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「ただいま戻りました」
誰の返事もなく、少しばかりの余韻が屋敷に響く。玄関のドアを閉じると、いつも通りの我が家がある。どこか非日常を体験してしまった私は、いつも通りの変わらないこの様に、安心する。慣れた手つきで施錠をし、自室へ向かう。お母様を看るにしても、この汚れはいただけない。まずはお風呂でシャワーを浴びなくては。
脱衣所で服を脱ぐと、また頭からパラパラと少し土が落ちてきた。気になって鏡を見ると、蒸栗色の髪が染めたように真っ茶色になっていた。顔色も全体的にくすんでいた。これでは、まるで別人だった。
「タオルを借りてこれだもの。この様子で、おじさまはよく私と気付いたわよね」
改めて、おじさまへのお礼は何にしようと考えながら急いで浴室へ入る。バルブを捻り、頭からお湯を被る。足元では茶色い水が流れている。舐めるような視線を感じるが、いつものことと気にせずお湯を流し続ける。
「……きもちわるい」
醜い獣に向かって、吐き捨てるような声が漏れた。
お風呂上がり、質素なワンピースに着替えた。ずいぶん汚れていたのだろうか。姿見に映る自分を見つめた。いつも通りの冴えない私だった。
誇りを忘れず、誉高くありなさい。
ふと、お父様の言葉が浮かんだ。幼い頃、意味が分からなかった。果たして、今なら分かるだろうか。本当の意味が。
憂鬱な気分を振り払い、お母様の寝室へ向かう。お母様の前で辛気臭い顔をしないと決めていた。私の笑顔で少しでも回復するのならば、苦でもなんでもなかった。
「お母様、お加減はいかが?」
「……おかえりなさい」
病床に伏すお母様は、そう呟いて少しだけ揺れた。それに意思は感じられず無機質なものだった。そっと左腕を握りる。脈も微弱。体温もひんやりとしていて、生気を感じない。早朝より変化なし、と。いつもならここで記録をするのだけど、浴室から直接来たためにノートを持っていない。そういえば鞄に入れたままになっていた。
そもそもパラケルスス先生に見せるのを忘れてしまった。何か回復の手掛かりにと、思っていたのに。
「おそかったわね?」
「ごめんなさい。少し遠出をしていたのよ」
まさか、噂の絶えない、悪名高いあのパラケルスス先生の所へ行っていたなんて言えるわけがなかった。
「そうなの」
「ええ。そこで少し、興味深いことがあったの。私はこれから調べ物をしますが、変わったことがあれば必ず呼び出してください」
枕元のベルをちりん、と軽く鳴らした。お母様は儚げに笑ってから、糸が切れたように目を閉じた。
家族は、私とお母様しか居ない。お父様は私が8つの頃に亡くなったし、親戚は長く絶縁状態が続いている。双子の弟と妹は学習院の寮に押し込んだ。お母様の病気の原因が分からない以上、一緒に生活する訳にはいかなかった。
夏期休暇で帰ってくるらしいが……生きてるような、死んでいるようなこの姿は見せてもいいのだろうか、と悩まない訳ではない。
「……どのみち私が決めることでは、ないわね」
この様子をありのまま伝えて、それでも側に居るかどうか。決めるのは本人だ。寮生活をさせているのは感染を防ぐためであって、誤魔化すためではないのだから。
その時がきたらちゃんと伝えよう。かつてお母様が、そうしてくれたように。
「さて、調べ物。調べ物……」
お父様の書庫に足を運ぶ。残っている我が家の財産は全てこの書庫にあると言っても過言ではない。貴金属や宝石はお母様の薬代に消えてしまった。絵画や彫刻もしかり。おかげで屋敷が広いだけの空っぽの箱になっていた。別にそれをどうとは思わないけれど、広い分、掃除が大変なのだけは問題だった。
書庫に入ると、地図、伝記、民俗学の論文、旧時代から続く童話集などなど。当てはまりそうな本を、手当たり次第に取る。
妖精について、調べようと思ったのだ。
少年やおじさまの言葉を丸々信じられるほど純粋ではない。けれど、なにも調べずにそれらを嘘だと決めるほど愚かではない。自分の知識では判断出来ないのなら、学ぶしかない。自分にはなにもないけれど、勉強がある。幸い、勉強は苦でない。片隅にある机に向かうと、私は童話集のページをめくった。
丘の人たち、にぎやか一家
歌って、踊って、にこにこ笑う
あの子も、この子も、ゆらゆら揺れて
ずっと楽しく暮らしましょう
丘の人たち、やさしい一家
窓辺で、水辺で、けらけら笑う
あの実も、この実も、なんでもお食べ
ずっと楽しく暮らしましょう
丘の人たち、いたずら一家
隠して、壊して、にやにや笑う
あの子も、この子も、こちらへおいで
ずっと楽しく暮らしましょう
丘の人たち、かしこい一家
教えて、宥めて、くすくす笑う
あの実も、この実も、なんでも分かる
ずっと楽しく暮らしましょう
常若の国で暮らしましょう
「エーデルトルート。まだ起きていたのかい」
突然の声に、思わず体が強張る。本を読むのに夢中になっていて気が付かなかった。
「……なんでしょうか、」
「とっくの昔に晩課の鐘は鳴り終わってるよ。早く寝なさい」
「いえ。まだ少し、調べたいことがありますので」
「夏期休暇中だろう? 明日にしなさい」
ここは私が折れるしかないようだ。
「……分かりました。そうします、お父様」
この人を目にして、急に疲れが出たらしい。くすくす、とまたあの聞こえた気がした。