彼岸花が咲く
初めて彼岸花が咲いたその日、鬼が死んだ。
その人は、公園前のベンチに座っていた。私が小学校6年生くらいの頃から、毎年毎年、彼岸花の咲く季節になると、どこからともなく現れ、一日中座っていた。
その人は、私達子供の間で、『鬼』と呼ばれている。私には、一日中公園のベンチに座り、子供達の遊ぶ姿を楽しそうに眺めるその人が、とても鬼には見えなかったけれど、いつの間にかそういう呼び方が広まっていたのだ。鬼はここ周辺の古くからの住人だったらしく、親たちも鬼のことを知っていた。子供達を安心して任せられるということで、親も子供も、彼岸花の季節を楽しみにしていたものだ。
呼ばれ方から、鬼は幼稚園くらいの男の子がする鬼ごっこの鬼役をよく任されていた。まだ三十代半ばくらいにみえた鬼は、元気よく幼稚園の男の子たちを追い掛け回していた。高校生となった今では流石に遊んでいないが、幼い頃は、たまに交じっていた記憶がある。
「こんにちは、鬼さん」
「おお、ユカちゃん。こんにちは」
12歳の頃だ。鬼の笑顔はすごく柔らかかった。
でも、不思議だったのが、彼岸花をいつも手に持っていたこと。大体鬼は、毎日公園に来ると、満開の彼岸花から一本、花を取って持っていた。
赤い彼岸花を持ったまま、男の子を追い掛け回す鬼の表情が、すごく楽しそうで、私はその風景を帰り際、いつも見ていた。
――でも、あの顔をもう二度と見られない。
部活を終えた帰り際、自転車を止めて公園を見ると、そこには赤い彼岸花が在るだけで、そこにポツンと座っているはずの鬼は居なかった。そのかわり、いつも鬼が座っていた位置に、たくさんの花束。
……鬼は、死んだ。自殺だという。
高校生にもなると、母親達の立ち話などを聞く中で、鬼のいろいろな事情も分かってきた。
鬼は、ただの普通のサラリーマン。名前は塚本だという。二人の子供が居る、綺麗な奥さんも居た、家庭を持つ本当に平凡なサラリーマン。鬼の家が自宅のすぐそばだと分かった時、私はとても驚いたものだ。
もっと驚いたのは、塚本さんがいた会社が、まさにこの世の地獄のようだった、ということだ。
噂話が本当だとすれば、本当に嫌な会社だ。社長は無気力・不真面目、上司は出世欲が強く、そのくせ自分は仕事を面倒くさがり全て部下に任せる。同僚は社員の悪口しか喋らない。部下は生意気で上司にもタメ口なんだとか。よくもこんなに最悪な人間ばかりを集めたなという社員に、なおかつ労働基準法を丸無視した生き地獄のようなスケジュール。勤務態度のいい人は塚本さんを始めとした、ごく少数だけだったらしい。
でも、それだけならまだ自殺はないのではないか? そう考えていた私だったが、塚本さんのお葬式で、親族の人たちが話しているのを聞いてから、辛いが理解してしまった。
「アイツも真面目すぎたんだよ。他の社員の人たちから嫉妬燃やされて、虐められてたんだってよ。何年も何年も、誰にも話さないで。馬鹿だよな」
「で、この辺の公園来るようになった2年前くらいに奥さんが交通事故で亡くなって……。お葬式の真っ最中に地元のお父さんが癌で入院したって知らせよ? 辛いわよ、これ」
「それで、その一年あとにストレスの溜まったお母さんの千代子さんが鬱病でしょ。お父さんとお母さんのお世話を手伝ってくれてたお義姉さんも疲れて倒れたって話……」
「こんなに不幸が続けば、自殺してもおかしくないかもしれないが、――どうにも残念だな」
塚本さんの笑顔の裏に隠された、壮絶な日々。これを聞いた時、どれだけ衝撃だったか。
思い出すと、涙が溢れそうになって、ごまかすために必死にペダルをこいだ。車体がぐんと前に進む。私は前に向かって進んでいるが、今、鬼はどこに向かっているのだろうか。
家に着くと、お母さんが食卓に座っていた。お母さんは最近、夫がいないとわかった途端仕事の同僚に言い寄られているらしく、精神的に疲れている。母から直接説明があったわけではないが、かかってくる電話の会話内容でで大体の事情はわかっていた。
「お母さん、ただいま」
私が声をかけると、顔を上げた。疲れた顔をしている。
「ユカ。遅かったね。塚本さんが居た公園に、花束とか供えてきたの?」
はっ、とした。供えようと思ったのだが、公園で考え事をしたせいで忘れていた。
「花屋、開いてるかな」
急いで玄関へと引き返そうとするが、
「買わなくて、いいよ」
「え」
「塚本さんの奥さん、彼岸花が好きだったんだって。塚本さんの好きな花は知らないけど、きっと奥さんの好きな花でも嬉しいと思うよ。採ってきて、供えておいてごらん」
彼岸花。紅くて綺麗な花だった。
再びもどってきた公園。夕焼けのオレンジ色に染まったベンチには、当然だが鬼は居ない。キーコ、と金属音がした。見やると二人、中学生の女の子がブランコをゆっくりと漕いでいる。どこか、誰かに似ているように見えた。
じっと見つめていると、一人が振り向いた。
「お供えですか」
不思議に思いながら頷くと、もう一人の女の子がブランコから降り、彼岸花を四本抜いた。それを束にして私に差し出してくる。
「これを……供えてください」
二人とも、暗い声だった。私は、ベンチに山盛りになった花束に、ゆっくりと彼岸花を重ねた。手のひらを合わせ、ぐっと目を瞑る。不思議な気分だった。
二人にお礼を言って帰ろうかと思ったとき。ブランコの金属音がふっと止まった。
「どうもありがとうございます。父に、こんなにたくさんの……はな……たばを……」
中学生の女の子達たちの目からは、悲しみのこもった雫が流れ落ちていた。二人の少女がかすかに流したその涙は、地面へと落ち、少しぬらして乾いていく。
誰かに似ている――その『誰か』とは、塚本さん、いや鬼だったのだ。この二人の少女は――塚本さんの子供達だ。
この子達は、親が二人とも死んでしまったのだ。
これからどう生きていけばいいのか、とてつもない不安に襲われているはずだろう。
私は、どうすればいいのだろう。言葉をかけるべきか、それとも、じっと泣き止むのを待つべきか。二人の嗚咽は、既に叫び声のようになっていた。
私はじっと鬼が座っていたベンチを見つめた。
鬼が座り続けていたとは思えない。ここに人が居たとは思えない。何の気配も無い。ただの空白――。
泣き声が聞こえないのに気がついた。
「お父さん……遺書で、自分の事をたくさん書いてたんです」
二人の子供達は、涙を流しながら、震える声で語った。
「お母さんが亡くなった年、お父さんはもう自殺する決心をしていた、って……。そして、自分が決めた自殺の日まで、お母さんの大好きだった彼岸花が咲く季節に、毎年公園で子供と遊ぼう、と考えたって……」
「いつか、自分も死ぬと決めた。でも、妻にも自分にも死なれ、親なしとなってしまう自分の子供達への罪悪感が募る。だから、ここで子供達と遊んで、ちょっとでも罪悪感をぬぐいたかったんだって」
鬼は、子供達と遊ぶ時、いつも奥さんの化身である彼岸花を持って、自分と自分の子供と、自分の妻が仲良く遊んでいる構図を胸に描いた。
「だから、あのとても優しい笑顔を私たちに向けてくれたんだね。まるで、自分の子供に向けるような、あの笑顔を」
私が言うと、辛そうな顔で二人は頷いた。
「他の子供にはいくらでも優しい笑顔を向けたくせに、私達自分の子供には大して何も残さずに、勝手に死んでしまった。そんなお父さんを、どれだけ憎んだ事か。でも、遺書の続きにはこう書いてあったんです」
『家族4人で仲良く暮らす。そんな生活を夢に見ながらも、子供を置いていく無責任で薄情な自分は、まるで「鬼」だと感じていたよ。
自分の子供には何もかまってやっていないのに、他人の子供にはたくさん接してやっている自分は親ではないんじゃないかと、自分を何度もけなした。
でも、そうしたら、子供達は自分の死に悲しまないですむと思ったんだ。悲しんでいたら、私は無駄に辛い思いをさせただけになってしまうのだけれど。
散々、辛い思いをさせた。自分たちがいないことで、重病の父や母、叔母さんの世話も任せてしまうということにもなる。二人の娘達には、本当にすまないことをした。
でも、信じられないかもしれないが、紅音、美紅、私は君たちのことを本当に愛している。』
「確かに、お父さんはひどいし、ずるい。でも、散々お父さんは頑張ったんだから、私たちも頑張らなきゃな、と思ったんです」
紅い彼岸花にちなんだ名前をつけられた二人、アカネちゃんとミアカちゃんは、涙でぬれた顔で、静かに笑った。
切ない話だ。
私は、自分で彼岸花を四本とってきて、花束の山の上に、横に並べて置いた。一つの家族が、仲良く遊んでいる風に見えるように。
「困った事があったら、私を呼んでよ。手伝いくらいなら、できるから」
遊んでもらった、せめてもの恩返しになればいいな。
公園に彼岸花が咲き、綺麗に赤く染まっていくのは、まだまだこれからだ。それを遥か遠くから見ている鬼の目には、何が映っているのか。
綺麗な彼岸花を見つめる、私達だったらいいなと思う。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
初投稿でした。自分では割と気に入っている短編です。
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