顔を知ってしまった『脅威』でしかない。宝石のありかを話すまで拷問にかけられた後、殺されるのが関の山。

つまり、これは『お願い』ではなく、ただの『恐喝』であった。周囲には拳銃を腰にぶら下げた大人が数人。逃げることもできない。

スペードは、彼女がしばらく逡巡している様子を見かねると、

「そういえば、ハーティル君。お父さんはどこにいるのかのぉ?」

「…………!!」

わざとらしく、とぼけたようにして言う。

「もしかしたら、今にも死にかけとるかもしれんのぉ。心配じゃあ。」

分かりやすいほどの恐喝だった。父の命と引き換えにすると言っているのだ。

今ならまだ間に合うかもしれない。彼女に選択の余地はなかった。

「……わかりました。」

ハーティルはか細い声で、小さく呟くと、スペードを見上げる。

「……あなたの……娘になります……」

その顔は涙でグショグショに濡れて、すでに反抗の意思は微塵も感じられなかった。

「そうかそうか! それが賢明じゃ!」

スペードは口の端を両端に伸ばして、ますますニッコリと笑う。

「おい。手錠を外してやらんか。可哀相じゃろう。」

スペードがそう言うと、男達が急いで手錠の鍵を外した。解放されたハーティルは瞳を真っ赤に腫れあがらせ、弱弱しく立ち上がった。

「おお、よしよし。そんなに泣かなくともよいぞ。」

その様子を見たスペードは同情心によるものなのか、彼女の目の前まで近づき、抱きしめた。優しく肩に腕を回し、後頭部をなでる。

「これからは、幸せな人生が待っとるからのぉ。」

実の子をあやすように、甘いなで声を出した。

その時。

スペードの真横に位置する彼女の顔が、

不敵に笑った。


同時期。ハーティルの父が潜伏しているというビジネスホテル。その三階の通路を、ゴロゴロとトランクの滑車を転がしながらジョーカーは歩いていた。

そして、二〇七号室の扉の前で歩みが止まった。ターゲットのいる部屋である。

多くのホテルがそうであるように、扉はオートロックとなっている。窓も締め切られていて、通常な手段での進入は不可能となっている。

それに対し彼は、真っ向から堂々と、通常な手段でもって侵入を試みた。

扉にノックを三回、打ちつけた。

「…………」

返事は返ってこない。いつ殺されるかわからない不安定な精神状態で、まともな対応をするとは考えにくかった。しかし、

「       」

彼がある言葉を扉越しに言い放つと、向こうからドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。

直後、扉がバン!と勢いよく開け放たれ、ハーティルの父。バロックが姿を現した。

眼の下にはクマ。頬がやせこけ、とても健康な状態とはいえなかった。衣服は血や泥で汚れ、いつも整えられている髪の毛はボロボロに乱れていた。

「……!!」

バロックは見知らぬ男を見て、怯え、すぐに扉を閉めようとする。

しかし、そうはしなかった。

彼は呆気にとられ、思わず動きを止めた。

なぜならば、ジョーカーが、

そいつが、

真っ直ぐとバロックを見据え、大粒の涙を流していたからである。


「なんちゃって♪」

誰にも聞き取れないような声で彼女が小さく呟いた後、それは起こった。

あまりに唐突で、急激な変化に、その場にいるほとんどの人が、ついていくことさえできなかった。

スペードがハーティルを抱擁したその直後。


スペードの体が宙に浮き、天井まで吹き飛んだ。


「………ぐ!! はぁ…ッ!?」

その瞬間。スペード自身さえ、何が起こったのか分からなかった。ただ感じるのは、腹部の強烈な痛みだけだった。

天井に叩きつけられてから、界下にいるハーティルの姿を捉えて、ようやく理解する。

ハーティルは右腕を大きく突き上げている。腹部に強烈なアッパーをぶつけられたのだ。

「スペード様!!」

ダイアンが叫ぶのと、スペードがドスン!と鈍い音を立てて床に落ちるのは同時だった。

護衛二人がスペードに駆け寄る。その他、取り囲んでいた男全員が、懐から拳銃を取り出し、銃口をハーティルに向けた。

「貴様! 何をする!!」

一人の男が拳銃を構えて叫ぶが彼女は全く動じず、それどころか気にも留めていなかった。

そして、

「気安く触るなよ。エロおやじ。」

冷たい目線で、それでも薄く微笑みながら。うずくまるスペードを見下ろして吐き捨てるように言った。

そこにいる彼女は、彼女であって彼女でなかった。

彼女の顔が、態度が、性格が豹変して、纏う雰囲気が完全に異なっていることを、誰もが認識した。そして一変。さらに声の調子を変えて言う。

「それにしても……やれやれ。ここまで予想通りだと、あきれてくるね。」

「な、何を言っている!」

ダイアンはハーティルの豹変ぶりに戸惑いを感じながらも、彼女の正面に立ちふさがった。

「何って……日本語だよ。さあ、そこをどいてくれ。そのオヤジさんの息の根を止めないと。」

「…………!!」

ダイアンは思わず後退しそうになる足を、やっとの思いで踏みとどまる。

彼女は異質で、異常だった。彼女の口調がある男のものとそっくりになっていることが、さらに彼を混乱の渦へと突き落とす。

(……まさか……!?)

ひとつの推測が頭をよぎるが、それについて思考をしている暇はなかった。

この時点で、彼女は普通の少女ではなく、社長の命を脅かす危険人物であることは目に見えて明らかだった。社長の養子候補だとしても、関係ない。

「……私が許可する! コイツを撃ち殺せ!!」

ダイアンが号令をかけると、一瞬の躊躇があってから、男達が銃の引き金を引く。ドドン!と複数の銃声が続けざまに聞こえ、無数の銃弾がハーティルに襲い掛かった。

しかし、その一発として、彼女には命中しなかった。

銃声が鳴り響くと同時に、彼女の姿が消えたのだ。

次の瞬間。取り囲む男のうちの一人。

その目の前で、男の顎を蹴り上げているハーティルが姿を現した

「…………!!」

男の足が宙に浮いて、えび反るようにして地面に落ちる。

戦慄が走った。誰一人として、彼女の動きを、そいつの動きを捉えることができなかった。

「こ、このガキ……!」

男達が再び銃口を向けて、乱発する。

しかし、どれだけ放とうと、そいつに当たることは決してなかった。

目にも止まらぬ速さで移動し、銃弾を避け、次々と男達を床へ沈めていく。蹴りか拳か。どんな攻撃をしているのかさえも分からなかった。やがて、男達が恐怖に叫び始めた。

「お、落ち着け。落ち着け!」

ダイアン自身も恐怖しながら叫ぶが、男達の耳には入らない。

ついに、自暴自棄になったある男が手榴弾を取り出すと、ピンを外し、そいつに向かって投げつけた。手榴弾は弧を描きながら真っ直ぐにそいつに向かって進む。

しかし、そいつは余裕の表情でそれを視界に捉えると、右足の踵で蹴り上げた。

ドゥウウン!

天井へ到達する直前に爆発。大量の瓦礫が雨のように降り注ぎ、男達を潰していく。ダイアンは被害域からかろうじて逃れるが、瓦礫に足を挟まれてしまった。

「ぐぁ……!」

小さくうめき声を上げる。足は完全に潰れ、動くことすら難しい。巻き上げられた大量の粉塵により視界が奪われ、それが彼の恐怖心を煽った。

恐怖に身を強張らせる中、ダイアンは見た。

瓦礫の山の中、ある男が立っていた。

その立ちずまいとシルエットから、その人物はすぐに把握できた。そして、それはついさっきまで少女の姿をしていた者ということも、数十秒前の推測もあって、直感的に理解した。

いるはずのない人間がそこにいた。

「……誰だ? おまえは……?」

粉塵の向こうにいる人間を見据えながら、すでに理解していながらも、彼はあえて問う。

「俺が誰だって? よし、紹介しよう」

穴の開いた天井から降り注ぐ月光を背に、そいつはこう答えた。

「隔絶された至高の存在。最初にして最期の切り札。」


「『殺し屋ジョーカー』はこの俺だ。」


男は、

ジョーカーと名乗るその男は、ゆっくりと瓦礫の中を進んでいく。

「まさか、変装術か……! それでは、ターゲットに向かったジョーカーは一体……?」

「そんなの、決まってるだろう?」

ジョーカーはダイアンの目の前で歩みを止め、顔を見合わせる。

「世界一の演劇家族。その一人娘さ。」


ビジネスホテル。二〇七号室。

ある少女が、父の胸の中で大粒の涙をこぼし続ける。父は困惑しながらも、その震える肩を受け止めていた。

「……もう二度と……会えないと思った……!」

少女は、

ハーティルは嗚咽交じりに、言う

「……ハーティル……どうしておまえがここに……? それに、その格好は……?」

彼女は上下に真っ白な男性用のスーツを着て、身長を偽装するためのシークレットブーツを履いていた。足元には橙色の紳士帽と、黒髪のかつらとセットになった覆面があった。完全に彼女の顔面にフィットするタイプで、かなり高精度のものである。

つまり、彼女はジョーカーに変装していた。

声を常に低く、男声で話すようにして、彼を演じていたのだ。バロックが扉を開けたのは、彼女が自分の声で、父の名前を呼んだからである。

ハーティルは涙を拭って、父に満面の笑顔を見せた。

「……殺し屋さんがね……助けてくれたの。」


レイラック一座失踪事件の二日後。つまり、現在から三日前。

その時初めて、ハーティルはジョーカーの元へ訪れた。

そして、今回訪れた時の話の流れとほぼ同じようにして、ハーティルはスペードの殺害を依頼し、その経緯を話した後、ジョーカーはこう言った。

「おまえさん。ツイてるね。」

薄く微笑む。

「最高だ。トランプゲームでいうジョーカー(ワイルドカード)を手に入れたようだよ。おまえさん。数ある殺し屋の中でこの俺を選ぶとは。全く恐れ入った。」

「? ……どういうことですか?」

「……実はね。俺はここ数年、スペード財団の仕事しか引き受けていなくてね。ほとんど専属のような関係にあるんだよ。」

「えっ……!?」

ハーティルは思わず後ずさりをした。

「ああ、大丈夫。心配しなくていい。だからといって俺はやつらの味方ではないし、それどころか敵視さえしている。気に食わない連中でね。できればもう引き受けたくないのだが、断る理由もないし、困っているところだ。だから、おまえさんの依頼は俺にとっても都合がいい。ぜひ引き受けさせてもらうよ。」

「あ、ありがとうございます。」

慌てて、頭を下げる。

「しかし、この依頼は並大抵の難易度ではないよ。知っているかもしれないが、スペードは用心深く、常に護衛が身を守っている。近づくだけで至難の業だ。そこである作戦を、今考えついた。必ず成功するとは限らないし、おまえさんの協力も必要なのだが、聴いてくれるかい?」

「……はい。」

深くうなずく。迷いはなかった。

「ヤツはマスメディアの中では、性格温厚で誠実な経営者で通しているが、中身はただのスケベオヤジだ。特に君ぐらいの若い子が好みらしい。」

ハーティルは背中に寒気を感じて、鳥肌が立った。想像すると気味が悪かった。

「そこで、俺が君に変装してわざと捕まり、ヤツの懐にもぐりこむ。弱々しく泣いて命を請えば、いかにやつでも油断するだろう。」

「なるほど……」

「しかし、わざと捕まるといっても、ごく自然に演出する必要がある。そこで、おまえさんには、俺に変装してもらう。」

「……お互い入れ替わる……ってことですか?」

「その通り。おそらく、ヤツラは近いうち俺に、おまえさんと、おまえさんのお父さんを殺すように依頼してくるだろう。俺に媚を売ってるのか知らないが、最近温い仕事ばかりだからな。一般人を相手にするように言ってもおかしくない。」

ジョーカーはうんざりといった感じで話す。

「おまえさんは今日からここで過ごして、俺の姿で彼らの依頼を引き受けてもらう。その後、おまえさんはここに監禁されることになるだろう。スペードは本当に臆病というほど慎重でね。ヤツラは部屋中の監視カメラを作動させ、一日中君を見張るだろうから、気をつけてくれ。」

見渡すと、部屋の角に何台も監視カメラが設置しているのが見えた。

「そしてその翌日に、おまえさんに変装した俺が、俺に変装したおまえさんに依頼を申し込む。今日おまえさんがやってきたのと全く同じように、うまく俺を演じてくれ。あのレイラック一座の団員ならば、楽勝だろう?」

「……男役はやったことがあるし、演技には自信があるのですが、姿や声などは……」

「ああ大丈夫。実は覆面を作るのは得意でね。それをかぶって、あとは身長差をごまかすためのシークレットブーツを履けば問題ないだろう。それに、俺の声は顔以上に知られていないから、ばれる確率は低いだろう。君は適当にそれらしく声を低くして話せば問題ない。俺も似たような方法でおまえさんを演じるよ。実は俺も昔、ある劇団で働いていて、そこそこの演技力はあるつもりだ。」

「……はい。わかりました。」

一日以上、他人になりきるということは相当な負担ではあったが、彼女は躊躇せずに答えた。その瞳には、強い意志が宿っていた。

「その後は、監視カメラごしに俺を   『偽ハーティル』を見るだろうから、ヤツラはすぐに捕まえにやってくるだろう。まさにこの作戦は、おまえさんが劇団員で、俺が彼らの半専属の殺し屋であるという幸運な組み合わせから成り立っているということだ。ここにいる限り、おまえさんの安全も保障される。いや本当に、おまえさんはツイてるよ。」

ジョーカーは感心するように言う。

「……ところで、宝石はおまえさんが持ってるのかい?」

「はい。失礼ながら、あなたを完全に信用するわけにはいかないので、どこに隠しているのかは教えられませんが……」

「フフッ。つれないこと言うねぇ。まあ、正しい判断だ。……では、命の保身として、この会話もヤツラに伝えた方がいいね。おまえさんが死ぬと手に入らないということだから。」

そしてハーティルはジョーカーによって彼そっくりに変装し、彼は依頼が来る翌日に再会することを約束して別れた。

五千万円と『アクアストーン』が入ったトランクを手にして。


「コーヒー豆の場所がわからなくて探しまくっていたときは、内心ヒヤヒヤしていたけどね。うまくいってよかったよ。」

ジョーカーが手短に説明した後、にこやかに言う。しかし、ダイアンの求める論点はそこではなかった。

「……馬鹿な。なぜそこまで信頼できる?そのまま持ち逃げされることは考えなかったというのか……?」

目を剥けて驚く。ジョーカーは微笑み、

「全く。馬鹿な娘だろう? 見ず知らずの殺し屋に対してなぜそんなことができるのか。不思議でならないよ。」

やれやれと肩をすくめる。

「……さて、おまえさんはそこで傍観してるといい。どうせ何もできないだろうから。」

そう言うと、ジョーカーはダイアンを横切り、スペード社長がいる方へ歩みを進めた。ダイアンは素早く振り向くが、それ以上は動けなかった。彼の言うとおり、足は完全に動かず、拳銃を放っても彼には通用しない。

スペードが殺されるのを黙って見ているしかない。そう覚悟して、ジョーカーの向かう先を見る。

しかし、そこにスペードの姿はなかった。

代わりに二人の男。スペードの護衛達が血を流して倒れていた。

(? ……どういうことだ……?)

ダイアンが首をかしげ、ジョーカーは無表情で、それを見下ろしている。

直後。

ゴバァァン!

少し離れた所の壁が大きく音を立てて粉砕し、そこから巨大な影が現れた。それは高速で移動し、ジョーカーの目の前で急停止してから、その全貌を明らかにする。

それは、全長四メートル程の巨大な人型ロボットだった。

機関銃。電磁砲。ミサイルランチャー。あらゆる兵器が体中に備え付けられている。

その操縦席。頭に当たる部分に、スペードがいた。半透明・半球型の防護壁に守られ、操縦桿を握ったまま、ジョーカーを見据えている。

「これが、我が社が技術の粋を集めて開発した、戦闘用兵器。通称『ビッグ・ゲンマ』じゃ!」

好々爺の面影はなく、彼は顔を歪め、狂気的な笑顔を浮かべていた。

「やはり、人は信用ならぬ! 力をつけるほどに、富を手にいれるほどにその不安は大きくなっていった。だから、ロボットに頼ることにした! 世界最強の戦闘兵器であり、ワシの最期の切り札じゃ! 貴様などではない!」

「……こいつらは、おまえさんが殺したのかい?」

ジョーカーは彼の話をよそに、傍らに倒れる男達を差して言う。

「そうだ! 誰もワシに近づくことは許さぬ! 手持ちの拳銃で撃ち殺してやったわ!」

ハハハハ!とスペードは高らかに笑った。

ジョーカーは笑わない。

「君の一計は聞いていたぞ。ジョーカーくん。馬鹿としかいいようがないな。このワシに立て付こうというのだから! おとなしく鎖に繋がれていれば良いものを!」

スペードが操縦桿を動かし、ロボットの右腕に供えられた機関銃を掲げた。

「いかに超人的な身体能力を持っていようと、この『ビッグ・ゲンマ』のパワーとスピードにはついてゆけまい! 貴様の伝説も、ここで終わりだ!」

ガチャッと金属音を鳴らして、銃口を向ける。

しかし、ジョーカーは動じない。余裕の表情を、薄い微笑をスペードに向け、そして、

「……ダイアンさん。ひとつ、勘違いしているようだから言っておこう。」

後ろを振り返って、彼は言う。

「俺がしたのは変装なんてチャチなもんじゃあない。」

「……な、何?…」

スペードが聞き返し、そして始まった。

世にも奇妙な現象が起こった。

その場にいる二人とも身じろぎすらできず、スペードはトリガーを引くことさえできなかった。目を、現実を、正気を疑った。


ジョーカーが、『ビッグ・ゲンマ』に変身した。


まさしく『変身』と言わざるを得なかった。

まず彼の肘から下と下半身と、その衣服までもが金属のように硬質化し、肥大化。粘土のように形を変えながら、それらは『ビッグ・ゲンマ』の太い腕と足、胴体へと変形した。機関銃。電磁砲。ミサイルランチャーなどの兵器とその細部にわたるまで、そっくりそのまま完全に同じである。

唯一異なるのは、コックピットである。その内部には残りの肉体があり、まるで体の一部のように両腕と下半身が機械の中に埋もれていて、完全に同一化していた。

すなわち、正確に指せば、肘から下と下半身部分が『ビッグ・ゲンマ』へと変身したのだ。

「き……貴様……バケモノか……!?」

スペードは恐怖におののき、体を震わせる。

「バケモノ?めったなこというもんじゃないよ。俺はどこにでもいる、善良な殺し屋さ。……幼い頃、とある組織に誘拐され人体実験をされた結果、体中の細胞を変質、変形、変化させることができるようになった事を除けばね。」

「…………!!」

スペードとダイアンは絶句した。

その事件は、スペード社の裏に属する者ならば誰でも知っているものであり、スペードが慎重深く、臆病になったきっかけといえるものだった。

とある組織こそ他でもない、スペード財団『裏隊』である。

「……二〇年以上前、人体兵器を造る過程で偶発的に生まれた、異質な実験体が生まれた。そいつはその実験に関わる研究員を皆殺しにした後、どこかへ姿を消したという……まさか、貴様が……!」


「験体番号00(ゼロゼロ)!『血の空白(ブラッドエンプティ)』だと!?」


「違うね。俺は『殺し屋ジョーカー』さ。おまえを殺すように依頼を受けた。」

怯えるスペードに向けて、ジョーカーは飄々と言い放つ。

彼こそ、スペードが最も恐れた最強最悪の外敵だった。

細胞を自在に変化させる。さらに、目で見たものならば完全に複製できるという特殊能力を持つ。筋肉の質を変えれば、超人的な動きをすることも可能であり、究極的には、複製した人間の人格までも再現することさえ可能である。

なんにでも成れる。故に最強。『ジョーカー』とは、まさにうってつけの通り名だった。

「ありがとよ。社長さん。実験で受けたこの縦傷のおかげで、かっこいいあだ名ができたよ。」

道化師のような傷跡を指して、ジョーカーは言い放つ。

スペードは恐怖に怯えながらも、頭をフル回転させて、必死に対抗策を考えていた。

そして、ふと思いついた。

(そのまま複製できるということはつまり、オリジナルより強くはならない。ヤツはワシと互角になったにすぎん……しかも、ワシの方が構造と操作法を熟知している分、有利。何を怯えることがあるか……!)

震えが止まった。この戦い、勝ちはあれども負けはない。

そして、ジョーカーの『偽ビッグ・ゲンマ』がズシン!と大きな一歩を踏み出すと同時に、スペードの『ビッグ・ゲンマ』の機関銃が火を吹いた。

狙いは唯一の弱点である装甲の継ぎ目。

スペードは元から構えている状態に対し、ジョーカーは完全に無防備だった。防御は不可能。スペードは勝利を確信した。

しかし、

一発としてそれは命中しなかった。

人の姿であった時と同じように、一瞬にしてその巨大な姿を消したのだ。

居る所は、スペードの左真横。『ビッグ・ゲンマ』の限界速度を超えた、高速移動である。

「なっ……!?」

スペードが反応する前に、勝負は決した。

『偽ビッグ・ゲンマ』の猛烈な勢いを乗せた拳が、『ビッグ・ゲンマ』の左肩に激突し、その装甲が粉々に粉砕。さらに、バランスを崩した所を足で払い、床に倒すと、その上にまたがってのしかかる。払った瞬間に足の駆動関節も壊れて、『ビッグ・ゲンマ』は完全に動けない状態になった。

ジョーカーはまるで人間のように、『ビッグ・ゲンマ』を使いこなしていた。それどころか限界以上の性能をひきだし、本来ありえない動きと破壊力を生み出している。

「な、何故だ……? なんだその動きは……?」

「おまえさん。全く互角と思ったね。甘いね。初恋の乙女のように甘いよ。俺はおまえさんと違って、操縦桿を握る必要もなければ、リミッターをかける必要もないんだぜ?」

「………!!」

ジョーカーにとって、そのロボットは体の一部である。

まるで人間のように動けるのは当然。さらに、あらゆる機械・機器がそうであるように、過度の駆動で損傷しないような制御リミッターが存在しているが、彼は意図的にそれを外すことができた。

「あばよ、社長さん。『切り札』(ジョーカー)を出すのが、早すぎたな……!!」

そう言って、左拳に付属された電磁砲をスペードの顔面に向けた。リミッターなしに放てば、『ビッグ・ゲンマ』の強固な装甲がひとたまりもなく消滅するのは明らかである。

ヴヴヴゥン!!という充電音と共に、拳の先に光が収束されていく。

「ま、待て! ジョーカーくん! 金ならいくらでもやる! 今後一切、君に関わらないとも誓おう! どうか見逃してくれ!」

顔面蒼白。スペードは操縦桿から手を離し、無抵抗をアピールする。しかし、

「……それはできない相談だ。社長さん。そもそも、先約はハーティル嬢の方なんだぜ?客は平等に扱うポリシーだ。それに……」

今までの飄々とした態度が一変。ジョーカーの眉間に深く皺が刻まれ、犬歯を剥き出しに、鬼のような形相となった。

「テメェには積年の恨みがあるんだよ!! ここで見逃せってのは話がうますぎんだろぉが!!」

口調も一変して激昂する。

「ひ、ひぃぃ!」

涙と鼻水で顔面をビチョビチョに濡らす彼の目の前で、電磁砲の光の輝きが最高潮に達した。

「や、やめろぉぉぉ!!」

ダイアンは必死に叫ぶが、すでに遅く。

「ハーティル嬢の仇もついでだ。塵も残さねぇ……消えうせろ!!」

迸る閃光と共に、高密度なエネルギー体が発射された。


ドギャアアアアアンン!!


目もくらむほどの強烈な光が室内を照らすと同時に、空気を揺るがす衝撃があたりを駆け巡った。その音はすさまじく、ダイアンは脳を直接揺さぶられる錯覚に陥る。電撃がほとばしり、背景の巨大ガラスは全て粉々に吹っ飛んだ。

やがて音の余韻が消え、立ちこめる粉塵も次第に薄れてゆく。

そして彼は見た。

ジョーカーとスペードの姿を。

「……なんちゃって♪」

ジョーカーはペロリと、ふざけたように舌を出した。

『偽ビッグ・ゲンマ』の拳は『ビッグ・ゲンマの』コックピット横に突きたてるようにあり、その下には直径三〇センチほどの穴が階下深くまで続いていた。コックピットの防護壁にかすれるように穴の縁があり、黒い焦げ模様が床についている。

つまり、わざと外したのだ。

スペードはあまりの恐怖に気絶。白眼を剥いて口から泡を吹き、小刻みに痙攣までしていた。

すると、ジョーカーの姿が再び変形し、小さくなる。気が付くとそこには、真っ白なスーツを着て、紳士帽を被った男がいた。

男。ジョーカーはダイアンを見据えると

「これに懲りたらもう二度と俺にちょっかい出すんじゃないよと、社長さんに伝えてくれ。」

薄い微笑を携えながら彼を横切り、出口へと向かってゆく。

「ま、待て!」

それを、ダイアンは呼び止めた。ジョーカーの歩みが止まる。

「……なぜ殺さない!」

それは、部下として放つべき問いではなかったが、彼の予想外で気まぐれな行動に、首を傾げざるを得ないのも確かだった。

「なんだい?殺して欲しかったのかい?」

ジョーカーは冷やかすようにニヤリと笑うと、静かに語る。

「『大富豪』……あるいは『大貧民』ってトランプゲームがあるだろう?最高位が『2』なんだけど、それに打ち勝つのが『ジョーカー』さ。」

「……?」

「しかし、ジョーカー単品の場合、『スペードの3』がさらにそれを凌ぐっていう特別ルールがあるんだよ」

そう言うと、朽ち果てたように気絶しているスペードを遠くに眺めた。

「ここは負けといたほうが、筋が通るってことさ……なあ。スペードさん?」

彼はフフフッと笑い、再び歩き出した。

あまりにも戯言めいた答えに、ダイアンは言葉を失う。

「ああ。あともうひとつ、社長さんに言っといてくれ。『昔、実験を滅茶苦茶にぶっ壊して、悪かった』……ってな。」

そう言葉を残して、今度こそ彼は去っていった。後には瓦礫の山と、重傷者数人と気絶した社長。呆然とする男が残され、死者は一人もいなかった。

彼の真意は誰にも分からない。


コンクリートジャングルの中、一際高くそびえる高層ビル。最上階の一部が大破されているのが外から確認できる。パトカーと消防車が地上にいくつも配置され、フロント手前では多くの人間でごった返していた。

ジョーカーは少し離れた路上で佇み、その様子を眺めていた。空は白みがかっていて、もうすぐ夜が明けようとしている。

やがて彼の傍に、一人の少女と男が歩いてやってきた。

レイラック一座の一人娘。ハーティルとその父、バロックである。全ての作戦が終了次第、彼らはスペード財団本社ビルの前で合流する手はずになっていた。

「……全部。終わったんですね。」

ハーティルは破壊されたビルを見上げて微笑むと、ジョーカーも微笑み返した。

「いやぁ。駄目だった。見事に失敗したよ。やっぱし臆病者は強いねぇ。」

両手を挙げて、降参のポーズをとった。

「ということで、報酬はそっくりそのままおまえさんに返すよ。役立たずで悪かったね。すぐにこの街を離れるといい。」

そう言うと、傍らに置いていたアタッシュケースと、二つのトランクを指差した。それらはジョーカーのアジトにあったものであり、二人に渡すために彼が持ってきたものだった。

「な、なんでそんな嘘を? それに、このトランクはスペード達のものでしょう? 受け取れません!」

バロックは驚きながら、それを拒否する。しかし、

「あいつらの薄汚い指が触れた札なんて、触りたくもないだけさ。ついでに持ってってくれるとありがたい。」

「そ、そんな。貴方には返しきれない恩があります。ささいなお金かもしれませんが、どうか……」

「いいから受け取ってくれ。お父さん。しつこい男は嫌われるぜ。」

少し不機嫌そうに言って、バロックの胸元に突きつける。バロックは躊躇するも、仕方なくそれを受け取った。

それを見て、ハーティルは微笑む。彼の本心が、今は手に取るように分かっていた。


ハーティルがジョーカーに変装する最中である。

「もし、ジョーカーさん……『偽ハーティル』が来るまでに父が見つかったら、どうするんですか?」

彼女からとった顔の型を丁寧に整え、覆面作りに励んでいるジョーカーに向けて彼女が問う。スーツは脱いで、作業着に着替えていた。

「ああ……。しまった。それは考えていなかったなぁ」

ジョーカーは額に手を置き、眉間に皺をよせる。

「確かに、可能性はある。行方知らずのお父さんの居場所が分かるのはいいけど、二人で一緒に逃げるのは、難しいだろうな。逃げられたとしても、すぐに捕まるのがオチだ。」

彼は一旦、工具を置いて作業を中断すると腕を組む。う~んと唸って考えてから、

「……仕方が無いな……お父さんの写真とかは持ってるかい?」

「え?ああ……家族の集合写真なら、財布に入れていますけど……」

「良かった。ちょっと貸してくれ」

写真を受け取ると、左の裾を大きく捲り上げた。そして、写真を凝視する。

「?……何をするんですか……?」

「ああ。女の子にはちょっとショッキングだから、見ない方がいいかも。」

そう言うや否や、彼の左腕が大きく変形し始めた。

彼女の眼が思わず釘付けになるほどの、衝撃映像だった。

左腕がいびつに歪むと肥大化。それはみるみるうちに人の形となり、やがて指や鼻、耳などの詳細な形が作られていく。そうして、彼女の父。バロックそっくりの体が、着ている服もそのままの形で出来上がった。

「!! ……!? ……なっ……!?」

眼を剥き、驚く。ジョーカーの左手首はバロックの背中と同化していた。

「う~ん……とりあえず、『銃殺』ということにしておくかな。」

ジョーカーはこともなげに言うと、バロックの頭に銃痕のような穴が開き始め、中から血が滴り落ちる。見事なバロックの『銃殺体』ができあがった。

「そ……それは一体……?」

「ああ。気にしないでくれ。ただの生まれつきだ。」

とぼけるように言うと、彼は傍らにあった鉈を右手に持った。

すると、一瞬の躊躇もなく。


彼とバロックの融合部分。左手首を切断した。


「………!!」

ジョーカーの手首とバロックの背中からおびただしい量の血が流れる。しかし、ダメージがあるのは勿論ジョーカーのみである。

「な、何をッ……!?」

ハーティルはほとんど悲鳴のような声で叫ぶが、当の本人は動じない。彼は涼しげな表情のまま。しかし、額には多くの汗が浮き出ている。

苦しいのを、痛いのを我慢していることが分かった。

やがて出血がおさまり、手首から肉が盛り出て、新たな左手が形成されていった。それはまるで切断されたイモリの尾が生え変わる様子を、早送りで再生しているようだった。爪の先まで再生が進むと、手を握り、放しを繰り返し、出来の具合を確かめる。

彼の能力は『細胞の変質と変化』であり、自在に細胞を切り離すことはできない。物理的な力で断ち切るしかないのだ。

「もし先にお父さんが見つかったら、これをトランクにつめて、現場に持っていくんだ。」

何事もなかったかのように、床に横たわるバロックの死体を指して言った。

「トランクは死体を運ぶためと言えばいい。それを運んで父と再会した後、そのまま往復してトランクの中身を見せれば、ターゲットを殺したように見せかけられる。そうすれば、父親の安全は保障されるだろう。俺なりの美学で、『殺し』は誰にも見せないように連中には言い聞かせてあるから、ばれる心配はない。」

「わ、分かりました。けど……」

そんな作戦を講じるよりもまず、彼のその異形すぎる『生まれつき』がただ気になっていた。「気にするな」というほうが無理である。

しかし、ジョーカーはその様子を、作戦に不安があると見たのか、こう言った。

「……やっぱし、やめるかい?」

「え……?」

「こんなまどろっこしいことしなくても、あとおまえさんの死体も作って奴らに差し出せば、二人とも自由の身だ。遠くの街まで逃げることにはなるが、おまえさんのリスクは少なくなるだろう。……家族の仇をうちたいというのなら、別だけどね。」

「そ、そんな……!」

そんなつもりは、毛頭なかった。

確かに、スペードを強く憎む気持ちはあったが、それは父の身を案じる気持ちに勝ることはなかった。二人で無事に暮らせることができるのならば、その憎悪は心の奥底に閉じ込める覚悟があった。故に、彼の提案も妥協できる。

しかし、それでは彼の『スペード財団』による呪縛は解放されない。

少しの間逡巡していると、ジョーカーは答えを待たずに、再び鉈を手に取り出した。見ず知らない他人のために、強い痛みを犠牲にしようとしている。

「なにより、面倒くさくなってきたよ……すまないね。変装作戦はなしに……」

と言って、鉈を持ち上げたところで、

ハーティルがそれを押さえた。

「やめてください。」

はっきりと言い放つ。その眼は涙で潤んでいた。

嘯いた態度や言葉とは裏腹に、優しく、善良な心を持っている事を理解したのは、その時が始めてだった。「面倒くさい」というのも、気遣いから生まれた嘘であることは分かった。

『殺し屋』というレッテルや奇妙な『生まれつき』などは関係ない。自分達のためにも、彼のためにも、この作戦を成功させたいという強い気持ちが湧き上がった。

「……やります。任せてください。」

強く言い放つ。ハーティルにとって、彼は信用に足る人物で、善良な殺し屋となった。

そして、全幅の信頼をよせ、『アクアストーン』と五千万円を彼に預けたのだ。


「しかしおまえさん。俺を演じるとき、少し悪どすぎやしなかったかい?ちょっとヒイたぜ」

「いえいえ、あなたはこんな感じでしたよ。」

ジョーカーは不満気に言って、ハーティルはくすくすと笑う。

「……ジョーカーさん。最後にひとつ訊いてもいいですか?」

「なんだい?」

「……なんで、殺し屋になんかなったんですか?人を殺すのが嫌いなのに」

一瞬。沈黙が流れる。

「………なんでそう思うんだい?」

「たぶん。あなたは少なくとも、殺し屋を名乗ってから人を殺してないんじゃないですか?私の父の死体を作ったように、依頼されたターゲットの死体を作って、本人には遠くへ逃げるように言って事なきを得る。報酬を高く設定するのは、あえて依頼の数を減らすため……」

「………」

「もしかして、殺し屋を名乗ったのは、人との接触を避けたかったからじゃないですか?自分が人とは違うから」

それを聞くと、ジョーカーは鼻でフンと笑った。

「馬鹿言っちゃあいけないよ。殺すのが嫌なら、真っ当な職を見つけてるさ。おまえさんの話は妄想もいいところだ。」

そう言ってわずかに微笑む。

「あの……ほんとにこんな大金もらっちゃっていいんですか?今回のことで、あなたを雇う人はいなくなったのでは……?」

バロックが心配そうに声をかけるが。

「おまえさんもくどいね。どうしてもっていうんなら、おまえさん達の劇のプレミアチケットでもよこしてくれ。死ぬほど暇だったら観に言ってもいい。」

まるで復興を前提としたように言うと、彼は背中を向けて歩を進める。

「ジョーカーさん。いつか遊びに行ってもいいですか?」

ハーティルは満面の笑みを浮かべた。ジョーカーは首だけ振り返る。

「……お断りだ。顔も見たくないね。」

そう言う彼の顔は、確かに笑っていた。

そして、再び背を向けて手を振りながら、日の当たらない裏の世界へ帰っていく。

朝日が照らしつける中、二人はいつまでも彼の背中を見つめていた。


大都市。プラトンシティ。

裏の世界。闇の中の闇でまたひとつ、『裏稼業』が行われようとしていた。

「て、てめえ、何モンだぁ!?」

ネオンの光も差さない、暗い路地裏。チンピラ風の格好をした男が怯えながらナイフをその手に握り、ある男に威嚇行動をとる。

その男は平然と歩み寄る。

真っ白なスーツに黒色のYシャツ。橙色の紳士帽をかぶり、両瞼に道化師のメイクのような、垂直な縦傷があった。

「俺が誰だって?よし、紹介しよう。」

彼は今日も闇の中で人を殺し、人を救い続けている。

「隔絶された至高の存在。最初にして最期の切り札。」


「『殺し屋ジョーカー』はこの俺だ。」


どうでしょう?

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