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 和花は慌てて彼から目を逸らした。

 顔を合わせてはいけない。なんとなく自分の中の勘がそう騒いだ。

 もしかしたら意識しているのは和花だけかもしれない。

 自分とは別世界、煌びやかな世界に住む九条家の人が、いちいち和花の存在を覚えているとも思えないが、もし覚えていたとしたら、初めて会った人の前でみっともなく泣き出し、最後逃げるようにしてあの場から立ち去った女として和花の印象は最悪だろう。

 だが、相手が覚えていようがいまいが、自分のしでかした失態を思い返さないためにも顔を合わせない方が身のためだ。


 店から出た蒼弥は、一緒にいたスーツ姿の男性となにやら真剣な顔で話をしている。

 昨夜も思ったが、実に整った顔をしていると思う。

 真剣に手元の紙を覗き込む横顔は、とても美しい。

 優し気な薄茶色の瞳が、昨日は自分に向けられていたかと思うと不思議な気持ちになった。


「和花さん?大丈夫ですか?」


 ぼんやりしていた和花を、心配そうに見る由紀の視線に気が付いた和花は意識を取り戻した。


「あ、すみません。考え事をしていました」


「考え事ですか?」


「はい……あ、でも大丈夫です。そんな大したことではありません」


「そうですか?」


 きっともう自分とは縁のない方。

 あまり色々考えないようにしようと前を見据え、前方に歩き出した時、ふと紙から顔を上げた蒼弥とぱちり、と目が合った。

 思わず足を止め、固まる。

 目の前の蒼弥も「あ……」と声を漏らし、目を丸くした。

 早くこの場から立ち去らなくては。分かってはいるが、足に力が入らず前に進めない。

 宝石のような綺麗な蒼弥の瞳に、目が釘付けになった。

 動けないでいる和花の元へ蒼弥が近づいて来る。一歩一歩近づく様子が、やけにゆっくりに見えた。


「あの」


「……」


 目の前に来た蒼弥は、和花の頭からつま先まで見回し、それから優雅に笑った。


「もしかしてあなたは昨夜の……」


 しっかり覚えられていたことに驚きつつ、和花はぎこちなく頭を下げた。

 なんで言葉を返したら良いのかわからない。

 昨日の来店の礼を言うべきか、まず非礼を詫びるべきなのか。言葉が詰まった。そんな和花の戸惑いを知ってか知らずか、蒼弥の柔らかい声が続く。


「昨夜は夜遅くに申し訳ありませんでした」


「い、いえ……お気になさらずに……」


 なんとか返せたが、絞り出したようにか細い声だった。

 心臓が大きく音を立てる。

 視線は地面を捉え、なかなか上に上げられない。

 こんな素敵な人が、私なんかと話をしているところを見て、周囲の人々はどう思うだろうか。由紀はどんな顔をしているのだろう。

 蒼弥の顔はもちろん、隣にいる由紀の顔も周囲の人の視線も見ることができなかった。


「あの着物、私の母親の大切なものなんです」


「え?」


 蒼弥は突然、声を潜めて教えてくれた。和花は目を見開き、蒼弥の顔を見た。

 目前には麗しい顔がある。


「母親が気に入っていた呉服屋から買ったもので、大切に着ていたのですが、たくさん着たためかほつれそうになっていまして。夜分遅くだったにも関わらず、受け入れて下さって嬉しかったです」


 気に入っていた呉服屋。

 大切に着ていた着物。

 その言葉が、和花の心を溶かしていった。


「そう……だったのですね」


「はい、本当にありがとうございます」


「いえ、私はなにも……」


 お礼を言われることはなにもしていない。

 むしろ迷惑をかけてしまったのに、なぜそんなにも優しい言葉をかけてくれるのだろうか。

 申し訳なさでいっぱいの和花は、視線を彷徨わせながら、呟いた。


「あの、昨晩は申し訳ございませんでした……突然泣き出した挙句、なにも告げずに立ち去ってしまいまして……」


 組まれた手に力が入る。痛いぐらいに握っているはずなのに、痛みは感じられない。それほど和花は緊張していた。


「いえ、気になさらないでください。大丈夫ですよ」


 あまりの優しい声と表情に、和花は戸惑いを隠せない。

 蒼弥は容姿も美しいが、所作や言葉遣いまでもが繊細で美しい。柔らかい笑みがとても眩しく、目が釘付けになった。

 そしてなんといっても目を引くのは腰の低さ。

 こんな見窄らしい姿の和花にも丁寧に接してくれる。

 偉い立場の人はもっと傲慢で威張っている印象を勝手に抱いていたが、蒼弥の奥ゆかしい佇まいに拍子抜けしてしまった。


「あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「……名前、ですか?」


 にこやかな蒼弥に言われ、一瞬躊躇う。

 私なんかの名を聞いて、なんの意味があるのだろう。

 ふとそんなことが頭に浮かんだが、美しく微笑んでいる蒼弥に言われれば無視することはできなかった。


「……藤崎和花と申します」


 小さな小さな声だった。

 これまで自分の名を幾度となく名乗ってきたが、かつてないくらい小さなか細い、頼りない声。


「和花さん」


 和花の小声を聞き取った蒼弥は、復唱し笑いかけた。


「素敵なお名前ですね」


「……」


 ほんのり、和花の頬が色付く。

 なんて返そうか思考を巡らそうとするも、頭が働かない。

 時が止まったような、沈黙の時間が続いた。


「九条さん、そろそろ時間ですが……」


 蒼弥の後ろにいた男性が、申し訳なさそうに二人きりの空間に入り込んできた。


「あ、すみません、小山さん。それでは和花さん、またお会いしましょう」


 我に返った蒼弥は、爽やかな笑みを浮かべ、颯爽と踵を返した。


「和花さん、今のは……」


 蒼弥が立ち去ると、ずっと隣で様子を見ていた由紀が恐る恐る声を発する。


「……昨夜のお店にいらしたんです。お直しのご依頼で」


「あの九条家の方……ですよね?」


「はい……」


「まぁ、すごい!そんな方とお知り合いだったなんて!」


「い、いえ、お知り合いというわけでは……」


 雲の上の方が和花に構うわけがない。

 優しい言葉もきっと社交辞令で、名前を聞いたのも、きっと気まぐれだろう。

 相手にとっては何気ない普通の優しさかもしれないが、久しぶりに誰かに優しくしてもらい過剰に反応してしまっている自分がいる。

 心はまだゆらゆらと揺れ動いていた。


(また、なんてあるわけないのに……)


 心を落ち着けるため深呼吸しながら、和花は由紀と家路に着くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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