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ーー妖精の森内、パラケルスス診療所にて
夕餉のためにスープ用の鍋でベーコンに焦げ目をつけていた。一瞬風の音がなくなり、すぐに窓がガタガタと強く軋んだ。これはこの森の妖精達共通の合図だった。何事かと思い、窓を開けると、
『ねえ、ロロ』
『あのニンゲン、殺し損ねたの?』
『森を抜けちゃったよ?』
そこには先ほどの三人が居た。それぞれしわくちゃの顔が機嫌悪そうにしていた。全身を覆う灰色の苔が影を作っていて、より一層、そう見える。
「ごめんな、失敗したんだ。家を直すの手伝うから許してくれよ」
慣れた手つきで棚から菓子箱を取り出して、外へ向かって小さめのビスケットを三枚放り投げる。先ほどのご褒美と、教えてくれたお礼に、一人一枚。
「約束するよ。ほら、ビスケットだ」
『ほんとよ、』
『きっとよ、』
『必ずよ、』
彼女らは満足したのか、くす、くす、と嬉しそうに笑い声をあげてビスケットと共に消えていった。ため息をつきながら棚へ菓子箱をしまう。
しばらくして、風の音が出てきた。帰ったのを確認すると、油のはねる音が大きくなってきていた。慌てて鍋を見ると案の定、少し焦げていた。でも、まあ許容範囲の内だろう。気にせず荒く切った穀物と水を入れ、ことこと煮込む。
スパイスを入れてぐるりと鍋をかき混ぜながら、考える。あいつは無事に森を出れたらしい。年頃の娘が一人で森で夜を迎えるのは自殺行為に等しい。ましてやこの森で。
「まったく……面倒はごめんだ」
この森で事件が起これば面倒なことになるに違いない。そしてその尻拭いをするのは、明らかに自分だった。確実に自分だった。パラケルススはなんだかんだ言ってこちらの人間だし、フランは真っ先に逃げるタイプだ。そうなるとやっぱり、自分しかいない。
「本当、貧乏くじだよな」
ため息をつきながら、庭へサラダ用のハーブを取りに行く。心地よい風につられて、黒い髪がさらりと揺れた。
この家は日の光が届かない昼よりも、蝋燭が灯る夜の方が明るくなる。日が落ちる前に台所、居間、廊下、玄関……と手際よくランタンに、燭台に火を点けていく。
「パラケルススー、ご飯ー」
一応、研究室に向かって声をかける。返事はないが、気にしない。というかあいつのことは気にしたら負け、本気にしたら負けと思っている。
スープを皿に取り分けて、サラダもドレッシングをかける。クルトンが無いとうるさいので、ひとつだけにスプーン大盛り分入れる。後はパンとバター、ビスケットとミルクを用意して、準備終了。
台所から料理を運んでいると、フランとパラケルススが既に席に着いていた。まだかまだかといった風だ。
「……毎日のことながら、お前ら手伝ってくれてもよくないか?」
「フランにじゅーろーどーさせる気? やめてよ、そういうのアタシの柄じゃないもん」
「そうそう、僕ってばペンより重い物って持てないんだもーん」
俺は右手で拳を握り、力の限りパラケルススの肩を叩く。
「なにがもーんだ。いい歳して、可愛こぶるなよ。気色悪い」
「すぐ暴力に走るのは良くないな。まったく、育てた親の顔が見てみたいよ」
「鏡が見たいなら素直に言えば?」
気にしたら、負け。本気にしたら、負け。何度も自分に言い聞かせながら精一杯の皮肉を残して、台所へ向かう。相変わらず二人は手伝ってくれないので、あと二往復ばかりかかりそうだ。
そんなに早く食べたいなら手伝えよ、と言っても無駄なことくらい、最初から分かりきっていたことじゃないか。
「そういや、昼間のあいつ。無事に森を抜けたらしいぞ。森から先は知らないけど、……気になるようなら今夜調べてみるけど、どうする?」
「んー、賢いお嬢さんだったからね。街では大丈夫だろうよ」
バーンスタインってのは一応貴族だしね、とパラケルススが付け足す。
「というかさ。目印に傷付けたの、ぜーんぶ苔の乙女の住処なんだもん。笑っちゃうよね」
「そりゃあ、あのお嬢さん。運がなかったな。ふむ。不憫な星の巡り、薄幸のお嬢様か。調べるとなかなか面白そうだ」
まったく、こいつは。
「別に運がないとかじゃないだろ? 森や山を歩くときの一つの方法だし。単純に丈夫そうで若い木に絞っただけだろうよ」
あまりにあいつが惨めなのでフォローしてあげる。こいつの研究対象にされるのは、流石に憐憫の情がわく。
「ロロが行かなかったら殺されてたね、あのコ」
「人は生きているだけで絶対誰かの琴線に触れてしまうからな。仕方ないさ」
パラケルススはそう言うが、俺としては目印用のリボンを巻く、とかにして欲しかった。そうしなくても彼らのテリトリーを踏み荒らすのは避けられないことだけど。街では平気だろうが、この森は少々たちが悪い。
「なあ、ロロ」
「お前はその名前で呼ぶな。全身に鳥肌が立つ」
ププっと隣でフランが笑う。いい気味だと言わんばかりだ。
「はいはい、ルドルフ、ルドルフ! 名前ひとつでケチをつける器の小さいルドルフさん!」
「お前それわざとだろ? 何? 蹴飛ばされたいの?」
いい加減こいつの軽口もうざくなってきたな。左足で脛を蹴り上げる準備はいつでもできていた。
しかし、パラケルススは俺の予想に反して、深く真面目な声色で言った。
「どうして彼女はここに来れた?」
「……俺もそこ、気になってる」
この森には迷い続ける呪いがかかっている。……というのは少し違って、森の妖精達が日々いたずらをしている。誰彼構わず迷わせるものだから、結果的に目的地に辿り着けない呪いがあるかのようになっている。迷わずに行くと、街から三時間弱の距離なのに。
彼女は遠回りはしたようだが、ここまで来たのだ。たった、半日で。
「やっぱり元が気まぐれだし。断言はできないな……」
「そりゃあ、ニオイがするもん。人間でも同族意識があるから、追い返さないのよ」
フランが得意気に語り出した。
「あのコ、妙な親近感がわくのよね。アタシも気に入ったわ。遠回りはみんなで遊んでただけだし。苔の乙女達は住処を壊されて怒っただけで。それがなかったらまた遊びながら帰ったんじゃないかしら? ていうか、センセも対応甘々だったし自覚あるのかと思ってたよ」
「なんだって?」
自分では気付かなかったけど、そうなのか。こういうことがあると、こいつは凄いと改めて実感させられる。やはり、俺では敵わない。
「そりゃあ、男二人でむさ苦しく生活してるんだぞ? うら若き乙女が泣き出しそうな目で、何でもしますと言わんばかりに『お願いします!』だなんて……ほんと久々にきゅんときたねぇ」
「……そんな俗な自覚かよ」
馬鹿だった。こいつを見直した俺が馬鹿だった。少し前の自分が情けない。情けなさすぎて死にたくなった。……死にたい。
「むっ、しつれーね! フランが居るからむさくないでしょ!」
「フランはウチの看板娘だからな。ちょっと枠が違うから。そうじゃなきゃ一番なんだけど」
「そ、そう? アタシ一番? ……なら別にいいかな!」
フランは、謎の張り合いの末、言いくるめられているし。もう、全部だ。この場の全てが愚かだった。
「なんだ、ルドルフ。嫉妬か? 男の嫉妬は醜いだけだぞ?」
うるさい、呆れてるんだよ。
「そう心配するな。お前だって頑張ればきゅんきゅんモノだぞ? それにお前のあの時の涙目はばっちりしっかり殿堂入りしているから。自信もて!」
「やめろ、気色悪い!」
撫でられている頭の手を払い落とす。そして、さっき使わなかった左足を、力いっぱい、それはもう全力で、パラケルススの脛を目掛けて蹴り上げた。
「いたッ!」
まったく、いい気味だ。食器を乱暴に下げて、自分の部屋へ戻る。なにがきゅんきゅんだ、なにが殿堂入りだ! 全身に悪寒が走る。気持ち悪い。本当の本当に気持ち悪い。
「ロロってば、冗談通じないのよね。昔から」
「むかしよりはマシさ。まだ愛情に慣れてないのかね」
「カタブツなだけじゃないの?」
「それはあるな」
二人の会話は聞こえていたが、知ったことではなかった。カンテラを手に取って、ローブを羽織る。日課である森の見回りをしに行かなくてはいけない。
呼吸が自然とため息になる。幸せが逃げるなど言ってられない。逃げ出すだけの幸せが自分にあるとも思えない。
「本当、貧乏くじだよな」
その一言で、今の俺の心境全てが説明できそうだった。