下宿でうどんすき
今回は観光案内ではなく、ちょっとマイナーな家庭料理をご紹介。
レコードチャイナ。それは中国の情報を発信する日本語の大手サイトである。
そこでしばしば見かける記事が、中国人による日本旅行レポートである。
すなわち「日本では誰もポイ捨てをしておらず道路はとても綺麗で、ところ構わず痰を吐く中国人が恥ずかしくなった」とか、「深夜に小学生が一人歩きをしており、しかもその子どもは誰も見ていないだろうに、きちんと信号を守っていた」とか、「現金の入った財布を落としても、いっさい手をつけられないまま帰ってきた!」とか、「トイレがあまりにも清潔で、しかも子どもが母親に指示されるでもなく、自分で使った手洗い場の水を拭き取って掃除していた」とか、まぁそういった日本を褒め称える発言が結構見つかる。
無論、日本人が翻訳している記事が多いので、好意的な記事が積極的に翻訳されているなどのような事も、しっかり考慮に入れる必要はあるのだが。
だがしかし、大阪人はこんな話を聞くと、きっと素知らぬ顔で目を逸らすだろう。
ポイ捨て。それは大阪では珍しくもない光景。
ところ構わず痰を吐く。それは特に梅田の場外馬券売り場付近ではよく目にする光景。
信号? 言わずもがなである。
小学校の交通マナー講座で、子どもたちはもちろんこう習う。
「青は、すすめ。黄色は、ちゅうい。赤は、止まれ」
そして成長し、自動車免許獲得のために教習所に通い始めれば、道路交通法に基づき、日本国で法律的に正しいとされる、信号の各色の定義を教わる。
「青は、進んでも良い。黄色は、できれば止まること。しかし、ブレーキを踏むとかえって事故を誘発しそうな場合は、そのまま進んでも良い。赤は、止まれ」
だがしかし、大阪の子どもは小学校高学年ぐらいから、大阪独自の信号ルールについて実地で学んでいく。そして実戦するようになる。実践ではない。実戦だ。
すなわち。
「青は、堂々と進め」
「黄色は、全力で突き進め」
「赤は、自己責任で進め」
……これが大阪式の信号解釈である。
東京人を上回り、秒速1.7メートルで闊歩する大阪人に、止まれの語は存在しない。
しかし、赤信号ではねられた者への同情は存在しない。
「確認せぇへん方が悪いんや」
大阪は、人情溢れる町であると同時に、シビアでドライな町である。
観光客に愛想を振りまきながら、うまいこと吹っ掛けて利益を確保する外国の人々を見て、内心で「ケッ」と思った日本人は少なくないだろう。
しかし、日本国においても大阪は、案外とそういう部分の強い地域である。
もちろん、地方からの観光客に対して「あっちで買うた方が安いで」などのように、惜しげもなく裏情報をくれるのも、大阪のおばちゃんの特徴である。
だがしかし、その裏にしばしば、そのオススメした店の主とおばちゃんは知己であり、友の売上アップに貢献することで、次なる取引を優位に進めるカードを増やそう、という計算が働いている、ということまで、頭の回る日本人は少なかろう。
ここまで計算するなんて、大阪のおばちゃんも面倒くさいことをするなぁ、と思ったら、そんなあなたはまだまだ甘い。この程度、大阪のおばちゃんにとっては生存本能にも等しい、有していて当たり前の「機能」である。能力ではない。機能である。
あたかも差し込まれたタイムカードが、その時刻を正確に打ち出すかのように、大阪のおばちゃんは条件反射的にこれらの計算を叩き出す。無意識のうちにである。
だからこそ、「大阪人はそのままで世界に通用する唯一の日本人グループ」なのだ。
大阪。
そこは濃縮されし100%アジア原初エネルギーを保つ日本。
脱亜入欧をとなえた福沢諭吉先生にとって、きっと直視したくない21世紀の日本。
誰もが無視し得ない日本を代表する大都市の一つだが、その大阪を代表する大学の教授によって、褒め称える意味で「日本ではない」と称される、しかし日本。
建前よりも本音を重んじ、理想よりも実益を重んじ、慎ましく三歩下がることよりも、逞しく十歩突き進むことが美徳とされる日本。
発展途上のエネルギーを今も持て余し気味に溜め込みつつ、爆発の気を待つ日本。
ここは中央政府と異なるリズムで呼吸する、日本の中の独立地域。
日本で有りつつ、日本と呼べない、特異なルールを持つ地域。
それが、大阪である。
たとえば、大阪人にとっての敗戦の影響。
無論、臣民の一人としての口惜しさはあっただろうが、占領軍の進駐により天皇の立場が危うくなったからといって、それが町のアイデンティティに影響したかというと、きっとそんなことはなかったに違いない。
古都の京都も帝都の東京も、そのプライドの源泉はすなわちお上に存在した。無論それだけが二都の全てというわけではない。断じて、ない。だが、お上の存在が二都のプライドに大きく影響を与えたことは、おそらく誰にも否定できないであろう。
しかし大阪は違う。大阪は民都である。民衆の町である。お上に従いつつも自らのエネルギーで逞しくもその地位を発展させてきた町である。
大阪に最後に都が置かれたのは、もう千二百年以上も昔のことである。
それ以来、大阪は太閤豊臣秀吉の一時を例外にして、権力の中枢ではなく、あくまでも権力の周辺地域の一つに過ぎなかった。
瀬戸内の水運を生かし、淀川の水運を生かし、八百八橋と称えられた水の都は、そこに生き抜く人々のエネルギーが築き上げたものである。
マッカーサーに揺さぶられようとも、GHQに叩きのめされようとも、大阪の立ち位置は小揺るぎもしない。
大阪は、民衆こそが核心。
大阪こそは、民のエネルギーが明日を導く、人々の都。
そこに暮らす人々の中に、明日を生き抜かんとするエネルギーが存在する限り、大阪が衰えることなどないのである。
そして、大阪に誇りを持ち、逞しくも強かに根を張り、泥臭くも生き生きと笑うおばちゃんが存在する限り、大阪のエネルギーが枯渇することなどないのである。
後期の授業が落ち着きを見せると、3回生の前田ユリには憂鬱なイベントが差し迫る。
すなわち、第1回卒業論文中間発表会である。
研究室によっては4回生になってから行われるのだが、強悪無慈悲と名高い歴史学系研究室に所属する者は、すべからく3回生の後期には、すでに卒論の見通しを立てていなければ話にならないのである。
第二外国語ドイツ語、第三外国語ラテン語のユリが所属するのは、文学部で3番目にハードな西洋史学研究室である。
なお、2位は漢籍講読のために土曜日が潰されてしまう東洋史学研究室で、不動の1位は考古学研究室だ。
考古学研究室。そこは文武両道の選ばれし者のみが集う恐るべき少数精鋭集団。学問のために自分の肉体と頭脳と資金とを惜しげもなく提供する覚悟を固めた者以外は、必ず脱落するという、文学部を代表するエリート集団である。
すなわち、夏休みの大半を、教授引率のもと雀の涙ほどの日給で、昼は発掘という名の肉体労働に捧げ、夜は教授と准教授と助教の熾烈極まりなき論争と仲間のいびきとを子守歌に、寝相という名のストレッチとアトラクションをクリアしつつ休息を確保し、洗濯物を仲間でまとめて洗った結果、他人に自分のパンツを見られるという精神攻撃イベントをもクリアできる、肉体的にも精神的にも鍛えに鍛え抜かれた人々。
それこそが、考古学研究室のメンバーなのである。
ご存じであろうか。発掘のハードさを。
テレビなどでは、土器などにうっすら被さった土を、軍手をはめた手や刷毛で、ササッと掃いて、「これが今回出土した遺物です」などとやっている。
あれは教授のみに許された特権である。
あの、最後の「ササッ」に辿り着くために、学部生たちは炎天下にツルハシを振るい、ガチゴチの岩盤を叩き砕いて目当ての地層まで掘り進める。その凄まじさたるや、眼鏡のレンズに滴り落ちた汗を拭う隙もなく、気が付けば汗に含まれた塩分が結晶化してレンズにこびりつき、洗い落とせなくなって廃棄処分にせざるを得なくなるほどである。
限られた時間で遺物を掘り出すために、教授と准教授と助教は、毎夜毎夜、ここを掘った方が効率がいい、いやそんな所を掘っても何も出ない、いえいえ狙い目はここですよ、と議論を戦わし続け、それがどんなにうるさくても寝なければ必ず倒れる。
考古学研究室が、文学部の最精鋭と言われる理由が、お分かりいただけただろう。
ただし総合戦力では、人数を抱える東洋史が最強である。
「大可汗」と呼ばれる最古参教授の下、各ゼミは優れた機動力を持つ連係プレーを展開する。その結束力はモンゴル帝国級である。
さて、ユリの属する西洋史学研究室の結束力は、神聖ローマ帝国級である。
「教皇」と呼ばれる中世史教授に、「皇帝」と呼ばれる近代史教授、「提督」と呼ばれる近世史教授に、「総督」と呼ばれる現代史教授と、「女神」と呼ばれる古代史准教授。
一つとして地域も時代も重ならず、それぞれが我が道を行く超級個性派集団。
卒論中間発表会を終えなければ、誰のゼミに所属するとも決まらない。
第1回卒論中間発表会は、基本的に教官の助言を受けることなく準備を行い、発表し、そしてボコボコに叩きのめされるイベントである。
「卒論中間発表会」と書いて「こうかいしょけい」と読む。
そしてユリは、自らの語学選択に心底後悔していた。
「女神」ゼミに入るには、第三外国語で古代ギリシャ語を選択していなければならない。「教皇」ゼミに入るには、ラテン語は無論出来るに越したことはないが、フランス語とできればイタリア語も分かるのが望ましい。
残るは三つ。
あまりに拙い内容にブチ切れて発表者の眼前でレジュメを破ったという伝説を持ち、鉄の規律で畏怖を集める「皇帝」のゼミか。
ゼミ生以外の学生にも「時代はグローバルだよ!」と言い、次から次へと凄まじい量の国際関係の課題を出すことで有名な「提督」のゼミか。
とても気さくに接してくれるが、揉め事が大好きで、火のない所に煙を立てて、見つけた火種にはガソリンを注ぐのが趣味の「総督」のゼミか。
悩ましい。
「……人生とは重き荷を負うて坂道を駆け上がらされるが如し」
徳川家康よりもはるかに平凡な人生を送ってきたであろうに、徳川家康よりもさらにハードなことを呟くユリ。
笑ってはいけない。行き詰まって悩むあまりに、大学からどころか人生からフェードアウトする者すら出るのが史学である。
え? 哲学の方が、死人が出そうじゃないかって?
彼らは悩みそのものに向かい合うのが仕事なのであるから、哲学をチョイスした時点で悩みへの耐性を鍛えておくのは必須である。そして悩まずにいられない業を背負いながら、しかしその苦しみをすら楽しめる者でなければ、やってはいけない。
日常生活する上では別に悩まなくても特段支障がないものを、わざわざ悩みにやって来ずにはいられないのだから、死亡率は高くて当然である。
歴史のゼミに来る者は、事実の探求心と知識欲は旺盛な者が多い。
しかし、彼らは「真実とは何か」の命題にぶち当たる覚悟を持たないことが多いのだ。
「いや、ホンマに歴史学はアリ地獄やで。絶対オススメでけへんわ」
大学近くの商店街で、ユリは白ネギを物色していた。その隣では、後輩の1回生、真田アヤが荷物持ちをしている。アヤの持つカゴの中には、消費期限間近の半額シールが貼り付けられた油揚げが入っている。
本日は、アヤの下宿で「うどんすき」パーティーである。
おそらく大阪人以外には、耳慣れない単語であろう。
うどんすき。
これは大阪の料亭発祥の、しかし大阪では一般的な家庭料理である。
昆布と鰹の合わせ出汁に、油揚げと白菜と白ネギ、エノキやぶなしめじなどの茸、そして牛肉とうどんを入れて作る、煮込み料理である。トッピングはお好みで、茸が違ったりなくなったり、白ネギに青ネギが加わったり、春菊が入ったりなど、各家庭ごとの味がある。しかし、合わせ出汁と油揚げと牛肉と白ネギとうどん、は抜けない。
「よっしゃ、コレや」
ユリは、ようやく納得のいく白ネギを発掘したらしい。
「前田さん、ネギにはこだわるんですね」
問答無用で、消費期限間近の半額油揚げを選択した先輩を、不思議そうに眺める後輩。
そんな後輩に、「フッ、分かっとらんな」とばかりのドヤ顔をする。
「油揚げは既製品やから、味に差はない。ほな安い方がえぇ。せやけどネギは出汁の出来を左右するからな、なるべく良ぇモンの方がえぇねん」
「ははぁ」
「うどんは冷凍な! 生は調理が難しいし、冷凍の方がタピオカ入ってて、伸びにくいし歯ごたえが保つ。粉っぽさもない」
言われてみれば、生うどんは少し粉っぽいような気もした。アヤは黙って頷く。
白菜は3割引の4分の1カットを確保。ぶなしめじには少し張り込む。
「あれ? エノキは?」
真田家のうどんすきにはエノキが入る。
「細いのが歯ァの間挟まったら、めんどいやん」
にべもなく切り捨てるユリ。
合わせ出汁は、出来合いを一袋買い、残りはほんだしと昆布だしのもとと醤油を組み合わせて自作するのが、ユリのやり方のようである。
美味しさと安さを同時に追求する買い物を終えて、二人は戦利品をぶら下げつつ、アヤの下宿へと向かう。
本日のうどんすきパーティーの参加者は、あと二名。
ともに兵庫県出身、ただし片方は現在大阪府民。姫路生まれ尼崎育ちの後藤トモと、神戸出身豊中育ちの明石リナである。神戸なのに明石とはこれいかに、と言って、にっこり微笑まれた恐怖は、アヤの記憶に新しい。
下宿前に、二人は先に来て佇んでいた。
リナの手には、たんまり牛肉の入った袋がある。
「ほな、やろか」
満足げに鍋奉行の顔を見せたユリの声で、三人も行動を開始した。
台所にはユリが立つ。1DKのささやかなアパートだ。二口コンロだが、何をどう言い繕っても、狭いの一言に集約される程度の面積で、二人以上はとても入れない。
metamorphose temps de filleの別珍のジャケットを脱げば、Innocent Worldの黒のケミカルレース・ブラウスに、Victorian maidenの黒地に灰色の薔薇柄が入った、厚手のジャンパースカート。その上に、持参した生成のフリルエプロンをつけるユリ。
「なんかメイドっぽいなぁ」
遠慮ない本音を洩らしたトモの肩を、アヤとリナは満面の笑みで両側から叩く。
アヤはVictorian maidenの人気定番商品、マリーローズジャンパースカートのボルドーに、Innocent Worldのブラウスを合わせ、薄手のタイツを穿いている。いつもはブラウスは生成なのだが、今日はちょっと趣向を変えて黒である。タイツは黒地で、サイドにトランプのマークがボルドーで入ったものだ。
リナはATLIER BOZの、少し修道女っぽい白いカラーのついた黒のワンピースに、天使柄のプリントの白っぽいタイツを合わせている。
そう、アヤとリナは、ユリも含めて似通った服を好む同志なのである。
「トモちゃん、それは禁句よ」
リナがうふふと、アヤに多大なプレッシャーを与えた例の微笑みを浮かべる。
「そうやで、前田さんは自分の主人ではあっても、人の下にはつかへん人やもん」
アヤが、この先の研究室でのユリの運命について、蓋をした発言で追い打ちをかける。
「や、ちょっと思っただけやから!」
せっせと弁解するトモは、全身だいたい黒である。銀色の十字架のアクセが目立つ。
後藤トモ。真田アヤ。
二人は学籍番号が隣り合わせである。
そして入学説明会で前後の席になった二人は、適当にお喋りをした結果打ち解けた。
つまり、アヤのクラシカルロリータ・ファッションが話の発端になり、ちょっとゴシックな感じを好むトモと同じ雑誌を読んでいることで盛り上がり、最後に、二人ともこの年度で二十歳になるという事実が判明して意気投合に至った。
その時点で、アヤのロリータ歴は数ヶ月足らず。トモのゴシック歴はそれよりも短いという「初級者同士」であったことも、二人が仲良くなった一因であろう。
ちなみにリナは、ユリの高校の同級生である。
アヤはユリを介してリナと知り合い、トモがアヤを介してリナと知り合って、四人で行動するようになったのが、先の夏休みの話である。
そしてリナが、ユリと元同級生でありながら、一浪して2回生であることが、アヤ及びトモとの連帯感をさらに強化した。
ぶっちゃけると、この四人の中に現役での合格者はユリしかいない。
つまり、3回生という魔境を知っている者は、ユリ以外には存在しないのだ。
ユリは手際よく各種具材を切り、時折味見しながら出汁の出来を確かめていく。火の通りの悪いものから順番に、出汁の中に投じていって、最後にうどんを入れて仕上げだ。
肉は生のまま出汁に突っ込むのもアリだが、そうすると焼き色が薄くなったり、アクが出てきたりするので、前田家では肉は焼いてから出汁に投入するしきたりである。
弱火のコンロに大鍋を移し、強火のコンロにフライパンを載せる。油は気持ち程度にひいておくのだが、本日はリナが牛脂も持参してくれているので、それを使う。
良い香りが台所から漂う中、三人はせっせと情報交換に励む。
リナはすでに哲学に専攻を決定しているが、中学校の社会科教員免許確保のために、ユリの案内で歴史の単位も取らねばならない。さらに、法学部と経済学部の単位も必要である。強悪無慈悲で有名な歴史系講座のうち、比較的楽なものを知るためには、ユリの協力は不可欠だ。なにせ経済学部の授業で、高校以来ご無沙汰だった微分積分が出現し、リナは開発経済学の単位取得を断念したのだから、焦りはかなりのものだ。
同じく教員免許獲得を真面目に目指すトモは、熱心にリナの話を聴いている。
アヤはドイツ語の予習が厳しすぎて、前期で半分近く挫折したが、とりあえず取り返しが効くかもしれないので、時間割表を出して計算をしている。
「今はめちゃくちゃハードやと思うけど、とにかく1回生のうちに教職教養は取れるだけ取っとかんと、2回生から専門の単位揃えていかなあかんから。専門の単位を揃えたら、卒業要件は余裕でクリアやから、免許取得を主眼に据えてれば間違いあれへん」
時間割表を覗き込み、アヤは「うわぁ」と呻いた。
教職教養の授業は、基本的に5限と6限に入っている。アヤが挫折した教育哲学と教育社会学と教職教育論を取り直そうと思うと、2回生は地獄の有様になりそうである。何せ2回生はまだ語学が週に4コマある。
最大の難所と言われる、総合演習の単位だけは、なぜかきっちり取ってしまったので、なおさら悩ましい。
「あー……学芸員資格だけに絞ろうかなぁ。教員免許も頑張ろうかなぁ……」
そんな呟きに、リナがばっさりと容赦のない切り込みを入れた。
「博物館実習がヤバいらしいけどね」
らしいデスネー、とアヤは力なく笑う。伝え聞く伝説によれば「あなた方は足手まといです」の一言からスタートしたという。
「教育実習で、校長に開口一番『教育実習は現場にとって迷惑です』て言われたケースもあるらしいけどねー」
反撃にもならない切り返しをすると、リナの顔色が不意に変わった。
「あっ、実習で思い出した! 介護実習の申込用紙!」
3回生にやる介護実習は、2回生の後期に申し込みをする必要があるのだ。締め切りの迫る申込用紙を、大慌てで鞄から取り出し、リナは記入を開始する。
「トモも介護実習行くっけ?」
アヤの問いに、うーん、とトモは首をひねる。
「迷っとうね。今のところ高校免許だけのつもりだったけど、中学免許もあったら、中高一貫の私立への就職が狙えるし」
「兵庫は私立強いもんねぇ」
「大阪も私立多いやん」
トモの指摘を、ハンッ、とアヤは鼻で笑った。
「数はあるけど、平均偏差値出したら、兵庫の圧勝やろ。大阪の私立は部活メインが多いんやで。帰宅部出身のうちはお呼びやないやろー」
それに、と、アヤは身も蓋もないことをぶっちゃける。
「大阪の教員の給料て、全国で一番安いねんで。めっちゃハードやのに、残業代も出ぇへんのに、土日も部活で潰されるのに、ほぼ手弁当のボランティアまみれやねんで……知れば知るほど、なんかアホらしなってきた」
大阪の教育界が色々ピンチだと騒がれているのは、府民なら誰もが知るところである。特に中学校は深刻で、ひどいケースだと辞めた先生の後任が見当たらずに、時間割上はともかく事実上は授業が消滅した例すら報告されている。
「兵庫のセンセの給料も、全国47都道府県中、第46位やねんけどな」
トモも、相当に世知辛い現実をぶっちゃける。
阪神大震災からの復興で資金を使い果たしたため、兵庫県の財政事情も厳しいらしい。もっとも、閑散とした新空港のせいじゃね? という声も存在するが。
アヤはさらなるワガママをほざく。
「かと言って、日本海側特別枠で、京都の採用試験受けるんも嫌やねんな。京都の教育界は、まだ関西の中では良ぇ方らしいねんけど」
京都府教育委員会には、日本海側での勤務を希望する教員の優先採用枠がある。
「なんで?」
「豪雪地帯やん。大阪育ちの私に、運転できるわけあれへんわ」
大阪府は瀬戸内式気候で、滅多に雪が降らない。無論、奈良に近い四条畷市などの生駒山脈近辺や、千早赤阪村などのような河内東部は別だが、とにかく大阪は雪に弱い。積雪5センチで交通網が混乱し、10センチで麻痺状態になる。
除雪車?
十年に一度しか雪が積もらないと言われる大阪市に、そんなものはない。
「それ言われたら、ウチも豊岡とか香住とかやったら自信ないわ」
トモも瀬戸内式気候育ちである。ただし、兵庫県には抜け道がある。
「ま、神戸受けたらえぇだけやねんけど」
鍋奉行ユリが、うどんすきを抱えてやってくる。
アヤは、先日の北浜レトロで購入した、可愛い薔薇柄の鍋敷きを、コルクの側を上にして座卓の真ん中に置いた。
「なんで?」
普通は滑り止めを兼ねてコルクの方を下にしないか、と暗に問うたトモに、アヤはあっさりと「焦がしたらもったないやん」と回答した。
可愛いはアヤの正義である。可愛いモノを可愛く保つためには、多少の常識は破る。
「書けた~」
そろりそろりと、慎重にボールペンを使っていたリナが、書類を高く掲げる。
「ようし、ほな全員揃ったことやし、いこか」
トモが持参していたペットボトルの烏龍茶の蓋を開いた。そしてユリが研究室から失敬してきた紙コップに、それぞれ注いで回る。甲斐甲斐しいことである。
牛肉提供者のリナと、会場提供者のアヤは、それぞれコップに茶を受けながら、湯気を上げるうどんすきに視線が釘付けである。
全員が茶を受け取り、割り箸を手にすると、せーの、で合わせたように四人の声が重なった。
「いっただっきまーす!」
ぱきん、ぱきんと割り箸を割り、遠慮無く食い箸を鍋に突っ込む。もちろん取り分け用の箸を用意するのが正式な作法ではあるが、四人の意見が揃って「面倒くさい」で一致したので、思い思いに箸を入れ、鍋から取り皿に具を移す。
「ユリちゃんのうどんすき、相変わらず美味しいわぁ」
リナがふふっ、と顔を綻ばせる。
「半分以上は、明石の持ってきた肉のおかげやと思うで」
リナは三人を「ちゃん」付けで呼ぶが、ユリは三人とも名字呼び捨てである。
「後藤も、ペットボトル重かったやろ。おおきにな」
大きな肉の塊を、トモの取り皿に突っ込みながら、ユリはねぎらいの言葉を述べる。
「いえ……」
「前田さーん、荷物持ちした私は?」
ユリはアヤの取り皿に、無言で白ネギを突っ込んだ。
「ええ~っ?」
抗議の声に、ユリはぼそりと呟く。
「自分から言わんかったら、褒めたろかと思ってんけどなぁ」
ぶっ、とリナが噴き出した。
「ユリちゃん、そういうとこ変わらへんよね」
さて、話題は専攻決定の話に移る。
「教員免許取得を視野に入れるんやったら、考古は除外やな。過労死出来るで」
ユリが滑らかな箸捌きで、隙間から覗くうどんを引き抜きながら言う。
「自分としては、英語のつもりなんですけど」
「ほな、一番効率良ぇのは英文やな。仏文と独文でも問題ないけど」
はい、と頷くトモは、妙に歯切れが悪い。
「せやけど、中国語の免許も視野に入れたいんですよ」
その一言に、ユリとリナは目を合わせる。
「そらまた、ごっついな……中国語の免許やったら、東洋史か中哲(=中国哲学)やけど、まぁ正直、東洋史はおすすめせぇへんで。西洋史よりハードやもん」
ユリの言葉に、リナも頷く。ちなみに中国哲学、なぜかインド哲学とは違って、単位が教員免許の必要要件に入っていない。うっかり前期で選択して、後で対象外だと知った時のリナの衝撃は、なかなか的確に形容する語が見つからないほどであった。
「なんで中国語?」
アヤの質問に、神戸狙いやから、とトモは答える。
「中華街とかあるやん? 華僑の子とかおるやろうし、中国語出来て損はないやろ」
そう言われれば、そんな気もする。
「本気で中国語の免許取るつもりやったら、中哲プラス東洋史やな。中哲は講座数が少ないし、東洋史の漢籍講読は白文の読解がめちゃめちゃ鍛えられるから、本気で中国語を教えるつもりなら、むしろ取った方が良ぇ」
トモは、眉根を寄せて腕を組む。
「英語の方が採用数は多いけど、中国語をやるんやったら、本気でやった方が就職にも使えるやろ。そういう意味では中哲を推すわ。英文の授業は潜り込みやすいけど、中哲は入門講座以外は相当専門的で入りづらい」
「……ありがとうございます」
組んでいた腕を解き、トモは頷いて、うどんすきに取り掛かった。
「前田さん、私、ラクなのが良いです。っていうか卒論が厳しくないやつが良いです」
アヤの典型的ダメ学生発言に、引きつった笑みを見せながら、ユリは回答する。
「それやったら、日本学やな。学芸員資格狙いやったら、美学と美術史学と文芸学の単位も要るけど、メイン日本学でなんとかなるやろ」
リナが、乾いた笑いを洩らした。
「私、去年、試しに文芸学の入門講座の第一回、覗いたんよね……」
ほほう、とアヤは身を乗り出す。ついでに、肉の塊を取り皿によせる。
「すごかったよ……『Litteraturwissenschaft』って単語の説明だけで、60分も使ったんだから」
「残りの30分は?」
「トイレ行くふりして逃げたわ」
爆笑も収まったところで、ユリがうどんの第二弾投入の準備を始める。
再加熱すると肉が固くなるので、少なくとも肉は全て回収しなければならない。
トモとアヤは、激しい争奪戦を展開し、最終的にアヤが一番大きな塊を確保した。
ユリは台所に戻りがてら、「まだお肉の残りあるから」と一言添えた。
アヤは少し口を尖らせる。どうも、ユリはアヤよりトモに優しい。ような気がする。梅田地下帝国の喫茶店でも、北浜レトロでも、美味しい攻略法は事後伝達だった。今回はうどんすきで事情が異なるとはいえ、ちょっと不満である。
「日本学やったら、ちょっと頑張らないとねぇ」
リナが、ユリとは違うことを言い出したのに、アヤの反応は一拍遅れた。
「……頑張るんですか?」
「日本学って、単位取りやすいって噂が広まって、定員ギリギリの希望者が毎回来るんよね。ウチの年……まぁ去年やけど、抽選になったもん」
それは何をどう頑張っても難しいのではないだろうか、とアヤは思う。
抽選ばかりは神頼みだ。
と同時に、去年落ちてて良かったのかも、とろくでもないことも考える。
「アヤ、顔」
端的なトモの指摘に、ごほんと居ずまいを正す。
「ま、日本学は日本の文化的なものが関係していれば、それがサブカルでも何でも論文にしちゃって大丈夫やし、アヤちゃんならゴシック・ロリータで論文書けそうやけど」
その言葉に、無いはずのやる気が、俄然漲ってきた気がするアヤ。
「それだったら書けます!」
「じゃ、アヤちゃんは日本学狙い一本やね。抽選に備えるなら、倫理学か日本文学を第二希望に入れときなさい。個人的には倫理学がオススメ」
「なんでですか?」
「映像作品を作る実習があるんよ。アニメの作り方とかも教われるし」
「ほな、第二希望は倫理学でいきます!」
ひどいトントン拍子や、とトモが呟いたことは気にしない。
「よーし、日本学専攻に入って、ゴシック・ロリータで卒論だ!」
「参考文献は大丈夫なん?」
トモの指摘に、「ほら、そこはそれ」とアヤは視線を、台所でうどん投入のタイミングを見計らう先輩へ向ける。
「十年選手の前田さんが、大量に関連文献持ってますから!」
「人頼みかい!」
「立ってるものは親でも使う! 当然のことであーる!」
トモの突っ込みに、どどーん、と胸を張るアヤ。
「……ささやかやな。いつも思っとうけど」
「蹴ッ倒すで!」
胸という悲しい真実を告げられ、よよっ、とリナに寄りかかるアヤ。
「ロリータは永遠の少女やから、胸なんかなくて良ぇんや……」
よしよし、とリナはアヤの頭を撫でる。ちょっとシスターに慰められているっぽく見える。ちなみにリナは一応カトリックなので、そんなに間違ってもいない。
トモはそっと話題転換を試みる。
「うちは最近、ちょっとボンテージ系に興味が出とるんよね。まぁお金ないんやけど。ロリータはまだ安いブランド増えてきたけど、ゴスってなんであんな高いんやろ……」
ゴシック・ブランドの代表格、alice auaaは、冬用コートが10万円を突破する高級ブランドだ。神戸に店のあるNa+Hもかなりお高い。
だがしかし、アヤは話の転換には乗らなかった。
「そしてハーネスでそのEカップを誇示するんやな!!」
「最近、Eでもちょっときつい……」
「もげろー!」
わめくアヤを、よしよしよし、と撫でてリナがなだめる。胸囲の格差社会である。
「いや、少女いうか、お子ちゃまやな」
台所から、ユリの容赦のないとどめが飛んでくる。
「私だってですね、こう、育ってるんですよ! いろいろと!」
「ラクして卒論書きたいとか抜かすヤツの、何が育っとるっちゅーねん」
「まだ1回生ですもんね!」
「グダグダしとったら、4回生なんかあっちゅう間に来るで」
あ、と思い出したように、リナが割って入る。
「卒論って言えば、ユリちゃん、テーマ決まったの?」
今、ユリがもっとも突かれたくない点を、実に的確についた先輩を、アヤは勝手なサムズアップで褒め称えた。
「いやー、大英帝国で行こうと思うんやけど……真田、何やねんその指は……個人的に気になるヴィクトリア朝は嫌になるほど先行研究があるし、その他の分野になると、ねぇ……オーストラリアもぼちぼち掘り返されてるし、カナダはフランス語要るし、香港なんか東洋史の先生にも顔つなぎ要るし」
人生楽ありゃ苦もあるが、史学は落ありゃ苦もあるさ、だ。
「まぁとにかく、先輩に聞きながら戦ってみるよ。卒論中間発表だけでも憂鬱なのに、その後にもイベントあるからねぇ」
何のことだろう、と顔を見合わせるアヤとトモに、ああ、とリナが頷いた。
「ウチは今回見送るわよ。秋の研究室対抗ソフトボール大会」
文学部では、研究室ごとにチームを組んで、春と秋にソフトボールの大会をする。
これがまさに最強が東洋史であると言われる所以である。
大可汗の監督の下、東洋史学研究室所属の学生たちは、土曜日の午前を漢籍講読に費やし、午後をノックと守備練習に費やして、この大会に備える。
少数精鋭過ぎて参加人数が足りないこともある文学部のSWAT考古学に、大人数を抱える二大人気講座、日本学と倫理学とで、文学部四強である。
しかし、このところは東洋史学の一強状態だ。「ベトコン」もしくは「ベトミン」と呼ばれるベトナム史専攻ゼミ生たちの、怒濤の連係奇襲攻撃は大いなる脅威である。文学部でバスターエンドランを仕掛けられるのは、チーム東洋史学だけである。
何の因果か、今年は西洋史学の卒論中間発表会の翌日が、ソフトボール大会なのだ。
ちなみに2回生と3回生に、基本的に参加拒否権は存在しない。何故か毎年法事に出かける学生もいるが、全員参加が原則である。
説明を受けて、二人は「ああ」と最近の異変を納得した。
先日、文学部棟を闊歩していた、金属バットを持った筋骨逞しい人物。あの人物こそ、東洋史学研究室の頂点に君臨する、「大可汗」だったのだ。
そして文学部棟近辺で、やけにキャッチボールをする人間が増えている理由も。
「良ぇよなぁ、哲学は棄権できて……ウチなんか『総督』がやる気満々やで」
ユリは、仕上がった第二弾の鍋を座卓に置くと、おもむろにトモに視線を向けた。
「なぁ、後藤……」
「なんですか?」
「自分、運動神経むっちゃ良かったよな? 助っ人で入ってくれへん?」
「西洋史は行かないですよ!」
今のところ、トモの気持ちは中国哲学に傾いているのだ。
「良ぇねん! 友達の友達とか言うて、他大学の生徒とか勝手にメンバーに突っ込んだ人もおるから! ちょっと人助けやと思うて!」
「ええー?!」
研究室対抗どころではない不正行為(?)の発覚に、2回生のはずのリナからさえ驚きの声が洩れる。
「ユリちゃん、ちょっと、それはさすがにマズイんじゃ……」
「バレへんかったら良ぇねん」
めちゃくちゃなことを堂々と言ってのけるユリ。
「いやいや……」
たしなめようとするトモに、むしろ! と高らかにとんでもない宣言が続いた。
「バレても良ぇねん! って言うたの教授やから!」
一瞬の沈黙の後、ぶはっと誰ともなく吹き出し、爆笑が座卓を囲む。
「諸悪の根元がまさかの……」
リナの囁きに、いやいや、とユリは弁明をする。
「いやいや……やって『総督』無茶ぶりすんねんで? 『東洋史は練習をして勝つ! 西洋史は練習しないで勝つ!』とか」
あっ、とユリが失言に気づいた時には手遅れだった。
振り向けば、ニコォッ、とアヤが不吉な微笑みを浮かべている。
「へー、天下の西洋史学研究室に、そんなセンセイが……」
楽して卒論を仕上げたいアヤにとっては、思いがけぬ同志出現である。
「言うとくけど、教授は別格やからな!」
「いやいや、それは二枚舌でしょう」
ニヤニヤと迫るアヤを、「でもアヤちゃんじゃ役者不足よね」と、リナが華麗に叩ききった。しかしアヤはめげることなく、もくもくと肉を回収するトモの箸を綺麗にかわし、肉の確保にいそしむ。このぐらいでへこたれる軟弱ではないのだ。
「っていうか、そんなに戦力が欲しいんなら、参加してあげても良いですよ?」
妙な上から目線で、アヤがそんなことを言い出す。
話題転換なのは分かっているが、それより気になることがあるので、ユリは乗った。
「自分、帰宅部やったよな?」
「100メートル13秒ちょっとです」
そのセリフに、ユリは目を瞬かせ、脳内の計算機を稼働させた。
「……球は打てるんか?」
「ファールにする程度なら、たぶん」
「フォアで進塁できるな……ほな真田、西洋史で参加して!」
矛先が変わってホッと一息ついたトモに、しかしユリの変化球は直撃した。
「後藤も!」
「えええっ?!」
驚きのあまり手を止めた瞬間に、最後の肉がアヤの手に陥落する。あっ、と思った時にはすでに遅い。その悔しそうな顔を見逃さず、ユリが攻撃を追加する。
「参加してくれたら、超美味い喫茶店でおごったるから!」
甘言に釣られて、トモは西洋史チームでの参加を決意した。
……ところで読者諸氏は、この章冒頭部の大阪談義を憶えておいでだろうか?
ユリがまさに「大阪のおばちゃん候補生」であることを鑑みて、彼女の無意識の計算を解き明かすことは、多分そんなに難しくないはずである。
そしてユリのこの発言につけこんで、自分にもお茶をおごるように要求し、ちゃっかり勝ち取るアヤもまた、まぎれもなく「大阪のおばちゃん候補生」なのだ。
「ごちそうさまでした!」
信号の大阪ルールは、一応、話半分でお願いします。
昔は「三列駐車」という不法駐車ルールも有名だったんですが、最近は取り締まりの強化で見なくなりました。不法駐輪は相変わらずですが。