第二章:凪と風の癖
奇跡の「凪」を共に作り出して以来、俺と美帆の関係は少しずつ変化していった。インカムを通して交わされる言葉は、仕事以外の他愛のないものも増えていった。
彼女は俺にこの町の歴史や美味しい魚の話をしてくれた。この石狩湾周辺は江戸時代からニシン漁で栄えた町で、今でも春になると地元の漁師たちが伝統的な網を使ってニシンを獲っているという。そして冬の間は強い季節風のおかげで、この洋上風力発電所が地域の電力需要の約60パーセントを賄っているのだと。
俺は彼女に世界中の現場で見た忘れられない空の話をした。デンマークのオフショア風力発電所で見た白夜の空。アルゼンチンのパタゴニア高原に建つ風車から眺めた南十字星。そしてチリのアンデス山脈で、あの事故が起きる前日に見た、雲海に浮かぶ山々の美しさ。
俺たちは一度も地上でまともに顔を合わせて話したことがない。だが声だけで繋がるこの奇妙な関係は、不思議なほど心地よかった。それは煩わしい人間関係のしがらみから解放された、純粋な魂だけの対話のようだった。
ある夜、観測史上稀に見る強力な低気圧がこのウィンドファームを襲った。中心気圧960ヘクトパスカル、最大風速45メートルの「爆弾低気圧」だった。全ての風車は安全装置が働いて運転を停止し、ブレードは嵐に耐えるためフェザリング角(風を真正面から受け流す角度)に固定される。
その夜俺は珍しく地上にいた。そして停電の危険があるため、美帆もまた管制室に一人、泊まり込みで待機していた。
安西所長に「若いもんは若いもん同士、助け合え」と半ば強制的に押し付けられ、俺は夜食の差し入れを持って、初めて一人で管制室のドアを開けた。
そこに彼女はいた。いつもインカムの向こう側にいた声の主。モニターの青い光に照らし出されたその真剣な横顔。肩まで伸びた黒髪を小さなヘアピンでまとめ、細いフレームの眼鏡をかけている。思っていたよりも小柄で、それでいて意志の強そうな瞳をしていた。
俺の存在に気づくと、彼女は驚いたように顔を上げた。その大きな黒い瞳が俺をまっすぐに捉える。いつも空の上から見下ろしているはずの俺が、今彼女に見上げられている。その逆転した視線に俺はどうしようもなく狼狽えた。
二人の間にぎこちない沈黙が流れる。いつも滑らかに言葉が行き交っていたインカムの世界とは全く違う、気まずい時間だった。
「あの……お疲れ様です」
美帆が小さく会釈する。その仕草があまりにも初々しくて、俺は更に混乱した。
「……ああ。お疲れ様」
俺はぶっきらぼうに答えて、持参したサンドイッチを机の上に置く。その沈黙を破るように、俺はぽつりと語り始めていた。なぜ自分が一匹狼になったのか。三年前のチリでの事故のこと。俺が風を読み間違え、パートナーの翼を折ってしまったこと。
「……俺のせいだ」
俺は誰にも話したことのなかった心の傷口を彼女の前に晒していた。
「……俺はもう誰の命も背負えない。だから誰とも組まない。風も人も信じない」
「でも……」
美帆が小さく呟く。
「……え?」
「……私はあなたの背中を見ています。毎日このモニター越しに。そしていつも思っています。どうか無事に帰ってきて、と。あなたの命はもうあなただけのものじゃないと思います。私がその半分を預かっていますから」
その真っ直ぐな言葉は俺の頑なだった心の壁を、静かに、しかし確実に貫いた。ああ、そうか。俺はずっと一人で飛んでいるつもりだった。だが違ったのだ。俺のロープの先はいつもこの地上の彼女に繋がっていたのだ。
気づけば俺は彼女のその小さな手を握りしめていた。それは俺が三年間忘れていた人の温かさだった。
「……美帆」
俺は初めて彼女の名前を呼んだ。
「……ありがとう」
彼女は頷いて、そっと俺の手を握り返してくれた。