第四章 翡翠の小屋
茫々たる灰色の大地が、見渡す限り続いている。
黒いほどの青天井から容赦なく照りつけてくる黄金色の球体は、その身を半ばまで引き摺り下ろされながらも、未だ厳しさを緩めようとはしなかった。
今、砂舟は乾燥した岩盤の上を滑っている。
軍に潜砂艦が残っているのかどうか、その能力がどの程度のものなのかは分からない。いずれにしても、砂の『海』よりは岩の『海』の方が遥かに危険は少ないだろう。
操縦する黒髪の少年は、その鋭い鳶色の瞳を左舷前方の岩山に向けていた。
大きな岩山が『海』から頭を出してそそり立っている。
瓦礫と化した施設を抜け出してからは、追い掛けてくる軍の存在も一向に感じられない。
同乗している四人の男女にも動きは無い。
その存在はよく分からないものの、デーズィアに危険が及びそうになれば彼らは必ず動きを見せるはずだ。
(…この辺りで、一度休むか)
確かめたいことは多い。
「デーズィア、もう少しだけ我慢しろよ」
「はい、アル…」
ずっと腰に手を回したまま縋り付く少女が、掠れた声で健気にも応えている。
だが、アルは〈鷹〉の瞳を僅かに心配で翳らせると、自分に抱き付いているその白皙な腕を一瞥した。
あまりにも、多くの出来事がありすぎた。この儚げな少女が、今も意識を保っていることが不思議なくらいだ。心身共に疲れている彼女を、早く、安全な所で休ませなくては…
…それが、永遠に保証された、安らかな暮らしであればもっといいのだが……
まだ、これからどうすべきなのか、アルは考えていなかった。
未確認の情報と状況が乱立する中で、計画を立てることほど無意味なものはない。今為すべきことは現状を把握し、それらを手の中のカードとして残すこと、ただそれだけだった。危険に関しては、アルは何よりも自分の感覚を信じていた。変化が生じれば、手の中のカードを自らの感覚に従って切っていけばいい。不可思議な現象や力の前であっても、それは同じことだ。
そんなアルとデーズィアを、四人の男女が何も言わずに見守っている。
その中の一人、豊かな黒髪を背に流す玄武は、まだ両の腕に幼い少年を抱きかかえていた。
全身の傷は癒えている。だが、その少年…ロムは未だ目を覚まそうとはしないのだ。
いや…意識を戻すことを、拒否していると言ってもいい。
無理に呼び戻すことも、できなくはない。だが、それでは彼の心は癒されはしない。時間…そう、今のロムには時間こそが必要な薬なのだ。
灰色の島は、近付くにつれ、思っていた以上に滑らかな肌をしていることが分かった。これでは、屋根となる岩棚は少ないだろう。
微かに舌打ちしながらも、アルは島の影が伸びている側へと砂舟を回した。
幸い、太陽は沈んでいく途中だ。影はこれ以上に短くはならない。
岩山のすぐ傍まで近寄り、僅かでも頭上に迫り出している箇所を探し出すと、アルは空気の噴射を止め、砂舟を下ろしていた。
先に降りると、しっかりとした地盤であることを確かめる。
…大丈夫だ。沈み込んだりはしない。
漸く瞳を緩めると、アルは振り返って言った。
「まず、水だな。それから、話を聞かせてくれ。
俺が寝てる間に、何があったんだ?」
デーズィアだけに向けられた言葉ではない。この少女にも理解できていないことが生じているのだ。それについては、本人達から語ってもらうしかないだろう。
水が入った袋を取り出し、一つをデーズィアに渡すと、アルは黒髪を背に流す女性からロムを受け取った。
先に自らの唇を僅かに湿らせ、すぐにロムの口中へと袋から少しずつ水を流し込む。
残念ながら多くは飲ませてやれない。ロム自身の喉も受け付けないだろう。
少しずつ、少しずつ…
その横で、デーズィアは水を手にしながら複雑な表情を浮かべていた。
あれもこれも…沢山のことを聞いてもらいたい。話したい。
だが…
話した後の結果を思い描くたびに、その小さな胸は乱れてしまう。
そんな少女の様子を一瞥すると、アルは袋を置き、優しい笑みを浮かべながら言った。
「デーズィア。俺やロムの為に、あの男に全部話してしまったんだろ?」
「アル…!」
その言葉にひどく驚いて、デーズィアは暫く彼の瞳を凝視してしまった。
空色の双眸が、次第に湿り気を帯びていく…
…やがて、小さな頭がこくん、と頷いた。
「ごめんなさい……」
微かな声を、絞り出す。
嫌われるかも知れない…
…いや、それだけではない。もう、一緒にいない方が……
このままでは、アルをもっと危険な目に合わせてしまう。
……だが、もう逢えないなんて……そんなこと、自分に耐えられるのだろうか……
デーズィアは、自分一人で全てを背負うつもりだった。そう…そのつもりだったのだ。それに嘘は無い。
嘘では無かったのに…今、こうしてアルが無事な姿で目の前にいてくれると……
迷いが、願いが、祈りが、奔流となってその胸の中を激しく掻き乱してしまう。
「やっぱりな。
まぁ、気にすることはないさ」
「…え?」
目を見開き、少年を見つめる。
「今更、悔やんでも仕方が無いだろ?」
いずれ、事実は知られてしまう。権力や暴力とは、そういったものだ。
確かに、早いか遅いかで、選択する道は変わっていく。だからといって、手詰まりになるわけではない。
今、砂舟に横たわるロムのこと。
これから起こるであろう、常識を超えた現象を含む様々な出来事。
それらを自らの手で制御し、乗り越えられるかどうかについて、若干の不安が無いわけではない。だが、アルはそれでもまだ、自分自身を信じていた。
特に今は、まず知ることだ。
「アル…赦して、くれるの…?」
その白皙な頬に涙を流し始めている少女に向かって、アルは陽気に片目を瞑ってみせた。
「勿論さ。それに、有り難う。
デーズィアがそうしてくれた御蔭で、俺とロムはこうしてここにいるんだからな」
「それは…」
それは、自分がしたことではない。結果として、そうなっただけなのだ。
あの時、確かにデーズィアはアルとロムの命を選んだ。だが、それは守ってもらえない約束の上でのことだ…
瞳を伏せ、しゃがみこんでしまう。
もしも、今のようになっていなかったら……
……恐怖がどっと押し寄せてくる。
そんな少女の頭を、軽くアルは小突いていた。
「心配するな。もう、俺もロムも大丈夫なんだからな」
少なくとも、今はその通りだ。
その鋭い瞳が海を警戒していることなど、デーズィアは気付く余裕も無い。
「それより、ほら。先に水を飲んでから、続きを話してくれ。
こいつら、一体、誰なんだ?」
「あなた、言葉には気を付けた方がいいわよ?」
赤い髪の女性が、楽しそうに口を挟む。
軽く肩を竦める少年に、デーズィアは顔を上げ、慌てて水を口に含むと話し始めていた。
何もかも。隠さずに、起こったことを全て。
アルは、その話を腕を組み、半ば目を閉じながら黙って聞いていた。
デーズィアの話を聞きながら、流石のアルも心中戸惑いを隠せはしなかった。
手の中に炎を生み出す? 瀕死の者を健康体に戻す?
ペンダントの主を護る為に、召喚された? 四聖神将?
確かに、自分もロムも…失われた肉体すら、元通りになっている。
瓦礫と化した建物の残骸も目にしている。
そして何よりも、デーズィアが真っ直ぐに自分を見つめながら、嘘を語るはずが無いと分かっている。
勿論、分かっているのだ。
『幼艾の国』や、『創始の緑樹』とその『力』。『力』の解放と入り口の開放の《鍵》となるペンダント…
彼が知るものを越えた状況は、既に存在している。
だが、彼は例えそれだけの材料があったとしても、猜疑心を忘れるほど素直ではない。
だからこそ、生き延びてきた。
だが、彼はまだ知らないのだ。猜疑心すら生まれ得ない《真》が存在することを。
その〈鷹〉の目は、多くを見ても深奥を覗き切ってはいない。
それでも、不可解な状況下で動けるのは、見えるものだけを信じているわけではないからだ。
デーズィアは正直に語り終えていたが、彼の瞳にどうしても浮かんでしまう疑いや戸惑いの色を認め、その双眸を深い悲しみに染めてしまった。
デーズィアにも、分かっている。勿論、分かっているのだ。
全てを正直に信じてもらえるなどと、思う方が間違っている。
自分なら、どうだろう? この目で、アルの傷が治っていくところを見ていなかったら…信じられただろうか。
そもそも、玄武達を召喚したのは誰になるのだろう。
自分自身が無意識にしたのだろうか? それとも、この体の中に流れる『血』?
…それとも、ペンダントが自ら呼んだのだろうか。
彼女にだって分からないことは多いのだ。
ましてや、四聖神将の顕現そのものが、『樹』の解放の第一の徴などとは思ってもいない。
少女は、《鍵》そのものには力や能力が無いと思っている。あくまでも、《鍵》は使うだけのものだと。
だが、今、ペンダントは自ら「時」を判断した。
だからこそ、ペンダントはその使い方を伝えられてはこなかったのだ。「その時」の判断は、彼女にも…「機会」の到来を待ち望む、多くの存在にも委ねられてはいない。
恐らく、デーズィアがそのことを知ることはないだろう。
知ることは少ないが、それでも彼女がアルと異なる部分が一つだけある。それは、目の前の状況を《真実》として認めていること。
今迄は、確かに『幼艾の国』や自分の『血』について知っていたことも、何処か幻を見ているような感覚であったことは本当だ。だが、それら幻に思えたものをも含め、デーズィアは全てを《真》と受け止めているのだ。
彼女が思っているように、目にしたから…ではない。
その奥に秘められた『何か』がそう彼女に囁くのだ。その声に耳を傾け、受け止めることがデーズィアにはできたのだ。
だが、アルにその声はまだ届いていない…
アルの中の疑念は、だが目の前の少女の悲しみに急速にその色を薄めていく。
…少なくとも、彼女を、デーズィアを悲しませるつもりは無い。
それでもやはり、知っておきたいことはある…
アルは視線を上げると、二人を見守っている四人の男女に話しかけていた。
「悪いが、誰かロムを街まで帰してやってくれねぇか」
デーズィアを連れて、あの街まで戻ることは危険だ。だが、ロムをこのまま連れて行くことも難しい。
…いや、巻き込みたくはないのだ。この先、どうなっていくのか、アル自身にも分からないのだ。ロムには、今迄と同じ世界で生きていって欲しい…そう願っている。
デーズィアをこのまま置いていくことなど、思いもしなかった。
もっとも…この、野犬のように血に塗れた自分を、彼女が受け入れてくれるのなら、だが…
砂舟からロムを腕に抱えて出てきた少年の依頼に、四聖神将は一斉にデーズィアを見つめていた。
その幾つもの視線に、デーズィアも真剣な光を宿すと同じ思いで頼み込む。
ふっ…と玄武の頬に微笑みが浮かぶ。少女の眼差しに浮かぶ、心からの願い…その優しさが快い。
彼女は隣に並ぶ青龍を見ると、尋ねた。
「できるでしょうか?」
藍色の髪をした青年は軽く頷くと、アルを見た。
「少年よ。帰す場所を、具体的に思い浮かべることはできるか?」
その静かな声に、逡巡することもなく、アルは頷いた。
帰す場所は、もう考えている。
「では、思い浮かべたその場所に、彼を移そう」
青龍が右手を伸ばす。その開かれた掌を見つめながら、アルはついこの間まで暮らしていた街の情景を思い浮かべていた。
今の、この状況に疑念は湧かない。アルは、この四人を認めてはいるのだ。その結果がどうなるのかが分からないだけだ。
少年は、その心に今やはっきりと診療所を思い描いていた。クラウスの親仁の所だ。あの医師なら、生きている限りロムを助けてくれるだろう。それに、マークも間違いなく無事でいるはずだ。それだけアルは彼を信頼していた。
この二人の傍なら、〈俊足〉のロムも癒されるだろう。
刹那、掌から青い光が発した気がした。
不意に、腕の中の重みを失う。
そこにロムの姿は無い。では、何処へ?
アルの心には、その先の映像が浮かぶようだった。診療所のベッドに横たわるロム。彼を見つけても、それほどまで驚きはしないクラウスの親仁。
…いや、これも現実を映してくれているのかも知れない。
「アル…」
黙り込んでしまった少年を、心配そうな声が覗き込む。
その空色の瞳に気付くと、アルは柔らかな笑みを浮かべた。
「…魔法か。どうも、妙な気分だよ、デーズィア」
だが、何だか、安心してしまっていた。
ロムのことも、今の状況も…
…いや。違う。自分は若しかすると、あの街のことを懐かしく思っているだけなのかも知れない。あの街にいた頃の自分をも含めて、全てを懐かしく…
この温かな想いを、郷愁と言うのかも知れない。
よくは知らなかった感情だ。
あの街は、今迄と変わらず、あのままであり続けることだろう。
そのことが、安心感を与えてくれるのだろうか。
「悪かったな、疑ったりして」
デーズィアを見つめる。
今のこの状況は、自分が選んだものだ。自分自身が、ここにいることを選んだのだ。そのことに悔いは無い。悔いがあったとすれば、巻き込んでしまったロムのことだけだったが、それも解決された。
そのことにも、安心感を覚えているのだろう。
安心…不思議な思いだ。安心を覚えることなど、殆ど無い生き方をしてきたのに…
「ううん!」
大きく頭を振っている。
その幼い仕草に、一層微笑みが深まる。
その全ての源が、この少女なのだ。
きっと…
「それで、どうするんだ? エルナシオンへ行くのか?」
「……」
空色の瞳が、ちらと玄武を振り返る。
…静かに彼女が頷くのを見て、デーズィアは躊躇いながらもアルに呟いていた。
「…そうしないと、いけないの」
「なら、そうしようぜ」
「アル!」
そうすることが当然であるかのような応えに、デーズィアの方が驚いてしまう。
「正直、『樹』の封印を解いた後のことについては、俺にも分からない。
だけどな、デーズィア。この国を出たところで、俺には軍が追跡を止めるようには思えないんだ。それどころか、他の国もその『力』を知って、デーズィアを追ってくるかも知れない」
推測であるかのような話し方だが、アルはそう確信していた。
他国が今も静観しているのは、ただこの情報が信じられなかったからだ。だが、大きな施設や潜砂艦が幾つも破壊され、それでも軍が追跡を止めないとすれば…その情報は、本当なのではないか、そう思う他国も出てくるだろう。これだけ、南部の国境付近で大掛かりな作戦を展開しているのだ。気付かない方がおかしい。
「俺には、そのエルナシオンがどんな所かは分からない。だけどな、そこへの扉を開けて、その国にデーズィアは留まった方がいいと思うんだよ。
そこだけが、安心して逃げ込める場所なんだ…」
アルは、自分でも驚くほどに優しく、言い聞かせるように話していた。
その国に、どんな存在がいるのか。普通の、人々はいるのか。
聞けば、玄武達は答えてくれるだろう。だが、尋ねても仕方が無いことだ。少女が安心して留まることができるとすれば、どんな所であれ、その『幼艾の国』しか無いのだから。
でなければ、逃げ続けるしかない。或いは隠れ続けるしかない。
だが、どちらも生きている限り続けるのは難しい。ましてや、このような少女には無理だろう。
デーズィアは、じっと、鳶色の瞳を覗き込んだまま、長い間黙っていた。
彼女にも、その選択しかないような気がする。アルの言う通りなのだろう。あのロンベルト大佐がどうなったかは知らない。だが、これから先も、別のロンベルト大佐が現われ続け、『力』を求め続けるだろう…
だが…
…そう。
アルがいてくれるのなら……
次には、だがその言葉を心の中で打ち消そうとする。これ以上、アルを巻き込むことは…彼を危険に晒すことは…
乱れてくる心をどうすればよいのか分からず、少女は沈黙に逃げ込んでしまった。
いつのまにか、夕陽が速やかに大地を茜色に染め始めている。
灰色をした岩壁の影は、起伏に富む大地を滑り、青く霞み始めた彼方を目指して伸びていた。
「…はい、アル」
漸くのことで、それだけを告げる。
続けて、言葉を紡ごうとする。言葉…いや、願いか、祈りか。
だがアルはその愛らしい声を遮ると、真剣な表情で空色の瞳を見つめた。
「デーズィア。俺は、平気で物を奪ったり、人を殺したりする人間だ。
こんな俺でもいいなら…その国までは、デーズィアを送らせてくれないか…」
「アル…」
正直に、その可愛い頬には喜びが映し出される。
だが、次にはその笑顔も翳り…
「でも…また、危険な目に…」
自分の目の前で、アルが死んでしまう…それも、こんな自分の為に…
あんな経験は、一度だけで十分だ。
絶対に、もう、アルをあんな目に遭わせたくない…
だが…それでも、願いたいのだ。ずっと、一緒にいて欲しいのだ…
「危険なんて、怖くはないさ」
その言葉に偽りは無い。
「俺は…」
知らず、言葉が途切れてしまう。
軽く、息を吸い込んで…アルは、静かに告げた。
「…俺は、許してくれる限り、デーズィアの傍にいたいんだよ」
「アル!」
思わず、デーズィアはその想いのままに少年に抱きついていた。
一緒にいたい。エルナシオンに入った後も、ずっと、ずっと。
どんな危険の中にだって、一緒に入っていく。
彼だけが死にかかることなど、もう二度と無いだろう。
その時には、自分がアルを護るのだ。
その時には、自分も死を迎えるのだ。
「わたしは知っているもの…
《本当》のアルを、知っているもの……」
「デーズィア…」
「…ありがとう……ありがとう……」
何度も呟く小さな体を、逞しい腕はしっかりと抱き締めていた。
波打つ黄金の美しい髪に、半ば顔を埋める。
絶対に、彼女を守り抜く。
自分にそれだけの力があるかどうかは分からない。実際、あの大佐には負けたのだ。
だが、今はどんなことにだって勝ってみせる。
クラウスが言っていたではないか。〈鷹〉はその《全て》をかけてデーズィアを護るのだと。それが、アルの進むべき『道』なのだと。
それ以外の道を、アルは知らない。
夜の帳が、遥か頭上から静かに音も無く滑り落ちてくる。
美しく澄んだ星辰が闇を背に瞬く中、アルとデーズィアは四聖神将に見守られながら、やがて黄金色の豊かな想いと共に、安らかな眠りへと就いていた。
**********
「デーズィア、大丈夫か?」
速力を落としたまま、アルは視線を背後に送っていた。
その鋭い瞳が、今は心配に染まっている。
「…はい、アル」
砂舟の中で横になりながら、微かな声が健気にも応えている。
苦しそうな息の下、空色の瞳はなおも元気であることを示そうとするのだが…その仕草が、一層、アルの胸を痛みで貫く。
薄明の始まりと共に目覚めた時には、もう既に、傍で丸くなっていたデーズィアはその呼吸を乱していた。
眠ることがあるのかどうか…四聖神将も気が付いている。少女の異変に驚いて立ち上がるアルを、そっと玄武が押し止めていた。
「安心してしまったのでしょう。僅かに熱もありますが、危険なものではありません」
悲しみの表情だが、その囁きは落ち着いたものだ。
「治せないのか?」
この儚げな身体にとって、徒に体力を消耗させる発熱は危険だ。
ここは、それでなくても生存が難しい砂漠の中なのだ。
「デーズィア様の御心から生じたものですから。
心身共に張り詰めていたものが、一気に安心へと転じた為に出てきたもので、病気ではありません」
「…そうか」
このまま、ここに留まるべきだろうか。幸い、ここは岩の『海』だ。潜砂艦の脅威は少ないと考えても構わないだろう。
だが、追っ手が諦めたわけではない。陽光が厳しくなる昼間はともかく、朝夕の比較的過ごしやすい時に、少しでも移動しておいた方が安全だろう。
考えた末に、アルは速度を控えながらも、砂舟で出発することを選んでいた。
朱雀が指し示す方角へと、少しずつ進ませる。
銀色の髪をした、無口な白虎がデーズィアの上に影を作ってくれていた。彼らにとって、強烈な日射はまるで脅威ではないらしい。
玄武は少女のすぐ傍から離れず、その小さく愛らしい口許に、時折水を含ませていた。
「玄武さん…ごめんなさい…」
自分が足枷になっている…睫に美しい滴を宿らせながら悲しげに呟くデーズィアに、玄武は温かな微笑みを浮かべると小さく首を振っていた。
「大丈夫です。デーズィア様は、ゆっくりと休まれた方がいいでしょう。
あの方も、そう望まれているのですから」
玄武が逞しいアルの背中に視線を移すのを見て、デーズィアは正直に頬を染めていた。
だが、はにかみながらも、瞳も伏せずに少女は玄武に笑みを返していた。
「…はい…ありがとう」
心地好い音色で囁くと、彼女は心からの安らぎと共に瞳を閉じていた。
「まだ、随分と離れてるのか?」
今、何処を走っているのかもよくは分かっていない。
『海』にある目印は、僅かなものだ。しかも、周囲は岩盤から、移り変わりの激しい砂地へと変化してきている。
アルは、朱雀が指し示す、その指先だけを頼りに砂舟を滑らせていた。
「そうね。この速さなら、明日の夕方には扉に着くと思うわ」
「そうか…」
速度は落としたままだが、もうすぐ、耐え難い痛みを伴って陽光がこの舟を襲うだろう。天頂までの道程の半ばを過ぎてはいない今でも、その光は眩しく砂を灼いている。
「どれくらいの暑さなら、耐えられるんだ?」
「あら、あたし達は平気なのよ」
予想通りの返答に、アルは小さく頷いていた。
そんな彼を、朱雀は楽しそうに見ている。
妖精族の中でも力ある存在として畏れられ、敬われている自分達を前にして、この少年はまるで動じていない。自分達の力を知らない、或いは感じ取れていないわけではない。未知の存在に対する潜在的な恐怖や不安はあるようだが、何よりもアルはその鳶色の瞳で判断し、自分達を認めているのだ。
勇気だけではない。知恵も慧眼も備える彼なら、護りの対象としても相応しい。
「…なら、今日は昼過ぎまで走ろう。
それから休めば、明日の夜には行き着けるんじゃねぇか?」
一刻も早く、デーズィアを休ませたい。だが、今から夕暮れ時まで休んだとしても、その後、彼女を動かすことは難しいだろう。
今は少しでも頑張ってもらって、一気に休ませた方がいい。
それに、ここで砂舟を停めると、優しいデーズィアのことだ。自分が足手纏いになっているのでは…そう思ってしまう。
勘違いであったとしても、そんな想いを抱かせたくはない。
「でも、あなたは大丈夫なの?」
親しみを込めて、朱雀が尋ねる。
鋭い瞳は、前を見据えたまま、微動だにしない。
僅かな沈黙が訪れる。その後、乾いた唇は、押し殺したように掠れた声を零していた。
「やってみるさ」
デーズィアのことは、彼ら、四聖神将が守ってくれるだろう。心配はしていない。
だが、自分はどうだ。
危険なことは、『海』で育ったアル自身が一番よく知っている。正午過ぎまで砂の海を旅するなど、自殺行為だ。
以前の彼なら、とてもそんな判断を下さなかっただろう。
だが…デーズィアの為なのだ。しかも、考えることは、ただ自分のことだけでいい。
そうであれば、できないことはない。
朱雀も、そんなアルの判断を分かっているのだろう。それ以上は何も言わない。
金色の砂粒が茫洋と広がり始めている。
死の領域であったとしても、ここ、砂漠は「大地」の力が最も強い場所であり、その力は即ちあらゆる存在の「母」となる。
その地母神の胸の上を、小さな砂舟は時代の結節点を目指して走り続けていた。
気付けば、朱雀が明るく陽気な笑みを向けている。その奥に柔らかな温もりを感じながら、アルはふと気になっていたことを尋ねていた。
「一つ、訊いていいか」
「どうしたの?」
静かに、言葉を選びながら続ける。
「エルナシオンは、何処にでも存在してるんだよな?」
確かデーズィアはそう教えてくれた。
「そうよ。
今、ここにだって存在しているわ」
軽く、手を滑らせる。周囲を、辺りの砂地を示しながら。
「この世界と、互いに関係を交えることは無いんだけどね」
「なら、どうして、あのペンダントで、ここに扉を開けられないんだ?」
あの《鍵》は、扉を示すだけなのか。それとも、扉を開ける為のものなのか。いや、それだけではなく、開けた途端に『創始の緑樹』の『力』まで引き出してしまうのか。
デーズィアにも分からない、最も曖昧な部分だ。
「当然でしょ?」
だが、朱雀は面白そうに笑い声を上げている。
本当は、アルも気付いているはずなのだ。ここに扉を開けられるのなら、デーズィアをわざわざ危険な目に遭わせたりなどしない。
「あの《鍵》は、型に合った扉しか開けることはできないの。つまり、守り手が『樹』に封印をして、この世界へとやって来た扉だけしか、開けられないのよ。
そして、その場所や開け方を伝えるのが、あたし達の最初の役目」
「…だろうな」
それはつまり、デーズィアの意志など挟み込まれる余地が無い決定なのだ。
朱雀達を召喚しなくては、エルナシオンへの扉は開けることができない。その開け方や位置は伝えられていないのだから。
デーズィアにしても、或いは万が一、軍がペンダントを手に入れたとしても、誰にも入り口は開けられなかったのだ。
四聖神将を召喚することも、扉を開けることも、全ては『何か』による定められた流れでしかない。
…だとすれば。
デーズィアは、少なくとも、その「機会」が訪れるまでは、ただ《鍵》を持っているだけの者でしかなかった。
それだけでしかなかったのに…今迄、こんなにも苦しい目に遭わされてきたのだ。
思わず、歯軋りしてしまう。
その『何か』とは、何だ? 何故、その為に苦しまなくてはならない?
運命? そんなものが何処にある?
若しもそんなものがあるのなら、何故、自分達は、今、こうして、迷い、決断しなくてはならない?
「命令」されるだけでいいではないか。
少なくとも、アルは自分自身が操り人形だとは思っていなかった。
この今も、『何か』は存在しているのかも知れない。だが、それは決して運命ではない。
「……」
朱雀には、もっと大きな視野が与えられている。だが、だからと言って、今、目の前で憤りを感じているアルを蔑むつもりはなかった。
自らもまた、更に大きな存在の欠片でしかないのだ。
朱雀の視線に、不意に我に返ると、アルは更に尋ねていた。
「『樹』の『力』だけどな」
「えぇ」
「解放したら、その扉を通じてしか使えないのか?」
具体的に、どんな『力』なのかはよく分からない。だが、軍が追うほどのものだ。
扉は開けるつもりだが、できれば『力』は解放したくない。或いは、解放してしまったとしても、扉を通じてしか用いることができないのなら、悪用されても対処の方法はあるだろう。
「違うのよ。
『樹』の『力』は創造の力。エルナシオンすら、自由に創り変えることができるの」
「……最悪じゃねぇか」
「使い方によってはね」
そこで朱雀は、興味深そうにその鳶色の瞳を覗き込むと言った。
「あなたなら、『樹』の『力』をどうするの?
どちらにせよ、『力』は解放されることになるわ」
…それもまた、決められた流れか。
少年は、砂舟の操縦に専念するかのように、朱雀の視線を僅かに避けてしまった。
…デーズィアは、頼めば、アルの言う通りに『力』を使ってくれるだろう。
彼自身は、その巨大な『力』にまるで魅力を感じない。だが、軍を倒すことはできるだろう。デーズィアを護り続ける為に使うこともできるだろう…
……いや。
分かっているのだ。それは新たな敵を呼び寄せることでしかない。楽天家が持つ空想だ。そんな夢想に縋れるような、そんな世界をアルは生きてきたわけではない。
一瞬の逡巡だ。
アルは鋭い瞳で朱雀を見遣ると、静かに言った。
「俺なら、その『力』で、『創始の緑樹』そのものを失くしてしまうな」
**********
黄金色に燃え広がる、砂の微粒子が目に痛い。
…流石に、そろそろ限界だろうか。
アルは朦朧とし始める意識の中で、『海』の航行を止め、休める場所を探そうとしていた。
止め処なく熱線を滴らせる溶鉱炉は、既に中天を過ぎて久しい。急がなくては。
だが、周囲には影を作ってくれそうな岩場は無かった。何処を見ても、砂の起伏が続いている。
(…天幕を使うか)
これだけの人数では心許ないが、我慢するしかないだろう。
デーズィアは大丈夫だろうか。今迄、よく頑張ってくれている。
振り返って確認しようとすると、逆に彼女の方が心配そうに見守ってくれていた。
その優しい視線に、安心させるような柔らかな笑みを返す。
…いつの間に、そんな笑顔ができるようになったのだろう。アル自身は、まるで気が付いていない。
十四歳の少年は再び前に向き直ると、ゆっくりと砂舟を止めようとした。
「待って!」
不意に、鋭い声がする。
朱雀だ。
背中に緊張を走らせるアルに、彼女は前方を指差して続けた。
「あれ、何だと思う?」
「…?」
〈鷹〉の鋭い視線が、地平の際に沿って滑る。
…あれは…?
「…小屋…だな」
見えているものが信じられず、アルはその単語を発することに躊躇いを感じてしまった。
この、砂だけが広がる砂漠の中に、たった一軒、小屋がぽつねんと立っているのだ。
ゆっくりと、慎重に近付いていくと…間違いない。確かに、この『海』の中に存在している。
だが、一体誰が、この死と隣り合わせの大地に、小屋など作ったのだろうか。
「幻覚…じゃないよな」
朱雀が、その呟きに頷き返す。疲れ切っている自分はともかく、彼女達は幻覚などに惑わされたりしないだろう。
なら、あれはやはり、本当に存在しているのだ。
「…行くぞ」
少し、噴射を強める。細かな砂が巻き上がり、砂舟は速度を高めていた。
廃墟なのかどうか、今はどちらでも構わない。まず、デーズィアを十分に休ませることができればいいのだ。
それに…どうも、あの小屋が自分を招いているように感じられて仕方が無い。
罠…だろうか。四聖神将が傍にいる状況では、そのような不可思議な罠があったとしても信じられる。
…だが、そんな危険を、どうしても感じられないのだ。
まだこの遠方からでは、扉の区別などつくはずもないのだが…小さな木の扉が、自分やデーズィアに向けて開かれている気がする。
その感覚は、小屋が近付くに従って一層強くなっていく。
(あれは…)
そんな少年の横で、朱雀は驚愕のあまり、思わず低い呻き声を上げてしまった。
背後を振り返ると、皆も厳しい顔付きで頷いている。
「どうかしたのか?」
「…いいえ、大丈夫よ」
敏感に反応するアルには、そう応えておく。
(珍しいこともあるものね)
だが、デーズィアの決断は、それだけ重要なのだ。
確かに自分達、妖精族や精霊達だけで決めることではないだろう。
今や目の前に佇む小さな小屋を見ながら、朱雀は僅かに苦笑していた。
だからと言って、直接関わるほどのものだろうか。この二人の準備が整ったとは言い難い。だが、今更、急いても仕方が無いように思える。
『時間』を超越したはずの存在が、時間に囚われているかのような感覚を覚え、朱雀の苦い笑みは深まる一方だった。
アルが、静かに空気の噴射を止める。
…彼は大丈夫だろうか。
足下の震動が消えていくのを感じながら、そんな心配をしている自分にも朱雀は驚いていた。
日干し煉瓦を積み上げた側壁には、窓がまるで見られない。もともと砂漠では開口部は極力抑えるが…光を入れないわけではない。天窓でもあるのだろうか。
砂の上にありながら、しっかりと根を張っているかのように安定して建っている。
廃墟…? いや、そうではない。今も息衝き、穏やかに蠢きながら、アルとデーズィアを迎え入れようとその小屋は誘っている。
小さな、木の扉が目の前で閉じられている。
アルは後ろのデーズィアの許に歩み寄ると、そっと彼女を抱き上げながら言った。
「入るか?」
「……」
少女は、何も言わずに頷き返す。
彼女自身も、自分達に話しかけてくる『言葉』を感じているのだ。
アルも黙って頷く。
…導かれている、誘われていることを分かっていながらも、それに反発する気持ちはない。
アルはまだ、自分自身を信じていた。
四聖神将も、二人を阻もうとはしない。それはつまり、差し迫った危機が無いことを示してくれている。
アルは少女を抱いたまま小屋へと近付くと、静かに扉を叩いた。
「お入りなさい、アル、デーズィア」
流れ出してきた声は、心身を共に、柔らかな温もりで包み込んでくれる。
名を呼ばれたことに対する疑問も思い浮かばないまま、〈鷹〉は扉を押し開いていた。
清澄な、翠色の光が不意に溢れ出してくる。
力ある光の波は驚く二人を飲み込み、あらゆる疲れや心配を洗い流していく…
「入ってもいいのよ、アル」
光の毛布の向こう側、優しい声が聞こえる。
アルはその声に従い、足を一歩小屋の中へと踏み入れていた。
翠の光の海に囲まれ、一人の女性の姿が浮かび上がってくる。
この光は、小屋の四方の壁から均質に流れ出しているようだ。そう気付いた途端、満ち溢れていた光は波が引くように壁際まで退いてしまった。
「あなたは…」
デーズィアのものよりも、更に一層澄んだ煌きを放つ黄金色の髪が腰の辺りまで波打っている。円らな金色の瞳は幼さを感じさせるが…その奥底には『何か』の流れが秘められているようだ。
畏怖の念を抱きながら、いつしかデーズィアはアルの逞しい腕の中から滑り降りていた。
身体の不調など、もうまるで感じられない。
そんな少女に向かって、彼女は僅かに腕を広げると微笑んだ。
「ようこそ、デーズィア」
迷いなどしない。十二歳の少女は、心からの喜びと共にその女性の胸に飛び込んでいた。
アルも、鳶色の瞳を微かに細めたものの、全くそれを止めようとはしなかった。
「デーズィア様」
突然、背後から玄武の声が聞こえてくる。
振り返ると、彼らの誰もが敷居を越えてはいない。
「私達は、外で見張りをしております」
女性の胸元に安心して顔を埋めていたデーズィアは、その穏やかな声に慌てて振り向こうとした。
だが、突如、木の扉が閉められてしまう。
「おばさま、どうして…」
見上げる少女の視線の先で、慈愛に満ちた瞳が優しく応えていた。
「きっと、私が入ることを許さなかったからでしょうね。
彼らは、妖精族の力ある存在ですから」
よく分からない。だが、それ以上、デーズィアは問いかけたりしなかった。
そんな彼女の額に愛おしむように口付けると、女性はデーズィアを少し離して言った。
「少し、水を浴びましょうね。
熱も疲れも、すぐにあなたの中から消えてしまうわ」
「はい、おばさま」
そんなもの、もう身体にも心にも残っていない気がするのだが…
心の底から信頼し切った様子で応えると、デーズィアは女性のしなやかな指先に導かれ、右手奥に現れた扉へと向かう。
その二人を、アルは一言も口にできずに、ただ見送っていた。
僅かな心の動きはあるものの、それが表現や動作にまで変わろうとはしない。まるで、自分が自分でないかのようだ。
…いや、確かに、まだ、ここには「自分」がある。
例え、どのような状況であっても、相手がどのような存在であっても、それを見失ってはならない。
扉を抜ける瞬間、一度だけ、デーズィアが振り返る。その面には、大好きな母親に手を繋いでもらっている子どもの、満足そうな笑顔が見えていた。
そして、少女は扉の向こう側へと消えてしまった。
「わ…あぁ……」
感嘆の溜息を吐く。
女性の後に続いて入った部屋は、一面、青い薄闇で覆われている。だが、その闇は恐怖や冷たさを感じさせるものではない。
見上げる丸天井に金や銀の美しい星を引き連れながら、デーズィアをそっと包み込み、守ってくれる…そんな淡い青闇だ。
その星が瞬く天井を、部屋の中央に立つ四本の柱が支えている。表面を薔薇石膏が覆う柱の足下では、銀光を放つ円形の水面が静かに佇んでいた。その水面は、吹いてもいない風によって、緩やかな波紋を描き出している…
「どう? 気に入ってくれたかしら」
小屋の外から見た限りでは、こんな大きな部屋は存在していなかったはずだ。だが、デーズィアはそんなことなど、まるで気にもしてない。少女が気にしているのは、全く別のことだ。
横に並ぶ麗人をそっと見上げ、遠慮がちに声を零す。
「このお部屋、使わせてもらってもいいんですか…?」
その言葉に、女性は微笑むとそっと少女を抱き締めていた。
「使ってもらえたら、嬉しいわ」
「ありがとうございます! …あの…」
もっと、何かを言いたい。だが、想いは、言葉は胸の中に生まれるのに、声が形にならない…
そんな幼い唇を、女性は美しい指先で塞いでいた。微笑を深め、続きを遮る。
「それが、相手に対する《本当》の想いなら、声にしなくてもいいの。
《全て》は、『言葉』として、相手にきちんと伝わるものよ」
「…はい、おばさま」
デーズィアは真剣な表情で頷いていた。
そんな少女に笑いかけながら、優しい手つきで衣服を脱がし始める。
女としての美しさを、少しずつ帯び始めている…そのか細い体からは、ペンダント以外のものが全て取り払われていた。
恥じらいなど、この女性に対しては思い浮かびもしない。裸のまま抱き上げられながら、デーズィアは安心した小鳥のようにその腕の中で丸くなっていた。
小屋の女性は水際へと歩み寄ると、深い慈しみに満ちた声で言った。
「ゆっくりとお休みなさい、デーズィア」
すっ…と、銀色の水盤へとデーズィアの体が滑り込む。
空色の瞳が開き、再び水面から現われた時には、もう既に優しい女性の姿はこの部屋から消えてしまっていた。
柔らかな翠色の光が、壁際で明滅している。
デーズィアが消えた扉を暫くの間見続けた後、アルは不意に我に返ったかのように、辺りへと視線を流していた。
左手にもう一つ、扉が見える。
左右の扉の間では、眩い黄金色の閃光を発する炎が、暖炉の中で揺れていた。
砂漠の夜は冷える。だが、家屋の中では、夜の最中でも暖炉など必要無いはずだ…分かってはいるのに、そのことにアルはまるで違和感を覚えていない。
ここには、炎が揺らめいていなくてはならない。
だからこそ、朱と黄に彩られた暖炉の火が、鋭い光の粒を抱いてここにあるのだ。
ただ、それだけのこと。
それだけ。
更に、目を転じる。
小屋の中央には、三つの椅子に囲まれ、テーブルが設えてある。
淡い木目が走る卓上に置かれているのは、編み棒だろうか。二本の編み棒の間には、微かに瞬く『何か』が渡され、巻き付いているようにも思える…
鋭い瞳が細められた時、この小屋の持ち主が突如彼の目の前に立ち塞がっていた。
「あなたは、きっと水浴びなどしないでしょうね」
不意に現れた微笑みにも動じず、〈鷹〉は黙って頷き返す。
「でも、その血と埃にまみれた衣服や体は、デーズィアには相応しくないと思わない?」
「…そうですね」
呪縛のようなその魅力から、少しずつ解放されている気はする。…いや、解放してくれているのだろうか。
それでも、アルの心中に疑念は湧いてこない。
疑いを抱くこと、それ自体が彼女に対して失礼なことになるだろう。
黒髪の下、鋭く煌く鳶色の瞳に、女性は満足そうに笑みを深め続けていた。
「では、これを使いましょう」
音も無く暖炉へと歩み寄り、次には躊躇いもせずに炎の中へとその整った指先を滑り込ませる。
流石に、息を飲まずにはいられない。
そんなアルの前で、彼女は何事も無かったかのように手を炎の下から引き出すと、その中にあるものを少年に見せていた。
砂…だろう。黄金色に輝く一盛りの砂が掌に見える。
とても軽く、吐息一つで宙に散り、消えてしまいそうでいながら…何故だろうか、深い重みでそこにあるように思える。そこになくてはならない、だからこそ、そこにある…
そこに存在する『力』を実際的に知ったわけではないが、彼の瞳はその片鱗を感じ取っていた。
「これを、あなたに浴びてもらいましょう」
「はい」
即答する少年に、女性は優しく問い返していた。
「熱そうだとは思わないの?」
黄金色の澄んだ瞳を真っ直ぐに捉える。
今はもう、落ち着いた気持ちで自分の言葉を伝えることができていた。
「熱いかも知れません。
でも、その砂であなたが俺を傷付けるのなら、それはきっと、そのことに何か意味があるのでしょう」
その言葉に、女性は再び満足そうに頷いていた。
「〈鷹〉のアル。あなたのその瞳には、《真》を見る力があるようですね。
でも、今はまだ、デーズィアに相応しいほどではありません。
勿論、デーズィアも変らなくては、あなたに相応しい女性にはなれないのですけれどね」
「デーズィアが変るのですか?」
あの純真な少女は、アルにしてみれば完全な存在だ。
だが、目の前の佳人は静かに続けている。
「そう。正しいことを為すには、力も、知恵も必要です。受身だけで、何事をも為すことはあまりにも難しい…
デーズィアは、あなたと出逢ったことで、そのことに気が付き始めています。
ですが、まだ邪なものさえも包み込んでしまう、大きな『正義』を知ってはいません。
アル。何かを、誰かを正しい目的で守り抜く為には、『静』と『動』を合わせた力が必要なのですよ」
「…はい」
しっかりと頷く少年に一歩踏み出すと、その女性は手の中の黄金の砂を彼に振りかけていた。
熱さは、まるで感じない。
アルが見ている中で、驚いたことに衣服からはあらゆる汚れが落ち、その衣服そのものも新しい質素な素材のものへと変わっていく。
白を基調とした柔らかな布地には飾り一つ見当たらないが、それは目にする者に美しさと安らぎを感じさせてくれる。
…いや。
それ以上に変化したものがある。
だが、それはアルの鋭い瞳にも、捉えることができないものだった。
「どうですか、アル。
あなたは、デーズィアに相応しい人間になりたいと思いますか?」
「はい」
正直に、アルは答えていた。
その鳶色の双眸には、今や素直さと限りない優しさが穏やかな光となって満ちている。
だが、彼の胸中がどれだけ黄金の光に満たされても、未だ《影》は巣食っているのだ…
愛おしむように頷くと、女性は暖炉の横、向かって左手の扉をゆっくりと指し示して言った。
「では、あの部屋にお入りなさい。
見事に事を為せば、あなたは第一歩を踏み出したことになるでしょう」
「何を為せばいいのですか?」
問い掛けるアルに、澄んだ瞳は鋭く彼を見据えた。
「私が望んだことをですよ、アル」
少年はそれ以上は何も訊かず、すぐに扉へ近付くとそのまま入っていった。
アルが扉を閉めた直後、右手からは純白の美しい衣装を身に纏ったデーズィアが顔を覗かせていた。
黄金色の髪はその清爽な煌きをいや増し、細い手足は透き通る光を帯びている。空色の瞳には、最早怯えや疲れも見えず、その心の儘に翳り一つ無い優しさを映し出していた。
「おばさま、ありがとうございます…こんなに素敵なお洋服までいただいて…」
「いいんですよ、デーズィア」
何時の間にか、女性は椅子に腰掛けると編み棒を手にしている。
編み棒には細い、今にも切れてしまいそうな程に細い金色の糸が渡されており、編み上がった布地は卓上に折り重なっていた。
「おばさま、アルは…?」
女性の傍に歩み寄りながら、彼の姿が見えないことに小首を傾げている。だが、次には、その視線は布地に織り込まれた銀の流れに吸い寄せられていた。
金色の光の中に、幾筋もの銀の糸が複雑な模様を描いている。その美妙な銀光の図柄に見惚れ、捕らわれ…もう少しで、デーズィアは女性の応えを聞き損ねてしまうところだった。
「過去の部屋に入ったのよ。
過去を認めなくては、未来もありませんからね」
足を止め、女性へと目を向ける。
「ここにいる私にしても、布地を見て過去を知ることはできても、今と未来は編み目から推測するしかできません。私自身にはできることでも、それぞれの様相は、それぞれの世界での制限を受けてしまうもの。でも、時間の流れを遥かに見渡せば、制限の中にあっても、自ずからこれからの模様は描き出せるものよ」
女性はそれだけを言うと、アルが入っていった扉へと優しさと厳しさの織り交じった視線を滑らせた。
デーズィアも、つられて瞳を扉へと向ける。
その瞳に心配の色が浮かぶのを見て、女性は微笑みながら問いかけていた。
「デーズィア。あなたは、アルのことがとても大切ですか?」
「…はい」
向き直ると、はにかみながら小さく…だが、しっかりと頷く。
「確かに、あなたの心はアルの全てを知っているのでしょうね。
でも、あなたの意識は、理性は、まだアルの全てを知ろうとはしていません」
「え…?」
「デーズィア。あなたの意識は、アルの全てを受け入れることで、あなた自身が変質することを恐れているのですよ」
「……」
「正確には、あなたの意識の一部ですけどね。
ねぇ、デーズィア。あなたは、アルを、これからもずっと、大切にしていきたいと思っていますか?」
「はい」
戸惑いながらも、即答する。
そんな少女に笑みを深めながら、小屋の女性は部屋の奥を指先で示すと言った。
「では、あの部屋に入って御覧なさい」
振り向くと、いつしか暖炉の右手に二つ目の扉が現われている。
「あなたの素敵なアルを、本当に受け入れる為に…」
その静かな言葉に背中を押されながら、デーズィアはそっと音も立てずに歩み寄ると、扉を押し開いていた。
灰色の海が、何処までも広がっている。
風が強く、砂粒だけでなく小石までもが入り混じった飛沫が、絶え間無くアルの体に叩き付けられていた。
彼が立ち尽くしているのは、粗末な港だ。外来からの船舶も訪れず、倉庫という名の小屋も、崩れかけたものが一つあるだけに過ぎない。
その倉庫の前。熱風に削られていく石壁の前で、今、幾つかの罵声が輪になって幼い子どもを取り囲んでいるのが見えていた。
「おい、俺達を裏切ったんだってな」
一人の少年が、…六歳程だろうか、男の子の体を蹴り上げる。少年の方も、決してそれほどまでも年上であるようには見えない。
既に血と涙と砂で汚れ切った子どもの顔は、苦痛と恐怖で狂い出しそうに歪んでいる。何かを話そうとするが、声すらも最早出てこない。息の塊りだけが、押し出され、大地に落ち、そのまま風に消されてしまう。
「あいつらに加わりたいんなら、別に構わねぇけどな。
その時まで、生きていられたらの話だけどなぁ?」
若者が嘲りながら、翳した鉄の棒を振り下ろそうとする。
だが、次の瞬間、その手の中から鉄棒は失せ、同時に後頭部の痛みで若者は昏倒してしまった。
「何?」
慌てて、他の少年や若者が身構える。
だが、それら五人が目を向ける間もあればこそ、一人は視認するよりも早く殴り倒されていた。
「情けないことをしてるんじゃねぇよ」
感情の欠片も無い、鋭い視線が残った四人を睥睨する。
〈鷹〉の冷淡な瞳に射竦められ、まるで動けない若者の一人が、瞬く間に地面に横たわってしまう。
…造作ない。
「あっ!」
「驚くことでもないだろう。
さっさと逃げるんだな」
静かにそう言うと、アルは威嚇するように鉄の棒を突き出していた。
残った少年達は貫く眼光から無理やり目を逸らすと、急いで逃げ出してしまう。倒れた仲間を助けることもしない。
「大丈夫か?」
アルが跪き、子どもの傷の具合を確かめようとした刹那、背中に冷たい気配が走る。
直後、体は子どもを抱え、横に飛んでいた。
すぐ脇を風が吹き抜け、少し遅れて銃声が耳に届く。
転がりながら振り返ると、視界の隅に、逃げたはずの少年が拳銃を構えている姿が映る。
「チッ」
激しく舌打ちすると、アルは子どもを放し、まだ手の中にあった鉄の棒を投げ付けていた。
真っ直ぐ飛んでくる棒を避けようと、二発目の銃弾はあらぬ方へ消えていく。
…次の銃弾は、打ち出されもしなかった。
素早く身を起こしたアルは折り畳んでいたナイフを抜くと、鉄棒のすぐ後から走り寄り、少年に斬りかかっていたのだ。
切っ先は躊躇いもしない…
噴き出す鮮血で、ナイフが、腕が、赤く染まる。
見事な身のこなしで、彼はそのまま傍で同じく拳銃を構えていた少年の頚動脈をまがうことなく切り裂いてしまった。
最後の一人は、震えながらもナイフを手に向かってくる。
だが、ただ目を見ただけで、アルの鋭利な視線に貫かれただけで、少年はそこに浮かぶあまりにも冷酷な光に勢いを殺いでしまい…次には、心臓を正確に突かれていた。
…造作ない。
自分の体が血に染まり、足下に最早息をしない『物』が転がっても、アルは顔色一つ変えていなかった。
当然だ。
手加減をすれば、後になって自分や仲間に危険が及ぶこともある。圧倒的な力の差で押し潰さなくては。その結果、相手を殺してしまっても、仕方が無い。その方が安全なのだから。
得物を手にした者は、自らの力を過信する。それだけに、一層、危険なのだ。
同時に、それは弱みを晒すことにもなる。そこを狙えばいい。
〈鷹〉の視線だけで身を竦め、震える少年達だ。得物だけを失っていたら、どうしただろう? …そんな問いなど、アルの中に生まれもしなかった。
「おい、もう大丈夫だぜ」
横たわり、ぴくりとも動かなくなった少年の衣服でナイフを拭うと、アルは男の子を振り返っていた。
だが、その言葉に我に返ると、男の子は悲鳴を上げて街の方へと逃げ出してしまう。恐怖に泣き叫ぶ声を聞きながら、アルは軽く舌打ちをしていた。
「なんだ、折角助けてやったのに」
質素な白い衣服も、今は再び血と砂に塗れている。
アルもまた、街の中へ向かおうと足を踏み出した瞬間、目の前に豊かな金髪を揺らす女性が立っていることに気が付いた。
全ての景色が弾け、崩れる。
直後、彼は柔らかな翠色の光に包み込まれていた。
周囲の壁は、柔らかな翠の光を投げかけてくる。
その光の海に身を浸しながら、目の前で彼女は黄金色の瞳を曇らせ、黙ったままアルを見つめていた。
小屋の中心で立ち尽くしながら、アルは呆然とした表情を隠すこともできなかった。
…恥ずかしさと、悔しさと。
思わず床に落とした視線の先で、右手の鮮やかな血痕は少しずつ薄れ消えていく…
不意に、両の拳を握り締める。
自分は…やはり、どれだけ願っても、デーズィアに相応しい人間にはなれないのだろう……
拳の隙間から、赤い糸が一筋流れ出す。
唇を噛み、体を震わせながら頽れてしまいそうな少年に、女性は哀れみの色を瞳に映すと静かに尋ねていた。
「アル…私が望んでいたことが、今は分かりますか?」
「……はい…」
搾り出される声に、彼女は続けた。
「では、もう一度だけやってみましょう」
「え?」
それは、思いがけない言葉だった。
正直に、アルの瞳には喜びが満ちていく。彼は、まるで〈鷹〉らしくもない反応をしている自分に気付いてもいない…
そんな少年に微笑み返すと、女性は美しい指先を再び、同じ暖炉の左手にある扉へと向けた。
アルは、それ以上は何も言わずに、躊躇いもせず扉へ駆け寄るとそこを抜ける。
「…私の推測した模様は、運命の女神のそれとは異なるのでしょうか」
大地に根ざした小屋の主は、アルにはまだ見ることができない卓上の敷布を振り返ると、憐憫の情を浮かべ静かに呟いていた。
扉の向こうに踏み出した途端、漆黒の闇に包まれる。
自分の指先さえ見えていない。
見上げても星は無く、吹く風も感じられない。
静寂と暗闇が、全てをデーズィアの前から隠してしまっていた。
先程までの浴場とは、随分違う所だ…そう認識するや否や、少女の胸は動悸を早め、恐怖が急速に襲い掛かってくる。
声にもならない悲鳴が、愛らしい唇から迸る間際、彼女の正面に灰色の点が現われていた。
驚いて、声を飲み込む。息を止め、じっと見つめる空色の双眸の前で、灰色の点は面となり、広がり始めた。
暗闇の世界が、灰色の空間へと塗り替えられていく。
一点から四方へと走り出した灰色の波は、震えるデーズィアの周囲を巡り、背後で再び一点へと収斂する。
…いや。
振り向く少女の目の前に、漆黒の闇がただ一点だけ、まだ残っている。
それは待つほどもなく、不意に大きく波打ったかと思うと、少しずつ膨張を始めていた。
灰色の空間を再び消そうとしているのではない。幅と高さと奥行きを持った、立体物へと変わろうとしているのだ。
ただただ身を震わせながら見守ることしか出来ないデーズィアのすぐ鼻先で、それは彼女と同じ大きさにまで膨らみ、人の輪郭を描いていく。
目や鼻の区別は無い。だが、輪郭はあまりにもはっきりしている。背に流れる、豊かな髪さえも……
(あれは…わたし……!)
他の誰でもない。あの闇でできた物体は、デーズィア自身にそっくりなのだ。
ふと、右手の灰色の空間に映像が浮かび上がる。
音も無く、動きも無い。
だが、そこに現われた姿に、少女は心から安心して泣きそうになっていた。
「アル…」
彼なら、どんな存在からでも守ってくれる。
喜びから駆け寄ろうとしたデーズィアの前に、彼女の《影》が割り込み、先にアルへと辿り着いてしまう。
刹那、アルの姿が揺らめく。
…それは、デーズィアがよく見知っているはずのアルなのだが…何処かが違っている。
重い暗闇が、少年の姿を包んでいる…
その映像が変化を始めた。
鋭く冷たい光が鳶色の瞳に宿り、今やナイフを手に誰かを殺そうとして……
「やめて…やめて…アル……」
彼の右手が、赤く染まっていく。
アル自身は、眉一つ動かさない。冷酷なまでに「何か」を切り刻んでも、まるでその表情は変わらない……
いつしか、デーズィアの頬は血の気を失い、そこには美しい煌きが止め処なく流れ落ちていた。手を胸元に強く押し当て、必死に目を逸らそうとするのだが…それは叶わなかった。
映像は次々と変化していく。
薬物に手を出し、醜く頬を緩めている姿…誰かとベッドの中で縺れ合っている姿…
「…いや…いや……」
何故、こんな映像を見せられている? 何故、こんなにも辛いものを…
今では、デーズィアにも分かっていた。
これらは全て、自分と出逢うまでにアル自身が行ってきたことなのだ。
アルの《全て》を認めるのなら…今迄の彼の『過去』についても、受け入れなくてはならない。
小さな胸の中を、恐怖と絶望が満たしていく。黒く、どろりとした粘液が体の中を広がり、手足は痺れ、やがて感覚が失せていく…
何も…もう…誰も、もう…信じない……
…アルも…そう、アルだって……
どす黒い闇が、優しい少女の胸中を支配してしまう寸前、小さな黄金色の閃光が煌く。
小さな…小さな光だ。
同時に、深く静かな声が漣のように広がってくる。
「アルの『過去』は、きっと、この通りだったの…」
自分の声、だろうか…
「…でも、これは『今』や『未来』とは違うの」
……
「『過去』が《本当》とは限らないもの……」
………
自分にとって、《本当》のアルはどんなアルなのだろう?
…問いかけるまでもない。
今のアルこそ、自分を必死になって、力の限り守ってくれるアルこそが、デーズィアにとって《本当》のアルなのだ。
過去だけが、《本当》ではない。
自分は、《本当》のアルを知っている。
絶対に、彼は自分を裏切ったりはしない。
信じないなんて、有り得ない。
少女の胸に、温もりが満ちていく。黄金の閃きは波となり、速やかに暗闇を追い出していく。
目の前には、立ち尽くすアルの姿があった。
体が温かなうねりに浸されるに従って、そのアルから影が滲み出てくる。
黒い闇は緩やかに流れ、デーズィアの背後に集まるとやがて人の姿を成し漂っていた。
輪郭が目の端に見える。
…あれは、そう、デーズィアの姿だ。
灰色の背景の中で、アルはその頬に優しさに満ちた笑みを湛えてくれている。
映像だとは分かっている。分かってはいるものの、素直にデーズィアは喜びと安心の溜息を吐いていた。
突然、少年のすぐ後ろに一人の軍人の姿が現われる。
(あれは…!)
ロンベルト大佐だ。感情などまるで映さない、冷徹な視線がアルを刺している。
手に光るのは、銃だ。
「危ない…!」
迸る悲鳴に、アルが振り返る。
デーズィアも駆け出そうとした瞬間、背後から彼女自身の声が聞えてきた。
「助けなくていいのよ…」
思わず、足が凍りつく。
「アルなんて、今迄何人もの人を殺してきたんだもの…」
少女自身の声は続く。
「…殺されても、仕方が無いわ」
大佐も、引き金に指をかけたまま止まっている。
「アルがしてきたことは、悪いこと…犯罪なのよ…」
アルも動かない。
「…認めるなんて、絶対にできない」
時間が澱み、全てが沈積していく。
「悪い人間を助ける為に、危険を冒すなんて…」
沈む…沈み込んでしまう…灰色の水底へ……
「…か」
俯き、前のめりに倒れそうになりながら…
「構わない…」
愛らしい口許は、必死に声を押し出す。
「構わない、構わない!」
空色の瞳を強く閉じ、全身で叫ぶ。
「今迄、アルは本当に、必死になって守ってくれたもの!
『過去』は変わらない…でも、『未来』は変わるのよ!
わたしは、アルを信じてる。わたしは、アルを守りたい。
わたしは《本当》のアルを知ってるんだもの!」
時間が流れ始める。
デーズィアはアルと大佐の間に割って入っていた。
アルは今迄、ずっと守ってくれた。今度は、自分が守らなくてはならない。
『過去』のアルは血と暴力と犯罪で染まっていただろう。
だが、アルは唯一人だ。
そして、その唯一人のアルを、裏切るつもりなど無い。
銃声が轟く。
デーズィアは目を瞑り、痛みに耐えようとした。
絶対に、わたしはここを逃げ出したりしない……
不意に、デーズィアは自分が柔らかな腕に抱かれているのに気が付いた。
ゆっくりと空色の双眸が開かれる。
目の前に、緩やかな金髪が流れ、その後ろでは柔らかな翠の光がそっと小屋の中を照らし出していた。
「デーズィア…」
その華奢な体を抱き締めながら、その女性は囁いていた。
「その想いを大切にするのよ…まだ、始まりでしかないけれども、あなたなら《真》を抱き続けることができるわ…」
「おばさま…」
知らず、涙が溢れ出す。
止まらない…止めたくもない。
何故なら、これは喜びの滴…
女性の腕の中で、デーズィアは心の儘に泣き続けていた。
「涙が、全て悪いものではないの。
思う存分、泣いてもいいのよ…本当に、よく頑張ったわね…」
黄金の澄んだ瞳は、その深みに厳格さと偉大さを秘めながらも温かな慈愛に満ち、少女の震える細い肩をそっと見守っていた。
白を基調とした、飾り気の無い衣服が今は赤く染まっている。
頬を打つ熱風に従い、朱は揺らめき、その輝きを変化させる。
鳶色の瞳を厳しく細めると、アルは降り懸かる火の粉越しに炎に包まれた建物を見上げていた。
辺りには、他にも多くの者が集まっている。
誰も、火を消そうとはしていない。最早、そんなことができる状況ではないのだ。迂闊に近寄れば、自らの命も危険に晒すことになる。
それほどまで、火の勢いは激しいものだった。
アル自身もそうだ。何かをしようとは思うものの、実際には手が付けられない。そもそも、砂漠の真ん中で容易に大量の水が手に入るはずもないのだ。
ただ、立ち尽くして見守るだけ。
…その時、不意に微かな悲鳴が耳朶に触れ、脳裏に突き刺さる。
「何だって?」
まだ、この火の中に誰かがいるのか。
周囲の落ち着いた様子からして、皆が既に避難しているものとばかり思っていたが…見ると、二階の窓辺に白いものが力無く垂れている。紅く燃え盛る炎を背にしているのは、細い腕だ。
鋭利な刃物の如く眼光を強めると、アルはすぐ傍で同じように立っていた男の腕を掴んで叫んでいた。
「おい、誰か助けに行ってるのか!」
「馬鹿かお前。誰が、あんな中に入って行けるんだ。
あの子には、諦めてもらうしかないな」
男の面には、悲しそうな表情が浮かんではいる。自分の無力さを責めているような雰囲気もある。
だが、それは上辺だけのものだ。
自分自身が助かってここにいる…その安心こそが、彼の本心であり、全てだ。
いや、それはここに立ち並ぶ者全てに言えることだ。
誰もあの白い腕の持ち主を助け出そうとはしない。できるものか。自分達はできる限りのことはしたのだ。
…だが、本当にそうだろうか?
「冗談じゃねぇぞ!」
窓から覗く白い手は、時折僅かに持ち上げられ、揺れる。
だが、その動きも次第に緩慢になっていく。
ここに、すぐ下に多くの人がいる。あの手は、そのこともよく分かっている。
なのに、誰も助けようとはしてくれない…その凄まじいばかりの絶望感。
アルは脇の建物に飛び込むと、水場を探した。
驚く住人を無視して、大量の水を出すと全身に被る。
濡れたまま飛び出すアルに向かって、怒声が響いた。
「おい、死ぬぞ!」
「やってみないと分からねぇだろうが!」
勿論、死ぬ気など無い。
行動せずに諦めるなど、アルらしくないことだ。同時に、全く勝算が無い状況に飛び込むこともまた、アルらしくもない。彼はそこまで愚かではない。
限界まで挑戦して、そして可能だろうと判断したのだ。例え僅かであってもその可能性があれば、アルは決して諦めずに果たそうとする。
悲鳴と罵声を共に浴びながら、少年は炎に包まれた建物の中へと飛び込んでいた。
堅固な石組みだ。柱が倒れてくる恐れは無い。気を付けるべきは火と熱、足元の障害と煙だ。
緊迫した状況下であっても…いや、そのような状況下であればこそ、彼の瞳はともすれば冷淡とも見える光を宿している。鳶色の瞳は素早く周囲を把握し、綿密な計算と沈着な行動で二階へと駆け上っていく。
かける時間は、短いほどいい。自分にとっても、あの腕の持ち主にとっても。
熱気が凄まじい勢いで渦を巻いている。隙を見てはアルをその腕の中に抱き込もうと、虎視眈々と狙い続けている。
だが、少年は慌てもせず、滑らかな動きで着実に目標の部屋へと近付いていた。
ドアは燃えて失われている。
袖口で口許を押さえながら飛び込むと、窓の近くで蹲っている幼い少女の姿が見えた。
最早諦めていた足音に不意に気付き、霞んだ瞳が上を向く。
「よし、もう大丈夫だぞ」
途端に煙を吸い込んでしまう。だが、咳き込む間も自分自身に与えはしない。
アルは歯を食いしばりながら急いで少女を抱き上げると、窓辺に足を掛けていた。
そのまま、飛び降りる。
見事に着地した瞬間、流石に〈鷹〉の目にも安堵の色が浮かんでいた。
歓声が上がる。
無謀だと、愚かだと嘲笑していたその同じ口許が、喜びの、安堵の声を発しているのだ。
アルは、そんな人々を一顧だにしなかった。
その目はただひたすら、腕の中の少女に向けられている。
その先で、少女もしっかりとアルの首に腕を回し、嬉しそうな笑顔で見上げていた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
アルは、ただ黙って優しく頷くだけだった。
少女を抱えたままゆっくりと立ち上がると、改めて建物を振り返る。
燃え盛る炎の勢いが、どうも尋常ではない。可燃性のものを、最初に設置していたかのような燃え方だ。
建物を見回していた少年の視界の片隅で、ふと、小さな影が動く。
「…?」
一階の部屋だ。
…まだ、人が残っている?
だが、助けを求めているような素振りは無い。
アルが注視している先に気付いたのか、腕の中から小さな呟きが、爆ぜる炎を背に静かに…だが、はっきりと耳に届けられた。
「あの人が、火をつけたの」
「……」
暫くの間、黙り込む。
火の粉が熱風に舞い、何かが崩れる音がする。
熱い。
赤い。
それは最早、建物ではない。一つの炎の塊だ。
「…立てるか?」
漸く、アルは幼い少女に尋ねていた。
「うん!」
精一杯に頷く笑顔が、痛ましい。アルはそっと彼女を下ろすと、その縮れてしまった髪を優しく撫でていた。
少女が、嬉しそうに笑い声を上げる。
アルは鳶色の瞳を柔らかく細めると、次には眼光鋭く建物を振り返り、走り出していた。
窓ガラスを、無造作に叩き割る。噴出す炎など、意に介さない。
部屋の中でじっと死を待っていた男が、物憂げに顔を上げている。
「おい、さっさと出てきな!
今はまだ、死ぬ時じゃないぜ」
耳元で喚く激しい劫火の怒声を縫って、背後の人々から罵声が飛んできている。
だが、まるで気にも留めずに、アルは半ば死にかけている男に続けていた。
「お前が生き延びた後で、死を与えるかどうかは皆が決めることだ。
お前が決めることじゃない。
お前には、今、ここで死ぬ権利なんかねぇんだよ」
そろそろ、留まるのは限界だ。
アルはそれだけ言うと、身を乗り出し男を引き摺り出そうとした。
拍子抜けしたことに、男は逆らいもせずに従っている。
犯人である男を助け出した少年に、観衆からは非難の渦が沸き起こった。罵りの言葉や怒りの声が、無数にアルの体へと突き立てられる。
〈鷹〉の眼は、そんな人々に冷ややかな光を返すと、そのまま躊躇いもせずに少女の許へと戻っていた。
「やい、てめぇ、どういうつもりだ!」
大柄な男が一人、前に出て掴みかかろうとする。
だが直後、鋭利で冷淡な視線に射竦められ、金縛りにあったかのようにその場に動けなくなってしまった。
感情も見せず、ただ眼光だけが次々と人々を刺し貫いていく。
不意に、水を打ったような静寂が広がる。燃え盛る音すら、息を潜めるかのようだ。
アルはそんな観衆の前に、犯人を少し乱暴に突き飛ばすと、静かに言った。
「こいつの処分は、勝手にしな。お前達が、解決する問題だ」
そして、少女へと向き直る。その姿に、漸く〈鷹〉は光を弱め、その頬に笑みを浮かべていた。
少女もまた、心からの喜びを頬に映し、見上げている。
…いや。
急に背を伸ばしたかと思うと、あの小屋の女性が見下ろしていた。
「よく頑張りましたね、アル。
でも、まだあなたの《影》は消えたわけではないの。
これは、始まりにすぎないのよ」
「…はい」
もう驚いたりもしない。
アルはその黄金色に輝く瞳を、重々しくも晴れやかな気持ちで見上げていた。
二人の周りの全てが、今は静止している。まるで、時が止まったようだ。
それに気付いてアルが先程まで燃えていた建物を見やった時…彼は、その光景に見覚えがあることに気づいて愕然としてしまった。
…そう、これは夢の中の出来事ではない。
先の、倉庫前の争いで、自分は確かにあの少年達を傷付けたことがある。
この火事の時も、自分は確かに観衆となって、この少女を見捨てていたのだ……
「そう…これらは全て、あなたの過去。実際に遭遇してきたことなのよ」
唖然とする背中越しに、静かな声が聞こえる。
思わず、恥じ入るように、アルは瞳を伏せてしまった。
「アル…」
不意に、柔らかな少女の声が聞こえてくる。なんて優しい声だろう…
そのか細く美しい音色に顔を上げると、アルは自分が再び翠の光に満ちた小屋へと戻っていることに気が付いた。
目の前のテーブルでは、あの女性がにこやかな笑顔で編み物をしている。今では、少年にもその編み目の中に示されているだろうことは理解することができた。
だが、それ以上は見ることが許されていない。
アルは椅子から腰を上げかけている少女へと、その視線を移していた。
…一瞬、誰だか分からない。…いや、正確に言えば分かってはいる。分かってはいるのだが…そこにいるのがあのデーズィアとは思えず、…いや、思えるのだが…
アルは息を飲み、ただ目を見開いていた。
「……」
声が、少しも出ようとはしない。
今迄でさえ、彼女はアルにとって清らな存在だった。だが、今、目の前に佇むのは、更に一層、美しさを増した少女なのだ。透き通るような黄金の髪は自ら光を放ち、空色の瞳にはより純真な想いが輝いている。
「どうしたの…?」
小首を傾げているデーズィアにしても、戸惑っているのは同じだ。
アルが一回りも二回りも優しく、力強くなっている気がする。鳶色の瞳には素直な煌きが宿り、温かな雰囲気がその全身から溢れ出してくる。
「…綺麗だよ、デーズィア」
正直に、アルはそれだけを告げた。それ以上の言葉を、思い付かなかったのだ。
途端に少女は頬を赤く染め、視線を落としてしまう。
だがすぐにアルの真剣な瞳を見上げると、はにかみながらも嬉しそうに微笑んでいた。
「ありがとう、アル…アルも、とっても素敵よ…」
恥ずかしそうに囁く優しい言葉に、アルは頭を振っていた。
「俺は、デーズィアが思っているような人間にはなれてないよ。
だけど、そうなりたいと、《本当》に心から思ってる。
…見守っててくれるかな」
「アル…!」
想いのままに、デーズィアは少年に抱きついていた。
アルもまた、細く頼りない少女の体をしっかりと受け止める。
そんな二人の様子に、小屋の主は微笑を深め、立ち上がると言った。
「アルもデーズィアも、互いに相手に相応しい人間になろうとしている限り、これ以上《影》を呼び込むことはないでしょうね。
さぁ、こちらに来て、今日はもう休むことにしましょう」
指し示す暖炉の脇には、今は一つしか扉がない。女性はそこに近付き扉を押し開くと、二人をそっと手招いていた。
扉へと近付くにつれ、その向こう側に大きな空間が見えてくる。
広い…左右に壁は見えるものの、奥行きはまるで分からない。蒼い薄闇がうっすらと流れ、その先を隠してしまっている。
踏み入れる足音も消されるほどの深い静寂が満ち溢れ、ひんやりとした冷気が二人に触れたかと思うと、その手足を包み込んできた。
だが、この優しさは何だろう。暗く、冷たく、静かで…なのに、それらは柔らかく身も心も、《個》の全てを抱き込み守ってくれる。心地好い厚みと重みを持った暗がり…
小屋の女性が先になって歩いていく。デーズィアはアルの横に並びながら、その視界に飛び込んできたものに気付くと瞳を大きく見開いてしまった。
見える限りの部屋の中に、ずらりと石の寝台が並んでいるのだ。
一つ一つが、異なった美妙な彫刻で飾られている。細かな砂が敷き詰められた中に並ぶその石の群れは、デーズィアに墓場を連想させた。
思わず隣を歩むアルを見上げてしまうが、砂漠の中で育った少年にはそんな風には見えていないらしい。彼にとっての墓とは、砂の中だ。墓標など、限られた岩場に彫られたもの程度しか記憶に無い。
女性が足を止める。
振り返って、優しく指し示すその先にあるものは…デーズィアには、やはり蓋を閉じた棺にしか見えなかった。驚いたことに、その寝台の側面には、華麗な花文字で自分とアルの名前が刻まれている。
それでも、デーズィアは躊躇わず女性の手に導かれ、その上に横たわっていた。
途端に、体中の全てが、デーズィアの全てが安らかな休息を望み、穏やかな深淵へと沈み込んでいく。
すぐ傍で、逞しい体が同じように横になってくれている。その温もりがまだ感じられる…
遠くで、静かな囁き声が告げていた。
「ゆっくりと、お休みなさい。
この部屋には、たった一つのものしか存在しないの。
でも、それは一つでありながら、《全て》を包んでしまうものなのよ」
瞼を閉じたまま、デーズィアは落ちていく意識の中で、小さく微かに呟いていた。
「アル…手を繋いでも、いい…?」
もう、聞こえないかも知れない。そもそも、声にもなっていないかも知れない。
体の中へと柔らかなものが忍び込み、感覚が遠ざかっていく…その先で、温かな手が力強く指先を包み込んでくれたのが分かる。
眩いばかりの黄金色の光が、その指先から流れ込んでくる。それは満たしている「何か」と争いもせず、共にデーズィアを抱き締めてくれる…
…デーズィアは崇高で純真な笑みをその頬に映すと、静かな眠りへと全てを任せ、溶け込んでいった。
第四章 終わり