第五章 銀の国
「…んっ」
漸く、目が醒めるのだろうか。
遠くで、心が、意識が躍動を始めている。
節々から皮膚の表面へと微かな感覚が駆け抜け、返ってくるその応えを自分のものだと認めるや否や、歓びからすぐに半身を起こし、アルは鳶色の瞳を開いていた。
横たわっていた石の寝台。その傍で、素晴らしい微笑みを湛えてデーズィアが待ってくれていた。空色の瞳からは清く澄んだ光が溢れ出し、手の中で指先が想いの儘に絡まり合っている。
「おはよう…」
囁きが耳に心地好い。
「おはよう。デーズィアが、起こしてくれたんだな」
十二歳とはとても思えないほど、女性としての愛らしさを増した少女は、アルの言葉に小さく頭を振っていた。
「いいえ、アル。わたしはただ、見つめて…待っていただけ」
「同じことだよ、きっと」
その変化は、少年にも生じている。
デーズィアには、そんなアルの変化が嬉しかった。
何年間も、眠りに就いていた気がする。
夢を見ない眠りは、時の流れを迷わせる。
…夢……いや、今迄の人生そのものが夢だったのでは…
今、漸く、目覚めの始まりにいるのだろうか。
石の上で横になっていながら、体は硬くなるどころか生気に満ち溢れている。
アルは少女の細く柔らかな腕を引き寄せると、音も無く石の上から滑り降りていた。
次の瞬間、翠色の光に囲まれ、二人は食卓についていた。
卓を挟んで、向かいには透き通る黄金色の髪をした女性が座り、二人に語りかけている。
大地のこと、歴史のこと、草木のこと、星のこと、戦のこと、愛のこと、…幾つもの理が次々と二人の中に刻み込まれていく……
…きちんと、耳を傾けていたはずだ。
情景も、女性の姿も、目の前に浮かぶ真実も、確かに覚えている…
いつのまにか、三人は食事を終え、玄関の扉を開けていた。
外の景色を目にした途端、先程までの会話が全て霧散してしまった。
…忘れたのではない。眠ったのだ。
目覚めが進むにつれて…目覚めが次の目覚めへと繋がるその過程で、再びそれらは形を取り戻すのだろう。
薄明が始まったばかりの夜空には、まだ鋭い光の粒が無数に瞬いている。
その天の宝石を背に、玄武達、四聖神将はデーズィアとアルを迎えていた。
夢の中にいるかのように覚束ない足取りで振り返ると、二人は小屋の主に頭を下げる。
その時ふと、デーズィアは佳人を見上げて訊ねていた。
「おばさま…お名前を聞いても構いませんか?」
少し、遠慮をしてしまう。その言葉に、小屋の女性は穏やかな慈しみの光を頬に映し、頷いていた。
「構わないわ、デーズィア。
私の名前はね、本当は幾つもあるの。かつて、遥か古にはイルタナと呼ばれていたこともあったし、恐らく、今もそれが相応しいのでしょうね」
「ありがとうございます、おばさま…」
喜びの表情を浮かべる少女をそっと引き寄せると、イルタナはその額に優しく口付けていた。
やがて、二人が砂舟に乗り込むと、四聖神将も続く。
静かに空気を噴射し、砂を撒き上げながら、アルは朱雀が指し示す方角へと船首を向けて走り始めていた。
日干し煉瓦を積み上げた小屋は、見る間に小さくなっていく。
その姿が黄金色の砂のうねりに沈んでしまうと、漸く玄武達は緊張を解き、互いに顔を見合わせていた。
第四期の存在への畏怖と惑い…
だがその頃には、もう既に小屋は忽然と海から消えてしまい、あとには何ら変哲の無い砂漠が、昇り始めた陽光に照らされているだけだった。
**********
深い。
見上げて覗き込もうとしても、その底には決して行き着かない。
見続けていると黒く、黒く…闇夜にも感じられるその中天の真ん中で、あらゆる存在を焼き尽くそうと、黒い太陽が燃え盛っていた。
今ここには、広がる砂しか存在していない。この海の何処で、一夜を過ごしたというのか。
天蓋から視線を落とし、再び辺りを見渡す。
砂地を分けて出ているのは、操舵室の部分だけだ。その上に立ち、男は腕を組むと背後に控える兵士に向かって低く声を押し出していた。
「確かに、ここなのだな」
「は、はい…」
汚れた軍服は、目を上げる勇気も無く俯いたまま応えている。
「二つとも、消えたか…」
栗色の短髪の下、髭を蓄える口許が僅かに歪む。
発信機に気付かれたか。それとも、ここが扉か。
…いや。扉を閉じる為の決意は、そう簡単なものではない。短時間であの少女が成し遂げるとは思えない。
振り仰ぐ黒縁の眼鏡が、鋭い日射に煌きを返している。
男が片手を払うと、背後の兵士は何も言わずに船内へと下りていった。
愚か者であっても、領土の拡大、獲得には「数」が必要だ。
「…衛星も使え」
出迎えた別の兵士に告げると、彼はそのまま船室へと戻ってしまった。
間も無く、潜砂艦から数多くの砂上バイクが走り出す。折り畳まれていたそれらには、銃器を構えた兵士が乗り込み、逃した獲物を探して四方へと散っていった。
**********
「…本当に、ここに扉があるのか?」
赤茶けた大地の上。夕陽に赤く染まる指先に従いながら、アルは戸惑いの表情を浮かべていた。
巨大な壁が、左右に広がっている。その所々には狭い峡谷が走り、凄まじい勢いで風が吹き抜けている。
「そうよ」
道案内をしてきた朱雀が訝しむ。
その横で、デーズィアも空色の瞳に当惑の色を浮かべてアルを見上げていた。
「アル…『疾風の谷』に似てない…?」
「似てないどころか、そのものだぞ」
見間違えようも無い。確かに、ここは数日前にデーズィアを連れて逃げ込んだ谷だ。
「御存知なのですか?」
玄武がデーズィアに尋ねている。
デーズィアは、この美しい女性にアルと洞窟の中で過ごした夜のことを話し始めていた。
あれから、もう随分と長く、アルと共にいた気がする。
今迄生きてきた年数よりも、この数日は遥かに多くのものが詰め込まれていた…
…本当に、沢山の出来事があった。
刻まれた、その長さは短いものだろう。だが、その短い時間の中で、自分はとても大切なものを見出せた……
不意に、何も言えなくなる。
北でゆったりとした時間を過ごしていた自分。それはまるで別の、もう一人の自分の歴史のように感じられる。
いつかまた、あんな時間を過ごせるのだろうか。
…いや、時間だけが同じように流れても意味が無いのだ。
そう…そこに、アルがいなくては。
時間の長さ、流れ方が問題なのではない。
誰と、どんな風にその時間を過ごしたのか…その内容こそが、自分の時間を創り上げてくれる。
嬉しい…素直に、そう思う。
嫌なこともあった。これからもきっと、あるだろう。
だが、それでもこの自分の中に創られた時間は、何ものにも代えられない。
振り返る、一つ一つ。その一つ一つに多くの想いが重なり、胸中に込み上げてくる…
黙ってしまったデーズィアの小さな肩を、突然、逞しい腕が抱き寄せていた。
見上げるその横顔は、だが操縦に専念している。
アル…
…自分は、今、幸せだ。想いや喜びが、こんなにも体中を駆け巡っている…そんな自分は、断言できる、幸せなのだ。
この想いは、間違ってなどいない。
デーズィアは、そのまま瞳を閉じると、黄金色の温もりを感じながら少年に寄りかかっていた。
風の唸りが大きくなる。
谷の中へと入る直前、アルは傍の朱雀を振り返って警告した。
「風が強いぞ。気を付けろ」
「あら」
愉快そうに目を見開くと、朱雀も砂舟の後ろを見て言った。
「大丈夫よね? 青龍」
何も言わずに、青年は軽く手を払う。
アルはそんな仕草にも気が付かず、デーズィアを抱き締めると身構えていた。以前の砂上バイクほどではなくとも、バランスを崩せばやはり危険だ。
赤茶けた岩肌の峡谷へと入り込む。
…一向に、風がぶつかってこない。襲いかかろうと吠える風の怒声は、耳に飛び込んでくるのだが…
見れば、小さな岩屑までもが、砂舟を避けて後ろへと通り過ぎている。
「見えない壁よ。ほら、そこを右に曲がって」
感心していいのか、呆れてしまっていいのか、複雑な表情のアルを見て赤い髪の女性は笑いながら指示している。
幾つもに分岐する複雑な「疾風の谷」を、朱雀の言葉に従って幾度も曲がる。
デーズィアには、まるで分かっていないらしい。だが、アルはその道順に最初は戸惑いを…やがては疑いを抱いて目を鋭く細めていた。
記憶の中にある道と、まるで同じだ。風に邪魔されない思考は、記憶を探り明確な答えを導き出している。
「どうしたの? アル…」
そんな変化を敏感に察して、か細く澄んだ音色が訊ねてくる。
アルはふっと瞳を緩め、僅かに肩を竦めると笑みを浮かべていた。
「どうやら、よく知ってる場所に向かっているようだよ」
「…?」
小さく首を傾げ見上げる少女に、アルは道の先にある岩壁を指し示した。
迫り出した岩。その陰にあるのは漆黒の闇が顔を覗かせる洞窟だ。
デーズィアが驚きのあまり言葉を失う横で、朱雀は確かにその洞窟を指して言った。
「ほら、あの中に入るのよ」
「まさか、その『扉』っていうのは、大きな湖の近くにあるのか」
苦笑しているアルに、朱雀は本当に驚いた顔で尋ねていた。
「知ってるの? その湖そのものが『扉』なのよ」
流石に、砂上バイクとは異なり、このまま洞窟の中へと入ってはいけない。
砂舟を入り口で止めながら、アルはさり気なく告げた。
「俺とデーズィアは、その湖の畔で野宿したんだよ」
仕分けた荷物を、驚愕のあまり動けずにいる朱雀にも渡す。
「…偶然、ってあるのね」
その荷物を受け取りながら、彼女の口から出るには違和感のある単語を漏らす。
そう…偶然など、あるはずがない。だからこそ、自分達はここにいるのだ。
それ以上は何も言わず、皆は砂舟を降りると洞窟の中へと足を進めた。
暗闇を、朱雀の手の中の炎が照らす。
奥へと進んでいく光の背後で、夜は急速にその姿を現していた。
広大な地下の湖は、以前と変わらず沈黙と闇に沈んでいる。
漣一つ見えない、漆黒の鏡…
静寂が、深く、重い。
音の無い音が耳を圧し、光を失うかも知れない不安と共に、デーズィアの小さな胸に恐怖を植え付けようとする。
濃密な闇の塊が自分の方へと凭れかかってくるのを感じながら、少女の指先は助けを求めるようにアルの手を探っていた。
彼女のしなやかな指先が見つけるより先に、大きく、温かな手が摑まえてくれる。
力強く握り締めてくれるその手は、決して綺麗ではない…血に塗れ、穢れに染まる手だ。だが、それはこんなにも大きく、温かく、力強い……
「どうする? 今日は、ここで休むか」
アルは四聖神将を振り返りながら訊ねた。
本当は、ここで休んだ方がいい。『幼艾の国』エルナシオンがどれほど豊かな土地であっても、見知らぬ所で一夜を過ごすことは避けるに越したことは無い。
「いえ、すぐに扉を開けましょう」
玄武が柔らかな微笑みを少年に向ける。
「エルナシオンに入った方が、安全ですから」
エルナシオンとこの世界と、それぞれの状況を見ての言葉だ。いずれ、扉は開けなくてはならない。一晩の時間の差など、四聖神将にとってはあってないようなものだろう。それでも、今、開けた方がいいと言うのであれば…
「だったら、そうするか」
言葉の通りにしてもいいだろう。その程度には、アルも彼らを信用していた。
だが、やはり躊躇いが無いわけではない。その主な原因は、指先の温もりだ。
「大丈夫よ!」
横から、朱雀がこのお気に入りの少年に片目を瞑ってみせた。
「本当に、危険な存在なんてないんだから。
…勿論、あなたにもね」
「信用してるよ、朱雀」
確かに、デーズィアを危険な目に遭わせることはしないだろう。分かってはいるのだが、大切だからこそ、より慎重になってしまうのだ。
アルは笑いながら朱雀に応えると、デーズィアの澄んだ瞳を覗き込んでいた。
「じゃぁ、行こうか、デーズィア」
「はい、アル」
清純で美しい微笑みが、信頼し切って少年を見上げる。
内から光が射しているかのような空色の瞳は、そのまま四聖神将へと流れ、問い掛ける。
「扉を開けるには、どうすればいいのですか…?」
ペンダントの主を守り、扉の場所と開け方を示すのが、彼らの最初の役目だ。
デーズィアは開け方も知らない。開けたらどうなるかも知らない。ただ、《鍵》を持ち続けるだけの役目。
だが、これからは…扉を開けてしまえば、その役目は別の役目へと変わってしまうのかも知れない。いや…変わるだろう。彼女の決断は、エルナシオンに入ってからも必要になるのだ。
それでも構わない。
もう、一人ではないのだ。
「その湖に、ペンダントの石を浸してください」
玄武の言葉に頷くと、少女は温かな指先を離れ、躊躇わず汀へと下りていった。
胸元から、大切な母の忘れ形見を取り出し、外す。
透明な翠の煌きが、湖面に映る。
すぐ傍に、自分のことを心から大切にしてくれる温もりを感じながら、デーズィアは静かにそっと、ペンダントを漆黒の水の中へと滑り込ませていた。
ゆらゆらと、翠の星が揺れる。
次には澄んだその翠の光が、まるで水に墨を流したかのように、ゆっくりと溶け出していた。
波一つ、生じない。音一つ、聞こえない。
それでも翠の光は水中で大きくうねり、速やかに四方を目指して広がっていく。漆黒の闇夜が淡い翠にその場を譲り、やがて湖面全てが柔らかな光を放ち始めていた。
「《鍵》により、扉は開かれました」
玄武の静かな声が、広がる…
「残る一つの封印を解くことで、『創始の緑樹』の『力』は解放されます」
そう告げる彼らの次の役目は、『樹』への案内と、その封印の解き方を示すことだろう。
玄武を振り返ると、アルは静かに訊ねていた。
「…どうしても、『樹』を解放するんだな」
アルにしてみれば、その『力』の解放はどちらでもいいことだ。
まずは、デーズィアを安息の地へと導くこと。それだけで十分なのだ。
『力』など解放してしまえば、その安寧が乱されてしまうかも知れない。
少年が望むことなど、無論、四聖神将にも分かっている。
だが、彼らもまた時間の夢に囚われた存在なのだ。定められた道を外れて、その想いを叶えることはできない。
「そうするしかないのよ。
デーズィア様がどのような結論を導かれるのか…その結果で、これからのこの世界の『道』が定まるんだから」
本当に辛そうな表情で、朱雀が応えている。
鋭く細められた鳶色の瞳が、真っ直ぐに突き立てられる。
彼女は、決してそれを避けようとはしなかった。
「アル…」
湖水から引き上げ、以前と変わらぬ翠を放つペンダントを首にかけると、デーズィアはそっと少年の腕に指を絡めていた。
不安はある。あって当然だろう。
自分の決断で、世界の行く末が決まると言われているのだ。世界のどのような行く末が決まるのかはよく分からない。だが、それでも多くの存在にとって、それは重く大きな決断なのだろう。それを自分が選ぶのだ。
そんなことが、この小さな自分にできるのだろうか…
…だが、この流れは、最早変わらないのだ。
できるかどうかなど、問題ではない。
自分の中に流れる『血』の運命を、今のデーズィアは全て受け入れていた。
「…そうか」
《唯一の本質》の夢には、アルとて逆らうことなどできない。
その夢の中では、デーズィアの決断もまた、既に見終わった《過去》なのだ。
知らされていないだけで、決まっている。
…だが、本当にそうなのだろうか。
(アルだけが、流れを決するんじゃないかしら…)
朱雀の胸には、そんな思いも去来していた。
夢は、若しかすると「戻る」こともあるのではないか。あるいは同じ時間の「別の夢」を選ぶこともあるのではないか。
自らの行動を無にしてしまいかねない思いに、朱雀は慄然としていた。
力ある存在であっても、彼女は神ではない。…いや、神々ですら、疑っているのではないか。
先の翠の小屋の主が、如実にその可能性を示唆している。
「では、行きましょう」
玄武の静かな声と共に、肩に青龍の手がかかる。
我に返るその先で、彼は小さく首を振っていた。
「ただ、荷物は全て置いていかなくてはなりません」
…そう、それは自分たちのような存在が悩むべきものではない。
「向こうで、手に入るのか?」
アルに近付きすぎたのかも知れない…
「えぇ。もっとも、想像しておられる形ではないでしょうが」
だが、それだけアルには『何か』があるのだ。
それを認めないほど愚かでもない。
刹那瞳を閉じると、朱雀は陽気な笑顔で脇から入り込んでいた。
「それと、折り畳みナイフも置いていくのよ?」
アルが眉を顰めている。あのナイフだけが、今アルが持つ唯一の武器なのだ。
少なくとも、彼はそう思っている。
(違うのよ、アル)
彼が持つ力は、そんなものではない。
恐らく、彼自身は生きている間、気付くことなど無いだろう。
だが、彼は既に、多くのことを定めてきている。
「エルナシオンでは、銀以外の鉱物はあまり好まれないの。鉄なんて、持っていかないほうがいいわ」
「……」
二度と使う必要の無い世界であればいいのだが…
暫く逡巡した後、アルは溜息と共にナイフを地面に捨てていた。
「アル…」
純白に身を包む少女が、そっと見上げてくる。
アルは恥じ入るような笑みを頬に映すと、彼女を見つめた。
「…今迄、何も持たなかったことなんてないんだよ…正直に言って、ナイフを棄てることは怖いんだ」
本当に必要な力は、ナイフではない。
…アルの心は、そのことを認めてはいる。だが、実行に移すことは難しいものだ。
デーズィアなら、躊躇いもなく捨てたのだろうが…
自分は、本当に彼女に相応しい人間になれるのだろうか。
……血に塗れた、野犬のような自分が。
何度も何度も、同じ不安が胸中で鎌首を擡げようとする…
「デーズィア様、こちらへ」
哀れみの視線を向けながらも、玄武は何も言えない少女の背中にそっと触れて促していた。
「……はい」
両手を組んで胸元に押し付けながら、アルを何度も振り返る。
そんなデーズィアの仕草に、アルは優しく微笑んで応えていた。
…そう、あまり彼女を心配させてはいけない。
玄武のすぐ横に立ち、一緒に歩き出す。
デーズィアも前を向き、玄武が背を押し導く先を…
「え?」
湖の中へ入ろうとしているのだ。
慌てて顔を上げると、黒髪の女性は安心させるように笑みを浮かべて言った。
「大丈夫です、デーズィア様。
この翠の光は、最早この世界の水ではありません」
小さく頷くと、デーズィアはそっと爪先を湖面に近付ける。
波一つ無い、静かな面。
すっ…と、沈み込む小さな足にはひんやりとしたものが触れる。だが、それは液体のものではない。冬の朝の冷たい空気のようなものだ。
ふと、北部の山を思い出す。透き通る、澄んだ早朝の気配…
アルはデーズィアのすぐ傍らに立つと、同じく湖へと足を踏み入れていた。
まるで濡れない。この下は、この先は、別の世界だ。
少女が白皙な腕を伸ばし、縋り付く。
戸惑いながら見上げた先で、少年は本当に優しい笑顔を自分に向けてくれていた。
一人ではない。こうして、ここに、アルがいてくれている。
掴む逞しい腕から溢れ出す黄金色の光の波は、ただ自分だけに流れているのだ…
少しずつ、足を進める。二人で、共に、並んで。
腰が沈み、胸元も翠の光の下になる。
感じるのは、そよ風のようなふんわりと優しい気配。
デーズィアは、ずっとアルを見つめていた。
一瞬の躊躇いもなく、足を進める。
四聖神将を従えながら、デーズィアはその幼くも美しい唇が湖面に達しても、幸せに満ちた微笑みをアルから逸らしはしなかった。
不意に、翠の光に全てが埋もれる。
それでもなお、少女は指先に自分の全てを感じながら、やがて眠るように意識を失ってしまった。
**********
くすくす…
…誰だろうね、誰だろうね…
ほら、四聖もいるよ…
…綺麗な髪ねぇ…
触っちゃ駄目だって! 怒られちゃうよ…
………
「う、ん…」
自分のすぐ傍に、幾つもの小さな風を感じる。羽毛のように軽く、柔らかく…
「おい、そろそろ遊ぶのをやめたらどうだ?」
きゃっ…!
アルの囁き声に、あちこちから微かな悲鳴が起こる。
細い風が、音も立てずに肌の上を滑り、通り過ぎていく。
デーズィアは少し目を擦ると、半身を起こしてその瞳を開いていた。
「やっぱり、起こしてしまったな」
優しい言葉と共に、アルの顔が目に入る。
その背後から、青草が微風に靡く爽やかな音色と、小鳥達の美しい歌声が耳に流れ込んできた。
慌てて辺りを見回す。
今しも、太陽が地平から顔を覗かせようとしている。緩やかにうねり、拡がる緑の草原の向こうから…
緑、草原…何て久し振りの風景だろう。
あの砂漠の中の小屋の翠は…そう言えば、少しこれらの草葉に似ていたかも知れない。だが、この草原の緑は、手に触れることができるのだ。こうして、そっと、撫でることができるのだ…
視線をずらすと、目が醒めるような若葉に身を包んだ森も見える。
砂漠の中で乾燥し切った心身へと、しっとりとした何かが流れ込み、満ちていく…
豊かな草の香りに囲まれ、四聖神将までもが穏やかな寝顔を見せている。彼らと出会ってから、初めて見る無防備で安らかな姿だ。
「アル…ここが…」
それだけしか呟けない。
「多分、そうだよ。夢の中でも、俺には思い描けない場所なんだから」
砂漠で育った彼には、これだけの草原でも驚きなのだ。井戸の傍に固まる、オアシスの草木とはまるで違う。
それに、この穏やかな気候…これが、春なのだろうか。
間違いなく、夢ではない。自分ははっきりと目覚めている。
死んでしまったわけでもないだろう。意識があり、考え、思い、呼吸しているのだから。哲学的な意味での生死は分からないが、少なくともアルは自分がここに生きていると分かっていた。死後に、死後の世界で蘇る…だが、そこで生きているのであれば、「死」は存在しない。
目覚める前から気付いていた存在も、自分だけでは決して夢見ることはできないものだろう。そもそも、先程までいた世界で見ることができるのだろうか…それも、アルにとっては曖昧なことだ。
「ねぇ、アル…さっきは、誰とお話していたの…?」
デーズィアの瞳に、アルは苦笑していた。
「さぁ…よく分からないな。掌くらいの人間だよ」
「…妖精、なの?」
その言葉に、アルは困惑の色を深めてしまう。
「正直に言って、俺には妖精がどんな姿をしているのか分からないんだ。
ただ、不思議な存在、今迄に見たことが無い存在だとは分かるよ」
アルはそう言って森の方に顔を向けると、そっと声を掛けた。
「おい、もう一度出てこいよ」
「無理よ」
背中から聞こえた応えに振り返ると、目覚めた朱雀が悪戯っぽく笑っていた。
「あの子達は、夜にならないと出てこないわ。それに、結構、恥ずかしがり屋なのよ」
「妖精、なんですか…?」
問うデーズィアにしても、お伽噺でしか知らないのだ。
幼く、純粋な期待を籠めて尋ねてくる少女に、思わず朱雀は大きな声で笑い出していた。
「そうですよ。ですが、デーズィア様。あたしも、一応は妖精なんですけど」
「え?」
そう言えば、そんなことを聞いた気もする。
不思議なことを簡単に行うが、一見すると人間と全く変わらないのですっかり忘れていた。
今更ながら驚いて見つめる少女の姿に、アルまでもが笑い出している。
そしてすぐに、デーズィアもその笑いに加わっていた。
「これから、何処に行けばいいんですか…?」
見上げる空色の瞳に、玄武は優しく微笑んでいた。
「『創始の緑樹』の許に行かなくてはなりません。
そこに、管理者がいるはずです」
「管理者?」
「えぇ」
少女のきょとんとした表情に、玄武は笑みを深めて頷いた。
「『創始の緑樹』を守り手に代わって管理している者です。
デーズィア様は、管理者から最後の封印を受け取られるのですよ」
「でね、それを、ぱぁ~ん! って割っちゃえばいいのよ。分かったぁ~?」
不意に、幼く愛らしい声が割り込んでくる。
…上から?
慌ててその声の源を見上げると、そこには掌ほどの小さな少女が浮かんでいた。
背には透き通る羽が付いている。妖精、と聞いてすぐに思い浮かべる姿そのものだ。
「あなたは…?」
だが、それは物語の中でしかない。勿論、実物を目にするのは初めてだ。
デーズィアは、突然のことでそれだけしか呟けなかった。
その口振りが面白かったのか、妖精は山吹色の髪を揺らして笑い声を上げている。
見れば彼女の細くて折れそうな首から大きなポーチが提げられており、そこには大きく「ぴま」と書かれていた。
そのポーチの名前を見せながら、妖精は誇らしげに言った。
「あたし、勾騰様に道案内をしてって言われたの。ここまで来るのに、三十日もかかったんだから!」
「三十日?」
そんなにかかるのだろうか。
思わずアルとデーズィアが顔を見合わせていると、朱雀が苦笑いしながら妖精に怒ってみせた。
「ピマ、話を大きくしたら駄目よ! 二日くらいでしょ?」
「へへ、ばれちゃぁしょうがない」
銀色の瞳をきらきらさせながら、ちろっと舌を出している。
アルは戸惑いを通り過ぎ、呆れてしまいながらも、重そうなポーチを見て手を伸ばしかけて言った。
「それ、持ってやろうか?」
「だぁ~め! デーズィアに持ってもらう」
ぷいっとアルから顔を背けると、ピマは慌てるデーズィアにポーチを取ってもらった。
「ぜぇ~ったい、アルに渡しちゃ駄目だからね」
「え? あっ、はい…」
少女が困った顔で見てくるのを、アルは軽く肩を竦めながら微笑みで応えていた。
「それじゃぁ、行こうかぁ!」
元気に声を張り上げると、ピマは先頭になって飛び始める。
四聖神将は黙ってその後ろを歩き始め、アルとデーズィアも急いで続いていた。
(勾騰も、どうしてこんな子を選んだのかしら)
笑いたいやら、怒りたいやら。
だが、朱雀はふとアルを一瞥すると、僅かにその美しい眉を顰めてしまった。
先程の、ピマの受け答えが気になるのだ。
…やはり、まだ……
……だが、こればかりは、朱雀にも何もできないことだった。
清爽な風が、少女の白皙な頬に触れては通り過ぎていく。
風の子の青く透き通る指先で広げられた髪は、頭上から降り注ぐ柔らかな日差しに煌き、美しい星をその面に散らしていた。
足首に纏わる草花も、優しくそっと、その素肌を愛撫してくれている。
指を添え、挨拶に応えてはその色を、香りを受け止め、受け入れる。
見上げる空には雲一つなく、時折鳥の影が滑っていく。
黒い点が丘陵地の上を何処までも流れていくのを、デーズィアは素直な喜びに溢れながら見送っていた。
北部の地よりも、ずっと素晴らしい所だ。
お伽噺に相応しい、穏やかで心休まる地。
隣を歩むアルをちらっと見ると、彼も戸惑うような視線をあちこちに向けている。
どの景色も、アルにとっては珍しいのだろう。
砂漠だけの世界。岩と砂と、灼熱の光。渇きと風と、死神の影。
もっと、彼にはこのような世界を知って欲しい。
柔らかく、ゆったりとした時の流れを。
…そもそも、時間など流れているのだろうか。
太陽の歩みは進んでいる。だが、このエルナシオンでも、それは時の歩みを示しているのだろうか。
ふと、少年が空色の瞳に気付く。
彼は優しくも曖昧な微笑みでデーズィアに声を掛けていた。
「よく分からない所だな…本物じゃないみたいだ」
「ううん。現実なの…全て、ね?」
アルは、自分の立つべき位置がまだ掴めずに不安になっているのかも知れない。
見知らぬものばかりに囲まれていては、そうだろう。デーズィア自身も、初めて砂漠を見た時には、それがあそこまで広大なものとは思ってもいなかった。
だが、アルは自分と違って自らをしっかりと掌握している。
どの場にあっても、彼自身はそこにそのままの姿であり続けるだろう。
改めて、アルとこんな美しい場所を歩いていることに喜びを覚える。
素直に、嬉しいと思うのだ。
大切な彼と一緒に、逃げることも怯えることもなく、のんびりと散策を楽しめる日が本当に来るとは…
デーズィアは、久しく感じたことが無いほどに、その胸を弾ませていた。
「ふみゃ?」
先頭を進むピマが、突然、奇妙な声を上げる。
驚いて見ると、ずっと先の方から二頭の白馬がこちらに向かって駈けて来ているではないか。
若々しい、力に漲る四肢が大地を激しく穿つ。
嘶き、振り仰ぐ銀色の鬣は風に溶け、温かな光と共に流れていた。
「随分、立派な馬だな…」
感嘆の言葉が漏れる。
砂漠とは言え、辺境では馬との生活もある。砂上バイクほど便利ではなかったが、アル自身も1、2度はその生命の躍動を感じたことがあるのだ。
それは、思い返すだけで胸が躍る経験だった。
二頭の白馬は、少し離れた所で蹄を休ませると、青く瑞々しい草を食みだしている。
ちらと一瞥するのは、こちらにも興味があるからだろう。
アルとデーズィアは互いに視線を交わすと、次にはその二頭に向って走り出していた。
「あぁ~、ピマが見つけたんだからね!」
薄く、今にも千切れてしまいそうな羽を精一杯動かして飛んでいく妖精の背後で、だが四聖神将の面々は微かな不安の色を浮かべてアルを見守っていた。
ゆっくりと、ゆっくりと…足音を忍ばせながら、そっと近寄る。
デーズィアは目の前の白い馬体に見惚れながら、腕を伸ばすとその皮膚に触れ、細い指を添えた。
濡れた円らな瞳は少女を捉えたものの、優しい愛撫を心地好さそうに受け入れ、そのまま食事を続けている。
あまりの感激に何も言えず、ただただ指先を滑らせるデーズィアの向かいで、アルも逞しい純白の体に手を触れた。
その瞬間、白馬は激しく身震いし、食事を止め顔を上げる。
嫌悪と非難の眼差し。だがその視線にも気付かず、少年は目の前の美しい姿に見入っていた。
不意に、白馬が嘶く。
驚きから手を離してしまったアルの前で、もう一度大きく身を震わせると、白馬は突然駆け出していた。
デーズィアの前の白馬も、そっと彼女の指先から離れると、後を追う。
その後ろ姿を唖然と見送る二人の頭上で、漸く辿り着いたピマが可愛く怒り出していた。
「あ~、ひっどーい!
あのね、アル、汚い手で触っちゃ駄目なんだから!
分かったぁ?」
「……」
自分の手が汚れている…?
むっとしながらも、アルはその愛らしい妖精には何も言わずにいた。
黙り込んでしまったアルを、これも黙ってデーズィアが見守る。
小さな手を組み、心配に沈む胸元を押さえながら…彼女は、何も言えずに見守り続けていた…
暑くも寒くもない、快適な大気の下を漂いながら、ピマは先頭になって皆を案内していた。
嬉しくて仕方が無い。こんな役目は、もう二度ともらえないだろう。
大役だが、そこまで重要と思っているわけでもない。
この幼艾の国では、深刻になるものなどあまりない。
暢気に口ずさみながら、ピマは薄い羽で空中を滑り続けていた。
行く手に、きらきらと光るものが見えてくる。
川だ。
優しい陽射しに、燦々と目映い煌きを返している。川面の光の方が眩しいくらいだ。
流れは緩い。ピマですら、歩いて渡れるほどだ。
下を歩くアルにも、その流れの呟きが聞こえてくる。
貴重な宝物だ。
決して手放したり、涸らしたりしてはならない、多くの者にとって大切な財産。
その笑うようなさざめきは、途切れることなく続いている。
見えてくる川幅がいかに小さなものであり、他の者にとっては取るに足らないものであったとしても、アルにしてみれば大河と何ら遜色はない。
この流れの、ほんの僅かなものであっても、砂漠の片隅に潤いをもたらしてくれるのに…
…樹の力を用いれば、それも可能なのだ。
だが、それでも、どうしても、その力に頼りたいとは思わない。
恐らくアル自身、今のこの世界から元の砂漠に戻っても、そこにあるもので満足し、精一杯生きていこうとするだろう。
それで、それだけで十分なのだ。
だが、皆の為なら…?
…違う。
人以外の存在からもたらされるものへの不満よりも、皆が本当に思っているのは、人自身がもたらすものへの不満だ。
戦争もその一つだろう。
生活を、人生を精一杯守り、歩むことを妨げているのは、人自身に他ならない。
ピマが対岸までそのまま飛び続けているので、アルも先に立って川の中へと足を踏み出す。
深みなど、何処にも無いようだ。
あちこちの靴の隙間から、水の指先が入り込んでは素肌を撫でていく。その優しさが心地好い。
澄んだ冷たさが、足の先を通じて全身のあらゆるものを洗い流してくれている気がする。
体の中を、何かが流れ落ちていく…
そのあまりの心地好さに、一瞬、アルは目を閉じ、歩みを止めてしまった。
「アル…?」
素足になったデーズィアが、遠慮がちに声を掛けてくる。
素晴らしい笑顔を向けながら、アルはそっと手を差し出していた。
柔らかく美しい指先が、その手を捉える。
アルはしっかりとその指を握り締めると、先になって歩き始めていた。
逞しい手に導かれ、対岸に立つ。
…思わず、息を飲んでしまう。
そこから先に伸びていく原野が、可憐な桜草で埋め尽くされていたのだ。
純白の愛らしい花が、一面に広がり、揺れている。
素足のままそっと足を踏み入れると、少女は花を押し潰さないように膝を折り、優しく花弁に触れていた。
「可愛い…」
指先に伝わる柔らかさに、心からの想いが漏れる。
「花か…」
アルもデーズィアの傍まで来ると、感嘆の声を上げていた。
花とは、これほども多く咲くものなのか。
少女のすぐ横に開く、一輪に指を伸ばし、触れる。
きゃあぁ……
…微かな悲鳴が聞こえた気がした。
少年の指先で、見る間に花が頭を垂れ、萎れていく。
鋭く細められた視線の先で、やがてその桜草は黒ずみ、枯れてしまった。
「ほらぁ! 桜草が死んじゃったじゃなぁい」
少年の後ろで、ピマが非難の声を上げる。
侮蔑に満ちたその口調に、思わず朱雀が声を強めていた。
「違うでしょ。本来の世界に戻っただけよ」
「う~。
でも、同じことだもん!
本当に、穢れてるんだからぁ」
妖精の言葉を聞いても、アルは何も言わなかった。
表情も変えず、ただ静かに立ち上がっている。
心臓を冷たい手で握り潰されたようで…胸元をぎゅっと押さえると、デーズィアは僅かに身を震わせながらピマを振り返っていた。
「そんなことを、言わないで…!
アルは…アルは、穢れてなんていないもの…」
愛らしい妖精は澄まして顔を背けると、黙って先になって飛び始めていた。
「アル…」
腕に手を掛け、覗き込もうとする。
「さぁ、早く行こう」
そんな少女に、アルは優しい笑顔を向けていた。
思わず、泣きそうになる。
二人とも、素足のまま、手を取り合って歩き始める。
沈黙が纏わりつく。
背後では朱雀が玄武に視線を投げ掛けていた。
だが、何ができるというのか。
黒髪の女性も、ただ頭を振ることしかできない。
爽やかな風が天空を過ぎり、地平へと消えていく。清らなせせらぎは呟き続け、その音に、声に、そっと影を潜ませては風に運ばれていた。
エルナシオンにも、やがて夕景が訪れる。
なだらかに続く草原の先に、穏やかな茜の空が広がり、緩やかな風が刹那足を留め、身を包む。
優しい風の子の愛撫に、自然とデーズィアの足も止まる。
まるで音はしなかった。
だが、気付けば少女の足下に、ふわりとシートが広げられている。
誰もいない。風も動かない。
だが、次々と食器が現れ、温かく香ばしい食事が並べられていく。
朝から一度も食欲を覚えずにいたが、デーズィアは自分がとても空腹である気がして、静かにシートに腰を下ろしていた。
アルにも、四聖神将にも。勿論ピマにも、座る先から食器が用意されていく。
玄武や朱雀が当たり前のように食事を始めているのを見て、アルもデーズィアも視線を交えると目の前の料理に手を伸ばしていた。
…こんなにも美味しい料理は、初めてだ。
アルだけではない。デーズィアも、そう思う。
食べ進めるだけで、心が穏やかになり、幸福が体の隅々にまで行き渡る。
明るい星が、天蓋を飾り始めている。
温かな風が再び流れ始め、心地好い草葉の囁きがその後を追う。
ぼんやりとした灯りが、シートの周りにだけ取り残されている。柔らかな夕陽の灯り…
食事を終えると、再び見えない手が片付けていく。
上に何も残っていないことを確認すると、次にはシート自身がその灯りをゆっくりと落とし、明滅を始める。
皆が立ち上がり離れた瞬間、そこには草花だけが微風に揺れていた。
デーズィアとアルは何も言わずに、再びその場に腰を下ろしていた。
語り合う間も無く、眠気が瞼を重くしていく。
…最初に眠りに身を任せたのはデーズィアだった。
ピマも地上で丸くなり、四聖神将も横になる。
アルもまた、デーズィアのすぐ傍で、そっと少女を見守りながら身を横たえていた。
無数の星辰が、天上で瞬き出している。
静寂…だが、それは恐怖をもたらすような無音ではない。
煌き一つ、草の葉一枚が、自らの呟きをそっと静かに風に運ばせる。
愛らしい唇から寝息が零れる頃、彼らの周りに朝と同じく愉快な話し声が現れ始める。
次第に満ちていくその興味に満ちた呟き声が、不意に止まった。
殆ど聞こえない程の微かな悲鳴が一斉に拡がる。
小さな風が周囲の草陰に隠れる中、黙って静かに身を起こしていく。
隣で眠る少女を起こさないように、注意深く…アルは、闇の中で立ち上がっていた。
少女の呼気を確かめる。
…ぐっすりと眠っているようだ。
月がこの世界にあるのかどうかは分からないが、少なくとも、それらしいものは天空には見られない。代わりに鋭い星明りが満天に鏤められている。
その静かな光の下で、鳶色の瞳は赤い短髪をした女性の姿を探し出す。
四聖神将が横になるその中に見つけると、そっと傍へと歩み寄り、アルは黙ったまま彼女を起こそうとした。
手を触れただけで、瞳が開く。
覗き込むアルの姿に一瞬驚いた表情を浮かべたものの、何も言わずに朱雀も立ち上がり、アルの後から歩き出していた。
皆から離れて、少しの間、なだらかな草原を彷徨い歩く。
互いに、何も言わない。
だが、朱雀はじっとその視線を少年の背に向けていた。
やがて、その彼女が囁く。
「ここなら、もう聞こえないわよ」
少年の足が不意に止まる。
それでも暫くは、少年の顔は俯いたままだった。
穏やかに、時間は流れていく。風のように、水のように。緩やかに、留まらず。
この時間が大切なことを、朱雀は分かっていた。
漸く決意したのだろう、振り向くとアルは真っ直ぐに彼女を見て言葉を紡いだ。
「教えてくれ。俺は本当に《影》を追い払えるんだろうか。
デーズィアに相応しい人間に、なれるんだろうか」
予想していた問い掛けだ。だが、だからと言ってすぐに応えられるものでもない。
朱雀は胸を痛めながら、何も言えずにいた。
確かに、アルは変わっただろう。変わってきているだろう。
だがそれでも、このエルナシオンにそぐう存在にはなっていない。
それもまた、事実なのだ。
「俺は…デーズィアが大切だ。
だが、デーズィアに相応しくないのなら…俺はいつか彼女を傷付けることになるかも知れない…」
それが怖いのだ。
唇を強く噛みながら、アルはとうとう顔を背けてしまった。
握り締める拳からは、赤い血の糸が大地まで繋がる。
どうしたらいいのか分からない。
かつてのアルなら、何もかもを壊そうとしていたかも知れない。だが、今、少年は微かに全身を震わせながら膝を折り、その場でじっと耐え続けていた。
「…所詮、俺は……」
「アル…」
押し出される言葉を遮ると、朱雀は彼の名を呼びその体を強く抱き締めていた。
逞しいこの少年が、今は小さく見える。
朱雀は声を湿らせながら、そのまま囁いていた。
「アル…あなたは、『普通』の人間なの…あなただけが、血に塗れ、汚れているわけではないのよ…
まず、それを認めてあげて」
アルは、自分が特別だと…デーズィアが特別だと、そう思っている。
だが、妖精からすればそうではない。
「あなたは、デーズィア様と同じ、普通の人間…
それを知って、初めて、デーズィア様に相応しい存在になれるわ」
アルとデーズィアは、同じ普通の人間なのだ。
デーズィアが、特別に純真なのではない。
そのことを認めない限り、アルの心には隙が生じ、《影》を呼び込んでしまうだろう。
腕の中からは、何一つ、聞こえてこない。
…次第に、夜は更けていく。
だが、暗さが、闇が増していくわけではない。
朱雀は腕の中の温かな存在を抱いたまま、いつまでも優しく語り続けていた…
第五章 終わり