第六章 黄金の力
「ほら、もう朝だぞ、デーズィア」
明るい声が、そっと耳に触れる。
その晴れやかな口調に驚いて、少女は慌てて身を起こすと目の前で微笑むアルを見上げた。
「よく眠れたか?」
「え? あっ、はい…」
昨日、眠る前に見た彼とは随分と違っている。
素直に戸惑いを表すデーズィアの額を軽く小突くと、少年は片目を瞑ってみせた。
「昨日は悪かったな。心配してくれて、ありがとう」
「ううん!」
大きく、首を横に振る。
同時に、胸の中の痛みが雪のように溶けていく…
「ふみぃ~。あたしの分が無いよー」
少し離れた所からは、悲しむ声が聞こえてくる。
振り向く空色の瞳に映ったのは、夕食の時と同じ、食器が並ぶシートだ。
どうやら、次々と現れる朝食の中に、可愛い妖精の分が含まれていないらしい。
「反省しなさい、ピマ。勾騰だって怒るわよ」
腰に手を当てて諭す朱雀を、ピマは恨めしそうな目で見上げると口を尖らせていた。
ふと、朱雀の視線の先がアルと重なる。
…二人は、何も言わずに素晴らしい微笑みを一瞬だけ交わしていた。
「ピマ、わたしの分を食べる…?」
デーズィアが取り上げる小皿まで、ピマが素早く飛んでくる。
「やった~♪ ありがとう、デーズィア!」
空中に浮かんだまま、大急ぎで口に食べ物を詰め込んでいく。他の四聖神将にも小言を言われる前に、少しでも食べておかなくては。
そんな愛らしい妖精の姿にアルも笑い声を上げると、彼は自分の皿をデーズィアに回していた。
「ほら。デーズィアはきちんと食べないと倒れてしまうからな」
「でも…」
「俺なら大丈夫だよ。何日も食べずに暮らしたこともあるんだ。一食くらい、平気さ」
彼の面に浮かぶ優しく深い微笑みを見て、思わずデーズィアはアルの首に腕を回していた。
力の限り、強く抱き締める…
「ありがとう、アル…」
恥ずかしそうに、だが、自分の言葉で、きちんと自分の今の想いを告げる。
「ありがとう……」
アルが穢れているなんて、絶対に誰にも言わせない。
自分は、本当の彼を知っているのだから。
そのアルは、何も言わずに、そっと彼女の小さな体を抱き返していた……
「もうすぐだよ!
ほらっ、あそこに小屋があるでしょ? 見えるぅ~?」
遠く、行く手には青く染まった山並が見える。
歩む左右からは、さ緑の葉を繁らせた森が迫り、梢から風が爽やかな音色を届けてくれる。
やがて森の木々が一つに交わろうとする所、そこに丸太を組んだ一軒の小屋が見えてきた。
屋根は苔に青く覆われ、壁には美しい蔦が葉を揺らしている。柔らかな日差しの下、その周囲には小さな野の花がそこここで微かに揺れていた。
「ちょっと待てよ!」
アルが、先を行く妖精に声をかける。
「『創始の緑樹』は何処にあるんだ? 特別、大きな木も無いじゃないか」
確かに森の中には巨木も見える。砂漠で育った者には珍しいが、もう既にここに来て二日目になるアルでさえ、それが特別なものには見えていなかった。
アルの言葉を、ピマは腰に手を当てると鼻で笑っていた。
「あのね。封印されてるから、見えないんだよ? 分かったぁ?」
軽蔑した言葉を更に続けようとする妖精に対して、朱雀はあらぬ方を見ながら澄まして割り込んでいた。
「あら、昼食にもピマの分は無さそうね」
「うぅ~」
小さな、本当に小さな唇を尖らせると、恨めしそうに朱雀を見たが、ピマはそれ以上何も言わずに小屋に向かって飛び始めた。
近付くにつれ、その愛らしさ、美しさに心奪われる。
砂漠の中の、あの翡翠の小屋とは随分と違う。こちらは、大地と、森と、大気と、光に囲まれ、そっと愛撫を受けている。それぞれの想いがここに集まり、言葉を交わし、笑みを浮かべては応えている。
そこは、あらゆるものを受け入れる所。あらゆるものに受け入れられている所。
不意に、小屋の扉が開き始める。
アルとデーズィアは足を止めると、その動きを見守っていた。
背後では四聖神将も控えている。
皆が黙って見つめる中、扉を抜けて純白の衣が明るい光の下へと進み出てきた。
「…え?」
アルが驚きの声を上げる。彼にしては珍しいほどに感情が含まれた声だ。
慌てて、彼は傍らの少女に目を向ける。
間違いない。彼女は、デーズィアはここにいる。
その空色の瞳もまた、驚愕のあまり、瞬きを忘れ見開かれたままだ。
再び小屋へと目を転じる頃には、アルは落着きを取り戻すと同時に瞳を鋭く細めていた。
その、内側から光を放つかのような白い肢体。
豊かに波打つ黄金色の美しい髪。
優しく純真な、その心をそのまま映している空色の瞳。
…頬に浮かぶ柔らかな微笑みまでも、そこに立つ存在はデーズィアにそっくりだったのだ。
全く言葉を失ってしまったデーズィアと、沈黙に身を沈めるアルに近付くと、その少女は深々と頭を下げ、穏やかな声で言った。
「ようこそ、幼艾の国、エルナシオンへ。
デーズィア様、わたしの名は勾騰。五人目の神将にして、『創始の緑樹』の仮の管理者です」
「あ、え、あの…」
漸く出た言葉も、まるで意味を成してはいない。
そんなデーズィアに向かって、勾騰は笑みを更に深めると続けていた。
「わたしは、代々の守り手と同じ姿になって、成長するのです。
子が生まれれば、生まれたばかりの赤子に戻り、何度も何度も繰り返して大人への道を辿り続ける…でも、今日でその長かった道程も終わりです。
デーズィア様、『時』が来たのです」
その言葉が零れた瞬間、アルの耳には大きな翼の羽ばたきが聞こえた気がした。風は生まれず、地表を影が過ぎることもない。だが、間違いなく、『何か』がここを通り過ぎた。
刹那、全てが唯一となる。
気が遠くなるような、その心地好さ…だが、それは一瞬よりも更に短いものだった。
勾騰の美しい声が、心を現実に引き戻す。
「デーズィア様は、最後の封印を解いて、この世界の解放の是非を見極めることになります」
「ちょっと待ってくれ」
新しい状況だ。
「この世界の解放って、何だ?」
『樹』の『力』の解放は、何かを伴うのだろうか。『力』だけの解放ではないのか。
…そして、それもまた決められた流れなのだろうか。
アルの懸念に、勾騰はその澄んだ瞳に僅かな憐憫を映していた。
「『樹』の『力』は創造の力です。その力を、この地と共に、あなたが来られた世界へと解放するか否かを決めるのです」
この地と共に?
「解放すれば、『創始の緑樹』によって生み出されたこのエルナシオンも、そしてここに住まう妖精や精霊達も、全てが『力』と共にあなたの世界へと顕現します。
そうなれば、『時』は新たな『道』を歩むことになるでしょう」
「…じゃぁ、この世界を、解放しなければどうなる?」
「これまで通りの『道』を歩み続け、新たな運命を待つことになります」
その時、『樹』の『力』はどうなるのか。
『力』は解放しなくてもいいのか。
その決断は、既に定められていたのではないのか。
〈鷹〉の鋭い視線を、勾騰はデーズィアと同じ空色の瞳で真っ直ぐに受け止めていた。
……勘違いをしていたのかも知れない。
思い込んでいたのだ。
軍もそうだ。『力』だけを操ることができる、そう思っていた。
違うのだ。
扉を開けることで、初めて『力』はあの世界に影響を及ぼす。だが、その扉を抜けて、当然、ピマのような妖精も往き来することは可能だろう。というよりも、それを阻止することはできない。
このエルナシオンが、あの世界へと流入するのだ。扉を通じて。『力』と共に。
結果として、扉は最早扉ではなくなり、世界は唯一つとなる。
『創始の緑樹』の封印は解かれなくてはならない。それは分かる。そこにデーズィアの意志はもはや入り込む余地は無いだろう。
それが、守り手がここに戻ってきた『意味』なのだから。
全ては正常な形に、元あった形に戻される。『創始の緑樹』もかつてそうであったように、再びその『力』でこの幼艾の国を創り、育むことになるだろう。今よりも、一層素晴らしい世界へと。
そう、その『力』。その『力』を、アルやデーズィアがいた世界に解放するのかどうか、それはまだ選択することができる。ただし、その選択は『力』だけでなく、世界の在り方そのものを変えてしまうのだ。
アルはかつて砂舟での朱雀との会話を思い出していた。
彼自身は、まるで『力』に魅力を感じていない。その時、彼は朱雀に言ったのだ。自分なら、その『力』で『創始の緑樹』そのものを失くしてしまう、と。
だが、それはこの世界、エルナシオンそのものを破壊することではないか。
昨日から旅してきた、この世界。あの小生意気な妖精、ピマも存在しなくなってしまうのではないか。
その決断は、アルにさえ難しい。
では、『力』をあの世界へと解放することをやめてしまえばいい。そうすれば、少なくとも、全てはかつてそうだったように、そのままの状態で保たれる。
問題があるとすれば、既に開かれてしまった、たった一つの扉の始末だろう。
だが、それだけならまだ対処できる。
「アル…」
勾騰の水色の瞳の奥、思考の泉へと深く沈み込んでいたアルは、不安に満ちたデーズィアの声によって引き上げられていた。
彼女自身の『血』が選択すべき内容だが、これは重過ぎる…
四聖神将も、黙り込んでいた。
いや、語ってはならないのだ。自分達の未来、二つの世界の未来について、決める権限を彼ら自身は有していない。
…若しかすると、デーズィアにさえ無いのかも知れないが。
分からない。
何が既に定まっている?
何なら変えられる?
何を選択できる?
誰がそれを求めている?
「…馬鹿馬鹿しい」
小さく呟く。
「え?」
聞き取れず、覗き込んできたデーズィアに、アルは優しい瞳を向けた。
自分を信じればいい。彼女のことだけを考えればいい。
…それだけだ。
今が過去になり、振り返る時が来れば、全ては説明されるかも知れない。
だが、今、この瞬間にはどの選択も未知数だ。例え定められていたとしても、その選択を知らなければ、選ぶ者にとっては未知でしかない。
なら、選ぶことができる者が、それを選べばいい。
それだけなのだ。
結果は、未来にしか生じない。
なら、全てを未来に委ねればいい。
その未来もまた、新たな決断で選び続けていくものだろう。
「…ねぇっ!」
難しい問題は大嫌いなピマが、とうとう我慢できずに叫び始める。
「さっさと『創始の緑樹』を見…」
白虎の腕に捕まりそれ以上は続けられないが、それでも小さな手足はばたつかせている。
そんな妖精の姿に皆が微笑むと、勾騰も頷き、すっとデーズィアに手を差し出していた。
「デーズィア様。これが最後の封印です」
右の掌の上に、銀色の光を放つ小さな球体が浮かび上がる。
デーズィアは一瞬躊躇ったものの、その細い指先を伸ばし、淡く煌く球体にそっと触れた。
「きゃっ…」
不意に、胸元から翠の奔流が迸る。
思わず背を反らせた彼女の肩を逞しい腕が支える。
優しく温かなその腕を感じながら、デーズィアはもう一度しっかりと立ち、その瞳を輝く球体に据えた。
翠の乱流が目前に躍る。その中を縫って、彼女は勾騰から銀の球を受け取ると、引き寄せていた。
まるで、何も摑んでいないような気がする。
冷たい? 軽い?
…そもそも、これは存在しているのだろうか…
美しく整った両の指で、ゆっくりと銀の球を包み込む。
その瞬間、一際ペンダントの光が強まった。
乱れ飛んでいた翠の矢が一つに纏まり、次にはデーズィアの手の中の球を刺し貫く。
…音にはならない音が、沈黙の儘、辺りに広がる。
翠の矢に貫かれた球は、愛らしい手の中で無数の銀の星に変わると、澄んだ大気へと舞い広がり、風に乗って……
「見て! 見てぇーっ!」
とうとう白虎の束縛から抜け出したピマが、興奮した声で小屋の後ろを指差している。
黙って見守っていた鳶色の瞳は、その小さな指先に従って広い空を見上げた。
この世界の空は、砂漠とは異なり湿り気を帯びている。
その柔らかな青空の奥から、今、何かが滲み出ようとしていた。
青い山々など遥かに見下ろす高さに、緑の滴が浮かび上がる。
目の醒めるような、鮮やかで透明な緑の波が、少しずつ少しずつ、広がりながらその輪郭を強めていく。
風を受けた漣は、やがて一枚一枚のさんざめく緑葉へと変わり、美しい葉擦れの歌が大気に満ちる。
それら枝葉を戴き、小屋など簡単に飲み込んでしまうほどのがっしりとした太い幹がゆっくり姿を顕すと、彼らの前に緑樹が聳え立っていた。
不思議なものだ。まるで威圧感を覚えない。
これほどまでも大きな樹など、砂漠で暮らすアルには想像すらできていなかった。
だが、間違いなく樹であることは認識できる。
地表にうねる根一つにしても、そう…これは生きている。
生きているのだ。
その豊かな命は、優しさと安心、温もりと平和を惜しみなく辺りに与え続けている。
溢れ出し、降り注ぐその『力』。生み出し、育み、慈しむその『力』。
だが、この『力』は…大き過ぎる。
創始と破壊は切り離せるものではない。
〈鷹〉の目は、幹の内側を走る凄まじいばかりの『力』を鋭く見据えていた。
これは…この『力』は、危険だ。
「やったぁ! スゴイね、スゴイね、スゴイねーっ!」
錯乱したかのように、ピマが頭上で飛び回っている。実際、あまりに濃厚な生命力の奔流に当てられたのかも知れない。
ピマは勿論、今このエルナシオンに存在している妖精達の多くも、実在としての『創始の緑樹』を見たことは無い。この世界を育む源、母なる『樹』として聞き伝えられてはいても、封印がその姿を隠して以来、あまりにも長い歳月が過ぎたのだ。それは妖精からしても長いものだった。
実際に見る『創始の緑樹』は、想像を絶した『力』の集まりとして、今、ピマの前に存在していた。彼女は自分の中へと流れ込んでくるあまりに大きな温もりに対して、どのように受け止めればいいのか分からなかった。ただただ、その温もりに身を任せ、その流れのままに乱舞することしかできない。
見かねた朱雀が、小さな妖精を引き寄せ、抱き締める。
彼女にとっても、久し振りに目の当たりにする光景だ。この『力』…その波が心地好い。
「デーズィア様」
呆然としたまま瞬きすら忘れているデーズィアに、勾騰は声を掛けていた。
「これで『樹』は、自らを創った守り手に戻されました。
後は選択が残るだけです。
小屋の中で、その話を詳しく…」
不意に、爆音が轟き、大地が揺れる。
「何?」
振り返った鳶色の瞳は、その鋭い視線の先に一筋の白煙を認めていた。
「大佐、準備が整いました」
その言葉に、口髭を蓄えた男が微かに頷く。
まるで興味が無いかのような振る舞いだ。
黒縁の眼鏡越しに見えるのは、全く感情を映さない冷たい瞳。その視線は遥か遠方に、樹冠だけを地平から覗かせている『樹』を見つめたまま動かなかった。
砂舟の跡を辿ることは造作も無い。
懸念があったとすれば、地下の湖に兵士と砂舟を沈めなくてはならなかった瞬間だけだ。砂舟は当然ながら防水などされていない。
だが、支障は無かったようだ。…いや、例え支障があったとしても、彼自身は心配などしなかっただろう。
草が風に揺れる緑野には、今や数十台の砂舟や砂上バイクが用意されている。
これからの行為が侵略になるのかどうか、相手は国なのか世界なのか、それすら分かってはいない。
…それも、どちらでもいいことだ。
国王? 大臣? 随分と遠いところの話だ。だが勿論、彼自身は引き際を誤ったりはしない。
何れにしても、進めば分かることだろう。
何が真実なのか。何が利用できるのか。何を破壊しなくてはならないのか。
危険であれば、全てを破壊すればいい。ただ、それだけのこと。
『力』とは、使えるからこそ、扱えるからこそ『力』となる。
自身で使えなければ、国でも使えないだろう。国とは、人の能力以上のものではない。社会や国家が人を超えた存在であるかのような感覚は、幻だ。
では、彼は今、国の為にここにいるのだろうか。
周囲の誰もが、そのことに疑問を持っている。
彼は、一体何の為に動いているのか。表情の失せた仮面からは、どんな答えも見出すことができない。
だが、答えは簡単なものだ。彼は、彼自身の為にここにいる。彼自身の為になる国であれば、その国の為に動くだろう。
それは同時にあの白く霞む『樹』の『力』が、彼自身の『力』になるのであれば、それを自らの為に扱いかねない危険性も孕んでいる。
もっとも、本人は危険性だとは当然ながら認識していないのだが。
国にとって有効であり、自身にとって危険であれば、彼は引くだけだ。
ただ、それだけのこと。
「…この大地とあの樹は傷付けるな」
農務大臣は、この肥沃な大地を望んでいる。
軍は、あの樹を望んでいる。
手に入れるのがどちらでも構わない。或いはそれは自身かも知れない。
「だが、それ以外は何をしても構わん」
見知らぬ存在は確かにいるようだ。だが、それらには今は興味は無い。
静かに紡がれる言葉を受け止めた後、目の前の若い兵士はおずおずと問い掛けていた。
「大佐、あの少女はどういたしましょう」
デーズィアのことだ。
「『血』は生かしておけ」
『力』の使い方が分からない以上、殺してしまうには早過ぎる。
「必要になることもあるだろう」
自身にとって必要か否か。判断の基準はあまりにも明確だ。
若い兵士にも、それはよく分かったのだろう。自分が今、ここで生きているのはまだ不要とされていないからだけなのだ。
そのことに気が付くと彼は微かに身を震わせ、すぐに一礼して逃げ出してしまった。
やがて、幾つもの影が草原の上を走り始める。風はその音を、すぐさま『創始の緑樹』まで運ぼうと大気の中を滑り出していた。
「アル…」
空色の双眸が怯えに染まる。
デーズィアの疑念を、アルはただ黙って肯定するしかなかった。
この世界に砲撃を加えるものなど、他には考えられない。
振り返り、彼女に声を掛けようとしたアルの頭上から、不意に深みのある重い声が降り注いできた。
「気を付けられよ」
驚いて見上げた先に、青白い巨体が浮かび上がる。半ば透き通るその体の向こう側では、『創始の緑樹』が風に葉を遊ばせていた。
精悍な面が、唖然としているデーズィアを見て頬を緩めている。優しさに満ちたその微笑みは、だがすぐに真剣な光を宿す瞳を、勾騰へと移して告げた。
「物質界の存在だ。我等も協力しよう」
「風の精霊王…」
この世界、エルナシオンに他の世界の住人が侵略してくることなど、永の年月にわたって無かったことだ。迷い込むことはある。だが、それは侵略とはまるで違う。
四聖神将も戸惑いを隠せない。その横で、アルはまずデーズィアを、そして彼女に似た勾騰を見て落ち着いた声で訊ねていた。
「この世界の入り口を閉ざせるか? まず、今以上に軍が侵入してくることを防いだ方がいい」
だが、勾騰は慌てて首を横に振っていた。
「駄目です。あなたがこの世界で存在できているのは、その入り口が開いているからです。
デーズィア様の選択によって扉が閉まれば、あなたはこの世界を去るか、消滅するしか選択肢は無くなるのです」
「…そうだったのか」
自分の存在は、今開いている入り口を通じて、まだかつての世界と繋がっているのだろう。例外的に、この場に存在できているのだ。それは軍もそうだろう。
…なら、入り口を閉ざして、この世界を封じてしまえば、あの軍は一瞬にして…
当然、その時にはアル自身も瞬時に…
彼の横で、デーズィアは近付く砲撃に怯え、何も考えることができずにいた。
愛らしい体が小刻みに震え出す。
もう、こんな恐怖からは逃れることができたと思っていたのに……
その細い肩を、逞しい腕が抱き寄せる。その温もり、その力強さ…
…思わず力を抜く少女を抱きながら、アルは静かに勾騰に言った。
「勾騰、デーズィアに説明を」
その声に、朱雀が眉を顰める。他の四聖神将もそっと顔を見合わせたが、風の精霊王も見守る中、やがて勾騰は頷き口を開いていた。
「二つに一つなのです。
『幼艾の国』を解放するか、封印するか。
デーズィア様がペンダントに告げるだけです。
『グニル』と告げれば、この世界はデーズィア様が来られた物質界へと解放され、妖精や精霊と共にこの場の争いも引き継がれていくでしょう。『樹』の『力』はあちらの世界でも具現化します。
一方『マール』と告げれば、この地は再び時間軸を超越した世界へと封じられ、全ての入り口は閉じ、物質界とは絶縁します。その時、この世界のものではない存在は、全て消滅します。勿論、その前に去ることも可能ですが…」
「待って! わたしは…」
その時、どうなるのだ。一緒に、アルと一緒に去ることができるのか。
勾騰は、厳しい表情で、だが迷わずに告げた。
「デーズィア様はこの『創始の緑樹』の守り手として、この世界に留まっていただかなくてはなりません。二度と、物質界へ戻ることはありませんし、閉ざされてしまえば逢うこともできないでしょう」
…勿論、アルと、だ。
「そんな…!」
アルはただ黙っていた。
落ち着かなかったピマでさえ、思わず羽を止めて沈黙している。
考えるまでもない。なら、答えは一つだ。そう、絶対に…
…絶対に、アルと別れたりしない。
「わたしは、エルナシオンを解放します」
デーズィアは、今は震えることも無く、静かに宣言した。
エルナシオンの解放は、つまり『樹』の『力』を求める諸勢力にデーズィアが狙われ続けることを意味している。
生涯、ずっと…そしてそれは、彼女の血を継ぎ、胸のペンダントを継ぐ者にも連綿と続いていく。
…だが、生きている間、逃げ続けなくてはならないとしても、アルとは別れたくないのだ…絶対に、離れたくないのだ……
「……」
抱き締めてくれているアルが、何事かを呟いている。が、聞き取れない。
「アル…?」
見上げても、鳶色の瞳は短い黒髪に隠れてしまっている。
朱雀も気付いて、玄武や勾騰と視線を交える。そこに浮かぶのは不安の色だ。
アル自身は、暫くしてからもう一度、ゆっくりと唇を動かしていた。
「…冗談じゃない。
どうして、デーズィアだけが、『樹』を、『力』を守らなくちゃならないんだ…?
どうして、血を継がされたデーズィアだけが、苦しみ続けなくちゃならないんだ…?」
幼く愛らしい唇が、言葉を紡ごうと開きかける。
だが、鋭い視線がそれを押し留めてしまった。
〈鷹〉は、その澄んだ瞳を真っ直ぐに覗き込んでいた。奥へ、奥へと下りていく…
「いいか…デーズィア。
今すぐ、この世界を閉じてしまうんだ」
「アル…!」
思いがけない言葉に、デーズィアは悲鳴を上げていた。
「これからも追われ続けるくらいなら。
この『力』を悪意に使われるくらいなら。
エルナシオンなんて封印してしまえばいい」
アルは、間を置いてから、重く静かな言葉をゆっくりと押し出した。
「もし、解放しようとするなら、俺は、ペンダントを奪ってでも、《鍵》の言葉を告げるぞ」
「そんな…そんな…」
分からない…どうして…
…もう、二度と逢えなくなってしまうのに……
空色の瞳から、涙が溢れ出している。とめどなく流れる美しい煌きを拭いもせず、デーズィアはただただアルの瞳を見つめていた。
アルもただ、真っ直ぐにその瞳を受け止める。
逃げ惑う精霊の気配や妖精の悲鳴が辺りに満ちていく。
散発する砲撃は、特に何かを狙っているわけではないようだ。ただ騒動を楽しむためだけに放たれている。
大地を穿つ噴射音が遠くに聞こえている。もうすぐ、地平の丘陵地に黒い点が幾つも見えてくることだろう。
デーズィアの身代わりである少女が、そっと言葉を投げ掛ける。
「デーズィア様の為に、そうするのですか?」
視線が集まっている。その中には、心配してくれている朱雀のものも。
アルは美しい空から我が身を引き上げると、勾騰に向かって頬に笑みを浮かべてみせた。
「まさか。そうじゃない。
俺は、俺自身の為に言ってるんだよ」
そう、自分自身の為なのだ。
決断とは、そういうものではないか。
「俺は、デーズィアが悲しむ顔なんて見たくない。
ずっと笑ってくれているデーズィアを見ていたい。
俺は、デーズィアを愛している。そして、デーズィアを愛している一人の人間として、この地を封印しようとしてるのさ」
違う! 逃げることはなくなっても、逢えなければ、笑うことなどできるはずがない…
違う、違う、違う…!
緩やかな丘を越えて、黒い点が滑ってくる。砂舟だ。
何も言わずに玄武達、四聖神将が走り出す。この地には、守らなくてはならないものがあまりにも多い。
周囲の悲鳴に和して、ピマも錯乱して声を上げている。どうしていいのか分からない。逃げる? この場を? そこまで無責任になれない。でも、怖い。あれは、何?
「デーズィア様…」
風の精霊王は落ち着いていた。辺りの喧騒にもまるで動じず、ただ純白に身を包む彼女だけを優しく見守っていた。
自分達の未来、それが彼女によって決められる。
…いや。
風の王は、眼光鋭い少年を見遣っていた。
彼が、決めるのかも知れない。
そのアルは、遠くに見える舟の数に軽く舌打ちすると、抱き締める腕に力を込め、想いが溢れて何も言えずにいる彼女に囁いていた。
「デーズィア…俺は、本当に相応しい人間にはなれなかったと思う。
だけど、もし、デーズィアの心を苦しめるのでなければ…これを持っていてくれないか」
そう言ってポケットから出してきたものは…覚えている。小さな木の笛だ。
二人して、囚われた部屋で聞いた音色。
恐ろしくも甘い記憶は、だがすぐ傍に落ちた砲弾と、舞い上がる土塊に打ち砕かれてしまった。
アルはまるで気付いていないようだ。ただただデーズィアの瞳を覗き込み、その柔らかな手に笛を滑り込ませる。
「いいかい、デーズィア。
それが《本当》のものなら…きっと、時間も空間も関係無い。
…もう、悲しむんじゃないぞ」
温かな腕の力が緩み、離れていく。
そのことに、デーズィアは心の底からぞっとしていた。
「アル!」
だが既に、彼は背を向けている。
「アル! アル!」
飛び出そうとする華奢な身体を、同じ姿の少女が抱き止めていた。
「行かないで!」
どうして、どうして、どうして…
…分からない。どうして……
悲痛な想いが空を切り裂き、その想いの強さに風が身を守る素振りをする。
だが、見慣れた背中は、二度と振り返りはしなかった。
四聖神将が発揮する力の前で、次々と兵士が倒れていく。
ここは彼等の世界だ。存分にその力を行使できる。
怒声よりも悲鳴が飛び散る場へと向かって走りながら、アルは今迄に無いほどその鳶色の瞳を細めていた。
『樹』の麓から迸る想いにも、振り返りはしない。
耐えるまでもない。
戻ってはならない、ただそれだけなのだ。それだけだからこそ、迷いも無い。
デーズィアが普通の…そう、普通の生活を送るには、この世界を閉じるしかない。
彼女は、その「普通」すら奪われてしまったのだ。
デーズィアがそちらを選ばないことは分かっている。
だが、自身が足枷になることで彼女の安寧が奪われることは望まない。
…そう、自分が望まないのだ。
だからこそ、決断ができる。
誰かの為の決断など、本当にはできるものではない。
自分自身のことだからこそ、決断はできるのだ。
…アルは今、死を求めて走り続けていた。
自分が消えてしまえば、デーズィアの迷いも消える。
勿論、犬死など相応しくない。
〈鷹〉は遠くから獲物を探し、その痕跡を探した。
あの男が来ているはずだ。
別の指導者では、ここまでも入り込まないだろう。何しろ、別の世界だ。あまりにも危険すぎる。
だが、彼は違う。引き際も逃げ場も用意してあるだろうが、それでも彼は進み続けるだろう。
あの男だけは、倒しておく方がいい。例えこの世界が閉ざされたとしても、それでも完全な封鎖はあり得ないかも知れない。彼ならそれを探り、見出してしまうかも知れない。
四聖神将は力は勝る。だが、何よりもあの男は人間だ。人間には人間が対峙しなくてはならない。
手許に最早、武器は無い。ナイフすら捨ててしまった。
目の前に転がる死体の山から、必要なものを選べるかも知れないが…
「危ないですよ」
不意に、すぐ横から落ち着いた声が聞こえてくる。
黒髪を、真っ直ぐ背に流す女性の声だ。
だがアルは肩を竦めると、なおも走りながら振り向きもせず呟いていた。
「デーズィアのこと、頼むぞ」
無数の銃弾が、目標を失って空を裂く。向かってくる幾つかを視認するよりも早く避けながら、アルは土煙の中へと駆け込んでいた。
その背を見送りながら、玄武は小さく頷くと静かに告げた。
「…お約束しましょう。あなたの為に」
デーズィアの為ではない。この世界の為でもない。
決断した者の為に。その為に。
デーズィアの空色の瞳は、沸き起こる土煙にも遮られることなくアルの背中を追い続けていた。
白皙の頬には美しい滴が伝い落ちているが、それを拭いもしない。
そもそも、自分が涙を流していることに気付いてもいないのだろう。
自分? 自分とは?
デーズィアの心は、ここになど無い。
追い掛けようと、足を動かしもしない。
既に、追い掛けているのだ。追い続けている。アルの背中の、そのすぐ後ろを。
身体など、存在していなかった。「それ」は、残された所で、ぼんやりと立ち尽くしている。
「追いかけることは許されません」
随分と遠くの方で、静かな声が耳の傍を滑る。
「守り手は、最後までこの世界で生きて留まらなくてはなりません」
守り手? この世界?
何だか、可笑しくなってくる。
デーズィアの面は、知らず微笑みを浮かべていた。
随分と勝手なものだ。
誰が決めたのか。誰が望んだのか。
これが運命だと言うのなら、「わたし」でなくてもいいではないか。誰でもいいではないか。
何故、生まれてきたのだ。何故、生まれなくてはならなかったのだ。
何故、わたしはここにいるのだ。
いや違う。そこにいるのは「わたし」ではない。
「わたし」の姿をした、ただの「鍵」だ。
生きている必要すら、本当は無いではないか。
妖精? 精霊? 神?
何かを為したいのなら、自分達ですればいい。
何故、僅かな時間しか生きられず、特別な力も無い人間に役目を押し付ける。
…わたしが「わたし」でありたいと願う、ただ一つの理由。
それはアルだ。
だから「わたし」は追い続ける。
身体は動かない。動けない。動くことを許してくれない。
いいではないか。
「わたし」の視線は、心は追い続ける。逞しい背中の、すぐ後ろを。
身体など、必要無い。
この黄金色の光は、心は。
「わたし」だ。
「わたし」だ。
運命よ、弄びたければ弄べばいい。
だが、それは最早わたしではない。
「わたし」は、ここだ。
「わたし」は、ここだ。
勾騰が、ピマが、風の王が、身を震わせる。
穏やかだが、音にもなっていないのだが、広がる言葉に身を切られる。
ゆっくりと歯車が動き始めていた。
見えざるものがその抑えていた手を放し、軋みながら世界が動き始めている。
『樹』が緑葉を翻し、大きくその枝を揺らしていた。
「くっ…」
草間に覗く岩陰を縫って、先へと進む。
火薬の匂い、血肉の臭い。爆音、怒声。苦痛、悲しみ。
絶望。
心が、声が、渦を巻き、柔らかな青草を踏み躙る。
流石のアルも無傷ではいられない。素早い行動が阻害される程ではなくとも、そろそろ動きが鈍り始めている。
手には銃もナイフも持っていない。死体から奪うことも考えたが、そのチャンスを生み出すには相手の兵士がまだ多過ぎる。
何者をも傷付けず、ひたすら前進しながらアルは訝っていた。
朱雀や青龍、白虎に玄武の力は強大だ。だが、一向に砂舟の数は減る気配が無い。
…扉はまだ、開いたままなのだ。
本格的に占領を目指し始めている。異世界だろうと異種族だろうと、気にしていないのだ。
感情を失った瞳は、冷たく淡々と一人の男を捜し続けている。
扉の傍に留まっている? まさか。彼はそんな男ではない。誰かに全てを任せるくらいなら、全てを自分一人で成し遂げる男だ。
またすぐ傍で、爆風が大地を焦がす。
イルタナから贈られた衣服は、いまや無残にも汚れ、引き裂かれていた。
その白さ。その柔らかさ。かつては美しさと安らぎに満ちていたもの…
…いや。だが、その光は消されはしない。
どれほど汚れ、小さな布地と成り果てても、身に着ける者がアル自身である限り、その光は失われたりしない。
転がる地面の、その温もり。優しさ。
彼女自身もまた、見守り続けている。
僅かに身を起こしたアルの眼前で、青草が頭を垂らし道を開く。
一瞬、陽光に鋭い煌きを返すものがあった。
〈鷹〉はその全身に力を漲らせると、獲物を見据えた。
間違いない。大佐だ。
舟の行く手には、小さな岩が見えている。
用意された、ただ一度だけの機会。
それは好意ではない。ただの分岐点だ。
運命は、結果となるまでは唯一のものではない。
だがそれを、それと知る者は少ない。
今のアルには、それをそれと気付くほどの猶予は無かった。
歯車が回り、彼の姿も合わせて滑る。
音も無く、時は彼の姿を岩の上に刻み込む。
刹那、全てが重なり、静止する。
ただ黙って、アルは見事な跳躍と共に、大佐に向かって逞しい腕を伸ばしていた。
「何?」
黒く大きな影が落ちてくる。
慌てる兵士のすぐ横で、大佐は素早く腰に手を伸ばすと短い棒の先端でアルを捉えていた。
同じだ。あの囚われの部屋と同じ。
「くっ…」
いや、違う。今、アルの指はしっかりと大佐の喉頸を捕らえていた。
凄まじい力が大佐の首を締め付ける。
流石に苦しみの表情が口許に浮かぶが、同時に大佐は光を放っていた。
熱線がアルの腹部を貫き、背へと突き抜ける。
(アルー!)
…悲痛な叫び声が聞こえた気がする。
あの時と同じ、熱と痛みに全身が焼かれる。
だが今度は意識を失ったりしない。大佐の行動は予想していたものだ。
歯を食いしばり、渾身の力を指先に籠める。
口から溢れてくるのは、自分で噛み切ったものか、喀血か。
全身に渦巻く苦痛もまた、そのままに指先へと伝えていく。
例え意識を失っても、これだけは離すつもりは無い。
愛するデーズィアを、〈俊足〉のロムを傷付けた男…
眼鏡越しに、恐怖がその色を瞳に落としたことに気付く。
〈鷹〉の鋭い視線は、その更に奥まで食い込んでいった。
静かな双眸は、だが自らの体については気付いていない…
…光は流れ、肉体は今や二分されていた。
怒声が響き、銃声が轟く中、アルの半身は砂舟から滑り落ち、空気の噴射に弄ばれている。
クッ、シャ…
喧騒の最中において、それはあまりにも小さな音だった。
気管が潰れ、首の骨が砕ける音。
…大佐もまた、アルの上半身を引き摺りながら、砂舟から草の上へと滑り落ちていた。
割けた両の腹部から、赤く鮮やかな液体が大地に浸み込んでいく。
その命も、その死屍も、大地の女神はそっと愛おしく抱きとめていた…
「アル!」
不意に、空中から悲愴な声が響き渡る。
遅かった。…いや、間に合うはずも無い。彼女に分岐は選べない。
「…う、…うわぁぁーっ!」
赤い短髪を逆立て、朱雀は激しい憎しみをその面に映すと全身で叫んでいた。
その身を、渦巻く紅蓮の炎が包み込む。
朱と橙が入り乱れる劫火の奥から無数の火球が飛び出し、瞬時に辺り一面を焼き尽くしていた。
…「わたし」は見ていた。
逞しいその背中の、すぐ後ろで、全てを見ていた。
瞳を閉じたりはしない。
青々とした草が、豊かな大地が、赤く、鮮やかに染まるところも。
激した朱雀の劫火によって、あらゆるものが燃え尽くされるところも。
…「わたし」はずっと見続けていた。
後にした体は、今もまだ涙を流し、微かな笑みを浮かべていることだろう。
最早、二度と、「それ」が動くことは無い。
…「わたし」は、「ここ」で、「わたし」がしなくてはならないことをする。
(マール…)
…「わたし」は、その言葉に「わたし」の全てを溶かし込み、ゆっくりと押し出し、四方へと広げていった。
大地が、世界が、鳴動を始めている。
…「わたし」は、音も無く、柔らかく伸び行くその言葉の波に乗って、あらゆるものを貪り、その内側までをも侵していく。
残された体の胸元からは、澄んだ翠の矢が迸っている。
聳え立つ『創始の緑樹』もまた、同じ美しい翠の光に包まれている。
「鍵」もまた、その役目を果たせばいい。
…だが、それは「わたし」ではない。
「デーズィア様!」
勾騰が倒れる「鍵」を優しく支えてくれている。
…いや、「わたし」にも触れようとしてくれている。
(ありがとう…)
そうするには、だがもう、「わたし」はあまりにも薄く、細かく、千千に散ってしまっている……
瞳を湿らせる勾騰の視線の先で、ペンダントの鎖が弾ける。
純白の衣の上を翠の玉は滑り落ち、肥沃な大地へと吸い込まれていく。
小屋の背後で、『樹』がその姿を薄めている。山々や空が、その向こうに透けて見える。
美しい空色の瞳には、だが、もっと多くのものが見えていた。
歯車は急速に、その動きを早めている。
美しい世界、豊かで穏やかなこのエルナシオンの周縁では、今や漆黒の闇が無数の泡となって生み出されている。
闇? いや、違う。それは闇ですらない。
沈黙さえも存在しえない、ただの〈無〉だ。
妖精や精霊達の中で力ある存在も、今では逃げることをやめていた。
誰もがその場に扉を開け始めている。この世界を捨て、自分たちが存在すべき本来の世界へと戻っていくのだ。
風の精霊王も、多くの乙女を連れて去ってしまった。
愛らしいピマもまた、大急ぎで羽を動かし、近くの扉を抜けている。
…誰もが振り返りもしなかった。
決断した者を恨んだりはしない。
預けられた決断とは、そういうものだ。
後はただ、従うのみ。
それが、決断した者の為なのだ。
やがて、〈無〉が地平にも見えてくる。
何かが崩れているわけではない。大地は鳴動を続けているが、壊れていくわけではない。
ただそれは、静かに空を染め、草原を滑ってくるだけだ。
覗き込んでも、無論、何も見えない。覗く先が無いのだから当然だ。
だが、それでも、惑う兵士はその先を、奥を探そうとする。
…それは封印ではなかった。
彼らのすぐ頭上で、凄まじい怒りに囚われた朱雀は、今になってもまだ炎を投げ続けている。
他の神将も容赦はしない。
この世界の為ではない。
運命の為でもない。
決断した者の為だ。
彼らもまた、「ここ」で為すべきことを為す。
……程なく、そんな彼らをも、〈無〉は自らの内腑に飲み込んでいた。
それは、一つの世界の終わり。
世界は、一人の少女によって閉じられる。
世界は、一人の少年によって償われる。
あらゆる業を背負い、優しき者が罰せられる。
自らを供物として捧げた者は、だが神ではない。
地と肉を具えた人間であり、弱さも温もりも、愚かさも慈しみも持った人間だ。
そのことが、勾騰には解せなかった。
彼女もまた、神ではない。
闇が『創始の緑樹』の頂に触れる。
澄んだ翠の光が、減ずることなく切り取られていく。
「鍵」の似姿をした少女は、その体を抱えたまま、大地の上で呟いていた。
柔らかく転がる音色は、既に消えた草花の上を滑り、女神の胸元へと届けられる。
全ての母たる女神もまた、自らが編む敷布の上で指を滑らせていた。
不意に、勾騰の目前で閃光が煌く。
だが、空色の瞳は怯みもしない。
まだ残る、温かく豊かな大地に、今、アルの体が横たわっていた。
傷一つ無い、元の姿のままで。
その体は、二度と動きはしない。
それでも、勾騰は抱えたデーズィアを下ろし、彼の体に触れさせた。
『樹』はその力と共に、無に帰した。
小屋もまた、暗がりへと飲み込まれていく。
空色の瞳は、ただ横たわる二人を前に、そっと穏やかに微笑んでいた。
その容姿もまた、四方から迫る〈無〉に触れ、消えていこうとしている。
勾騰は気付いていた。黄金色の滴を、翠の揺らめきを。
デーズィアが何故、『樹』と共にあったのか。
簡単なことだ。彼女の『血』が、その源が、それを創り出したからだ。
〈無〉の波が、勾騰の姿を覆い尽くす。
うねりは更に、美しい黄金色の髪に触れようとした。
その瞬間。
「ア…ル……」
唇が僅かに震え、呼気が押し出されていく。
直後、全てが暗闇に飲み込まれてしまった。
……だが、それは暗闇であり、今では〈無〉ではなかった。
小さな滴。美しく煌く翠の星。
それは翼を広げるように、そっと〈有〉を包み込むと、澄んだ光の果実となり……
…黄金色の音色を放ちながら、後に〈無〉を残して消えてしまった……
それは、一つの世界の終わり。
**********
体の奥から、ゆっくりと浮かび上がってくる。
指先から、皮膚の上を滑って集まってくる。
砕け、乱れ、薄く、淡く、広がっていたものが、胸元に、喉元に小さな塊となる。
これは、心? 意識? それとも命?
…なんて温かいもの。
黄金色の波に包まれ、ゆらゆらと揺れている。
これは…想い。
これは…わたし。
その小さな珠が転がり始め、美しく調った唇の隙間から零れ落ちる。
「…アル……」
その「名」が耳朶にも触れている。
柔らかく満たしてくれていたものが、徐々に遠退いていく。
替わりに、ひんやりとした空気に気付く。
感覚が、漆黒の湖の奥底から引き上げられていく。
同時に、閉じられていた瞳から優しい煌きが流れ出し、白皙な頬を伝い落ちていく。
美妙な滴は頬を包む黄金色の髪に触れると、冷たい石の表面をそっと転がる。
その輝く真珠を、逞しい指先が拭ってくれる。
その温もり。
その優しさ。
「わたし」が震える。
その震えから、自分の「体」の存在に気付く。
体が、心が、溢れる黄金の光に波打ち、震え出す。
空色の瞳を開き、「デーズィア」は半身を起こしていた。
蒼い薄闇がうっすらと流れ、目の前を霞ませる。
だがそれは、その向こうにある、見慣れた姿を隠してしまうほどのものではない。
限りなく優しい微笑みが待ってくれている。
見つめてくれている。
「……アル…!」
自分の名が刻まれた石の寝台から身を乗り出し、デーズィアは手を伸ばしていた。
彼の腕に触れる。
…流れ込んでくる、この温もり、想い……
指を回し、引き寄せる。
生きている。生きている。生きている。
「良かった…全部、…全部、《夢》だったのね……」
喜びのままに、涙がとめどなく溢れてくる。
アルは笑みを深めると、そっと寝台の上のデーズィアに囁いていた。
「さぁ…それはどうだろうな」
「え?」
細い肩を抱きながら、アルはデーズィアの左手をゆっくりと広げて見せた。
「…! これは……」
そこには、小さな木の笛がしっかりと握られていた。
微かに身を震わせると、デーズィアはアルを見上げた。
だが、彼は不安を言葉にする間も与えず、愛らしい唇に指を当てると頷いた。
「デーズィア。
でも、《今》は、もう、それは問題じゃないんだよ。
俺も、デーズィアも、こうして生きてるんだから」
静かに告げると、アルは不意にデーズィアに口付けていた。
あまりに突然のことで、空色の瞳が大きく見開かれる。
だが、頬を素晴らしい色に染めながら、やがてデーズィアは瞳を閉じると、大きな背中に腕を回し、力一杯抱き締めていた。
この部屋に時間は存在しない。
どれほどの間、そうしていたのかは分からない。
だがやがて、アルは身を離すと、はにかむデーズィアをそっと寝台から抱き下ろしていた。
「出ようか、デーズィア」
「はい、アル…」
細かな砂が、足裏に心地好い。
蒼い闇には、どんな物音も似合わない。
静かな…あまりにも静かな部屋。
並ぶ、美妙な彫刻で飾られた石の群れ。
その間を縫って、ゆったりとした足取りで歩む。
優しく、そっと、互いに身を寄せ合いながら。
不安や恐怖など、この部屋の何処にも存在していない。
あるのは…ただ、「生」だけ。
それは、穏やかで、美しく、あらゆるものを飲み込んでしまうもの。
何もかもが、満ち溢れている。
暗がりも、自分達も、静寂も、石の台も、全てが一体となって部屋に充ちている。
溢れ出す喜びを、どうすればいいのだろう。
…歌?
いや、それは沈黙の向こう側で、身の内側で響き渡る言の葉の波。
静寂がこれほども豊かであるとは。
蒼闇がこれほども温かいとは。
大きな扉が見える。
二人の指先が僅かに触れる。
…開かれていく扉の向こう、翠色の光が瞬きながら二人を出迎えてくれている。
何も言わずに、小屋の中を歩いていく。
壁紙から射す翠の光は、何も無い空間を柔らかく照らし出している。
まだ、目覚めたばかり。
生まれるのは、今、これから。
時間が、その流れを思い出し、黄金の川が歌い始めている。
…いや、今はまだ、銀色の煌きの方がより強く時間を支配している。
それは全ての始まり。
翠が喜びに打ち震えている。
アルとデーズィアは、声に出さずに言葉を生み出しながら、小屋の扉を押し開けていた。
澄んだ風が、美しい髪に愛おしく触れる。
若々しい青草に覆われ、目の前にはなだらかな丘陵地が広がっていた。
左右には森の木々が立ち並び、梢の向こうには、白雪を頂く峰々が晴れ渡った蒼穹を背に聳えていた。
素足のまま、大地に、草花に触れながら歩き出す。
その時、風の精霊王が頭上から葉擦れの歌を運んできた。
微風に遊ばれる、爽やかで優しい喜びの声…
誘われるように、鳶色と空色の瞳が天を見上げる。
「…イルタナ…」
光が見える。包まれる。
風に揺れ、光の泡粒が踊っている。
太い幹に、鮮やかな緑葉を纏ったその『樹』は、アルの呟きに妙なる笑い声で応えていた……
それは、一つの世界の始まり。
『砂塵夢想譚』おわり