第二話 それは花開くように Ⅰ
おそくなりました!
ぎし…ぎし…と、木製の船が揺れて軋むような音が耳に心地よい。…という比喩を船に乗ったことなどないのにも関わらず使ってしまうあたりが、俗物に染まった現代人の悲しいところかな…なんてことをふと思った。
そんな平和なまどろみもすぐに離れて行ってしまう。こうして何も考えずいられるこの時間の、どれだけ尊いことか。目を開けば、また…
―周りを、自分を騙し続ける日々が待ち受けているというのに…
それでも、私のことを思ってくれている数少ない人を悲しませるわけにはいかない。なによりここで折れたら本当に自分が蒔けるような気がして、そんな小さな維持から、薄皮が張ったようになり重くなった瞼をゆっくりと開く。
木の天井と染みついた生活の匂いが私を迎えた。身体を起こしながら、微かに差し込む日差しを感じて伸びをする。あるいはそれは自らを奮い立たせる手段だったかもしれないが、そのおかげで覚醒した私の意識が漸く違和感の端を捉えた。
―いや
違和感なんて言ってる場合じゃない!
天井―うちは木張りじゃない!匂い―誰かの生活の匂い!日差し―カーテンが厚いせいで日はそれほど差し込まない!
それだけじゃない、今私が寝ているここ…ベッドと布団、これだって違う!
(嘘…!嘘でしょ!?誘拐!?)
思考がぐるぐると回る。まさか自分がこんな目に合うとは、いや今は周りを確認、いやそれより早く逃げなくては、どうやって!?
―ギシ
(……嘘、でしょ?)
少しだけ大きく音を立てて、軋む音が消える。ここにきて、今更手遅れという状況になってようやくこの音の正体に気づく。
(気づかれた!)
ギシ、ギシ、ギシ、と足音が徐々に迫ってくる。
(お願い、来ないで…!)
その願いも空しく、足音は一直線に近づいてくる。そして、ドアの取っ手が動く…
「ん…おや、目が覚めたみたいだね」
果たして、そこに立っていたのは、髪を短くそろえた女性だった。
問うことは沢山あった。ただ、下手に刺激したらどうなるかわからない。どうしよう、という言葉だけが頭の中で空転する。
遅れて、彼女の視線がこちらの顔を直視する。その視線に怯み、冷汗が流れ出す。それを一瞥して、彼女は少し考えたのち視線をそらして溜息をつき、何事かつぶやいた後ぶっきらぼうに
「そんなに驚かなくても、別に取って食ったりはしないよ。行き倒れてたのを助けただけだしね…ほら、いつまでそうやってる気だい?」
行き倒れ、助けた、と。そういえば何かを忘れているような気が。いや、それよりもそうやってるって言うのは一体。
見れば、私は身を隠すようにシーツを持ち上げたまま固まっていた。
「やれやれ、初見受けがよくないのは知ってたけど、まさかここまでとはねぇ。」
大げさに二度目の溜息など吐かれる。
「あ、いや、違うんです!決して怖かったとかそんなのじゃなくて!」
「ふぅん、…要するに怖かったんだね」
あたふた、と慌てる私を見て彼女は面白そうに口角を釣り上げる。
「冗談だよ。…ま、いきなり妙なところにいたら驚くのも無理はないさね。
あたしはサチって言うんだが、あんたは?」
「…氷雨って言います」
相手のことは未だによくわからない。ただ信用に足るかどうかはさておくにしても、それほど悪い人ではないのかもしれない。
「ふぅん…で、どーしてまたあんな変なところでぶっ倒れてたんだい?」
「変なところ?」
そうだ、さっきも「行き倒れ」という言葉が引っかかっていた。
「…そうだ、行き倒れたって、私、何で、いや、そもそもここは…?」
そう、そもそも一日の始まりが、自然な目覚めだったこと、その通りに、そもそも外へ出たとかそういったことはなかった…はずだ。
だというのになぜ―
―私は、行き倒れていたのだ?
「っ―」
やはりこのサチという女性を、どこまで信用していいのかわからない。
対して彼女は意味ありげな目を寄越した後、顎で自分の入ってきた扉の方を指す。
「―見てみるかい?」
逡巡の後、小さくうなずいてベッドを抜け出す。
開きっぱなしだったドアを抜けて、さらにその奥の廊下を進んでいく。
ギシ、ギシ、と、足音に呼応して軋む床。小さかった喧噪の気配が少しずつ近づいて来る。
私の手は自然と心臓に当てられていた。そこで高鳴る心拍を強く意識して―そして、隅から光の洩れる、最後のドアをゆっくりと―開く。
閃光が目を灼いた。
直接差し込む日差しは目を覆ってもまだ眩しく、顔を背けてしまう。
それでもそこに夏のように不快な感じは一切なくて、だから慣れるにしたがって、目をちょっとずつ開いていく。
そのとき、私が見たものを説明するのは余りにも難しいことだった。
どこまでも高く澄んだ蒼空。遮るものが何一つない日の光。そして、賑わう街と行き交う人々。通りは広いが舗装はされておらず、木造りの店で人が声を張り上げている。
それはまるで、教科書で見た江戸の街のように、原始的で、しかし温かみのある―
―『あちらでは『魔法』が文明の中核を担っています。』
「-っ、あ」
思い、出した。
天照のこと、『鏡界』のこと、運命のこと、魔法のこと、そして―
―紅い魔方陣のこと。
「――ッ!」
思い出したとたんに再び訪れる恐怖。全身が凍結してしまうという異常と、何もできなかったあの時の―
―怖い
―嫌だ、嫌だ怖い怖い怖い、やめてなんでどうしてこんな―!
「ッ―おい!」
背に与えられた衝撃で正気に戻る。全身が異常な量の冷汗にまみれているのを感じる。あと少し遅ければ本格的に狂気に落ちていたかもしれない。
顔を上げる。目が合ったその瞳の中には、心配が浮かんでいる。
もはや、不信などあるはずもなかった。
仮に残っていても、これだけは聞かずにいれなかった。
「―サチさん、聞いてほしいことがあるんです。」
「…ふーん」
一通りのことを説明し終えた私は息をつく。もともとそうそう信じられるような話ではないだろうが、此処が異世界だとしたら頼れる人は皆無に等しい。ならばせめて、と、私のことや天照のこと、そして異常な魔方陣のこと、等を彼女にだけは問うてみたかった。
「要するに、あんたは別の世界から来た、カミサマの使い…ってことでいいのかい?」
「はい…信じていただけないかもしれませんが。」
寧ろ、信じられるわけがない、と思っている。
「―いや、信じるよ。」
「え?」
しかし、現実はそうでもなかった。
「…これ、なにかわかるかい?」
彼女は懐から棒を幾本か取り出した。名前は知らないが、しかしどこかで見た覚えがある。確か…
「占い、ですか?」
「正解。
あたしはここで星詠みの仕事をしてるのさ。…多分あんたたちのところの占いとは原理が違うだろうけどね。おかげでほぼ必中さ。
…ところが、こいつが数日前から上手く動かなくなっちまった。」
彼女が短く何かを呟いて棒を落とす。それは地に落ちる前に静止して、それぞれ遠くまではじけ飛んでしまう。
「実は、こいつは『運命』の力をいただいてるんだ。」
「―え?」
「何時ものようにこれを使おうとすると、何かよくわからない阻害が入る…一度原因を突き止めようとしたんだが、逆にこっちの探知が喰われかけた。これを解明するには一筋縄じゃ行きそうにないね。
―なぁ、氷雨、あんたこれからどうするんだい?」
「―どうする、ですか?」
それは私も考えていたことだった。
右も左もわからぬ世界に放り出され、案内役になってくれるはずだった神様も行方不明。しかも魔法が中核の世界だというのに私はその心得が一切ない。一体全体どすうればいいのか。
「もし決まっていないんだったら、あたしから一つ頼みたいことがあるんだ。
―天照様を、探してもらえないか?」
天照を、探す。
それは物や人を探すのとはワケが違う。何しろ相手は神。しかも連絡は途絶え、アクシデントのせいでそもそもどちらの世界にいるのかすらわからない。そんな状況で彼女を探すというのは、些かに無謀に過ぎる気がする。
彼女もそれはわかっているらしく、こうも付け足す。
「難しいのは重々承知なんだ。だが…少しだけでも天照様とつながりのあるあんたなら、もしかするとわかるかもしれない…頼む。…何か、嫌な予感がするんだ。」
考える。
私には、事実としてほぼできることがない。この世界では生き抜くのすら難しいだろう。ならばどうするか。…全ては天照に導かれてのこと。答えなど知れていた。
なにより、天照のことが心配だ。
突然に逆流し、全てを書き換えたあの紅い光。あの正体が何かはわからない。だが、神の力をも押し返し打ち破るあの力。
それに、あの声からはとても深い、天照への憎悪を感じた。
―『良かったぁぁー!』
桜の花びらが彩るあの境内で、そうはしゃいで見せた彼女。
怖い、とまず思った。
まず、彼女を見つけることができるのか。仮に見つけられたとしても、あの力に捉えられれば、今度こそ確実に私は死ぬだろう。
逃げよう。次に思ったことはそれだった。
サチに頼まれただけだ。探す義理もない。何より、私一人が動いたところで、天照を見つけるにはあまりにも期待値が低い。それと探さないことは、何の違いがあるのか。
―でも、きっとそのどちらも、私にはできない、と知っていたのだろう。微かに手足は震えている。それでも私の心はそれまでの迷いを吹き飛ばし、ただ一点に定まっていた。
何故なら、重ねてしまったから。
―だから。
「…わかりました。…私にどれだけできるかはわかりませんが、…やってみます。」
迷いなく、言い切った。
出立は、果たしてすぐだった。
サチさんが簡単な携帯食料を少しと地図、その他の必需品が入った鞄を用意してくれたおかげである。
違和感がないように、と手渡された、少しだけ古そうなコートを羽織って、靴を履く。
行く先のない私にサチさんが示唆してくれたのは、町のはずれにある低い山、人々の遊覧の地となっているそこの少し奥…という何とも抽象的な目的地だった。
彼女曰く、そこに協力者となってくれるかもしれない、という人がいるらしい。
「…ちょっと気難しいけどね。でも誠意を見せれば、必ず手を貸してくれるよ。…じゃ、頼んだよ。」
「はい。」
返事をして、立ち上がる。
「……あの」
しばらく迷ってから、彼女に身体を向け、そして頭を下げる。
「ありがとうございました。…では、行ってきます。」
「…幸運を祈ってるよ」
「はい!」
ドアを開けて、外に出て、踵を少し直す。そして、いろいろな感情がもたらす高揚に促され、私は駆け出した。
これから、どうなるのか。
何度も考えていることだ。だが、考えたところで、何一つ答えが出る気配はない。…当然だ。
天照を、見つけ出す。
それは、私自身が切り開く、『運命』なのだから。
―ドン
「すみません!」
軽く誰かと肩をぶつけた。謝りつつも振り返りはしない。
視線の先にはただ一つ、目的の山だけがあった。
「……誰だい?生憎と占いなら今は休業中でね。」
「おや、それは残念です。よく当たると聞いていたものですから。『運命』の巫女の力を拝見しようと―」
「何者だい―?」
食い気味の返答。サチの目がはっきりと鋭くなっていた。
「いえ、別に…大した者ではありませんよ。ただ、ちょっと忠告を、と思いまして。」
「…あの子のことかい?」
返事はないが、おそらくは当たり、というところだろう。
「あれは我々が何れ回収しようと目論んでいたもの…勝手に導かれては困ります。」
「ふん」
サチは鼻で笑い、入ってきた男と漸く目を合わせる。
「…あの子は、少なくとも今のあの子は、強いよ。どうせ私が教えなくても何れは正しい方向に進んでいたさ。」
「ふむ…まぁ、いいでしょう。今更巫女だけにこだわっても仕方のないことです。…日も暮れてきましたし、そろそろ失礼します……くれぐれも過干渉はなさらぬように」
男はつば広の帽子をかぶりなおすとサチに背を向け、音もなく去っていった。
「…ち、荒らしの野郎が、あたしに喧嘩を売るとはね…」
サチの声が、静かに響いた。
そしてまた、
「ハァ、ハァ…このあたり、かしら…?」
夜も近くなったころ、氷雨は漸く目的の場所へとたどり着いていた。
あたりを見回すが、薄暗い闇と落ち葉の群れがあるのみ。こんなところに、協力者などいるのだろうか。
そういぶかしむ氷雨の前で、
『―出て行って』
静かな声が、響いた。
(誰―?)
『出て行って…お願い、もう人間とは関わりたくないの―』
木々の葉がそよぎ、こすれ、怪しげに音を立てる。
その最中に、薄緑色の光が灯る。
葉のこすれる音はどんどんと大きくなる。やがて…何かに導かれるように一斉に落ちた葉は、光の周りを覆って、歪な人型を形作った。
『出て行って…お願い、だからっ!』
木の葉の群れが、私に襲い掛かる。