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ラベンダー畑に死す

作者: さこ 公則

 日々の生活の中に、訳もなくやってきて、歓迎されるはずもない退屈 や、湿った空気の中から湧き出たような物憂い心の状態を倦怠症候群 アンニュイ・シンドロームと呼んでいる。

 これは同じ憂鬱な状態の、暗雲たちこめる空の下、何もかもが沈んで見えるような症状、鬱症候群メランコリー・シンドロームとは区別されている。

 ここに、愚にもつかない物語を述べることを許してもらえるなら、私の 過去の真実を少しだけ語らせてもらえないだろうか。それはあなた方にとって、これから生きていくうえで、何の参考にもならないかもしれない。糧と呼べるものでもない。ひとりよがりだと嘲られるに相違ない。 でも、どうしても誰かに伝えたくてしょうがない。なぜなら、それは今、退屈だから…。


 もしあの時、彼女と富良野(ふらの)のラベンダー畑で出会わなかったら……。

 このごろよく物思いに(ふけ)る。思い出に縛られて生きる毎日が、(みじ)めだと軽蔑さえしていた若い頃よ――あれから20余年も経った。

 夏の淡い風に揺れる髪に似て、甘い香りのする追懐(ついかい)の日々は、彼女の本心を決めつけていた時のイメージを優しく蘇らせる。

 私は私の心の中で、彼女のイメージを育ててきた。ほら、誰にでもあるだろう? 小学校の時なんかにいた好きな異性を、大人になってからもすばらしい人になっていると信じていたい――。

 富良野の写真を見るたび、彼女との出会いを思い出さずにはいられない。歳のせいか、つい昨日のことまでも思い出せないのに、昔のことははっきりと覚えている。私はあれから彼女のことをずっと忘れられずにいた。

 私はこの匂いが好きだ。嗅ぐとしばらくの間浮遊感に浸れる。ラベンダーの匂い物質には、ラベンダーアルカロイドという麻薬に似た成分が含まれていると聞いている。そんな理由によるものなのかもしれない。

 私が高校生の時、夏休みになると、よく一人で富良野に出かけた。 辺り一面の紫の丘陵を見る為だ。畑の中の畦道(あぜみち)を一人で歩くのが好きだった。富良野は観光客が多い。そこは私の秘密の場所のようなもので、ほとんど人の来ない、穴場のようなラべンダー畑である。

 その場所は、上富良野の外れにあった。

 ある日歩いていると、畑の中で見え隠れする人影を発見した。

 あの時の彼女は、麦藁帽子(むぎわらぼうし)を被っていた。ラベンダーの隙間から突然現れた妖精と言ったら言い過ぎであろうか。深く帽子を被っていたので、顔の下部分――鼻と口辺りぐらいしか見えない。疲れているのか、ちょうど畦道の少し盛り上がった部分に腰を下ろしている。

 入院先の病院から、今しがた抜け出してきたような白い肌、細い腕や脚。彼女は痩せていた。それでも、女性としてふくよかな部分は持ち合わせている。大人の女性だ。私が横目で見ているのを、気付かれないように通り過 ぎようか、会釈(えしゃく)ぐらいはしとこうか、躊躇していた。

 彼女は、柔らかい風に逆らわぬように麦藁帽子を脱ぐと、

「どちらからの訪問者かしら?」

と、親しげに話しかけてきたのは彼女の方からだった。

「札幌」

「そう、本土の人かと思った」

「ホンド? 007、ジェームズ…」

「それはポンド!」

「ええと、じゃあ大木…」

「オオキ? ああ、それは大木凡人」

彼女は少し笑ってくれた。その笑顔は、とても年上とは思えない可愛らしさを演出させた。

「本州のこと。昔は内地って言ってたそうだけど…。おかしいでしょ? 北海道も同じ日本なのに。でも、私には遠い所よ」

「どうして?」

「君には近くても、私には遠いのよ」

 17歳だった私には、子供のせいか、意味がよくわからなかったが、それは多分、彼女が大人(23〜4歳ぐらいにみえた)だからなのだろう と、その時は思った。

 「ラベンダー畑によく来るの? 私も時々来るの。近くよ、上富良野」

「そうなんですか」

「ラベンダーはね、匂いが強いから少し嗅ぐのがいいの。吸い込み過ぎ たらだめ」

「へー、知らなかった」

 他にもとりとめもない会話を交わした後で、彼女は「薬の時間」だと言って、缶のお茶で白いカプセルを飲んだ。

「何? それ。病気なんですか?」

「抗癌剤」

「え?」

「……本当は違うの。抗癌剤のプラセボ(偽薬)よ」

「プラセボ…?」

「そう、形はそっくりだけど、カプセルの中はラクトース(乳糖)。私、胆癌なんだけど、末期なのよ。だから本物の抗癌剤処方したって同じ ことだから、プラセボでいいみたい」

「どうしてそんなこと知ってるって…、いやそんなことよりも、どうしてそんな大事な事、僕に、初対面なのに、話してくれるんですか?」

「そうね、どうしてかしら。今まで他の誰にも話さなかったのに…。きっとこの暖かい日差しと、柔らかい風に乗ったラベンダーの香りのせいなんでしょう」

「それ、かなりキザですね」

二人は互いに笑った。笑える筈がないのに笑った。

 それが二人の出会いだった。年上の女と年下の男の付き合い(こんな下賤(げせん)な言い方は似合わないだが)は、そんな風にはじまったかのように思えた。

 ひとしきり話した後、彼女は言った。

「じゃ私、今日はこれで」

「明日もこの畑来る?」

「うん、来るわ」

「僕も来る」

そういって、彼女はまた来た畦道を帰って行った。

 私は、彼女の弱そうにゆっくりと歩く後ろ姿を見送った。

 次の日、同じ場所で待っていたが、彼女は現れなかった。その次の日もまた次の日も行っみたが、私は二度と彼女と会えなかった。

 半年後に私は、噂を聞いた。彼女は私と会った次の日ICU(集中治療室)に入り、何人もやってくる見舞い客の雑菌に感染し、息を引き取ったという。死因は肺炎による呼吸停止だということも。

 生命の終局はあっけなく、生の余韻のかけらもないという。しかし、私にはお互いを交差したあの瞬間が、何年も余韻を残した。


 あれから20余年後の今、私は思う。彼女の死は病死なのか、あるいは業務上過失による致死なのか。プラセボについては、知っていない事がないくらい調べた。プラセボ効果は、本人が投与されることを知っていてはまったく効果を示さない。何らかの形で彼女は自分に投与さ れている事を知り得たのであろう。

 医師は、もう末期だから彼女にプラセボを処方したのであろうか、もう一つの可能性は、治験である。末期癌だから、新薬に対する比較の為のプラセボ投与群のデータが欲しかったのか。そもそも、本当に癌だったのか…。

 いずれにしても、患者に知られるなんて、これは殺人に匹敵する行為だ。

 そんなことを考えていると、また倦怠が襲ってくる。どうすることもできず、幾度もラベンダー畑の写真を見ては、物思いに耽る。    (終)

注:ラベンダーに麻薬成分はありません。ラベンダーアルカロイドという物質も存在しません。

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― 新着の感想 ―
[一言]  文章がどうだとか、そういった作品ではないと思いますので感想だけにします。  医師に対して憤りを感じているという【私】は、【彼女】が亡くなったことによる遣る瀬無い想いをそこに昇華させたのだ…
感想一覧
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