第三話 曇天開けて Ⅰ
朝、目を覚ますと、体中に薄く汗をかいているらしく、パジャマが汗で張り付いて、不快な感触がしていた。
立ち上がって、カーテンを開ける。カーテンレールが滑る硬質の音がして、光が溢れ出す。目を細めるものの、しばらくするとそれも気にならなくなる。
二回の窓から見下ろせば、ここ数日でそれなりに見慣れたアイビスの街が広がっている。行き交う人々、活気に溢れる入り組んだ通り。
「…よし、と」
おそらくこの街ではかなり遅めであろう伸びをして、私は街へ繰り出すべく支度を整えるのであった。
予想通り、今日もアイビス十三号通り…商店街の一画は今日も、食料や衣服などを買い求める人々であふれかえっていた。
「今日は…うーん、できれば地図とか保存食とかを確保できるといいのだけれど…」
リストを見ながら、自分の記憶に定着させるために、意識して声を出す。それから顔を上げて。
「…でも、今日もあそこに入るのかぁ…」
溜息を吐く。視線の先では、既に無数の人が忙しく押し合いながら、通りを出入りしていた。
私がこの町に来てから、これで四日目になる。私の街からここまで到着するのにはさほど時間がかからず、夕方頃には到着していたのだが、そこから宿を探すのに一苦労。必死に探し回って、老夫婦が開いていた小宿の空きをなんとか見つけたころには既に日が暮れてしまっていた。
そんなわけで、商店街に突入できたのは二日目だったのだが、やはりというか、人の動きはすごいもので、ちょっとバランスを崩した隙に巻き込まれて、気づいたときには路地裏の怪しい店に…なんてこともザラだった。
それでも何とか慣れてきた後半や三日目。幾つかの必需品は揃えることができたが、よくよく観察してみると店によって相場がまちまちで、気づかぬうちに損をしていることがかなりあった。木霊から貰ったお金は予想していたよりは多かったようなのだけど、それでも稼ぎの手段が思いつかない今、あまり無駄に消費するわけにはいかない。そんなわけで結局昨日も相場を調べたりしているうちに結局昨日も終わり、四日目の今日、やっと本格的に買い物を始めることができる、というわけだ。
…もっとも、本当に目的の物をそろえられるかどうか、と思うとそれも怪しいところなのだが。
とはいえここで弱気になっても仕方がない。気合いを入れなおして、私は人の波に突入するのであった。
飲まれることなく歩くのには多少の集中を要するが、人の流れさえ見ていれば歩くのはさほど難しくない、と気づいたのがついさっきのこと。気づいてしまえば何のことはなく、ヒトの動きに合わせて進んでいるだけで良いとなれば、余裕も生じるというものだ。
そうしてできた余裕を使って、私はひたすら沿道の店を眺め続けた。こうしてみてみると、探していた旅具のほかにも、民芸品だとか色々なものが売っていることがわかる。
「…へぇ…今日まで気づかなかったわ。」
余裕がないというのに、綺麗な石だとかが埋め込まれた道具なり、髪飾りやネックレスなどなど、どうしてもそういうものに目移りしてしまう。
「……って、へ、うわっ!」
気を取られた隙にペースを崩してしまったようで、足が絡まってよろめく。とたん、違う流れに合流してしまい、気づいたときには既に自分がどこにいるかわからなくなっていた。
「…調子に乗っちゃだめ、ってことかしらね…」
また裏路地を眺めて、深く溜息を吐いてしまった。
結局夜まで買い物をしつつ、気を取られた隙に、転んだり、巻き込まれたり、道に迷ったり、何かとひどい目にあった。それでもある程度買い物を済ませることができた、ということだけは僥倖だったのかもしれない。
そんなぼろぼろになった状態で、私は旅館へと戻ってきた。
「あ、氷雨さん、おかえりなさい!」
玄関周りの掃除をしていた若女将が私に気づいて声をかけてくれた。裏のなさそうな純真な笑み。経営者の夫妻の一人娘であるというこの子。私と同じか少し上、といった見た目でありながら、これで料理以外のほとんどを一身に請け負っているというのだから恐ろしい人だ。
「あ、ただいま…。」
「…?お疲れですか?お食事の用意を致しましょうか?」
「いや、いいわ。荷物の整理もあるし…もう少ししたら、改めて頼みに来る。」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
本当にしっかりしている。私に一礼してからカウンターの奥に引っ込んでいく。何か帳簿のようなものに記録をつけているようだ。それを横目に見ながら、私も自分の部屋に向かっていく。
そういえばこっちの世界でも数字や語呂合わせの理念というのは変わらないようで、やっぱり『4』や『9』を含む番号の部屋は存在していなかった。そんな些細なことに、私は少し安堵を覚えるのだった。
そんな私の宿泊している部屋は、飛ばされて四番目にある、一階の五号室。ドアを開けて部屋に入る。背負っていた荷物を置くと、床に布団が用意されているのに気が付いた。
「はぁぁぁぁぁ…」
そのまま倒れこむ。そのまま、というのは少し気が引けたが、柔らかい感触に包まれるうちに、なんかどうでもいいか、という気分になった。
ゴロンと仰向けになって、天井を眺めながら思考を巡らせる。
今日買えたものだけでも、まぁ、大体の部分はどうにかなるだろう。宿泊費用はかさむし、あまり長居もできない。しかし旅具が不足していると旅先で何が起きるのかわからない。とどまるべきか、それとも多少のアクシデントを覚悟してでも動くべきか。
…だめだ、答えが出そうにない。
「はぁ…どうしようかな…」
そういえば確か、料理の支度ができているとか、そんなことを言っていたような気がする。
…まぁ、このまま考えていてもラチが空かないか。
「あ、氷雨さん」
ロビーに戻ってくると、若女将はまだカウンターの向こうにいた。事務仕事かな…と思ったけど、向かいには長身の若い男がいたので、多分チェックインの手続きだろう。わざわざ割り込むのもどうかと思うので、適当な椅子に座る。そうしていると、他に音のしない空間であれば自然と会話が聞こえてきてしまうものだ。
「あ、申し訳ありません。手続きが途中でしたね」
「いや、構わないよ。君も一人じゃ大変だろう?」
…うわ、結構苦手なタイプ。
まぁ、女将の方は鈍いのか慣れているのかあまり反応をしていないみたいだが。
「いえ、今はまだ大したことはないですよ、本当に忙しいのは…いえ、失礼しました。それより、失礼ですが、そちらの刀はいかがいたしましょうか?」
「ん?あ、ああ、これか。そういえば忘れていたね。…そうだなぁ。それほど高価な品でもないし、預かってもらえるかな?」
…刀?
言われてみると、彼は背中に長い何かを背負っていた。言われるまで気づきはしなかったが、そう言われてみると、突き出した長い柄や、特殊な形状の鞘らしき部分から見えている刃先がその正体を主張していた。
刀身は、一般的な日本刀の細長いフォルムではなく、平べったく延びた形状。とすると西洋刀だろうか。よくよく見ると微かに湾曲しているように見えるが細かいことはわからない。
そして一際目を引くのが、その異常な鞘の形状だった。
まず、鞘が太い。普通の物は、丸みを帯びて、大体二回りほど刀身より大きい物だと思うが、あれはさらに一回りほど大きく、まるで長方形の箱が刀を覆っているような見た目だ。そして、所々に空いた穴から、歯車や刀身が微かに見えている。ただの飾り…というにはいささか仰々しいが、一体それが何に使われるのかが想像できない。
もう少し観察していたかったが、彼が背中からそれを降ろして女将に渡してしまったためそれ以上の観察はできなかった。
「おっと、お、重いですね…はい、確かにお預かりいたしました。では、お部屋の鍵はこちらになります。」
刀を脇に置いた女将が代わりに鍵を渡すと、それで手続きが終わったようで、男も部屋に向かって歩いていく。その途中で視線が合う。
「あ、君、ごめんね。何か用事があったんだろう?」
「…いえ、気にしないでも大丈夫です。」
初対面の人に話しかけられる、というのはどうにも慣れていない。つい目線をそらしてしまう。
「…ん?…君、まさか…」
そこで、男がなにやら訝しげな声を出していることに気づき、顔を上げた。近くに寄ってきていた。遠目で見たよりもかなり背が高く、上から見下ろされているという威圧感につい息を飲んでしまう。
「……あ、ああ、ごめん。急に見つめるなんて失礼だよね。」
口説くつもりだろうか。早々に断って立ち去るべきだろうか。そうも考えたが、どうも、どこか真剣さを帯びた彼の目が少し気にかかった。
何かを考えるように顎に手をあてて黙っている男。それから不意に、
「…ごめん、ちょっとだけ、失礼するよ。」
「……え?」
気づくと、右腕を取られていた。
「な、何、して…!」
顔が熱くなる。だが対照的に彼の顔は真面目で、すぐに私も冷静さを取り戻す。
ばちばち、と空気を割くように、静かな空間に響き渡った。
最初は、若女将が何かをやらかしたのかと思った。だが別に焦げ臭い匂いも、煙も、何も見当たらない。とするといったい何だろうか。灯りは大体が火か、大きいところには魔法を使ったりしていると聞いたが、それらもやはり特に異常は見られない。なら何が…と考えたところで、音の源がさほど離れていないことに気づいた。
視線を戻す。
…と、そこでようやく音の正体がわかった。と、言うより、わかってしまった。というのも、目の前の男の手が、帯電して青白く光っていたからだ。
呆気にとられている私の前で、彼の突き出した指先が私の手の甲に少しづつ近づいていく。
「……っ、え、ちょ!?」
はっと我に戻った時には既に幾ばくの猶予も残っていなかった。手を引くことも、咄嗟にやめろとも言えずに言葉に詰まる。動きが妙にスローに見えるようなその恐怖の中で、私にできたのは結局、目を瞑ることだけだった。
死ぬのだろうか。いやそれとも気絶させられて何かをされるのだろうか。何故天照はこんな世界に連れてきたのだろうか。
しかし、現実に訪れたのは、思わず手を引いてしまうほどの、つまりはそれだけの痛み。
これは…静電気?
「…っと。」
強く引かれた私の手を、それでも尚離さないままの男。
「ちょ、ちょっと、何のつもりかわからないけど、もう済んだでしょう!?放してくれない?」
「お、っと、ごめん。もう確認は済んだし、大丈夫だよ。ありがとう」
再び我に返って、手を振りほどこうとする。今度は男も抵抗せず、あっさりと手の自由を取り戻すことができた。わずかに顔が熱くなっているのを自覚する。そんな私に、男はなにやら意味ありげな笑みを浮かべた。
「僕は、不知火。何でも屋…というか、ちょっと目的があって、小さな商売をしたり、護衛とかその日できる仕事で稼ぎつつ旅をしてる。ここで会ったのも何かの縁だろう。宜しくお願いするよ―『天照』の御使いさん?」
―その言葉を聞いたとき、私は時が止まったような気がした。
「な、何で、あなた、…っ」
「話は後だ」
鋭い声で止められる。
「大体の事情は察してる。人前でできる話じゃないのも。またあとで合図する。今は信じて」
耳元に顔を近づけ、早口でまくし立てる。
それから、
「いやぁ、つい見惚れちゃったよ、悪い癖でねぇ、いや参った参った」
などと快活に笑って去っていく。
呆然とその背中を眺めていた私は、けれどそこに何か怪しいモノを見たような気がして、けれど先ほどの男の言葉も、ただ嘘と流すにはあまりにも正鵠を射すぎていた気がする。
(合図…何かはわからないけれど…話はした方がいいかもしれない。警戒は解けないけれど。)
無意識に右手の甲をさすりながら、私は覚悟を決めていた。
しかし、結果から言うとその決意はあまり役に立たなかった。数時間後、部屋に戻ろうとしたその時に鳴り響いた、けたたましい音が静寂を破る。
「…っ!?」
咄嗟に辺りを見回すと、私の他に唯一、ロビーに残っていた若女将が頭を押さえながら、苦しそうな声を絞り出していた。
「結界が、破壊、された…!何かが、来ます…!」
果たしてその言葉通り、ドアの向こうから現れた紅色の光が、戸口の一帯を粉々に粉砕した。
と、言うわけで今回もなんとか投稿できました。
それなりの文字数書けたので満足…でしょうか?
誤字修正、詠み仮名、細かな手直しなどは後日行っていきます。
引き続き、宜しくお願いします