表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三章 薄墨の城

「くっ…」

 深淵へと落ち込んでいた意識が、ゆっくり水面まで浮かび上がってくる…

 それに伴って、あちこちから痛みの信号が伝わり、やがてそれらは意識に吸い寄せられると人の形をとり、アルに肉体の感覚を思い出させていた。

「……」

 うっすらと目を開く。視線が何かの壁を捉えていることに気付き、アルは自分がまだ生きていることを確認した。

「…何処、だ…」

 聞こえる声は、耳慣れた自分のものだ。

 視界もはっきりしてくる。目の前にあるのは冷たい鉄の壁だ。装飾も何も無い。

 様々な感覚が蘇り、急速に意識がはっきりとしてくる。

 アルは口を閉ざし、瞳を細め、身動きせずに辺りを探った。

 やがて、音を立てないように気を付けながら、少しずつ、注意深く身を起こそうとした。

「…っ!」

 途端、左の上腕部に激痛が走る。

 慌てて右手だけで支え、身を半ば捻った時、アルの目にすぐ背後で横たわる少女の姿が飛び込んできた。

 向き直って急いで一瞥してみるが、少なくとも外傷は見られない。清楚な衣服に乱れも無く、翠色のペンダントもその胸元に収められているようだ。

 穏やかな呼吸に従って、幼い胸が上下している。痛みも感じていないのだろう…アルは自身の痛みを一時忘れて、心からの安堵の溜息を吐いていた。

 だが、すぐに全身から痛みの不協和音が沸き起こる。

 それは同時に、今が危険の只中にあることを知らせてくれる。

 アルは少なくともすぐ傍には誰もいないことだけを確かめ、デーズィアの横に座るとポケットから汚れた布の切れ端を取り出していた。

 血止めだけでもしないことには、体力は失われる一方だ。

 警戒はしているものの、差し迫った危機を感じない中で、彼は落ち着いて口と右手だけで器用に左腕を縛り上げていた。

 焦るのは、変化が起きてからでも遅くはない。その時が来れば、体と心と能力が最大限に高まり、敏速に動くことをアルは信じていたし、知ってもいた。

 まず自分の身体を調べてみるが、銃で撃たれた箇所以外は打撲だけらしい。骨折もしていないように思える。幸い、銃弾も貫通していて体内に残っていないようだ。

 持ち物はどうだろう。ポケットを探ってみるが、これといったものは…

 ふと、手の中に収まるほどの小さな木切れが触れる。あの事故でも、落ちなかったらしい。

 随分と懐かしい気がして、アルはそれを取り出していた。

 それは本当に小さな木製の笛だった。砂漠ばかりのこの辺りでは珍しい。

 何となく暫くその横笛を眺めていたが、やがて再びポケットに仕舞い込むと、アルは今度はデーズィアの様子をもっと詳細に調べ始めた。

 何度か確かめたが、本当に、大した怪我はしていないらしい。

 今も、ただショックで気を失っているだけだろう。

 ここで初めて、アルは音も無く立ち上がると、辺りの状況に目を向けた。

 鳶色をした瞳が鋭く細められる…それは、傷付いてはいても、どんな状態であっても、〈鷹〉のままの瞳だ。

 感じていたよりも、部屋は広いらしい。明かりは高い天窓に嵌め込まれた分厚い硝子を通して入ってくるだけで、中はかなり薄暗い。

 すぐ前に扉はあるが、重そうなそれは当然ながら閉じられていた。

 他の出口などあるはずもないだろうが、それでも現状の把握は大切なことだ。

 他に動き回る存在も、その気配も感じず、アルは薄闇の中に足を踏み出していた。

 そう…気配すら感じていなかった。

 だが、自分達からは遠く離れた奥の一角に、ぼんやりとした影が見えた途端、緊張が背に走る。

 薄い暗闇に沈みながら、壁に身を凭せて座り込んでいるその影は…まるで動く様子が無い。

 それに…

(……)

 それに、まだ、それは自分達よりも幼い子どもに見える…

 勿論、幼いからと言って安全ではない。

 アルは警戒しながら、滑るような足取りで部屋の奥へと向かった。

 近付くにつれ、闇が薄くなる。

 間違いない、まだ少年だ。十歳程度だろうか。

 衣服のあちこちは裂け、赤い傷がまだ生々しく覗いている。右の胸元には、一際大きな鮮赤の痕が見えるが…

(……!)

 その酷く窶れた少年の姿に、アルは思わず低い呻き声を上げてしまった。

「…ロム……」

 見間違えるはずも無い。

 確かに、その少年は〈俊足〉のロムだった。

 アルは駆け寄ったりはしなかった。

 手の甲を僅かな唾液で湿らせると、そっとロムの唇の前に寄せる。

 …生きているのだろうか。

 恐ろしい一瞬が過ぎる。

 だが…本当に微かではあったが、甲に呼気を感じる。

 喜びの表情を浮かべたのも束の間、アルは少年の体の周囲をまず調べていた。

 少なくとも、彼に分かるようなトラップは無い。

 それが安全を保障するわけではないが、疑心暗鬼になっても先には進めない。

 続いて少年の体に触れると、アルは右胸の銃痕を調べていた。

 粗雑ではあるが、手当てはしてもらったようだ。

 …だが、何故?

 更に他の傷も調べようと視線を滑らせた瞬間、彼は再び声を漏らしてしまった。

 ロムの右手は…

 …全ての爪が剥されているのだ……

 左手は……

 ……

 そこには最早、指と呼ばれるものは存在していなかった……

「…くそっ!」

 強く噛み締める唇から、赤い糸が流れ出す。

 だが、暗く深い怒りに囚われながらも、アルはそれ以上の感情の吐露を見せなかった。

 不安定な心情は隙を生む。

 アルは自分の服地を裂くと、できる限りの止血を試みていた。

「ん…」

 不意に、背後で柔らかな吐息が零れる。

 その穏やかな気配に、アルは急いでロムの傷を布で隠してしまった。

「…アル?」

 ぼんやりと、自分を探す声。

 起き上がろうと、身を起こす衣擦れの音。

 …だが、アルはまだ、振り返ることができなかった。

「アル? …その人は…?」

 薄暗い影の向こうに霞む二人の姿に、デーズィアは少し怯えた声を出していた。

「…俺の仲間だ」

 まだ、デーズィアには覚られてしまう。

 胸中の黒い感情すら押し殺そうとしながら、アルは声だけを漏らしていた。

「あと、二時間と持ちこたえられないだろう…」

「そんな…!」

 慌てて立ち上がると、二人に近付こうとする。

 だが、次に聞えてきた言葉の波に、デーズィアは凍り付いたように足を止めてしまった。

「来るんじゃねぇ…!

 …見ない方がいい……」

 その声には、昨日までのアルとは違う「何か」が含まれていた。

 重く厚い、闇が…影が彼の姿を包み込んでいる気がして…

 デーズィアは思わず瞳を伏せてしまった。

 …だが、彼女の心に占めていたのは、恐怖ではない。

 それは、悲しみだった。

 冷たい空間に、静寂が満ちてゆく。

 悲しみと、怒りとが静かに広がり…だが、その二つの感情は反発しあうことなく、互いに優しく触れ合い、互いに波を飲み込んでいく…

 やがて、アルは一言も口にしないまま立ち上がると、鉄の壁に拳を打ちつけていた。

「…馬鹿野郎……」

 先程までの冷静さが失われている。

 だが…今の彼には、この発露が必要なのだ。

 命令通りにしていれば、ロムも…そして、自分も、ここまで苦しむことは無かったはずだ。

 そうとは分かっていながら、同時に、アルはロムの思いも認めていた。

 アル自身にしても…ロムが危険になれば、命令など無視していただろう…

 組織や個人の安全など、顧みない瞬間もある。

 勿論、それも分かっているのだ…だが……

 その時、不意に、彼の逞しい背に温かな存在が触れた。

「アル……」

 微かに聞こえる囁きは、震えながら…深い悲しみと苦しみを秘めている。

 偽りではない。同情ですらない。

 それはもっと心の奥から湧き上がる、《真》の想いだ…

 その想いは…願いは…祈りは、少年の暗闇に触れ、慄きながらも温もりと共に胸中からその影を追い出していく…

 何て優しい…穏やかな黄金色の波だろう……

 暫くの後、アルは溜息を一つ零して呟いていた。

「…ありがとう、デーズィア」

「アル…」

 そこで漸く振り返ると、彼は少女の頬に流れていた涙をそっと拭うと言った。

「でもな、デーズィア…覚えててくれ。

 あれが……俺の、本当の姿なんだよ…」

「……」

 様々な想いが込み上げ、何も言えずに頭だけを振っている。

 そんな少女に、アルは僅かに笑みさえ浮かべることができるようになっていた。

「何処も痛くはないか?」

「…はい」

 やっと、それだけは言える。

 そんな優しく愛らしい少女に頷いてみせると、アルは冷たい床に腰を下ろしていた。

 続いて、デーズィアもそのすぐ隣に座り込む。

 まだ濡れている空色の瞳が、アルを見つめる。その視線に応えるように、アルは小さな横笛を取り出してみせた。

 今、何をしてもこの部屋から逃げ出すことはできないだろう。

 まず動くべきは、こちらではない。相手の方だ。

 その為には、まず知らせなくてはならない。こちらが目覚めたことを…

 …そうは思っていても、木製の笛を取り出した理由の多くが、隣に寄り添う少女の為なのだと…アルは自分でも気が付いていた。

 笛には、五つの穴が開いている。アルは右手だけでそれを握ると、穴の一つに口を当て、空気を送り込んでいた。

 不思議な、柔らかい音色が流れ出す。アルの風体からは、とても想像できないほどに軽やかで美しい旋律だ。

 少年は、音楽に触れた経験は殆ど無い。酒場や宿屋で聞くことはあるが、その歌や曲を今、思い出しているわけでもない。

 …いや、無意識には思い出しているのかも知れない。ただそれは、彼の体と心の奥底に染み付き、彼自身のものとなった音だ。

 半ば瞳を閉じながら奏でる音色は、素朴で温かな大地の広がりを描き出す。

 砂、大地、光。温もり、風、空。

 どれもアルにとって身近な存在だ。果てなど感じさせない、無限の広がりを持つそれらが、音の連なりとなってデーズィアの心の中へと静かに滑り込んでいく。

 何て大きく、何て優しいのだろう…

 砂漠の世界は過酷だ。だが、そこに穏やかな顔が無いわけではない。

 それらもまた、砂漠の力だ。

(アル……)

 胸の中に満ちていた苦しみや哀しみ…あらゆるものが、より大きく広いものによってそっと包み込まれていく……

 それは、短い時間だった。

 そうではあったが、このうえなく澄み切った黄金色に溢れる時の流れが、二人の間を行き交い、銀の調べをその身に抱く。

 …やがて、緩やかな旋律が消えていくと、デーズィアは幼い唇を開き、言葉を紡ぎ出そうとした。

「アル…」

 この想いを、言葉を、声に……

 少女が小さな願いを遂げる寸前、だが、声は音を失った悲鳴に変わってしまった。

 ギッ、ギィ…

 部屋の扉が震えている。

 アルは押し開かれていくその扉を見つめながら、黙って笛を仕舞うと瞳を厳しく細めていた。

「目が覚めたかな…」

 平坦な声が、扉の隙間から滑り込んでくる。

 デーズィアを海から救い上げる時、聞こえた声だ。

(……)

 あの時の冷酷な視線を思い出し、背に緊張が走る。

 アルはゆっくりと立ち上がると、男と同じく抑揚の失せた声で応えていた。

「あぁ、気持ち良く寝かせてもらったぜ」

 先程、一瞬過ぎった緊張など微塵にも感じさせない、静かな口調だ。

 〈鷹〉の瞳はあくまでも鋭く、入ってくる人影を見守っている。

 銃を構えた兵士が二人。その得物の先には銃剣が沈んだ光を返している。

 その二人に挟まれて、栗色の短髪をした男が姿を見せていた。

 黒縁の眼鏡と、蓄えられた口髭。砂舟に乗っているのを見かけただけだが、忘れられない容貌だ。

 何よりも、その冷たい視線は忘れたくても忘れられないだろう…

「正直に言っておこう。ここまで苦労するとは思ってもいなかった」

 その言葉は、圧倒的に有利な者だけが告げるものだ。

 そして、その立場を、アルもまた理解している。

「…貴様が、ロムを拷問したのか」

 分かってはいる。だが、確かめておかなくてはならない。復讐は、怒りは、そこから始めるものだ。

 感情を押し殺した言葉に、男は平然と応えている。

「拷問ではないな。話を聞いただけだ。

 愚かな子どもだった。谷の出口を思い出すだけのことに、左手の指を全部切り落とされなくてはならないのだからな」

「指を……」

 デーズィアは空色の瞳を恐怖で満たすと、溢れ出そうとする悲鳴を必死になって両手で抑えていた。

 部屋の隅の、動かない人影を振り返ってしまう。だが…その手には、粗末な服地が掛けられている。

(アルが…)

 見えないように、隠してくれたのだろう。

 再び戻した視線の先で、そのアルは静かに立っている。

 …静かに? デーズィアは、アルが強く拳を握り締めているのに気が付いていた。

 その拳からは…細く、赤い糸が流れ出している…

 それを目にした瞬間、デーズィアは立ち上がると、アルの逞しい腕にそっとしなやかな指先を添えていた。

 たったそれだけの仕草だった。

 だが、感情のうねりは再び落着きを取り戻していく。

 …今はまだだ。まだ、怒りに囚われていはいけない…

 復讐も大切だ。だが同時に、デーズィアも救い出さなくてはならない。

 時間が必要だ…

「さて、デーズィア殿」

 立ち上がった少女に、男はそこで初めて目を向けた。

 小さな体が、刹那、震える。

「そろそろ、終わりにしましょうか。

 我々は、エルナシオンへの道を示していただきたいだけなのですよ」

 その言葉を、アルは鼻で笑っていた。

「教えるなよ、デーズィア」

 だが、普段のアルなら、このような態度をとらなかったかも知れない。

「…やはりそうか。知っているのだな」

 かつて知っていたのかどうか、は関係が無い。しかし今、この時点で、少なくともアルは『幼艾の国』についての情報を手にしていることになる。

 アルは胸中で舌打ちしていたが、悔やんだりはしない。そんなことは、全てが終わってからしても遅くはない。今は、一瞬一瞬が運命の分岐点だ。

「…あなたのように酷いことをする人には、教えたくありません」

 デーズィアは、自分が持っている勇気を全部使って、やっとそれだけの言葉を押し出していた。

「酷いこと?」

 心の中の動きを全く見せない…いや、そもそも心の中に動きなどあるのだろうか。まるで変化しない男の瞳が、アルに向く。

「デーズィア殿は、そこにいる浮浪者のことをよくご存知ではないようだ。

 私がしたことが酷いのなら、彼がしていることもまた酷いことでしょう。

 彼は平気な顔で人を殺し、その暴力で生き永らえてきたのですよ。

 あなたが掴んでいる、その腕でね」

 男の言葉に、アルは歯軋りをしていた。

 …だが、口に出しては何も言わない。

 その言葉が事実であることを、アル自身がよく知っている。

 この優しい指先が腕から離れても…それは仕方が無いことだ。

 清純な、愛すべき心を持つこの少女から見れば、自分は血にまみれた野獣でしかないのだ…

 その時、そっと添えられていた細い指先が、腕を掴み力を込める。

 驚く少年が見下ろす先で、デーズィアはまるで動じず、しっかりとした口調で男に言葉を返していた。

「いいえ。

 わたしも知っています。

 アルは、いつもわたしのことを気遣ってくれます。わたしのことを心配して、助けてくれます。必死になって、守ってくれます…

 …わたしは、《本当》のアルを知っています。

 あなたとは比べようもないほど、素晴らしいアルのことを」

「デーズィア…」

 違う! そんな、立派な人間ではない。

 思わずこの状況を忘れて、心配から少女の瞳を覗き込んでしまう。

 誤解だ。間違いだ。

 そんなアルの視線に、デーズィアは微かに頬を染めると目を伏せてしまった。

 だが、すぐにその空色の瞳を上げると彼を見つめ、はにかみながらも美しい微笑みを頬に浮かべる…

 …なんて、優しい想いに満ちた笑顔だろう。

 思わず、アルも喜びの笑顔を返していた。

 鳶色の瞳が、深い感謝の色に染まる。その視線は、暫く少女の澄んだ瞳から動かなかった…

「これはこれは…」

 平坦な口振りには、皮肉もからかいも映らない。

「仕方が無いですね。デーズィア殿からご協力をいただけないのなら、あれにもう一度、役に立ってもらいましょう」

 ゆっくりと、男は部屋の奥へと歩き始める。

「何をするつもりだ?」

 瞳に鋭さが戻る。だが、動けない。

 銃口は…見間違えようが無かった。命を奪うとは思えなかったが、デーズィアにも向けられている。

「これも、まだ少し、生きているからな」

 …初めて、その口許に感情らしきものが走る。

 薄く、凍りついたような…笑み、だろうか。あまりの不気味さに、デーズィアは身を震わせると、思わず目を背けていた。

 アルが制止の言葉を発しようとした、その瞬間…

 …幼いロムの体は力一杯蹴り上げられ、壁にぶつかっていた。

「やめろっ!」

 もとより抵抗するだけの意志も力も残っていない、ただの気絶した「体」からは、鉄の壁にぶつかっても呻き声さえ出てこない。

 直後、アルの胸中にはどす黒い闇が広がっていた。

 〈鷹〉の瞳は怒りに染まり、彼はデーズィアの指を振りほどくと動き出していた。

「アル!」

 恐怖の悲鳴は、だが、少年の耳には届かない。

 まずは、銃だ。

 無論、相手も黙ったまま銃剣を突き出してくる。この状況では、デーズィアを傷付けずにアルを撃つことは難しい。

 アルもそのことは承知している。

 なら、勝ち目はある。

 鈍い光の軌跡を素早く躱すと、そのまま兵士の一人に体当たりをしていく。

 肩から入り、相手の背を壁にぶつける勢いも合わせて、鳩尾に拳を打ち込んでいた。

 そのまま片足を軸に回転し、背後から襲ってくる銃剣を際どく避ける。

 すぐ横に突き出されている銃身を逃さず掴むと、アルは兵士を引き寄せようとした。

 銃を奪われまいと、兵士が力を込めて上体を僅かに反らす。

 その力の流れに逆らわなかった少年は、直後、その喉元に拳を叩き付けていた。

 鳶色の瞳は、口髭の男を捉え、鋭く見据える。

 その男は、まるで何事も無かったかのように、平然と腕を組みながら立ち尽くしていた。

 アルの視線も、正面から受け止めている。

 アル自身も、そんな男の態度に何の感情も抱かず、視線を動かさないまま、兵士の一人から銃を奪っていた。

 足下に転がるものを見もせず、だが的確に、銃剣で貫く。

 噴き出す血にも、目を向けない。

 今の相手は、この二人ではない。


 少年の身が赤黒く染まっていく…その光景を、少女は怯えた表情で見つめていた。

 不安、恐怖、…そして、不信…

 デーズィアの小さな胸に、見通すこともできない漆黒の暗闇が生まれようとしている…

 …どうしても、身の震えを止めることができないのだ。

 アルが…怖い……

 思わず俯きかけたその視線に、彼のポケットが映る。

 …そこから見えているのは、あの小さな笛だ。

 途端、胸の暗がりに黄金色の漣が溢れていく。暖かく、柔らかく…緩やかな光の波は、そっと、優しく、少女の心に語り掛けてくる…

 ……そう。…わたしは、《本当》のアルを知っている……

 彼の生い立ちや、今迄生きてきた過去、その環境を変えることなどできない。

 だが、このような争いにさえ身を置かなければ…《今》は……

 後悔の念が過ぎる。

 この争いに巻き込んだのは、自分自身なのだ。

 しかし、そのことを否定してしまうことは…同時に、彼との別れを意味してしまう…

 気持ちを乱したまま…その想いを、空色の瞳に映したまま…

 …ただ黙って、少女はアルを見守り続けていた。


 素早い少年の動きを見ながらも、だが男はまるで動こうとはしない。

 相も変わらず、笑み…のような微かな表情をその口許に張り付けている。

 アルが、僅かに足をずらす。

 その時になって初めて、男は自分から離れようとしない鋭い眼差しを正視したまま、腰に挿していた短い棒状のものを手にしていた。

 直後、逞しい少年の体が、見事な跳躍を見せる。

 手にしたものが何かは分からないが、危険な物に間違いはない。

 それが形を成す前に、この銃剣で…

 次の瞬間、眩い光の鋒が、アルの腹部を貫き…背中へと抜けていた。

(……っ!)

 剣…だろうか。それとも、銃…?

 棒の先端から伸びる光の帯に突き抜かれ、アルは得物を落とし、首を垂れてしまう……

「アル!」

 悲痛な叫びが、辺りに響く。

 だが、凄まじいばかりの熱と痛みに腹中を焼かれ、少年の意識はその声を聞くことも無く、既に暗闇へと沈み込んでいた。

 血と肉の焦げる匂いがする…

 デーズィアは、狂ったように髪を振り乱すと男に掴みかかろうとしたが、簡単に避けられてしまう。

 彼が手の中の光を収めると、少年の重い体は床に落ち、転がった。

「アル!」

 全く動かない少年の体に縋り付き、泣きじゃくるデーズィアの背に、抑揚の失せた声が投げ掛けられる。

「いかがですか、デーズィア殿。

 あなたがエルナシオンへの道を示してくだされば、この少年達には治療を施しましょう」

 その口許には、今はどんな感情も映されていない。

 言葉はただの音と化して、淡々と滑り出している。

 そんな言葉であっても少女は取り縋ると、僅かな躊躇いも見せずに叫んでいた。

「話します! だから、アルを…アルを助けて!」

「分かりました」

 絶叫も、この男には呟きと変わらない。

 軽く片手を上げると、それを合図に、入り口で控えていた一人の兵士が入ってくる。

 仲間の死体の脇を通ると、彼は男の前で止まり敬礼した。

「ご命令を、ロンベルト大佐」

「この少年達を治療してやれ…すぐにだ」

「はい」

 少女の目には…耳には、だがこれらの会話も見聞きされていない。

 彼女はただただ、アルの体を抱いて泣き続けていた。

 デーズィアの心の何処かには、軍に『創始の緑樹』の『力』を渡してはいけないと…その危険を呟く声がある。その結果、もたらされるかも知れない破壊の術によって、多くの人命が失われるだろうと…

 だが、今のデーズィアにとっては、目の前のアルこそが最も大切な存在なのだ。

 未来に生じるかも知れない可能性と、眼前に横たわっている事実。

 …そもそも、比較などできるはずがないのだ。

 そこに、選択の余地は無い。

「では、こちらへ」

 大佐が腕を取る。

 デーズィアは涙を流しながらも、逆らいはしなかった。

 静かに身を起こすと、その案内に従う。

 …アルは、どんなことがあっても、『力』を軍に渡すべきではないと考えていた。

 だが、今、自分は全て知っていることを話すつもりでいる…

 嫌われるかも知れない。

 もう、逢ってくれないかも知れない…

 それでも…それでも、デーズィアはアルに生きていてもらいたかった…

 少年達を残して、部屋を出る。

 デーズィアは、これからの《全て》を、たった一人で負うことを決意していた。


 **********


 そこでは、一つだけ…小さな卓上の灯りだけが、壁に黒々とした影を描き出していた。

 そこここに暗闇が巣食い、蠢き、飛び掛ろうと狙いを定めている…

 部屋で唯一の救いである光を背に隠すと、ロンベルト大佐は空色の双眸を覗き込んで言った。

「では、デーズィア殿。知っておられることを、全てお話していただきましょうか…」

 影に染まった無情な面にも怯えることなく、毅然とした美しい瞳が煌きを返す。

 少女はそのまま視線を逸らさず、自分が聞いて知っていることを洗いざらい話し始めていた…

 『幼艾の国(エルナシオン)』のこと。『創始の緑樹』のこと。そして、《鍵》となるペンダントのこと。

「…ただ、使い方は知りません」

 正直に、そのことも伝える。

 今、デーズィアは、ただ無心に…何も考えずに言葉を紡いでいた。

 考えるべきことは、未来ではない。

「…入り口を開ける、その方法は?」

 そんな少女の決意など意に介さず、大佐は淡々とした口調で…まるで事務的に尋ねるように、言葉を零している。

 デーズィアは、はっきりと答えていた。

「分かりません。誰も、教えてはくれませんでした」

「そうですか…」

 デーズィアは、彼女の身体には大きい、鉄製の椅子に腰を下ろしている。

 彼女は知りもしない。そこに、あの半ば死体と化した少年が座らされていたことを…

 ロンベルト大佐は視線を外し、体を起こすと、少女に背を向けた。

 だが、それは僅かな間だけだった。

 すぐに振り返ると、白皙な少女の腕に、嘗めるような視線を滑らせる。

「…」

 軽く手を上げる。

 途端に、入り口で控えていた兵士が二人、飛び込んできた。

 抵抗する間も与えず、彼らはデーズィアの首と手足を椅子に固定してしまう。

「な…」

 言葉が出ない。

 純真な光を宿す空色の瞳が、恐怖に乱れる。

 そんな少女の様子に、大佐の口許が僅かに歪む。それは、薄く凍りついた…笑みと言えなくもない感情の発露だった。

「あなたにも、あの少年と同じことをさせていただきましょうか…

 …もう、死んでいるはずですが」

「……!」

 硬く締め付けられていても、体は震えるものだ。小刻みに揺れる手足を、止めることができない…

 大佐は傍の机に向かうと、何かを探し始めている。

「あなた自身は覚えておられなくても、あなたの『血』は継いでいるはず。

 大丈夫です。死ぬほどの苦しみであっても、死んだりはしません。命の保障はしますよ…」

 自身の身に迫る恐怖に気を失いそうになりながら…だが、その脳裏にふと、血に塗れ、横たわる少年の姿が浮かぶ。

 その瞬間、震えが止まった。

 もう…死んでいる…?

「アルは、アルは…!」

 ロンベルト大佐は、振り返りもしない。

「役にも立たないゴミは、早く捨ててしまわなくてはいけませんよ。肉体は、腐りますからね」

「酷い…酷い…

 …騙したのね!」

 悔し涙が、どっと幼い頬に溢れ出す。

 自分はアルやあの少年を救うこともできず…全ての情報も渡したのだ。

「約束を守る者など、この世界に存在しません。あなたですら、守れていない…

 約束は、破られた時にしか存在しないものですよ…」

 少女の中で荒れ狂う激情になど頓着せず、大佐は仄かな灯りに道具を翳す。

「では…暫くの間、デーズィア殿の自我には眠っていただきましょうか」

 太く、長い釘が冷たく光を返している。

 右手に大きな槌が握られているのを見て、デーズィアは戦慄し、身悶えた。

「や…」

 …めて!

 だが、声は出ない…

 白く、愛らしい左手の甲に、釘の先端が触れる。

 その鋭さ…冷たさ…

「……!」

 心は絶叫する…

 だが、次の瞬間、釘は紛えることなく…

 …少女の掌を突き抜けていた。

 全身を貫く激しい痛みに仰け反ると、デーズィアの意識は完全に失せてしまう。

 だが、大佐は更に、小さく柔らかな右手の甲にももう一本、釘を打ち込もうとしていた。

 鋭い先端が触れても、最早少女は動かない…

 微塵の躊躇いも無く彼が手を振り上げた瞬間、突如、少女の胸元から翠色の光が迸った。

「何…?」

 光の奔流は、圧力を伴ってぶつかってくる。その勢いに危険を感じ、大佐は急いで少女の傍から退いていた。

 刹那、部屋に翠が満ちたかと思うと、次にはその輝く風は軽々と鉄の壁を吹き飛ばしてしまう。

 凄まじい光の爆発は、そのまま球面を描きながら広がり続け…瞬く間に、潜砂艦を含めた軍事施設の一角を土煙舞う廃墟へと変えてしまった。

 渦巻く熱砂が、瓦礫の山を積み上げる…

 その中心にありながら、だが、気を失ったままのデーズィアは、その美しい髪一つ損ねていない。

 手首を固定された左手からは、今も鮮やかな赤い糸が流れ床を濡らしており、血の気の失せた頬には涙の跡が痛々しくも見えている。

 その少女の周囲、まるで彼女を守るかのように、そこには今、四つの光の珠が浮かび漂っていた。

 珠はどれも、澄んだ翠色の光を放っている。

 その中の一つが、そっと滑らかな動きでデーズィアの傷付いた左手に触れると、ふわりと包み込む。

 美妙な揺らめきが、珠の表面に走る。

 その漣に飲まれ、釘は瞬いたかと思うと溶けるように消えてしまった。

 続けて、珠から小さな光が弾け飛ぶ。光の粒は首や手足に触れると、次には少女の縛めは全て解かれていた。

 光に包まれた甲の傷口には、七色の煌きが踊っている。清澄な光の舞い…その波が次第に周囲の翠に溶け込むと、後には無惨な傷跡一つ見られない、白皙な掌だけが残されていた。

 その頃になって、漸く瓦礫の向こうから多くの兵士が駆けつけて来る。

 少女の周りの、残り三つの光はそれらを迎えるように散開すると、輝きを強め大きくなっていく。

 やがて、その中心に人の形が浮かび上がってきた。

 珠の一つで、現われつつある人影が片手を振り下ろす。

 その指の先から、不意に紅蓮の球が走り出していた。

 爆音と熱風が、銃を構えていた兵士を飲み込み、砂漠の大気を震わせる。自らが起こした炎と風に翠の光は払われ、中からは燃えるような赤い短髪をした女性が現われ出ていた。

 女性の右手、別の翠の珠からは、銀色の髪を靡かせた若者が顕現している。

 その両手には冷たく光る剣が見え、見事な動きで宙を滑ると集まる兵士の体を切り裂いていく。

 悲鳴を上げる間も無く倒れていく兵士の背後では、最後の珠から藍色の髪をした青年が姿を見せ、静かに佇んでいた。

 その彼が、つと片手を上げ、払う仕草をする。

 直後、残っていた僅かな建物の残骸は、烈風と共に砂の海へと吹き飛ばされていた。

「んっ…」

 今や屋外に剥き出しになってしまった椅子の上で、柔らかな呼気が愛らしい唇の隙間から漏れる。

 …だが、それはただ、それだけのこと。

 デーズィアは周囲の悲鳴や怒号を感じながらも、聞いてはいなかった。

 無論、美しい瞳も閉じられたままだ。

 意識は深い泉の奥に沈み込んだまま、自ら創り出した薄膜の泡の中で頭を抱え、膝を丸めている…

 目覚めたくない…

 …目を覚ました途端、自分は激しい痛みに襲われてしまう……

 …それは、手の痛みだけではない。

 自分は…アルを救えなかった……

 自分自身の愚かしさが、許せないのだ。

 もう…生きているアルには出逢えない……なら、もう、…

 ……あの世界に目覚める必要など、あるのだろうか……

「目を覚ましてください、守り手よ…」

 不意に、優しい声が忍び込んでくる。

 温かな流れが暗く深い泉の奥へと滑り込み、泡の表面にそっと触れている…

「既に、封印は少しずつ解かれているのです」

 …? それがどうしたと言うのだ…

 だが、その温もりに逆らうには、デーズィアは優しすぎた。

 薄い膜が、静かに弾ける。

 …次には、デーズィアはその瞳を開いていた。

 破壊され、瓦礫と化した船や建物。

 銃声と、叫び声。

 湧き起こる、砂漠の陽光さえ隠してしまう程に激しい土煙。

 目や耳、全ての感覚に、周囲の状況が飛び込んでくる。

 だが、それらの恐ろしい情景も、また、あるはずの痛みも、まだ彼女の心を捕らえてはいない。

 その空色の瞳がまず焦点を合わせたのは、目の前の美しい微笑みだった。

「……」

 感情を失ったまま、それでも唇は震え、問い掛けようとする。

 何故、呼び戻したの…

 微笑み、膝をついているのは、黒髪を背に流す女性だ。

 彼女は恭しくデーズィアの手を取ると、その白く細い指先を額に押し当てて言った。

「私は四聖神将の一人、玄武と申します。

 私達は、ペンダントの主を御守りする為にこうして召喚されました」

「……」

 召喚…? 誰が…

 …ペンダントが?

「デーズィア様。

 多くの世界が長らく待っていた『機会』が、漸く訪れたのですよ…」

「……?」

 澄んだ双眸に、戸惑いと…苦痛が僅かに浮かぶ。

 少女の意識は、少しずつ、少しずつ…周囲の状況を受け入れ始めていた。

 同時にそれは、この目の前の女性の不可解な言葉にも耳を傾けることになる。

 …何を言っているのだろう?

「デーズィア様は、今より『創始の緑樹』の封印を解除し、その『力』の行く末を見守らなくてはなりません」

「……」

 何故、そんなことで呼び戻されなくてはならないのか。

 その程度のことで…

 アルは…アルは……

 一番大切なことを思い出し、急速に瞳が曇る。涙が、嗚咽が溢れ出す…

 玄武は刹那言葉を止めたが、見上げるその微笑みに哀れみを映しながらも、少女に告げた。

「…エルナシオンへ、ご案内致しましょう」

 待って! 待って…っ!

 小さな体は、流れる運命に、時間に、必死になって抵抗していた。

 足を踏ん張り、奔流に立ち向かう。

 もう…死んでいるかも知れない。

 だが、それでも、今、大切なのはアルを探すことだ。

 アルに逢いたい。逢って、謝りたい…

 玄武は、何も言わすにデーズィアの瞳を覗き込んでいた。

 少女もまた、はっきりとした意識の下、必死の想いと共にその目を見返す。

 ペンダントが、《鍵》がどうしたというのだ。

 『力』が、世界がどうしたというのだ。

 時間が、運命がどうしたというのだ。

 わたしは、わたしだ。わたし自身だ。

 ここに、こうしているのは、『わたし』だ。

「…分かりました。

 その少年を御探ししましょう」

 玄武は立ち上がると、素晴らしい笑顔でそう告げた。

 玄武の合図に気付き、小柄な女性が駆け寄ってくる。

 掌のすぐ上で渦巻いていた火炎の球を無造作に脇に投げ、生じた凄まじいばかりの爆風に短い髪を乱しながら、彼女は少し怯えた表情のデーズィアの前に跪いていた。

「朱雀と言います、デーズィア様」

 紅の髪の下から覗くのは、陽気な光を湛えた瞳だ。

「どんなことでも、ご命令ください。このふざけた建物、全部焼き尽くしてしまいましょうか」

 こんなにも愛らしい、いたいけな少女を苦しめた場所だ。

 憎々しげに辺りを見回す朱雀に、デーズィアは慌ててしまった。

「い、いえ…」

 彼女なら、本当にそうしてしまうだろう。

 急いで頭を振る少女に柔らかく目を細めながら、玄武は朱雀に声を掛けていた。

「デーズィア様は、アルと言う少年に逢いたいそうです。

 ここは、あの二人に任せて、私達はその少年を探しに行きましょう」

「分かったわ」

 頷き立ち上がると、朱雀は再び右手に炎を生み出していた。

 だが、今度は山吹色の淡い色をしている。蝋燭のように仄かに揺れる、優しげな光…

 その小さな揺らめきは、流れるように彼女の掌から離れると、宙を漂い彷徨い始める。だが、やがて行き先を定めたのか、引き寄せられるように速度を増した。

「では、デーズィア様」

 名を呼ぶと同時に、玄武は少女の細い体を抱き上げてしまう。

「あ、あの、わたし…」

 もう、自分でも歩けるはずだ。

 だが、玄武は温かな瞳で言葉を抑えると、そのまま少女を降ろしはしなかった。

 今はもう、風も無い。

 頭上には黒いぐらいの青空だけが静かに広がっている。

 ただ、降り注ぐ厳しい陽射は、暗い室内に慣れたデーズィアの瞳に、痛みを感じさせていた。

 ここはまだ、砂漠の中だ。

 随分と少なくなってきているが、まだ時折、怒声や悲鳴が広がる。それを聞くたびに、デーズィアは瞳をきゅっと閉じ、身を縮めていた。

 朱雀と玄武が軽やかに滑っていく足下にも、崩れた壁や天井の残骸が積み上げられている。いや…それだけではない。鮮やかな赤い泉を急速に乾かしながら、幾つもの死体も転がっているのだ。

 …とても、デーズィアにはここを歩いていくことなどできなかっただろう。

 自分の為に、ペンダントの為に、『力』の為に、死んでしまった者を正視することは、この少女の小さな胸には残酷すぎる…

 デーズィアは、最早瞳を開けることも無く、優しい玄武の腕の中で両手を組んでひたすら身を小さくしていた。

 その白い頬を、美しい雫が伝い落ちていく…

 流れる滴を、玄武は痛ましそうに眉を顰め見つめていた。

 彼女の目には、すぐ傍で銃を構える兵士が見えている。勿論、朱雀も気付いている。彼女は燃え盛る炎球を生み出すと、立ち塞がる兵に向かって投げようとして…

 だが、その手を、玄武は押さえてしまった。

「どうし…」

 不満気に口を尖らせる朱雀も、次には少女の頬に煌く真珠を認めていた。

 急速に、炎は小さくなり、消えてしまう。

 直後、銃声が響いていた。

 不意に、銃弾の前に人影が滑り込む。

「青龍!」

 藍色の髪をしたその青年が右手を翳すと、幾つもの銃弾が突然、空中で停止してしまった。

 続けて銃声が響き渡るものの、それらは全て宙の一点で微動だにしなくなる。

「私がお供しよう。朱雀には、あの始末をしてもらわなくてはなるまい」

 上げていた右手を動かし指差す先には、砲口を自らの施設に向け始めている潜砂艦が見えていた。

 既に、銀色の髪を靡かせる若者が、迎え撃とうと走り始めている。

 だが、その更に先に、もう一隻あるようだ。

 本来はまだ実用化されていないものだ。近くにあった訓練用や開発中のものも含めて呼び集められたのだろう。恐らくは、軍が持つ潜砂艦の全てが、ここにある。

「いいわ。白虎一人じゃ、荷が重いでしょうし」

 これからエルナシオンへと向かう上で、潜砂艦は破壊しておいた方がいい。

 小さな山吹色の炎を残したまま、朱雀は軽い足取りで巨大な船の方へと駆け去っていった。

 その時、再び、思い出したかのように銃声が響く。

 だが、幾度試みても、結果は同じだ。青龍によって、見えない壁に阻まれるかのように銃弾は空中で止められてしまう。

「行きましょう」

 何事も無いかのように玄武は静かに告げると、目の前に集まりつつある兵士を一瞥した。

 デーズィアと接している時とは、まるで別人だ。細められたその瞳は冷たく、獲物を狩り出すような残虐な光を放っている。

 射竦められ、身動きできなくなってしまう兵士の間を、平然と歩んでいく。

 小さな炎に導かれながら進む先に現われた者は、次々と玄武の視線を受け、僅かに指先を動かすことすら叶わない。

 やがて、彼らは崩れ落ちた建物の一角へと案内されていた。

 その欠けた壁の手前で、炎は自らの役目を終えて消失する。

 玄武と青龍が瓦礫を乗り越えると、かつては部屋であっただろう所の波打つ床の上で、砂漠の熱射に剥き出しのまま晒されている二人の少年の体が転がっていた。

「デーズィア様…」

 僅かに躊躇う優しい言葉に、ゆっくりと空色の瞳が広がる。

 視界が明瞭になるや否や、治療など施されもせず、ただ転がされているだけのアルの姿が少女の胸を刺し貫いていた。

「アル…!」

 玄武の腕から飛び降りると、少女は何も言わずに駆け寄っていた。

 何も言わず…いや、呼気も言葉も、喉に張り付いて干からびるのだ。涙すら、止まってしまう。

 体に積もる土埃や瓦礫の欠片。その更に下には、今もまだ生々しく、焼け爛れた腹部の傷跡が見えている…

 腕を投げ掛けたその体からは、生命の躍動など感じられない。これ程の日射の下にありながら、何故、この逞しい体はこれ程までに冷たいのだろう……

 …もう……

 小さな…本当に小さな拳が強く握り締められる。

 許せない…自分が、許せないのだ。いつも、自分のことを必死になって、力一杯助けてくれたアルを…

 …こんな目に、合わせてしまった……

 声も涙も、深い絶望の前では闇の中へと沈み込んでしまう。

 ただ、幼い体を、細かい震えだけが襲っていた。

 …その背にしなやかな指先がそっと触れると、静かな声が届けられる。

「デーズィア様。大丈夫です。この少年たちは、まだ生きています」

「え…?」

 信じられないことを聞いたように、顔を上げる。

 喜びと期待と、恐れと不安が胸中を荒らし、抑え切れない叫びが迸る。

「お願い…! お願い!」

 美しい黒髪の女性はそっと頷くと、デーズィアの頬に優しく触れた。

 アルとロム。二人の体を柔らかな翠の光が包み込む。

 あちこちで微かな七色の虹が踊り、散った先から傷口が塞がれていく。ロムの失われた指さえも、元の形を少しずつ取り戻している…

 どれだけの時間が流れたのだろう。時間など、流れたのだろうか。

 辺りの喧騒は? あの潜砂艦は? 近くで響く銃声は? 崩れる壁や天井は?

 少女にとって、そのような世界は存在していなかった。空色の瞳は、ただただ、目の前の翠の光の漣だけを見つめている。今、この瞬間には、「ここ」しか存在しないのだ。

 自分の身の上? 危険?

 今、アルを襲っている危険以上の危険があるだろうか。

 永遠にも等しい『時』の流れ…永遠とは、これ程も苦しいものか…

 だが、やがては翠の波も薄れ、消え入る。

 怖れに満ちた瞳が、そこで漸く周囲を認め…想いを籠めた視線が玄武に注がれる。

 深い愛情に溢れた微笑で、その女性は頷いてくれていた。

 何も声に出せず、だが多くの言葉と共に、デーズィアは玄武の細い体を力一杯抱き締めていた。

 そして、すぐに振り返ると、アルの上に被さるようにして確認する。

 腹部の傷は消え、彼女にも分かる安らかな呼吸が、その大きな胸を穏やかに上下させていた。

 生きている…そう、生きている…

「…アル……」

 その胸元に頬を寄せる。

 …暖かい……

 次の瞬間、彼女は大声を上げて哭き出していた。

 よかった…よかった…本当に、よかった……

 心に浮かんでいる言葉はただそれだけだが、体中に満ちる想いは、もっと深く、もっと温かな黄金色の光を放ち、《全て》を叫んでいた。

「んっ…」

 瞼が震え、僅かに口が開く。

「…? ……デーズィア…?」

 掠れた声が、言葉を押し出す。

 開かれた鳶色の瞳は、眩い陽の光に再び細められながらも、戸惑うように胸元の少女を見つめていた。

 少女は、ただただ、大きな声を上げて泣き続けている…

 次の瞬間、アルは全てを思い出していた。

 鋭い視線が、辺りを探る。

 あの男は、今、何処に…

 だが、記憶の中の状況とは、あまりにも異なる現状に気付き、再びアルは戸惑ってしまった。

 何しろ、今居るのは部屋ですらない。砂漠の日差しに剥き出しになった床の上だ。

 傍には、まだ心を戻していないロムの横たわる姿も見える。彼が無事なことは、遠目からでもはっきりと分かる、落ち着いた呼吸が示してくれていた。

 デーズィアの柔らかな髪の向こうには、一組の男女の姿も見える。

 呼気を整えながら、警戒の色を浮かべるが…その尖った眼差しを、この二人は正面から静かに受け止めていた。

 鋭く突き刺さる視線をそっと、穏やかに包み込む……

「……」

 それでも、アルはそのまま鋭い光を湛え、細めた瞳で探り続けていた。

 しゃくりあげている少女の頭に手を置き、少しずつ、身を起こす。

 その時になって漸く、アルは自分の体の傷が完治していることに気が付いた。

 思わず、視線をずらしてロムの手を確認してしまう。

 その指が形を成していることに、アルは更に思考を深く沈み込ませていた。

 再び鳶色の瞳を戻すと、黒い髪を背に流す女性を見上げる。

 …彼女は、優しく頬を緩めながら、そっとアルを見守っていた。

 アルは、そんな彼女へと、微かに頷く。

「アル…」

 不意に、胸元から愛らしい呟きが零れ出してくる。

 見ると、デーズィアがその濡れた瞳を上げていた。

「…ごめんなさい……ごめんなさい……」

 こんな自分の為に、アルは傷付いてしまったのだ。

 その上、自分は知っている全ての情報を話してしまった。

 …そのことが分かってしまったら、もう、逢ってくれないかも知れない……

 それに……

 …もう、…これ以上、……危険な目に遭わせたくもない……

 隠すつもりなど、毛頭ない。沢山のことを、全てのことを、語りたかった。

 それなのに、震える唇からは少しも声が流れ出してくれない。

 何もかも、知って欲しいのに…自分が今、どんな想いであるのかさえ、全て……

 もどかしさに、再び涙が堰を切って流れ出しそうになる。

 だが、次にはアルがそっと囁きかけてくれていた。

「悪かったな、デーズィア…

 俺なんて、何もできなかった……」

 それはまた、アルの本心でもあった。

「…!」

 だが、少女は大きく頭を振る。

 絶対に、そんなことは無い。

 アルが居てくれたからこそ、今、自分はここにこうしていられるのだ。

「さぁ、詳しい話は後にするぞ。まずは、ここから逃げるのが先だ」

 アルはそう言うと、少女を軽々と両腕で抱え、立ち上がる。

 真っ赤になって慌てるデーズィアを、アルは玄武の前に立ち、渡していた。

「俺の代わりに、護っててくれ。

 ロムのことも、頼む」

 そう言うと、アルは返事も待たずに瓦礫の壁を乗り越え、飛び出していった。

「アル!」

 心配に満ちた声が追いかける。

 だが、アルは振り返りもしない。

「すぐに戻る!」

 そう叫んだだけで、やがて逞しい少年の姿は崩れた建物の向こう側へと消えていった。

「…こいつは、すげぇ」

 そもそも、この場所にはどんな施設が建っていたのだろう。そんな特徴を示す何物も、最早残されてはいない。全てが崩れ、砂漠の大地に積み重ねられている。

 遠くでは轟音と共に火を噴いている潜砂艦の姿が見えるが…眺めている先からその形を毀ち始めている。

 …静かだ。

 戦闘行為があったことを告げているのは、あちこちに横たわり血を乾かす兵士の死体ばかり。あまりに大きな力の差は、一方的な破壊でその行為を終えていた。

 争いと死を身近に、それも数多く見てきたアルでさえ、僅かに哀れみを覚えてしまう。

 逃げ出せないのは、職業軍人であるからこそであり、その非はとうに隠れてしまっている指揮官にある。

 …少なくとも、自分なら、ここまで一方的な争いを最後まで命じることは無いだろう。

 もっとも、そんな思いを微かに抱いたからといって、警戒を解くわけではない。相手は職業軍人だからこそ、最後までこちらに挑んでくるだろう。

 素早い身のこなしで、瓦礫の間を暫く彷徨い続ける。

 状況の把握だけが目的ではない。

 デーズィアを連れて、ここから出るにはその移動手段がいる。まさか、灼熱の砂漠地帯を歩いて進むわけにもいかない。

 砂舟でもあれば…

 ふと、視界の隅を一人の兵士の姿が横切る。

 音も無く、落ち着いた動きでアルは傍の壁の影に身を潜めた。

 完全に、戦意を喪失しているようだ。生き残っているのは自分だけとでも思っているのだろうか。どうやら逃げ出す準備をしているらしい。

 知られてしまっては、危険な行為だろうに…

 大きな袋を両手に持ちながら、確かな足取りで何処かを目指している。

 アルは、そのすぐ後ろを静かに追いかけていた。

 逞しい彼の大きな体は、影から出ることもなく、足元の欠片一つ動かさない。

 やがて、その兵士は目の前に砂の海が広がる場所に出ていた。

 幾つか、まだ砂舟が見えている。

 これだけの砂舟が使える状態で残っているということは、つまり生存者がごく僅かであることを物語っている。

 天蓋から貫く厳しい陽光に灼かれながら、兵士はその手の荷物を一台の砂舟に運び込んでいた。

 ここへ運ばれてくる前に乗っていたものよりも、少しだけ大きいだろうが、扱えないほどではない。

「…あれにするか」

 低く呟くと、少年は冷たい笑みを浮かべていた。

 疲労を色濃く滲ませた表情で、兵士は数日分の水と食料を砂舟の奥に仕舞い込んでいる。これだけあれば、近くの街まで行けるはずだ。そこから先は…

 ぼんやりとそんなことを考えていた次の瞬間、彼は後頭部を殴られ、気を失ってしまった。

 殺すほどの相手でもない。深淵へと意識を沈ませてしまったその身体を船外へ放り出すと、アルは素早く船内を点検した。

 少年の目にも、この砂舟は壊れていないように見える。水も、砂漠で生きてきたアルにとっては十分過ぎるほどだ。

 他の兵士が現われないとも限らない。すぐに操縦桿を握ると、アルは空気を噴射させ砂舟を浮かせた。

 凄まじい勢いで噴き上がる砂が、倒れた兵士の上にも降り積もる。

 今、アルの脳裏にあるのはデーズィアのことだけだった。

 すぐにあの少女の所へ…

 直後、彼は背後に複数の気配を感じ、身に緊張を走らせていた。

 鋭い瞳と身軽な体が滑り出す前に、細くしなやかな腕が抱き付いてくる。

「デーズィア!」

 振り返ると、ロムを抱えた先程の女性と、他にも三人の男女が乗り込んでいる。

 その中の一人、赤い髪の女性は楽しそうに、大きな声で話しかけてきた。

「太陽を左にして進むのよ! その先に、『幼艾の国』の入り口があるんだから」

 一瞬だけ、流石のアルも躊躇してしまった。

 だが、すぐに前に向き直ると、黙って言われた方角へと舳先を向ける。

 …今はまだ、何も考えずにいてもいいだろう。まずは、安全な場所へと行きつくことが先だ。

 デーズィアも、この熱射の下では、長くいられまい。日陰を見付けて、休むことも必要だ。

 僅かに吹き始めた風が模様を描く『海』の上を、アルは記憶の中の地形を探しながら走り続ける。

 柔らかな温もりを背に感じながら…その鳶色の瞳は鋭く行く手を見つめていた。


     第三章 終わり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ