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朝だ。うん、紛れもなく朝だ。いつもならば一番鶏の鳴き声で目が覚めるのだけど。今日は勝手が違った。
『ちょっと待ってよ!』
『ダメ! よーいドンで始めだよ』
『止めなさいよ! 可哀想でしょ!』
『勝ったら今日のお仕事免除は?』
『まあ、すてき!』
『次は、ぼくでいい?』
『知ってる? ニンゲンはつねると起きるんだよ』
何かにつねられる前に、自分の頬をつねった。起きてる。夢じゃない。朝だ。ちゃんと朝だ。むくりと体を起こして、窓を見る。空が朝焼け前のうす紫をしていた。
どうやら声の主らは私が起きていたのに驚いたようで、
『よかった、起きてたのね!』
『ぼくの勝ち? ぼくの勝ち?』
『勝手に起きたからナシ!』
『つまらないな。解散!』
『一捻り、見たかったのになぁ』
そりゃあ、こんなにも賑やかだし。起きない方が珍しいのではなかろうか。
わらわらと、蜘蛛の子を散らすように消えていく。明らかに小さい何か。ひょっとして、ひょっとしなくても、
「妖精、とか?」
自分でも信じられないけど、手のひらサイズのそれは、明らかに人ではなかった。美しい女性も居れば、虫のようなのも居た。緑色の服を着たり、透き通る羽根を持つものも見えた。それらに共通しているのは、昨日の晩に見た童話の挿絵とよく似ている、という点だ。
いや、まさか、そんな。
「気のせい。寝ぼけているだけ!」
気のせい? 本当に? 私がそう思いたいだけではないのか? 目を背けたいだけではないのか?
背ける? 何から? 私はお母様さえ居ればそれだけで……、
「ひょっとして、お母様っ!」
全身の血が冷めていくのを感じる。なにかあったら、などと考えている時間も惜しい。今すぐ、確認しなくては。部屋を飛び出る。日頃から運動しない分、キシキシと体が悲鳴を上げている。が、構ってはいられない。
「どうしよう! ……お母様に、なにかあったら、わ、私……っ!」
お母様の寝室の前に来ると深呼吸してから入る。息が乱れていると、廊下を走るなとと怒られるかもしれないが、そもそも寝間着で出歩いている時点で怒られるのは必須だろうし。
「失礼しますっ!」
朝早くにこんな大声をあげて、迷惑だろう。怒られるだろう。それでも構わない。カタカタと震える手でドアノブを握り、勢いよく部屋の中へ入る。どうか、私の思い過ごしでありますようにっ!
「あら、おはよう」
まさか優雅にあいさつをされるとは思っていなかった。ここで私の思考回路は止まってしまった。
「おはようございます、お母様。え、えーと。あの、いえ。あ、あれ?」
「どうかしたの?」
改めてどうかしたの、と言われると、困る。
「特には、ないんですけど。……あの、ちゃんと寝る時は寝ないと、お体に障りますよ」
「うふふ。それはあなたもじゃない」
どうやら私の杞憂だったらしい。
「いえいえ、私はいいんですよ。元気の塊ですから」
お母様と軽く会話をしながら朝の健康チェック。心なしか体が温かいけど、まぁ、私が走って来たからだろうし。その証拠に相変わらず脈は微弱だ。悲しいけど、今日もいつもと変わらない。
「私、今日も用事があって。少し早いですけど今から出ます」
「そうだったの。いってらっしゃい」
「はい、お母様。何かあったら……お父様を頼ってください」
もっと何かあったような気もしないではない。けれど私は、それだけ言って、お母様の寝室を後にした。
用事はもちろん、パラケルスス先生にだ。お母様だけでなく、私の幻覚についても相談した方がいいのかもしれない。ああ、昨日のお礼におじさまへあげるクッキーを焼いてから、診療所へ行く予定だったのだけど、それどころではない。そんな気分ではなかったし、気分転換にするにはおじさまに申し訳ない。こうなれば売り物でも仕方ないか。
行きよりは遅いが、それでも十分な速さで自室に向かっていた。明らかに先ほどの動揺が体に残っていた。こういう時こそ、冷静さが求められるのに。非常時にどれだけ適切な判断が下せるかが大切なのに。そう、平常心が大事。
自失に戻ると、ベッドに潜った。ここからやり直そう。いつもの一日を始めよう。一番鶏は仕方ないけれど、いつも通りを心がけながら朝の支度をする。着替えてから歯磨き、洗顔、寝癖を直しつつ髪を整えて、朝食の準備。いつもより時間が早いだけ。味がしないのもきっと気が動転しているからだ。
自室に戻るとお母様のさっきの様子をノートに記す。昨晩を忘れてた分も一緒に記す。そして、いつもの支度をしてから、おじさまへあげる秘蔵のお菓子とお母様の病状観察ノートを鞄に詰め込む。
大丈夫、いつも通り。
『ああ、そろそろ朝になっちゃうね』
『楽しい時間は続かないよ』
『変わらないものはないものね』
『壊れないなんてつまらないだけさ!』
くすくす、とあの声がする。いつも通り、ではない。心臓がドキリと跳ねる。一度なら幻覚だと思い込めるけれど、何度もあれば、まるでそれは、現実みたいじゃないか? 私が狂っていると、言われてるみたいじゃないか?
私が狂ってないと、確信が欲しい。行かなくては。診療所へ。今すぐにでも。まだ早いけれど、どうせ時間のかかる道のりだ。
ああ、でもその前に、あの人に置き手紙をしておかなくては。
「『用事があるので家を開けます。夕方には戻ります。その間、お母様をよろしくお願いします』……っと」
かなり走り書きだが、仕方ない。カタカタと体が震え始めている。文字としてギリギリ読める、といったところだ。
『最近楽しいことないよねー』
『ぼくなんてずっと子供部屋で待機さ』
『いいじゃん、おれなんて果樹園だぜ? 今の子なんて誰も盗み食いしないからもー退屈で退屈で!』
後ろでは声がし続けている。確かめたくない。聞くだけでいい。見てしまったら、それを認めなくてはいけないから。それなら見えない方がいい。目にしてしまうと、私は私でいられなくなる。
いつの間にか、昨日の帰ってきたときの、いつも通りだった、あの安心感が、今では全くなくなってしまった。まるでこの家は知らない誰かの家のような気がしてくる。居候のような肩身の狭さを感じる。
置き手紙を台所のテーブルの目の届く所に置き、足早に家を出る。外に人は居ない。そりゃあまだ早いから当たり前だけれど。私はまだ早朝であることを忘れるくらい、目が冴えている。
「……きれい」
噴水前を通ると、朝焼けのオレンジで水がきらきらと輝いていた。夕焼けよりも清々しくて、独特な神聖さを感じる。幻想的な風景に、今までの出来事が嘘のように思えてくる。立ち止まってその様子をしばらく見ていると、ようやく遠くで一番鶏の鳴き声がした。
その鳴き声に一気に現実に引き戻された私は、急いで診療所へ向かった。