第三章:ホワイトアウト
その冬、観測史上最強クラスの「爆弾低気圧」が日本海で発生した。中心気圧が24時間で40ヘクトパスカル以上も低下する急激な発達を見せ、最大風速は60メートルに達すると予想された。
ウィンドファームは最大級の警戒態勢に入った。全ての風車は緊急停止モードに移行。だがその時、最新鋭の風車27号機がトラブルを起こした。ブレードをフェザリング角に固定するための油圧システムが、暴風雪による着氷で配管内の作動油が凍結してしまったのだ。
このままではブレードが風を正面から受け、回転数制御ができないまま危険回転に陥る。最悪の場合、遠心力でタワーごとへし折れる可能性があった。
職員たちは安全なシェルターへの避難を完了していた。管制室には俺と美帆、そして安西所長だけが残っていた。モニターの映像は雪でほとんど何も見えない。ただ風速計の数字だけが異常な数値を叩き出していた。
風速58メートル。人間が立っていることさえ不可能な暴風。
その時俺の脳裏に、チリでのあの事故の記憶がフラッシュバックした。制御不能のブレード。突然の天候の豹変。そして佐藤の悲鳴。足が竦んだ。身体が震える。怖い。俺はもう飛べない。
その俺の震えに気づいたのは美帆だった。彼女は俺の手を強く握った。
「……海斗さん」
彼女が初めて俺を下の名前で呼んだ。
「……大丈夫。あなたは一人じゃない。私がいる。私があなたの風になる」
彼女のその言葉と手の温もりが、俺の心の氷を溶かしていく。そうだ。俺はもう一人じゃない。俺は立ち上がった。
「所長、俺が行きます」
「……馬鹿を言え! 自殺行為だ!」
「……死にはしません」
俺は笑った。
「……だって地上で世界一優秀な俺の『目』が待ってますから」
暴風雪の中へ。それは俺の過去のトラウマと決着をつけるための最後のフライトだった。
外は完全なホワイトアウト状態。視界はゼロ。頼りになるのはインカムから聞こえてくる美帆の声だけだった。
『……海斗さん! 聞こえる!? あと30秒で風の壁が来る! 風速が一瞬だけ弱まる! チャンスはそこしかない!』
彼女のその「風予報」はもはや科学ではなかった。それは彼女がこの土地と空と対話し続けて掴み取った、魂の声そのものだった。
「……美帆! 聞こえるか! 信じてる! お前の声を!」
俺は風の壁が通り過ぎるその一瞬の静寂を突き、タワーを登った。強風の中でも確実にアセンダーを操作し、一歩一歩高度を稼いでいく。手動でのブレード角度調整装置は、ナセルの最上部、地上高152メートルの場所にある。
そして奇跡的にブレードの手動ロックに成功した。三枚のブレードがそれぞれ90度ずつ角度を変え、風を受け流すフェザリング位置に固定される。
その時俺の身体を支えていたメインロープが、金属疲労で断裂した。風速60メートルの暴風に数時間晒された11ミリ径のケブラーロープが、ついに限界を迎えたのだ。
落下する身体。だがその落下は数メートルで止まった。バックアップの命綱が俺を繋ぎ止めていた。そしてその命綱の先は――
『……海斗さん! しっかり! 今助けが……』
美帆の声が途絶えた。管制室が停電したのだ。俺は猛吹雪の中、たった一人地上152メートルの空中に吊り下げられた。だが不思議と恐怖はなかった。彼女が地上で待っている。それだけで俺は生きて帰れると確信していた。