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第一章 鮮赤の風

 強烈な日差しが脳天を貫く。

 黒いまでの青天井には、ここ数ヶ月の間、微かに棚引く雲一つ見えず、ただ乾いた風だけが、くすんだ町並みの中を駆け抜けていた。

 半ば崩れた建物の下で、一人の少年がそんな天蓋を見上げながら露骨に顔を顰めていた。

「これじゃ、さっさと始末しねぇとな」

 生まれてから一度も櫛など通したことのない乱れた黒髪をした少年は、そう呟くと舌打ちをした。

 この地の十四歳にしては背が高く、こびりついた血痕と砂粒で赤黒く汚れた衣服からは、既に青年のような逞しい腕が覗いている。

「アル……!」

 抑えられた囁きと共に、突然、ビルの影から少年が飛び出してきた。

 アルと呼ばれた先程の少年は、澄んだ鳶色の瞳を<俊足>のロムに向けると、軽く頷いてみせた。

「この奥なんだな?」

「うん、そうだよ」

 心からの尊敬に満ちる瞳が、自分達の統率者を見上げる。

 アルもお気に入りの少年の肩に手を置くと、二人は汚物が悪臭を放つ狭い路地へと入っていった。

 酷く汚れた壁も、吐き気をもよおす臭気も、彼らには特別なものではない。

 物心がついた頃から今迄、アル達はこのような環境でしか育ってこなかったのだ。

 この街に来たのは一年程前のことだが、辺りはどこも同じ状況だ。

 最早自分の庭となっている袋小路の奥には、だが今は、昨日まではなかったものが無造作に棄てられている。

 いや……ある意味では、それこそ棄てるほどに見てきた『物』の一つだ。

 アルは無造作に道の上に広げてある鉄板を取ると、その下に隠されていた『物』を目にして軽く鼻で笑っていた。

 そこには、自分達の仲間だった少年が横たわっていた。

 胸には幾つかの銃痕が見えており、既に激しい日射で乾いてしまった赤い血が辺りにその滲みを広げている。腕が本来曲がるはずのない所で折れ曲がっていても、顔色一つ変えずにアルはロムに言った。

「夜中に殺られたんだな?」

「うん」

 まだ幼い〈俊足〉のロムも、声を震わせることは無い。銃による《死》の恐怖など、最早恐怖とも思わない。

 アルはその返事に頷くと、足下に落ちていた小さな袋を靴で踏み躙っていた。

「新しい薬に誘われやがったな。俺が許可する量で、満足してればいいものを」

 透明な袋が破れ、白い粉が路面に散る。

 だが、それはすぐさま風に運ばれ、空中へと溶け込んでしまった。

「ロム。マークを呼んで来て始末させろ。ここに残すと迷惑だからな」

「うん!」

 少年が素早くその場を立ち去ろうとした瞬間、二人の背後から高らかな嘲笑が広がった。

「これはこれは。この街を牛耳る〈鷹〉が、丸腰で来るとは思わなかったぜ」

 ロムが驚いて振り返る横で、アルは落ち着いた表情のまま、肩を竦めてみせた。

「そっちこそ、何処の街から流れてきやがったんだ。

 この様子じゃ、そのまま通り過ぎるつもりも無さそうだな」

 鳶色の瞳が、鋭く細められる。

 全く感情も見せず、ただ眼光だけが自分を刺し貫く。最初に身を現した相手は思わず息を飲み、知らずたじろいでしまった。

 アルとロムの前には、今や十数人の若者が歩み寄り、群れている。中には、早くもナイフを手にしている者もいる。

 その集団の先頭に立った若者は、体格はともかく年齢では下のアルを見て、不自然に声を強めて動揺を押し隠すと告げた。

「当然だ。今日からこの街は、俺達のもんだぜ」

「無理だな。

 お前らのようなガキに、この街が治められるかよ」

 アルの平然とした応えに思わず拳を固めたが、若者は怒りを抑えると、笑みを浮かべて見せた。

「へっ! この状況でまだ強がってられるのか。

 さすが…というより、バカだな。おい!」

 仲間に軽く合図をすると、内の二人が黒い銃身を掲げ、アルとロムに向けた。

「そこに転がった中毒バカみたいに、ぶち抜いてやろうか」

 その言葉を聞くや否や、不意に高らかとアルは笑い出していた。

「たったそれだけの銃で、何をするつもりだ? え?

 だから、お前らはガキなんだよ!」

「何?」

 いきり立つ若者の前で、黒髪の少年は右手を静かに払ってみせた。

 直後、前後左右の建物の影から、十数丁の銃口が覗く。

 驚愕の面を見せる相手を、アルは悠然と見下ろしていた。

「俺が、全く無防備で罠にかかると思ってんのか。

 こんなあからさまな挑発、どんな赤ん坊でも警戒するぜ」

 そう話しながら、計画通りに配置を伝えてくれた〈俊足〉のロムの頭を撫でてやる。彼はその自慢の足を活かして、見事に仲間を集めてくれていたのだ。

「くっ…」

 若者が悔しそうに顔を歪めている。

 今や、勝利した者の立場から、アルは命令していた。

「さっさとこの街から出て行くんだな。

 いくらバカでも、これだけの銃を相手に、たった二丁で立ち向かうほどじゃねぇだろう」

「……街を出るまで、襲うなよ」

 低く押し出されたその言葉を、アルは鼻で笑い飛ばしていた。

「随分、虫のいい申し出だな。

 まぁ、いいさ。さっさと消えろ!」

 急いで路地を逃げ出す若者達を、剥き出しの哄笑が追いかける。

 その笑いの主達は、次々に姿を現すと、彼ら敗北者の群れを見送っていた。

「ちぇっ! 今度も使えなかったじゃないか」

 中の一人、ロムと同じ年頃の少年が、銃を手にしながら不満気に呟いている。

 その言葉に、別の少年が揶揄するように応えていた。

「お前、昨日あの若造に撃ってたじゃねぇか。あいつ、暫く動けないらしいぜ」

 同い年のマークに後始末を頼んでいたアルは、その会話を耳にすると厳しい顔付きで二人に近付いていった。

 冷たい鳶色の瞳に捕らわれ、銃を手にした少年は胸倉を掴まれると、声一つ出せずに震え出していた。

「いいか。俺の許可無しに人を撃つんじゃねぇ!

 ここを追い出されたら、数十キロは歩くんだぞ。やり過ぎたら、次は俺達が街の連中に笑われて出て行くことになるんだからな!」

「いいじゃない。あんたもこの子と同じくらいの時には、銃で遊んでたんだからさ」

 一人の少女が、怒るアルの腕を取る。彼はそれに逆らいはしなかったが、瞳だけは少年から動かさなかった。

「いいか。あいつみたいな死に方をしたくなけりゃ、俺の言うことを聞け。

 俺は、従う奴には犬死なんかさせないからな」

「あう、あう…」

 がくがくと、ただ首を縦に振って怯えている少年を突き放すと、アルは視線を少女に向けた。

「エヴァ、お前もこいつらに構いすぎるなよ」

「二人きりになれるなら、考えてあげるわ」

 アルは小さく舌打ちすると、ロムを呼んだ。

 すぐに駆け寄ってくる十歳の少年に、彼は絶大な信頼を籠めて命じていた。

「いいか、あいつらが街を出るまで監視しろ。三人連れて行け」

「うん!」

 嬉しそうに走り出している。

 仲間に声を掛けながら、3つの影と共に街角の向こうへ消えたかと思うや否や、再びロムだけが現れると、アルの許まで駆け戻ってくる。

「どうした?」

 この少年は、余程のことが無い限り、命じられたことを途中で無視したりはしない。

 それをよく知るアルは、ロムに語調も柔らかく尋ねていた。

「軍隊だよ。もう、中に入ってきてるみたい」

 誰からの報告かなど、告げたりしない。それだけ緊急で、かつ正確な情報なのだ。

 ロムの言葉に、黙ってアルが右手を挙げる。

 すぐさま、マークとロムを除く皆が、街のあちこちに広がる暗闇の中へと姿を消した。

 見事な統率だ。

 アルは振り返ると、物静かだが、いざとなれば自分を凌ぐほどの力を発揮するマークに言った。

「先の三人と一緒に、あのガキ達を監視してくれ。

 軍は俺とロムが見てこよう。何かあった時には、ロムを送る」

「…よし」

 直後、三人はそれぞれの方角に向かって散っていた。

 明るい日差しが、痛みを伴う強さで大地に降り注いでいる。その鋭い腕は、ビルの間の狭い路地にも入り込み、横たわったままの少年だったものを白々と照らし出していた……


「あんな潰れかけのホテルに、何の用だ?」

 訝しげに声が漏れる。

 表通りを覗くアルの背後では、〈俊足〉のロムが見張りをしていた。

 豊かな北方を目指す船が立ち寄ることはあるが、この街は飽くまでも通過点でしかない。この地で宿泊する者など、殆ど皆無なのだ。

 確かに、数日前から誰かが泊まっているとは聞いていたが……

「本格的だね」

 ロムの囁きに、アルは黙って頷いていた。

 表通りに立つ兵士は五人。いずれもが銃器を構えている。アル達が身を潜めている、ホテルの向かいの建物にも数名、裏手にも何人かの兵士が回り込んでいるようだ。

 既に、ホテルの中にも入っている。

 ここまでの人数を使って、こんな街で何をするつもりなのか。

 自分達の掃討が目的ではないようだが、かと言って、安心できる状況でもない。目的など、その場ですぐに作り出せる。

 アルはロムに合図をすると、単身、別の筋を回ってホテルの裏側へと向かった。

 汚れた壁には各部屋のバルコニーが並び、貧弱ながらも植栽のある庭を見下ろしている。

 その裏庭に身を潜めた直後、初めて、銃声が響き渡った。

 同時に、激しく争う音がホテルの一室から漏れ出してくる。

 だが、アルはその場から動かず、静かに見守り続けていた。

 アルにしてみれば、中で行なわれていることの原因や結果などに興味は無い。軍の目的がホテルの滞在者なら、その者だけを始末してさっさと街から出て行って欲しい…場合によっては、毛嫌いしている軍を手伝っても構わない。勿論、そうなっても姿を見せるつもりは無いが…

 いずれにしても、まだ動く時ではない。

 そう思っていた矢先に、突然、硝子窓が突き破られた。

 …驚いたことに、そこに現れたのは一人の少女だった。

 アルよりは、少し年下になるだろう。北部で育ったらしく、この灼熱の炎天下にいながらも、その腕は白く透き通るような色を残している。アルの目には、それは柔らかな光を発しているかのように見えた。

 アルが見守る中、黄金色の長い髪をしたその少女に続いて、男が飛び出してくる。男は少女の背を押しながら、バルコニーから下へと飛び降りるように指示しているらしい。

 二人がいるのは二階だが、少女は迷わずその指示に従おうとした。

 だが、次の瞬間、アルのすぐ傍で銃声が轟いた。

 身構えるアルの目には、のけ反る男の姿が見えている。同時に、少女の悲鳴がアルの胸を貫いた。

「パパ!」

 男は鮮赤で胸元を染めながら、庭の中へと落ちていく。

 狙撃された者を見ることは珍しくなかったが、何故かアルの心は強く締め付けられていた。少女の泣き叫ぶ声を聞くにつれて、痛みが鋭く胸中へと食い込んでくる。

 手摺りから身を乗り出していた少女は、部屋から現れた兵士によって首筋に何かを突きつけられ、その場で膝を折ってしまった。

 思わず飛び出したくなっている自分に驚き、そんな動きを抑えながら、アルは静かにその場を眺め続ける。

 男の死は、重要ではなかったらしい。生死を確かめもせずに、軍は表通りに集まり始めている。もはや警戒していないところを見ると、標的はこの二人だけで、彼らには他の仲間もいなかったようだ。

 周囲の安全と集まった兵士の人数を確かめた後、アルはその場を離れロムの所へ戻っていた。

 だが、すぐに二人して再び裏庭まで回り込むと、アルはロムに小さく指示をした。

「ここで見張ってろ。ちょっと、死体の息を確かめてくる」

「うん」

 ロムをその場に残し、アルは素早く庭の中へ忍び込んだ。

 手入れなど殆どされない乾いた草の間に、男が仰向けになって転がっている。胸元を赤くしたその男の姿を、漸くアルは冷笑と共に見下ろすことが出来るようになっていた。

 少女の声に動揺したことなど無かったかのように、鳶色の瞳は金目の物や軍にとって不都合なものが無いか探し始めている。

 だが、次の瞬間、流石のアルももう少しで声を上げるところだった。

 死んだと思っていた男の手が、足首を掴んでいるのだ。

 男は最早見えていないはずの目でアルを探し出すと、言葉を押し出していた。

「あの子を……デーズィアを……」

 真っ直ぐに、血に濡れた瞳が見上げてくる。

 アルは強く唇を噛みながら、それでも視線を逸らさずに見返していた。

「助け…て……」

 …吐き出せた言葉は、そこまでだった。

「…チッ!」

 二度と動かなくなった男の手を振りほどこうと、アルは死体を蹴り飛ばしていた。

 死体は、乾燥した茂みの向こうに隠れてしまう。

 アルはその草陰を暫く黙って見ていたが、やがて自嘲気味に呟いていた。

「軍相手に、何ができる…実際、お前だって何もできなかったじゃねぇか。

 …だがな、やりもせずに諦めるのも、俺らしくないんでね。

 まぁ、そこに転がって見ててな」

 アルは足早にロムの元へと戻ると、短く告げた。

「軍を追うぞ」

 心から敬服している〈鷹〉の言葉に、理由など問いもしない。

 すぐに表に出ると、軍が立ち去った方角を確認する。その間に、アルは近くに潜んでいた別の少年を呼び出すと、引き続いて警戒するように皆に伝えさせた。

「…アル」

 忠実な少年の囁きが耳に届く。

 アルが表通りに戻ると、ロムはすぐに現れた。

「軍の奴ら、港に向かったらしいよ」

「そうか。すぐに出るつもりだな」

(略奪もしないのか…)

 こんな辺境まで来て、何もしない方が不気味に思える。

 あのデーズィアは、それ程まで重要な人物なのだろうか……

 アルは深く思考の泉に沈み込みながらも、〈俊足〉のロムと共に港へと走り出していた。


 風が唸りを上げている。

 立ち並ぶ倉庫群の影から顔を覗かせた瞬間、アルの目には一面に広がる砂の海が飛び込んできた。

 細かな砂粒が、風と陽光を受けて絶えずその輝きを変えている。

 蒼い天穹には黄色い川が時折渡り、街の中へと不快な浸入を試みていた。

「あれは…」

 『海』を見ていたロムが、不意に息を飲む。その視線を追うと、アルは思わず舌打ちをしていた。

 砂の海の中に、細長く茶色い物体が半ばその身を沈めている。その巨大な物体の先端へと、小さな砂舟(すなふね)が黄色い粒子を撒き散らしながら近付いていた。

潜砂艦(せんさかん)か…」

 滅多に見られるものではない。どころか、耐久性の問題で、確かまだ実用化されていなかったはずだが…

 アルは呪いの言葉を吐きながら、それでも少しずつ船の方へと近付いていた。

 潜砂艦に向かう砂舟には、確かにあの少女のものらしい黄金色の煌きが陽光に映えている。

 その輝きを目にした途端…アルの胸中に、先程の鋭利な痛みが再び走っていた。

 だが…あの巨大な船に対して、一体、何が出来るというのか。

 そうは思いながらも、鳶色の双眸は波止場に舫ってある幾つかの小舟の上を彷徨っていた。

 決して、諦めたりはしない。やると決めたことは、必ず果たしてみせる。

 それがアルの生き方だった。そうすることで、今迄多くの仲間を守り通してきたのだ。

 勿論、慎重な選択と、刃向かう者への容赦の無い厳しさを伴っているのだが…

「アル!」

 抑えた叫び声が耳朶を打つ。ロムの警告に、すぐにアルは視線を潜砂艦に戻していた。

 遠ざかる砂舟の上で、透き通るような金髪が激しく揺れている。予定よりも早く目が覚めたらしい。

 その少女が立ち上がろうとしている。直後、思わずロムが小さく悲鳴を漏らした。

 少女が、船外に振り落とされたのだ。

 小さな姿は、吹き上げられた砂粒で瞬く間に覆われていく。

 急いで空気の噴射を止め、砂舟の兵士達が少女を引き上げようとしている後ろで、今度は潜砂艦の方でも慌しい動きが見られた。

 アルも素早く海を見渡す。甲板に出ていた兵士も目視で確認したようだ。

 遠くに一隻の大型船が見えている。この港を目指しているらしい。外来船だ。

 連絡が入ったのだろう。小さな砂舟が躊躇するように揺れ動いている。

 潜砂艦と少女と…どちらを優先する…?

 指示を待って動きを止める兵士の様子に、アルはすぐさまロムに命じた。

「いいか、クラウスの所に行って、患者を追い出しておけ。急患が入るんだ、ってな」

「うん」

 心配そうな目をしながらも、ロムは何も言わなかった。

 そんな少年の頭を軽く撫でると、笑ってみせる。アルの笑顔に安心すると、少年は瞬く間に街の中へと消えてしまった。

「さてと……まぁ、やってみるさ」

 迷いは隙を生む。流れを掴み、流れに乗り、流れと共に去ることが勝敗の分かれ目だ。

 目を付けていた砂舟に素早く飛び乗ると、予てから用意していた合鍵ばかりの鍵束を使って簡単にエンジンを動かしてしまう。

 近付くだけでも、命を狙われるだろう。潜砂艦にしても、あの少女にしても、機密には違いないのだから。だが、あの他国の客船が港を去るまでは猶予がある。

「俺としたことが……深みにはまっちまったな」

 激しく空気を下方に噴射しながら、浮き上がる砂舟の中でアルは呟いていた。

 守るべき仲間は多い。だが…今からは、自分は、その役目を果たせないかも知れない……

 逃れられない蜘蛛の巣に向かって走り込んでいることを知りながら、それでも、アルは舳先を真っ直ぐ、少女から逸らしはしなかった。

 潜砂艦の前方で、海が窪み始めている。砂を吸い込み始めているのだ。

「潜行するのか」

 砂舟の兵士達は、大きくうねる砂の上から、沈んでいく少女を引き上げようとしているが未だ果たせていない。

 アルが巧みに少女の傍まで舟を近づけると、それに気付いた兵士の一人が銃を構えた。

「近寄るな!」

 だが、アルは動じることなく、叫び返していた。

「その子を助けてやるぜ! 任せときな」

 生まれた時から海に親しむアルにとっては、造作も無いことだ。

「何を!」

 怒鳴る兵士を、だが一人の男が遮る。

 口髭を蓄えたその男は、栗色の短髪の下、黒縁の眼鏡越しに冷たい視線をアルに向けた。

(うっ…)

 背筋に、思わず緊張が走る。冷酷な思考が瞳を貫く…

 だが、それでもアルは澄んだ双眸を辛うじて逸らさずにいた。

「…いいだろう。後で、受け取りに行こう」

 抑揚の無い声が滑る。

 次にはその男の合図で、砂舟は沖合いを目指して急ぎ去っていった。

 潜砂艦も、ほぼその巨体を砂に埋めてしまっている。

 軍と、自分自身に対しての嘲笑が、刹那、頬に浮かぶ…が、すぐに真剣な表情に戻ると、アルは砂舟を停めて辺りを探し始めた。

 ゆるやかな起伏の間、白く、細い指先が僅かに覗いている。既に動かす力も無いようだ。

 アルは急いで船底にある縄の端を手摺りに結び付けると、一方を腕に巻いて砂中に飛び込んでいた。

 口中に、微細な砂粒が入り込んでくる。その不快な感覚を気にも留めず、彼は頼りなげな指先の許へと急ぎ、それを掴んでいた。

 砂の中で、柔らかな感覚を頼りにアルは少女の体に手を回していく。

 やがて、激しく照りつける陽光の下へと、白皙な顔が覗く。その愛らしい造作に見入ることもせず、彼は指先で少女の口の中から砂を掻き出していた。

 表面は焼けるような砂粒も、幸い、海の中ではそこまで熱くはない。掻き出される砂の温度に僅かに安堵しながら、小さな唇に頬を寄せ呼吸を確かめる。

 …乱れてはいるが、生きている。

 再び気を引き締めると、少女を腕に抱えたまま、アルは縄を頼りに熱砂の海を小舟へと泳いで戻り始めた。

 自身の傷や火傷など意にも介さない。まず自分が小舟に上がると、華奢な体を海から引き上げる。

 他国からの船は、もうすぐ傍まで近付いている。あの大きな波に飲み込まれては危険だ。

 少女の無事をもう一度確かめたいが、今はその時ではない。

 素早く舳先を港に返すと、アルは全速力で波止場へと向かった。

 見れば、港にロムの姿がある。心配そうな顔をしているその少年に舫綱を投げてよこすと、アルは慣れた手つきで小舟を着け、気を失ったままの少女を抱き上げながら言った。

「クラウスの親仁は確保したのか?」

「うん。マークが残ってるよ。それと、あの連中はもう出て行ったって」

「よし。

 ロム、今度は見張りを港から診療所まで等間隔に配置してくれ。軍が来たら、何もせずに知らせだけを送らせろ」

 その言葉に、疲れた様子も見せず、幼い少年は再び倉庫群へと駆け込んでいった。

 アル自身も疲労の色など見せずに、砂にまみれたまま街の中へと消えていく。

 その姿が薄闇に飲み込まれる頃、波止場では奇妙に明るい汽笛が鳴り響いていた。


「おい! すぐに診てくれねぇか」

「アル…!」

 マークが低い驚きの声を上げる。

「今度は、誰が撃たれたんだ? お前さんが、儂のお得意さんを帰してまでここを借り切ったんだ。よっぽど酷い…」

 白い髪が目立ち始めている初老の男が、温和な表情を浮かべて表に出てくる。

 だが、その目がアルの両腕に抱えられている少女を認めると、流石に一瞬、言葉を詰まらせてしまった。

「…なんだ、〈鷹〉のアルも、とうとう誘拐にまで手を出したのか?」

 眉を顰めるクラウスに、アルは苛立ちを籠めながら怒鳴っていた。

「くだらないことを言ってるんじゃねぇ! それより、早くこの子を診てやってくれ。『海』で溺れたんだ」

「あぁ、あぁ、分かった。

 その代わり、何があったか儂に聞かせるんだぞ?」

「いいだろう。マーク、お前も聞いてくれ」

 粗末だが清潔なベッドに少女を横たえ、クラウスが外傷や気管の具合を診察し始める。その横で、アルは今までの出来事を簡単に話して聞かせていた。

 マークもクラウスも、何も言わない。

 だが、話が終わって暫くすると、クラウスは半ば呆れた表情をアルに見せていた。

「お前さん、本当に変わってるな……他の連中と違って、大きすぎる騒ぎも起こさず、きちんと統率できとるんだからなぁ…

 いやいや、昨日だけは違ったか。お偉いぼっちゃんが、足に銃弾を受けてたぞ」

 医師のからかうような視線に、正直にアルは苦笑してしまった。

「まぁ、心配いらんがね。あのぼっちゃんにも、いい薬になっただろうしな」

 愉快そうに、笑い声を上げている。

 軍の動向が気になるアルにしてみれば、流石に笑っていられるだけの余裕は無い。彼は急いた調子でクラウスに尋ねていた。

「そんなことより、その子、大丈夫なんだろうな?」

「あぁ、大丈夫だよ。ただ気絶してるだけだな、こりゃ。熱砂で喉や鼻、目も痛めてない」

「そうか…」

 珍しく、素直な感情を面に出して安心している。そんなアルの様子に、クラウスは優しい目を向けると言った。

「慎重なお前さんらしくもないな。そりゃ、軍は誰しもが嫌ってるが、それと正面から張り合うとはなぁ」

「成り行きさ。仕方ねぇだろ」

「いいや」

 静かな声に、アルは瞳を細めた。

「そうじゃないぞ?」

 クラウスは、鋭い眼光を正面から受け止めながら続けていた。

「〈鷹〉のアルよ。お前さんも、よく分かってるんじゃないのか?

 お前さんなら、それを認める『力』もあるだろう」

 その言葉にアルは暫く黙り込んでいたが、やがて軽く肩を竦めると、未だ目を覚まさない少女の傍に歩み寄っていた。

 彼は、雪という存在を見たことが無い。だが、それは想像する限りの純白な輝きを持って空から落ちては積もっていくと言う。それなら、この愛らしい少女の肌こそ、その雪と同じ煌きを持っているのだろう。

 衣服から覗く手足は細く、アルの力でも簡単に折れてしまいそうだ。微かに開かれた唇からは呼気が流れ出しており、その緩やかな動きに従って、幼い胸が上下している…

 その時、アルは少女が服の下にペンダントを隠していることに気が付いた。

 金目になるかも知れないとは思いながらも、だが手を出すことはできなかった。

 今、こうして少女を見下ろしていると、その体に触れること自体が恐ろしい行為のように思えてくる。

 アルにとって、少女はあまりにも清らかな存在なのだ。

 その幼い体から、清澄な光が溢れ出しているかのような幻を、アルは再び全身で感じ取っていた。


「マーク」

 やがてアルは振り返ると、静かな口調で言った。

「俺の砂上バイクを用意してくれ。急ぐんだ」

「…よし」

 すぐに、彼の姿が消える。

 黙って見守っていたクラウスは、アルに尋ねていた。

「どうするつもりだ?」

「もうすぐ、外来船は港から出るだろう。すぐに、軍は上陸するはずだ。

 この子が目覚めるまでは、少なくともこの街から出とかねぇとな」

「儂の予感では、お前さんはもうここには戻ってこないだろう」

 一瞬、アルはクラウスを睨み付けたが、すぐに笑い出してしまった。

「…そうなるだろうぜ」

「……?」

 裏口に砂上バイクを置いて、マークが入ってくる。

 その姿を見るとアルは急に笑うことを止め、真摯な表情に戻り命令した。

「いいか、マーク。軍はすぐに、ここを見つけるはずだ。俺はこの子を連れて、隣のプサムに向かうから、軍にもそう言え。いいな、絶対に俺を庇おうなんて思うんじゃねぇぞ。見せしめで誰かが殺されたら、俺は自分を赦せないだろうからな」

「…分かった」

 アルは頷くと、更に続ける。

「軍が俺を追い始めても、皆は散って隠れたままでいるんだ。いつまで潜むかは、マーク、お前が判断しろ。

 俺が二週間しても戻ってこなければ、お前がロム達の面倒を見てやってくれ」

「アル…お前…」

 心配そうな視線に、アルは薄く笑ってみせた。

「あんな奴らに殺られてたまるかよ。

 だがな、万一、ってこともある。いつまでも率いる者がいないんじゃ、下手すりゃ流れ者に追い出されちまうからな」

「……」

 マークの不安と厳しさが入り交じる表情に、アルはもうそれ以上は何も言わなかった。

 ただ、彼の鳶色の双眸だけは、鋭く、真っ直ぐにマークを射抜き、彼の意志を伝えていく。

 やがて、少年は小さく溜息を吐くと、アルに頷いていた。

「…分かった。そうしよう」

「決まりだな。

 クラウスの親仁も、たまにはこいつらのことを気にしてやってくれ」

「まぁ、何も無くても、マークの方から飛び込んでくるだろうよ」

「…そうだな」

 不敵な顔で、唇の端を吊り上げる。

「アル!」

 不意に、ロムが診療所へと駆け込んでくる。

 息を切らせる少年に、アルは落ち着いた声で尋ねていた。

「何処まで来た?」

「みな、…港、…だよ」

 自慢の俊足を、精一杯活かしたのだろう。大きく肩を上下させながら、必死で言葉を押し出している。

「よし。

 じゃぁ、そろそろ行くか」

 アルが顎をしゃくると、すぐにマークは姿を消す。

 疲れて動けないロムを前に、アルはまだ目覚めていない少女を抱き上げると言った。

「いいか、ロム。すぐに隠れろ。

 これからは、暫くマークの為に動いてやれ」

 その言葉に敏感に反応すると、不安を色濃く映した瞳で見上げてくる。

 思わず、弟のように大切にしてきたこの少年に近付きかけたが…アルは全力で踏み止まっていた。

「…心配するな」

 それだけを押し出すと、アルは視線を断ち切るように、ロムに背を向けた。

「アル…僕…僕……

 待ってるよ…」

「……」

 アルは応えず、裏口に向かい、そこを抜けた。

 クラウスはすぐ傍に付いてきている。

 少女を後部座席に乗せるのを手伝うと、医師は軽く笑って言った。

「お前さん、自分から蟻地獄にはまったんだ。

 最後まで、やり遂げないとな」

「分かってるさ」

 縄で、軽く少女の体を固定する。

 その安全を確かめると、アルは砂上バイクに跨っていた。

 直後、爆音が弾け、路面に光が走る。

 沸き起こる土煙の中、アルは素早くエンジンをかけると忌々しげに舌打ちをした。

「挟んで上陸しやがったな」

 港からだけだと思っていた自分を呪いたくなる。

 だが、そんな非現実的な行為をしている間など無い。すぐに、空気を噴射させる。

「いいか! 〈鷹〉のアルよ、お前さんの《全て》を賭けて、その子を守るんだ。

 それが、お前さんの進むべき『道』なんだからな!」

 銃声の向こうから、クラウスの厳しい声が届く。

 普段の温和な姿からは想像もできないほどの鋭い口調に、アルは唇を強く噛むと叫んでいた。

「やったろうじゃねぇか!」

 無闇に乱射される銃弾の間隙を縫って、砂漠を目指す。

 路地裏や間道を巧みに利用しながら、アルは目一杯の速度で砂上バイクを操っていた。

 これだけの速度を出しているのだ。一発でも当たれば、自分はともかく少女が傷付く。

 澄んだ瞳は黒髪の下で星の如く鋭く射し、あらゆる存在に対して気を張り巡らせていた。

 見事な集中力と判断は、この辺境の街に慣れていない軍を翻弄し、着実に砂の海へと近付いていく。

 やがて、アルは眼前に、茫洋と広がる黄金色のうねりを認めていた。

 彼の沈着な思考は、町並みを抜けた直後の銃撃も予測し、躱している。

 その時、ふと視界の端に、あの口髭を蓄えた男の姿が過ぎる。彼は海に銃口を向けて待機している兵士達に合図をした。

 砂漠には遮るものは無い。もともと、そこで沈めるつもりなのだ。

 躊躇わず、アルは海を前に素早く砂上バイクを曲げると、力の限り空気を噴射させていた。

 港の外れから海に飛び出す…

 そのつもりが、直後、幾人かの兵士の姿を前方に認め、アルは放り出されそうになりながらも、再び急激に右手の海へとバイクを向けていた。

 多くの銃口が、十分な用意と共に、彼の後を追っている。

 アルは背筋に緊張を走らせながら、銃声を待っていた。海の上で避けるには、そのタイミングしか無い。

 だが、次の瞬間、彼の耳に響いたのは、大きな爆発音だった。

 思わず、背後を振り返ってしまう。

 その目は、急いで街の闇へ溶け込もうとしている少年の姿を捉えていた。

 間違えるはずも無い。

「ロム! あの馬鹿野郎」

 だが、アルには戻ることもできない。

 彼が視線を再び前に戻そうとした時…

 乾いた銃声が聞こえた。

 半ばを闇に消す建物の角で、小さな影が、跳ね上がる……

「うっ…うぉぉぉーっ!」

 砂の海に、絶叫が迸る。

 アルは、最早戻る意味も失った街に背を向けると、二度と振り返らず、激しい光が降り注ぐ砂漠の奥へと消え入った。


     第一章 終わり

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