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なんなの! なんなの! なんなのよあの無礼者はっ!
私は、文字通り泥まみれになりながら街への道をズカズカと、大股で歩いていた。もう周りは木々の生い茂る普通の森だった。
「明日会ったら、もう、ただじゃおかないんだから!」
歩く度にパラパラと乾いた土が落ちる。街へ近づくにつれ、人と出会す頻度が増えてくる。その度に、自分の姿を見ては眉間に皺を寄せたり、明らかに遠ざかろうとする。そりゃあ、いい歳をした女の子が泥まみれだなんてはしたないもの! 距離を置きたくなるのも分かるわ。
夕暮れの街角で、苛立ちながら歩く泥まみれの私は、明らかに異質な存在だった。パラケルスス先生やあの少年の比ではない。
「おや? バーンスタインのお嬢ちゃんじゃあないか。木登りでもしたのかね?」
「ごきげんよう、おじさま。生憎、スカートで木登りはしません。おじさまは、今日は何の果物でしたか?」
近所に住む、果樹園のおじさま。小さい頃から可愛がってくれている。いい人なのは確かだけれど、いつまでも私をお転婆娘と思っているのが腑に落ちない。
「ああ、今年は林檎が早くてね。摘果の時期だ。まあ、それでもお嬢ちゃんよりは仕事してないがね」
「だから、木登りはしませんと言ってるでしょう!」
「そんなこと言ったって、俺よりも土まみれじゃないか。ちょっと待ってなさい。すぐタオルを持ってこよう」
「いえ、結構です。もう家なのに、」
悪いです、と言い切る前に、おじさま。
「汚れた格好で母さんが心配するだろう? ほら、ちょっと待ってなさい」
言われると、確かにその通りだった。お母様に余計な心配は掛けたくない。ここは素直に待っていよう。
噴水前のベンチに腰を掛ける。隣のベンチのカップルは私の格好を見て、ぎこちなく後ずさりしながら離れていった。派手な衣装の女性達はそんな私を気にせず、夜の街へと消えて行った。
「もう、訳分かんない……」
晩課の鐘が淑やかに夜を告げている。私は先ほどの出来事を思い返していた。
「まあ、こうなるよな」
上から人影が降ってきた。黒い髪に濃紺のローブがひらりと揺れる。
紛れもなく、診療所の少年だった。
「お前たち。よくやった。でも、もういい。後は俺の仕事だ」
『そうなの? つまんない』
『仕方ないね、ご褒美ちょうだいね』
『ちゃんと、殺してね』
くす、くす、と風のざわめきと共に声が消えていった。なんだったの? 何が起こっていたの?
「あ、ありがとうございます。わざわざ助けていただいて」
「助ける? あんたを? 勘違いするなよ」
鼻で笑って、私を見下すように、透き通る声で言い放った。
「原因は間違いなくあんたの方にある。殺されたって文句言える立場じゃない」
「……そうですか、」
そんな罪作りなことをした覚えはない。というか、そもそも、
「あの声はなんなのでしょうか? 姿は見えないし……何より物騒でしたし」
「妖精だよ。この森の守護者だ」
「…………えっ」
「ここは妖精の森だから」
いや、うん。私だってこれくらいの歳では庭を駆け回ったり、木登りをしたり、やんちゃなものだった。時折はしゃいで妖精やら魔女やらを思い描いたりもした。別に、変なことでは、ない。
ただ、真っ直ぐに堂々と他人に言えたかというのとは別だ。なんか、こう、いたい。
「森へ来るとき、木に目印を付けただろう。住処を刻まれたら、そりゃあ怒るに決まってる」
確かに、分かりやすい木にナイフで目印を刻みながら来た。妖精の住処として木は、まあ、普通か。妥当なところか。黒髪と言えど想像力は人並みらしい。
「……俺を馬鹿にしてるだろ」
「いえ! そんなことは、決して、」
ありませんとは、言えるような、言えないような。微妙なところだった。
「信じる信じないは勝手だけどな。あんたを追い返すのが俺の仕事だ。ほら、このままだと森で一晩過ごすことになるぞ」
確かに、あれだけ高かった太陽が降りてきて、影が随分伸びてきた。行きにかかった時間を考えると、街に着くのは18時を過ぎるのは確実だった。むしろ21時に間に合うかも怪しい。
先を思うと、妖精談議を講じるよりも、この森を抜け出すことが第一だった。
「そうですね、帰らせていただきます。原因はどうであれ、助かりました。ありがとうございます。では、また明日」
まくし立てるように別れを告げ、方位磁石で北東を確認する。不安だけれど、帰るにはこれしかない。
「……仕方ないな。どうやらフランはあんたのこと、気に入ったみたいだし」
少年は私の方を見て瞳を鋭くしている。
「? それって、どういうこと」
ザザザザ、ザザーッ……
いい終わる前に、勢いよく、上から、大量の泥水が降ってきた。
「は!?」
「じゃ、確かにかけてやったからな。無事に帰れよ」
少年は何事もなかったように踵を返し、気付いたら姿が見えなくなっていた。何が起こったのか、分からない。というか、なんで私は泥まみれになってるの? なにがどうなって泥まみれになってるの? この泥水はどこからきたの?
放心状態がしばらく続き、思い出したかのように頭の泥を払い除ける。周りは草木が生い茂っている、普通の森だ。さっきの出来事は白昼夢だったのか? そう思っても、泥まみれの自身が現実としている。瞬きをする度に怒りが込み上げてくる。
「あの、無礼者め……っ!」
何はともあれ、森を抜けなければ。夜の森は恐ろしいのだから。
一歩一歩踏みしめる。森を、土を。街へ、北東へ向かって。
「随分綺麗になったね」
「ありがとうございます。助かりました」
五枚もあったタオルはどれも茶色に汚れてしまった。私が洗って返すと言うと、気にするなと朗らかに言ってくれた。
「それにしたって、どうしてそんなに汚れたんだい?」
散々木登りだとからかっておきながら、おじさまったら。いや、まあ、冷静に考えてこの姿は泥遊びしたとしか思えない。
「私もよく分からないんです。いきなり空から降ってきて……もう何が何だか」
「はっはっは、そりゃあ嬢ちゃん妖精のいたずらだなぁ」
「妖精? おじさま、本気?」
どうも信じがたい。いや、空から泥水なんてことは妖精のいたずらか?
「さてね、ほら。夕日も沈んだし、ガス灯もついてきた。早く帰りなさい。遅くなって母さんを心配させては元も子もないからな」
「……ええ、そうします」
丁寧にお礼をし、いつかお返ししなくてはと心に刻む。かなりマシになった身体で家へ帰る。もうすっかり夜になっていた。
ふと、我に返る。
……私なんで街に着いてるんだろう。なんで18時に間に合った? 行きに半日かかったのに。なぜ自分はここにいるんだろうか。
「ここは妖精の森だから」
「妖精のいたずらだなぁ」
透き通った少年の声が、蘇る。
おじさまの陽気な声が、蘇る。
「……妖精、ねぇ」
訳もなく呟いた言葉は夜の帳が下りた街にそっと溶けていった。