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「お金は絶対に払います! どうかよろしくお願いします!」
街から遠く遠く離れた小さな診療所。もちろん鉄道もなく、馬車も通れない小道をひたすら延々と朝から歩いて、ようやくここに辿り着いたのが昼過ぎ。
下調べがなかったら確実に迷っていた。そしてそのまま日が暮れていたら、と思うとぞっとしないでもないが……私に残されたのはここしかないのだから、仕方ない。そう、仕方ないのだ。
「お願いします、パラケルスス先生! 母が病に伏していていて、先生だけが頼りなんです!」
「そんなこと言われてもなぁ。街医者で事足りるだろ?」
頼りなさげに、面倒臭そうに水煙草を嗜むのはパラケルスス先生。稀代の名医で錬金術にも造詣が深いお方だ。胡散臭いことこの上ないけど、藁をも縋る思いで調べに調べ抜いてここまでやって来た。それと同時に悪魔の頭脳を持つとか、悪魔に魂を売ったとか、妖精の囁きが聞こえるやら見えるやらの随分な評価も目についた。
言葉が通じる方で助かった、と人として最低レベルの期待しかしていなかったけれど。実際に会ってみると金色の髪は艶やかだし、目は綺麗な翡翠色をしていた。少年のような悪戯な表情を浮かべている一方で、年長者の威圧も感じる。年齢不詳との資料があったけど、なるほど分からない。これで医者なんて言われても……ちょっとね。白衣がなかったら街で人気の舞台役者でも通る気がする。天は二物を与え賜うた。まあ、神様だってお気に入りくらい居てもいいか。
「街医者では金額ふっかけてる上に、これは私の手に余るって言ってろくな処置もないんです。民間療法の痛み止めなんて私でも出来ます。そうしてる内に全滅です」
「……中央まで親御さん連れて行けば? こんな辺鄙な医者より役立つだろ」
太陽はまだまだ高いはずなのに、診療所の中は仄暗い。二人だけの空間に、煙だけが自由に揺蕩う。周りを見れば様々な草花が天井から吊るしてあったり、棚いっぱいに瓶詰めにされて並んでいたりしている。街医者では、見られない光景だった。
私はここに来て、正解だったと確信していた。
「鉄道はどうしても揺れるし、その前に感染する可能性があるなら避けたいです。そうなると貸し馬車を頼むしかないですが……お金ないですし」
それにしたって、堂々巡りもいいところだった。何にせよ話の全てがお金がないに収束するのが悔しい。家が没落してなければこんなことには!
「ふむ、お嬢さん。お名前は?」
「エーデルトルートです。エーデルトルート・フォン・バーンスタイン」
私の名前を聞くと、ニヤリと笑った。
「それなりに学があるとみた。あとそれなりの地位もある。でも、それだけだ。金がないんじゃその学だって役立つかどうかだ。世間じゃ金と地位が優先、分かる?」
「……分かってます」
「賢いやり方じゃないな。こんな医者に頼るよりも手っ取り早い方法があるだろ」
分かってる。分かってる。分かってるわよ、そんなこと!
「どっちにしろここは人生相談所じゃないんで、お引き取りくださいな」
「お願いします、先生! なんなら住み込みで働きますので!」
「悪いけどウチ、小間使いは間に合ってんの」
「おい、誰が小間使いだ」
私と先生、二人しか居ないと思っていた診療所だけど、もう一人居たらしい。出てきたのは小柄な少年だった。
「そう言っておきながらちゃんと薬草に水やりしてくれるルドルフが好きだよ」
「お前のためじゃない。お前がいくら阿呆でも薬草は無実だからな」
「毒舌だなぁ……まあ、そういう訳で。コイツさえ居れば大丈夫だし。住むにも狭い家だしね。帰っくれ」
ぽん、と肩を叩かれた少年は大変信頼されているらしかった。身長は私の肩もない、本当にただの少年だ。しいて言えば、レネットの瞳が鋭く光ってて、黒髪に濃紺のローブが仄暗い雰囲気と合間って……、
「え、あっ、黒髪?」
思わず素が出てしまった。
「お嬢さん、黒髪が珍しいかね?」
私の反応をからかうように、先生は楽しそうな表情を浮かべた。
「えぇ、……初めて見ました」
「不穏な噂の絶えない稀代の名医、パラケルススの助手が黒髪なんてイカすだろう?」
「俺は助手じゃない。それと自分から名医とか言うなよ、恥ずかしい」
頭が回らない。一体何が、どうなっているんだっけか? ええと、夏期休暇で、学習院を休んで、ここはパラケルスス先生の診療所で、……一体、なんで黒髪?
「あ、あの、今日は帰らせていただきますが明日も来ますので。どうぞよろしくお願いします」
「返事は変わらないから、大丈夫」
「いえ、必ず来ます。大丈夫です」
食い気味に宣言をし、半ば逃げるようにして、私はその場から立ち去った。……何が大丈夫なんだろうか。道なき道を辿る。太陽がジリジリと身を焦がしている。
黒髪は、一般人と交流は避けられている人種だ。その昔、悪魔と契約した者の末裔と言われている。黒い髪の一本一本に魔力が宿っているとかいないとか。今の時代ではかなり馬鹿げていると思うけど、そう考えるのも頷ける。あの髪は、罪作りな色だ。しかし、それも旧時代の話。今は、高貴な地位が、確固たる権力が、約束されているのである。
「黒髪は、王族だけのはず……!」
あぁ、何か無作法はあったかしら! いくら没落していてもバーンスタイン家の名に泥を塗るのはいけない。明日は一層気をつけて頼まなければ。
それにしたって、パラケルスス先生。かつて薬の斡旋について中央と争ったという話はあるけど、一体どういう事情でこんなことになっているのだろうか……。
「それにしたって、不思議な人達だった」
人としてどこか不思議だった。同じ人という実感がない。雰囲気というか、底知れぬオーラというか。そんなのを見に纏った人達だった。
確かに。私は考えごとがあれば足取りが重くなって友人との会話も覚束なくなる。でもね、だからと言って、
「迷子になるなんて、信じられない!」
確かに迷いやすい道ではあるけど、来る時に目印を付けた木が一本もないのは、おかしい。考えすぎて見落としたかとも思った。気付いて引き返しても、そもそも木が一本もないのだ。これは、おかしい。
パラケルススの診療所は街から南西に続いていたはず。今は北東に向かっているから、いずれは街へ着くだろうけど。来た道と全く違うのはこうも心地悪いものなのか。
『くすくす、』
『くすくす、』
『くすくす、』
ほら、風と一緒に妙な笑い声だって聞こえる。
『見つけた、見つけた、』
『あなた、』
『許さないわ、』
周りを見渡せど、人影はない。
『あなたが殺す、』
『あなたを殺す、』
『あなたは殺す、』
……ええと? い、意外にピンチだったりしそうだけど、こう、姿が見えないので危機感もない。
「あの、殺さないで欲しいのですが」
『ニンゲンのくせに!』
『ニンゲンのくせに!』
『ニンゲンのくせに!』
「まあ、こうなるよな」
上から人影が降ってきた。黒い髪に濃紺のローブがひらりと揺れる。
紛れもなく、診療所の少年だった。