第二章 漆黒の湖
「んっ…」
乾燥で割れてしまった幼い唇の隙間から、微かな呻きが漏れる。
そんな自身の声に気付いた直後、デーズィアの耳には凄まじいばかりの空気の噴射音が飛び込んできた。
風が…?
……この震動は…一体……
「おい、気が付いたのか?」
不意に聞こえた乱暴な声に、身を竦める。
一度も聞いたことが無い声。
また、囚われたのか…
…だが、その粗暴な口振りの裏側には、少年のような響きも感じられる…
諦めも怒りも、今はまだ感じられない。ぼんやりとした意識のまま、少女は顔を上げようとした。
不意に、数発の砲弾が岩肌を穿つ。
その爆音に驚き、デーズィアは目を大きく見開いていた。
「今は、何も話すんじゃねぇぞ! しっかり、しがみついてろ」
目の前に見えたのは、夕陽に赤く染まった、大きな少年の背中だった。
有無を言わせないその言葉に、慌てて傍の手摺りに両の腕を回す。
…自分を何処へ連れて行こうとしているのだろう。
改めて、黒髪の逞しい少年を見上げる。
どうして、自分はここにいるのだろう。
不安と恐怖に怯える瞳は、だが再び聞えてきた砲声と飛び散る岩の破片に閉じてしまった。
風の音だけになると、今度はそっと、後ろを振り返ってみる。
砂上バイクは、今や岩石砂漠の中へと入りつつあるようだった。
何処までも続く、赤茶けた砂の海。その所々に、小さな島が頭を出している。
それら島々の、すぐ後ろに迫ってきているのは…
…デーズィアは、それを知っていた。あれは、軍の潜砂艦だ。砲門を開く為に、その身の半ばを砂の上に出している。
あれから逃れる為に、自分達は…
(パパ…!)
少女の脳裏に、つい先程の悪夢が甦る。
淡く澄み切った空色の瞳が、うっすらと濡れ始め…
まるでその様子を見ているかのように、砂上バイクを運転している少年が背を向けたまま怒鳴りつけてきた。
「泣いてる暇なんかねぇぞ!」
今迄にこんな話し方をされたことが無いデーズィアは、びくっと体を震わせると恐怖に満ちた視線を少年に送ってしまった。
気付いているのかどうか…彼は、前を見ながら言葉を続けている。
「俺はアル。お前は、確かデーズィアだったな」
「…どうして…それを…」
微かな声を、漸くの思いで押し出す。
上下に激しく揺れるバイクの中、少年が自分を一瞥したのが分かった。
鳶色の瞳が、刹那、怯えた視線を捉える…
アルは、そんな少女に、自分でも驚くほどの優しい声で続けていた。
「お前の父親に頼まれたんだよ。死ぬ直前に、お前を助けてくれってな。
まぁ、軍が嫌いな俺としては、断れなかったのさ」
これは、嘘だ。
…本当に、断れなかったのか。
アルは、街を出る時の情景を思い出し、その瞳を鋭利な刃物の如く細めていた。
だが、過去を振り返るなど、らしくもない。
〈俊足〉のロムの為にも、生き延びるのだ。
そのまま黙り込んでしまったアルは、砲弾を避けながら、眼前に迫りつつある赤茶けた断崖をあちこち探っていた。
巨大な岩が、視界の限り左右に続いている。その岸壁の所々を、狭い峡谷が切り裂いていたはずだ。中でも一番大きな谷は、そこを抜ける突風の激しさから「疾風の谷」とも、呼気に見立てて「巨人の谷」とも呼ばれている。その地のことを、アルはよく知っていた。かつて、彼はその谷を抜けて、街へと皆を導いたのだ。
「砂が無くなれば、潜砂艦もそれ以上は進めねぇからな。砂舟が相手なら、こっちが有利だ」
誰にともなく、呟いている。
夜間にこの地を抜けることは難しい。野営の準備をした方がいいだろう。
流石のアルも、疲れが目立ってきている。
「洞窟でも探すか…」
風や、かつては流れていた水に浸食された洞穴も多いと聞いている。確かに、自分も見かけたことはある。その一つを、見つけよう。
殆ど無意識にバイクを走らせ、砲弾を避けている。
…いや、少女のことすら一時忘れ、彼は探し出した峡谷目指して速度を上げた。
谷の中に入った途端、正面から猛烈な風が吹きつけてくる。
思いがけない突風に襲われ、デーズィアは小さく悲鳴を上げていた。
「大丈夫か?」
必死になって砂上バイクのバランスを取りながら、それでもアルが心配そうに叫んでくる。
「は、はい…」
悲しみや怖れも今だけは忘れ、力一杯バイクにしがみつきながら、デーズィアもまたアルに応えようとした。
風を避けるように細く目を開き、大きな背を見上げる。
この少年は、全力で軍から逃れようとしながら、同時に自分のことも心配してくれている…
こんな、見ず知らずの自分の為に……
今迄、家を出てから、本当に多くの信じられない人々を見てきた。
容姿や態度、社会的な地位など、何の目安にもならなかった。
欲望すら、当てにはならない。
唯一、恐怖だけが、人々の行動を知る僅かな指標となった。
…なのに。
何故か、この少年は信頼できそうな気がする。
そこに、「恐怖」が無いからかも知れない。
だが、それは「無謀」と紙一重だ。
それに…
…この少年の衣服は、血と埃にまみれている。…いや、少年自身が、血と埃と闇を纏っているようにも見える。
恐らく、自分が知りたくもないような経験と行為を繰り返してきたのだろう。
だが…それでも、気を失っていた自分を、今と同じ真剣な態度で守ってくれたのは彼なのだ。
……いや…
空色の眸が惑う。
…彼もまた、自分の『力』を、軍から奪い取ろうとしているのかも知れない……
逡巡していたデーズィアは、再びアルに焦点を合わすと、だが次には強く否定していた。
違う。
彼は、そんな人ではない。
そう信じられるほど、今の彼は必死だった。
視線を背後に回すと、潜砂艦が立ち往生している様が見て取れる。
だが、その姿もやがて、沈みゆく夕陽に照らされ鮮やかな朱に染まる岸壁によって、遮られてしまった。
峡谷の奥では、更に幾つもの谷が分岐している。
記憶の中の標と照らし合わせながら、アルはその一つに入る直前、少女を一瞥すると言った。
「デーズィア。そのまま、後ろを見張っててくれないか。
何か見えたら、すぐに知らせてくれ」
「はい、アル」
細く、透き通るような声が、風の唸りを縫って届けられる。
今迄に耳にしたことの無いほど、美しい音色だ…
少し、余裕が出てきたのだろう。そんな風に感じながら、アルは知らず鼓動を高めていた。
潜砂艦は投錨され、砂舟や同じようなバイクで追跡するはずだ。当然、この岩場に逃げ込む意図に気付き、早くから準備もしていたに違いない。それほどの時間的余裕は無いだろう。
だが、それは零ではない。その僅かな機会こそが、アルにとっては重要だった。
鋭い視線は、油断無く辺りを警戒し続ける。
その時、彼は見覚えのある迫り出した岩と、その影にある洞窟を見付けていた。
「しっかり見張っててくれよ」
アルはそう声を掛けてから、そっと、音も無く砂上バイクを停止させた。
ライトを点け、内部を照らす。
安定した光の帯が、洞窟の中を何処までも伸びていることを確認すると、再び砂上バイクを浮かべ、アルはゆっくりと、静かに滑り込んでいた。
「音を立てるな。
このまま、行ける所まで行ってみよう」
アルの囁き声に、デーズィアは怯えた目を洞窟の闇に向けながらも黙って頷いた。
二人の背後では、風が渦を巻き、通り過ぎている。遠くには、激しい噴射音も聞こえるようだ。
だが、もう間も無く日も沈み、夜の帳は素早く兵士達を捕らえてしまうだろう。
「こいつは、すげぇな…」
思わず零れた驚嘆の言葉が、幾重にも重なり虚ろに響いていく。
アルは砂上バイクを止めると、ライトを細くして目の前の巨大な空間を照らし出していた。
少し先から、遙か彼方まで広がる黒い液体が、煌きを返している。
地下の湖だ。
その水面には、漣一つ見えていない。
…恐ろしいほどの静謐が、湖畔で佇む二人を押し潰そうとしていた。
「よし」
暗闇と沈黙に怯えてしまい、何も言えずにいる少女の為に、声を押し出す。
「今日はここで休むか」
安心させるように、柔らかく…だが、それでも普段よりは気を張り詰めた声になってしまった。
不注意な声や言葉は、この空間そのものを崩してしまう…そんな怖れにも似た感情が次々と湧き上がって来るのだ。
アルはデーズィアの体を固定していた縄を解くと、バイク後部から油と角灯を取り出し、明かりを点けた。
燃える油の鈍い音が、周囲の闇と静寂を細く引き裂いていく。
砂上バイクのライトを消し、更に何かを取り出すと、アルはデーズィアの正面に立って話し掛けていた。
「ほら。飲み物を作るまで、これでも食べてな」
「あっ…」
差し出される乾パンを、慌てて受け取る。
続けて薄い毛布が、暗闇に浮かぶ純白の腕に渡された。
「チッ! あまり用意してなかったな」
乱雑な荷物を掻き回しながら、アルは軽く舌打ちをした。
これほど早く、あの街を出るつもりは無かったのだ。それでも、いつ追い出されてもいいように、幾つかの舟を選んで準備しておいただけ良かったのだろう。
自分自身はともかく、デーズィアには少しでも快適になってもらいたい。
十四歳の少年は、荷物の底から短く折った貴重な薪を数本取り出し、改めて火を起こし始めた。
油も薪も、どちらも貴重なものだ。慎重に使わなくてはならない。
…そもそも、この逃避行をいつまで、何処まで続けるつもりなのか。
アル自身にも、分かっていないのだ。
焚き火は暖を取れるほどには大きくしない。だが、温かな飲み物は、特にこんな地下の寂しい所では必要なものだ。
先程までの闇と無音に対する怖れは、もう感じない。灯りや炎は、そこにあるだけで安心をもたらし、人心地をつけてくれる…
器を手に、茫々と広がる地底湖へと水汲みに行こうとした時、アルは少女が自分をじっと見つめていることに気が付いた。
「どうした? 食べられないのか?」
だが、そんな彼の言葉に、十二歳の少女は慌てて、激しく頭を振っていた。
「そうじゃないの…あの……
…助けてくれて、ありがとう……」
「なんだ、そんなことか」
大柄な少年は、半ば呆れた表情で自分を見下ろしてくる。
デーズィアは少し視線を逸らせながら、掠れた声で続けていた。
「あの、でも……わたし、…これくらいしか持っていなくて……」
アルにしても、少なくとも何かを求めて助けてくれたのだろう。
それも当然だ。
デーズィアは、少しでもそれに報いることが、彼への感謝の証になると思っていた。
でも…少ないかも知れない…
少女が不安と共に差し出す幾許かの銀貨を、アルは暫くの間黙って見つめていた。
…やがて、重く静かな声が、少年の口から押し出される。
「……ふざけるな」
「え…?」
「…俺は、そこまで落ちぶれちゃいねぇ…」
感情の失せた口調でそこまで呟くと、アルは踵を返して水際まで降りていった。
…だが、いつまでも、水も汲まずに立ち尽くしている。
そんな少年の背に、デーズィアの胸は酷く締め付けられてしまった。
彼を怒らせてしまった…
…そのことは、だがデーズィアに恐怖ではなく、悲しみをもたらしていた。
この少年に、見捨てられたくない…
自分の身の安全を思う利己的な感情からではなく、もっと純粋に、素直に、デーズィアはそう感じていた。
彼を傷付けた自分が赦せず、胸元に両の拳を強く押し付けると目を伏せてしまう。
胸中の深い悲しみは、彼女の瞳に白露を宿らせ、それはすぐに白皙な頬へと伝い落ちていく……
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
震える声でそう呟くと、それ以上どうしていいか分からず…
彼女はその場にしゃがみ込むと、啜り泣きを始めてしまった……
アルの心は随分と乱れていた。
…そう。
自分は、金目のものを期待して彼女を、デーズィアを助けた訳ではない。
それに…
少女があのような行為に出たとして、それを責めることが自分のような人間にできるだろうか…
厳しく細めていた瞳に感情を戻すと、アルは聞こえないほどの小さな溜息を吐いていた。
そうなのだ。
自分はどれだけ装っても、彼女が暮らしていたような世界の住人にはなれない。
だが、それでも…それでも、デーズィアを守りたい。
クラウスが言っていたではないか。
それが〈鷹〉の進むべき道だと……
背後から、悲痛な想いが闇を縫って伝わってくる。
…何より、自分は彼女のこんなにも悲しむ姿に耐えられないだろう……
……アルは、珍しく、寂しさと言うものを感じていた。
腰を屈め、器に水を満たす。
僅かに口に含んでみるが、冷たいだけで汚れも無く、このまま飲めそうだ。
再び立ち上がり、何処までも広がる黒い湖の面を見渡す。
その唇が、一瞬、自嘲に歪んだ。
だが、角灯の方へと振り返った顔には、落ち着いた優しい微笑みが浮かんでいた。
「ほら、もう泣くなよ」
ゆっくり近付くと、そっと声を掛ける。
「悪かったな、怒ったりして」
「アル……」
驚いた表情が見上げてくる。
涙で濡れているその愛らしい瞳に、少し動悸を早めながら少年は笑みを深めていた。
「こんな人間だからな。デーズィアがそう思っても仕方無いさ。
ただ、俺は銀貨を受け取るつもりなんてないぜ?
俺は、俺自身が、デーズィアを助けたいと思ったから、そうしてるだけなんだ。
他の誰かの為でも、何かの為でもないよ」
思わずそんなことを話している。
だが、アルはその言葉が自分にとっての真実だと気が付いて、今更ながらに驚いていた。
「ありがとう…アル、ありがとう……」
今度は、その瞳から純粋な喜びの光が溢れ出してくる。
そんな少女の額を軽く小突くと、アルは明るい口調で片目を瞑ってみせた。
「それにな、まだ本当は軍から逃れてないんだぞ?
まぁ、眠るくらいの時間はあるだろうけどな」
そう言って、彼は器を火にかけると、手早く飲み物と簡単な食事の用意を始めていた。
「アルって、不思議…」
ガラスのように透き通った声に、アルは少し乱暴な笑いを返していた。
「そうか?」
「だって……何も、訊かないんだもの…」
温かな湯気が立ち昇る。
その向こう側から、デーズィアは清らな空色の瞳でアルを見つめていた。
そのアルは、鳶色の双眸を眩しそうに細めながら、軽く肩を竦めてみせた。
「デーズィアが話したくなったら、話せばいいのさ。
ただ、俺も一つだけ、訊きたいことがあるけどな」
「何?」
小首を傾げる少女に、アルは真剣な表情を浮かべた。
「一体、何処に逃げるつもりだったんだ?
デーズィアの望む所なら、何処でも、俺は運んでいってやるぞ」
その言葉に、少女は視線を汀に落とすと、小さく声を紡いだ。
「…何処でもいい…国境さえ越えたら、軍も諦めるだろう……パパは、そう言っていたわ……」
「そうか…それで、南のこんな辺境まで来たんだな」
何故、軍が追ってくるのか。アルにとって、そのことは特に問題ではなかった。
事実として、既に軍には追いかけられているのだ。その理由が何であれ、彼等はデーズィアを捕らえるまで追跡を止めたりしないだろう。なら、理由の詮索よりも、これからの行動を練った方がいい。
…いや。もっと、根本的なことだ。
相手が軍であれ何であれ、デーズィアを苦しめる存在を許したくはないのだ。
例えどんな理由があっても、このいたいけな少女を悲しませるような存在は全て、アルにとっての敵だった。
「…北部は警備も厳しいから…手薄な南部から逃れよう、って…
折角、ここまで来たのに……」
微動だにしない水鏡に、優しかった父親の顔が浮かぶ。
…だが、その顔は、次には悔しさに歪んでいた。
無念、哀しみ、心配……
それらの表情が全て、自分の目の前で、一瞬の後には消えてしまったのだ。
…背に触れていた温かな手は離れ…大きくのけ反った体が下の庭へと落ちていく………
自分でも気付かぬうちに、デーズィアは両手で顔を覆うと泣き出していた。
心からの悲痛な泣き声は、暗闇に潜むあらゆる存在を嘆かせる…
アルはその瞳に憐憫の想いを浮かべながら…だが、ただ黙って彼女の足下に転がった器を取り上げると、新しく飲み物を注いだだけだった。
若しも自分だったら…
…こうして、ただ泣いていたりはしないだろう。
死んだ者は蘇らないのだ。〈俊足〉のロムにしても…
悲しみはある。
だが、彼にとって、それは怒りに変わるものだ。
今迄に、うんざりするほど死んだ者を見てきている。その中には、勿論、仲間として大切な者もいた。
だからと言って、悲しみに耽ったりはしない。
それよりも、殺した相手に復讐する方が、死者にとってもいいと思うのだ。
その相手が薬物であれば、少なくとも自分の仲間にはその使用を制限させてきた。
死んだ者への弔いの証は、唯一つ。
それは、自分達が、或いは何かが変わることだけだ。
…とは言え、今のデーズィアの悲しみは、それが純粋なものであるだけに、アルには否定もできないものだった。
静かに…ただ、優しく見守っていることしかできないのだ。
〈鷹〉の目からは鋭さも影を潜め…愛しい存在を見つめる温かな光だけが、今はそこにそっと瞬いていた。
長い間、アルは一言も口にしなかった。
だが…声にならない『言葉』は、その想いの底から湧き上がり、デーズィアを包み込んでいく。
黄金の光が少女の青く沈んだ悲しみの心へと触れ、柔らかな煌きと共に胸中を満たす…
……やがて、啜り泣きも、油の燃える小さな音に吸い込まれてしまう。
デーズィアは白く小さな手で涙を拭うと、少しはにかんだ微笑みを少年に向けた。
「ありがとう、アル……」
何に対する感謝なのか…自身にも分からないまま、それでも二人はそっと笑みを交わしていた。
「ほら」
温かな飲み物が手渡される。
デーズィアは嬉しそうにその器を受け取ると、純真な笑顔を一層深めながら話し出していた。
「…ねぇ、アル……『幼艾の国』って知ってる?」
「ヨウガイ…の、国?」
揺れる、小さな炎に目を向けながら、少女は真剣な表情で頷いている。
「いや…知らないけどな」
その炎を受け、黄金色の髪が美しい星を散らし、揺らめいていた。
目の前にある、この玲瓏な光の波がとてもこの世のものとは思えず…アルは息を飲み、瞬きすら忘れてしまった。
「よく、お伽話に出てくるの…エルナシオンとも言うわ」
澄んだ空色の瞳が見上げてくる。
慌てて目を逸らすと、アルは少し乱暴な口調で言った。
「お伽噺なんて、今迄読んだこともねぇからな。
俺は、自分が生きた存在として生まれてきたんだ、って気づいた時には、もう街の暗闇に身を潜めてたんだ。
そんなものを話してくれる人なんて、何処にもいなかったのさ」
「あっ…」
愛らしい表情が、後悔に染まる。
デーズィアは顔を伏せると、悲しそうに声を零していた。
「ごめんなさい……」
「いや、いいさ…悪かったな」
本当は、恥ずかしさから粗暴になってしまっただけだ。だが、それを正直に伝えることはできなかった。
アルは、自分の生い立ちを悲しんだり、呪ったりしたことは一度も無い。彼にとって、それは生まれた時から「当然」となっている「事実」なのだ。
他人を羨むことはない。そんな夢を見るには、あまりにも多くの「事実」を見てきている…
言葉を止めてしまったデーズィアに、アルは優しく先を促していた。
「それで、その『幼艾の国』がどうしたんだ?」
「…軍は、その国を探し出そうとしているの…
そして……わたしだけが、その入り口を開けられるんですって……」
「探す? 入り口?」
真摯な表情で頷く少女に、アルは何も言えなかった。
軍が、お伽噺に出てくる国を探す? 本当にあるかどうかも分からない…いや、軍だって、無いものを探したりはしないだろう…あんな、潜砂艦まで使って…
疑いは膨らむのだが、すぐ前にある空色の双眸は、そんな疑念を持つことすら許さないほどに真剣な光を湛えていた。
「これが、その入り口を示してくれる《鍵》だそうなの…」
本当は、母の大切な忘れ形見でしかない。そうとしか、知らされていなかった。
軍が来るまでは…
胸元から小さなペンダントを取り出すと、デーズィアは今日初めて話をした少年に、それをそっと手渡していた。
薄暗い炎に照らされ、翠色の透明な光が瞳を射る。
デザインは素朴なものだ。石も小さく、目立つものではない。
暫く眺めていたが、アルにはそれほどの価値も秘密も持っているようには思えなかった。
「…使えるのか?」
《鍵》なのだから、これを、何処かに、どうにかしたら入り口が開くのだろう。
だが、少女は小さく頭を振った。
「パパもわたしも、どうやって使うのかは知らないの……」
「なら、どうしてデーズィアだけが、そのエルナシオンへの入り口を開けられるんだ?」
開け方も知らないのに…
…ますます、情報が曖昧になっている気がする。軍は、何がしたいのだろう?
返してもらったペンダントを、再び首にかけながら、デーズィアはそんなアルの疑念にも気付かず応えていた。
「言い伝えがあるの…わたしの『血』は、『創始の緑樹』の守り手の『血』を伝えているんですって……
このペンダントは、その『樹』の力を引き出す《鍵》でもあって…代々、守り手が受け継いできたそうなの……」
言い伝え…それも、お伽噺の中の話だろうか。
アルは少し頭を掻きながら、正直に言った。
「何だか、全然分かんねぇな。
その『樹』って、どんな『力』があるんだ?
軍は、その国をどうして探してるんだ?
話してくれるんなら、もうちょっと詳しく説明してくれねぇか」
その困った口振りに、一人気を張り詰めていたデーズィアは、思わずくすくすと笑い出してしまった。
全部をアルに知ってもらいたくて…焦りすぎたのだ。まるで知識の無い相手に、核心だけを伝えても戸惑うばかりだろう。
そこで、デーズィアはもう一度、『幼艾の国』についてから話し始めていた。
「エルナシオンは、何処にでも存在しているそうなの…
でも、誰の目にも見えることはなくて…
わたし達の世界と一緒に存在しながら、互いに関わることのない国なんですって」
小さな頃に聞いた話を思い出しながら、少しずつ、少しずつ…
「その国には、妖精や精霊が…その、不思議な存在が住んでいるの。
季節はずっと、春のままで…あっ! …その、つまり、いつも暑くも寒くもなくて…温かな日差しが、いつも柔らかな光を大地に降り注いでくれているの。
風は優しく吹いてくれていて…足下には、とっても澄んだ水が流れていて…
そよぐ草花が、ずっと若々しい色を失わない、実り豊かな大地の国…」
言葉を選び、分かるように伝えようとしてくれてはいるのだが…残念ながら、砂漠しか見たことがないアルには、想像すらできない言葉ばかりだった。
ただ、そこが何となく素晴らしい世界なのだということは、ゆったりとした音色に乗せて静かに語る、目の前の少女の様子からも分かる気がする。
「この『幼艾の国』の中心には、大きな樹が見事な葉を繁らせているそうなの…
…それが『創始の緑樹』。
この創まりの樹の『力』が、豊かな大地を創り、育んでいるんですって…」
そこで、一度、デーズィアは深く息を吸い込んだ。
「…その樹の『力』を引き出す《鍵》が…このペンダントなの……
これを伝えてきたわたしの祖先が、その樹の守り手で…祖先は、『創始の緑樹』の『力』を封印して、この世界に来たんですって……」
「封印…?」
デーズィアは、こくんっ、と頷いた。
「…でも、何故かは分からないの」
何かの理由で封印する為に、『力』を引き出す《鍵》を、その世界への出入りの為の《鍵》と兼用させた? そして、《鍵》を閉めた者が《鍵》と共に、この世界へとやってきた…
「…じゃぁ、こうか?
そのエルナシオンへの入り口をデーズィアが開けることは、その樹の『力』も解放することになって……」
「それは…よく分からないの。
封印された『力』の一部だけを解放するのかも知れないし…」
使い方が分からない《鍵》ほど厄介なものはない。
一つ目の《鍵》として使った時、二つ目の《鍵》も開くのだろうか…その場合、『力』の使い方など知らないデーズィアが、引き出された『力』を制御することなどできるはずがない。
強過ぎる『力』もまた、厄介なものだ。
「…でもね、アル……
…その樹の『力』を解放して、全て引き出してしまったら…
この砂漠を、緑豊かな大地に変えられるかも知れないの……」
「砂漠を?」
それは、例えデーズィアの言葉でも、簡単には受け入れられないものだった。
自分達が住んでいるこの国は、その殆どが砂漠地帯で覆われている。恐らく、デーズィアが暮らしていただろう北部の一部だけに、僅かな沃野が見られるのだ。
この広大な砂の『海』を、緑に溢れた大地に変えるなど…
デーズィアは、少年の顔に浮かんだ疑問を責めたりはしなかった。
ただ…その双眸で、鳶色の瞳を想いのままに見つめ続ける…
暫しの沈黙の後、アルはやっとの思いで声を押し出していた。
「…本当に、できるのか?」
「えぇ…
軍は、その『力』を手に入れようとしているの……」
「でも、それは良いことじゃねぇか。
この砂漠を、緑や作物で一杯の世界に変えられるんだろ?」
「…えぇ……」
自分の視線の先から、空色の瞳が逸れていく。
その悲しそうな仕草に、アルは優しい口調になると静かに尋ねていた。
「だけど、困ったことがあるんだな?」
「アル…」
そう、何かが気になるからこそ、デーズィアは軍から逃げているのだ。
少女はそっと頷くと、続けた。
「『創始の緑樹』は、きっと、豊かな地を創造できるわ…
でも、…何かを創るには…そこにあったものを、全部、…壊さなくてはならないの……」
「…軍は、その破壊の『力』を望んでるのか」
重い呟きに、デーズィアはただ沈黙で応えていた。
深い静寂が、地の底に横たわる。
暗闇は何も語らず…自らの内に二人を抱き込みながら、時の流れすら彼等に示そうとはしなかった。
やがて、デーズィアが瞳を上げる。
澄み切った美しい空色の瞳は、微かに湿り気を帯びながら、アルを真っ直ぐ見つめていた。
「…わたし…分からないの……
アル……破壊の『力』を渡してでも…砂漠を変えた方がいいの……?」
ずっと…そう、ずっと、迷ってきたのだ……
だが、アルはそんな彼女の頭に手を置くと、少し乱暴に撫でながら即答していた。
「そんなことに迷う必要はないさ。
例え砂漠を変えられたとしても、あんな軍に破壊の『力』を渡すなんて御免だ。
不自由でも、俺達は砂漠で生きていけるんだ。変えたかったら、自分達で変えていけばいい。
砂漠からは身を守ることもできる。でもな、デーズィア、強い力から身を守る知恵は、より強い力が生まれることですぐに意味を失うんだ。
砂漠を支配することはできるかも知れないが、強い力を支配することはできないんだよ」
だから、身を守るだけでなく、逃げることも必要になる。或いは、相手よりも強い力を持つ必要も出てくるのだ。
終わりの無いレースだ。
しかも、強過ぎる力は、そのレースにすら参戦できない存在を多く生み出す。
それがまだ、こんな小さなペンダントとして、ここに存在しているからこそ、アルは参戦できるのだ。
そして…参戦している以上、アルは負けるつもりは無かった。
デーズィアの為にも……
……いや。
デーズィアの為に…だ。
「……」
自分に微笑みかけてくれる少年を、デーズィアも純真な想いの儘に見つめ続けていた。
その容姿からは想像できないほど、彼は深い考えを持っている。薬と暴力と血の中で育ってきたはずなのだが…いや、だからこそ、なのかも知れないが…
デーズィアは、最早そのような生い立ちのことなど、思い出しもしていなかった。
ただ、目の前のアルだけを…自分を力の限り守ってくれる、優しく気遣ってくれる、このアルだけを、少女は認め、信じ、頼っていた。
「さぁ、少しだけ眠って、太陽が昇る前にこの谷を出よう。
国境を越えるなら、俺が前に通ったことのある道で行けるからな」
火を消し、角灯の明かりも小さくする。
暗がりの中、横になるその逞しい背中を見つめながら、デーズィアは少しの間、身を起こしていた。
明日になれば…国境を越えてしまえば、この少年とも別れることになるだろう。
その事実を認めるや否や、深い寂しさが彼女の胸に押し寄せてくる。
(アル……)
ありがとう…そう言ってしまうと、もう二度と逢えない気がする…
それは……いまや、少女にとって、恐れにも似た感情を引き起していた……
**********
二つの寝息が「疾風の谷」の地下で規則正しく沈黙を乱していた頃、その谷を見る海の一角へと遙か北方から連絡が入っていた。
明かりを落とした部屋。
先程まで苦痛の呻きで満ちていたその部屋も、今は不気味な沈黙が横たわる…
連絡は、交換手を経て部屋へと向かい、自ら手を下していた男を、その無機質な音色で呼び出した。
「農務大臣からです、大佐」
「…繋げ」
抑揚の失せた声が、蓄えられた口髭の下から漏れる。
すぐに野太く忙しい声が大佐の耳に飛び込んできた。
「……えぇ、大丈夫ですよ。……えぇ、逃してはいません」
誰が伝えたのか…
唇が、不敵に歪む。
「追い詰めたのです…大臣、分かっております。それが、国王の命令なのですから…」
だからこそ、自分がここまで来ているのだから。
大臣の焦る口振りにも、大佐の声は全く乱されなかった。沈着なその声には、どんな感情も含まれていない。
ただ…ひどく冷たいのだ。
聞く者の身を竦ませ、重い恐怖を植え付けていく、あまりに静かな音の連なり…
「…明日には、手に入るでしょう。…えぇ、この地に詳しい者も捕らえましたから…」
暗がりの中、眼鏡のレンズが微かに光る。
小さな…本当に小さな炎が、部屋の中央で揺れている。
その傍で、椅子に腰掛ける影がぼんやりと浮かんでいた。
まだ小さな影だ…脇に下がる両手からは紅い雫が間断無く落ち、炎に煌きを返している……
「えぇ…必ず」
…その頬には、嗜虐の笑みがうっすらと浮かんでいたかも知れない…
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木片が燃える、優しい香りが鼻を擽る。
薪の爆ぜる音に、うっすらとデーズィアはその瞳を開いていた。
「さぁ! そろそろ準備を始めるぞ」
明るく乱暴な声が耳に飛び込んでくる。
少女が慌てて上半身を起こしてみると、既にアルは荷物を纏め、砂上バイクの点検を始めていた。
立ち上がろうとするデーズィアに、だがアルは用意しておいた器を渡しながら、片目を瞑ってみせた。
「まだ、そんなに急ぐ必要は無いぜ。まずは、温かいものでも飲んで、目を覚ますんだ」
実際、まだ日の出までには少し時間があるはずだ。
落ち着いたその言葉に安心すると、デーズィアは器を受け取りながら微笑んだ。
「おはよう…」
「あぁ、おはよう。
それを飲んだら、出発するぞ。食事は走りながらでもできるからな」
「…はい」
温かな湯気の向こうで笑顔を見せるアルに、デーズィアは少しはにかみながらも一層微笑みを深めていた。
純真で無垢なその笑顔も、今日は正面から受け止めることができる…
…今日一日で、別れることになるだろうが……今は、少しでも長く、彼女の姿を覚えておきたかった。
やがて、洗われた器を含め、全ての荷物が仕舞い込まれる。
火を消すと、アルは少女の体を再びバイクに固定した。
「いつ、追いつかれるか分からないんだ。しっかり掴まってるんだぞ?」
「はい、アル」
その信頼し切った言葉に頷くと、アルは空気を噴射させ、砂上バイクを浮かべた。
細いライトの筋が、遠く、洞窟の入り口へと伸びていく……
東天では薄明が始まりつつあったが、まだ狭い峡谷には暗闇が滞っている。
強い風が吹きすさぶ中、必死になってバランスを取りながらアルはバイクを走らせていた。
「大丈夫か、デーズィア!」
ちらっと、一瞥することしかできない。
だが、それだけでも、少女が必死になって手摺りにしがみついていることだけは分かる。
内心、アルは舌打ちしていた。今朝は彼女が目覚めているので、縄での固定を昨日よりも緩くしていたのだ。
「…はい!」
それでも、健気にデーズィアが声を出している。もっとも、その澄んだ音色の大半は、素早く風によって奪われ、遙か後方へと運ばれてしまう。
「もう少しだ! 頑張ってくれよ!」
前日よりも、風が強くなっている。明け方には風が止むことも多いのだが…気まぐれな気候に、アルはもう一度、胸の内で舌打ちをした。
朝の光が地平から迸り、大地を輝かせ始めている。細い谷間にはまだその恩恵は無かったが、漸く前方に見えてきた「疾風の谷」の出口は、陽光を受けて黄金色に燃え上がっていた。
あの先からは、再び砂の海が始まる。だが、潜砂艦さえ無ければ、国境までは僅かな距離だ。
問題は、その潜砂艦だが…
少しだけ速度を落とす。捕らえる気なら、潜砂艦は浮上しているはずだ。
…だが、その巨大な姿は見えてこない。まだ、ここまで先回りできていないのか…
鳶色の瞳が、乱れた黒髪の下で刹那、安堵に和む。
「……!」
次の瞬間、左腕に鋭い痛みが走る。
直後、耳元で唸る風の怒声を縫って、一発の銃声が少年の耳を貫いた。
「アル!」
デーズィアの悲鳴が、今度は随分はっきりと聞こえる。
バランスを崩しながら、無意識にエンジンを止めると、アルは少女の体に覆い被さっていた。
横倒しになった砂上バイクは、地面を擦りながら激しく赤茶けた崖にぶつかっていく…
腕の中の、小さく温かな存在を強く抱き締めながら…アルは全身を襲う痛みに意識を奪われ、深い闇の中へと沈み込んでしまった。
第二章 終わり