プロローグ
ーー学習院にて
「まいったなぁ……」
私、エーデルトルート・フォン・バーンスタインは先月16になったばかりの非力な女の子だ。勉強だけは人並み以上だと自負している。けれども、明るい栗色の髪に、茶色の瞳と容姿も人並み。特技も趣味も驚くほどなくって、我ながら無個性だ。
家柄だって名前ばかりが立派なだけの没落貴族だし。そう、没落してても貴族なのだ。こんなのでも誇りはあるし、何より誉高くあれとの家訓だ。そこまでいくと、いつもの思考回路がぐるりと巡って、鬱々とした悩みがため息を生み出す。
「ねぇ、エディ。成績見に行こ?」
前の席である友人のカーラが振り返ってきた。長い赤毛の髪がふわりと揺れて、せっけんのような花のような清楚な香りが漂う。ぼんやりとしていた私は、鞄を落とした。身を捻じり、拾い上げながら、
「ええと、いいけど。人混みとか大丈夫かな?」
「さらっと見るだけだもん。平気よ」
屈託のない笑みを浮かべたカーラに引きずられながら、廊下に出た。行き交う人達は夏期休暇前の開放感と充実感に満ちていた。その様子を眩しく思いながらカーラの隣を歩く。彼女の深い藍色の瞳もまた、きらきらと独特の輝きがあった。
妙な居心地の悪さを感じて、早足になる。会話はいつも通りの他愛ないものだけど、いまいち頭に残らない。段々と相槌が雑になり、もはや無反応に近い。そのためか、呆れたように一言。
「いくら結果が気になるからって、上の空すぎ」
そんなのでは、ないのだけれど。訂正するのも何か情けないし、しないにしてもどこか間抜けな話だった。無難にごめんと軽く謝ったら、デコピンの刑がビシリ。
「地味に痛い……」
「兄様の直伝だもの。コツがあってね……」
意外に奥が深いのかも。デコピンへの興味と痛さが合間って、さっきの様子が嘘のように会話が続いている。うーん。それにしたって、痛い。おでこをさすりながらゆっくりと掲示板へと向かう。
掲示板の人混みは、それほどでもなかった。期末考査の結果は既に出ているし、中央の学生でもないので、そもそも成績に必死になる人も少ない。そう考えるとこの人の数も妥当なものだ。貼り出された前期の総合成績の順位を確認する。
上から、5番目。
中央の学生でもなく、家庭教師も居ない、平々凡々な自分には上出来の結果だった。足取りが少しだけ軽くなってふと思う。……我ながら勉強しか能がないなぁ、と。
「エディって夏はなにか予定あるの?」
「予定もなにも。補講があるじゃない。それが終われば特別講習もあるでしょ?」
「あんたねぇ……頭いいんだから希望制の補講も、意味のない教授の趣味丸出しの講習も出なくていいじゃない」
カーラが拳を握って、熱く語る。
「夏、夏、夏っ! 夏なのよ! 何をしたって許されるのに。朝から晩まで、全部自分のもの! そんなのこの先の人生においてまず無いわね。よく考えなさい、今だけよ? 家の名も身分も捨てて好き勝手出来るのって」
「なるほど!」
目から鱗だった。講習も補講も、私には出席しないという選択肢がなかった。毎年出席してきたし、趣味も特技も持ち合わせない自分にとってはありがたいものだった。けれども、家の名前、そして身分……今の自分を縛るものが全て無くなり、その上時間が手に入るのはかなり大きい。
「ありがとうカーラ! おかげで、頑張れそう!」
私は弾けるようにカーラと別れて、炎天下の中で走っていた。
夏期休暇。なるほど、これは絶好のチャンスだ。これを逃せば次の機会はないと言ってもいい。カーラの言う通りだ。権力もない、パトロンも居ない、没落貴族の身分でしかない自分が自由に動ける長い休みなんてこれくらいなのだ。何より、自分には時間がない。
「必ず、」
上を向けば、泣きたくなるくらい高い夏の青空があった。
「助けてみせます。我がバーンスタイン家の誇りにかけて!」
明日から始まる夏期休暇に自らを奮い立たせて、私はひとり家路を辿った。