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第一章:洋上のコーリング

 俺の新しい「目」となるその声の主、風見美帆かざみみほは、俺が今まで世界中の現場で組んできたどのオペレーターとも違っていた。


 中央管制室。壁一面に並ぶ50インチの液晶モニターが作り出す青い光の海は、さながら宇宙船のブリッジのようだった。風速、風向、気圧、気温、湿度、発電量、そして俺のヘルメットカメラからのリアルタイム映像。SCADA(Supervisory Control And Data Acquisition)システムが1秒間に500回以上のデータを処理し、30基の風力発電機すべての状態を監視している。


 彼女はその膨大な情報の洪水の中で、たった一人静かにキーボードを叩いていた。


 最初の数日間、俺たちの会話は業務連絡だけだった。


「――管制室。夏嶋だ。ロープの展張を開始する。現在の風速は?」


『――風速12.3メートル、風向北北東。ガストファクター1.15。安定しています。……ですが夏嶋さん』


「……なんだ」


『……海の色が少し変わりました。沖の方から濃い藍色が近づいてきています。データにはまだ出ていませんが……。おそらく十二分後、風が少し荒れます』


 彼女のその予報は不気味なほど正確だった。ぴったり十二分後、俺の身体を支えていた風が豹変し、牙を剥いた。風速が一気に18メートルまで跳ね上がる。俺は慌ててブレードの避雷設備に身体を固定した。


「……どうして分かった」


『……分かりません。でも……この海の風には癖があるんです。子供の頃からずっと見てきましたから』


 彼女は地元のこの漁師町の出身だという。気象予報士の資格を持つエリートでありながら、この土地の風の声を聞く原始的な巫女のようでもあった。


 俺はデータだけを信じる。風向風速計、気圧センサー、温湿度計。これらの計器が示す数値こそが絶対だった。だが彼女のその予知のような言葉は、俺の絶対的なルールを少しずつ揺さぶり始めていた。


 ある日、俺はブレードの表面に深刻な亀裂クラックを発見した。原因はおそらく落雷。雷電流がブレード内部のカーボンファイバーに流れ、樹脂との境界面で熱膨張による応力集中が発生したのだ。このまま放置すれば、遠心力によってブレードが根本から折損する危険性があった。


 補修作業には高度な技術と集中力が求められる。特殊なエポキシ樹脂を亀裂に注入し、ガラスファイバーマットで補強して硬化させる。そのためには数時間、風が完全に凪ぐタイミングが必要だった。風速5メートル以下、かつ風向が安定している状態でなければ、樹脂の硬化が不均一になり、かえって強度が低下してしまう。


「……風見。無風状態が二時間続くタイミングを予測できるか」


『……難しいです。この時期の日本海は気まぐれなので。……でもやってみます』


 その日から俺と彼女の二人だけの戦いが始まった。俺は上空で風の肌触りを彼女に伝え続ける。彼女は地上でデータと経験を総動員して奇跡の「凪」を探す。


 彼女の説明によると、この海域では北海道の高気圧から吹き下ろす冷たい北風と、本州方面から上昇してくる暖かい南風がせめぎ合いを続けているという。その境界線が「風の壁」となり、気圧傾度が急激に変化する。だが稀に、その境界線が陸地に到達する瞬間、両方の風がお互いを打ち消し合って、数十分から数時間の完全な凪が生まれる。


「……暖かい南風と冷たい北風が今、沖合でせめぎ合っています。その境界線が陸に到達するほんの僅かな時間……。もし可能性があるとすれば、そこしかありません」


 数日後、そのチャンスは訪れた。夜明け前の数時間。俺はヘッドライトの明かりだけを頼りに、真っ暗な空と海の中に浮かんでいた。足下には巨大なブレードの白い表面が月明かりに浮かび上がっている。


 インカムの向こうから彼女の緊張した声が聞こえる。


『……夏嶋さん。今です。風が止まりました』


 嘘のように風が止まった。世界から全ての音が消えたような完璧な静寂。風速計の表示が3.2メートルから一気に0.8メートルまで下がる。


 俺は全神経を指先に集中させ、補修作業を開始した。まず亀裂の両端に小さな穴をドリルで開けて応力集中を防ぎ、次にエアブラシで溶剤を吹き付けて表面を清浄化する。そして注射器のような特殊な工具でエポキシ樹脂を注入していく。


 その濃密な静寂の中で俺の耳に聞こえていたのは、自分の心臓の音と、そしてインカムの向こうから聞こえてくる彼女のかすかな息遣いだけだった。


『……順調ですか?』


「……ああ。あと三十分だ」


『……分かりました。風はまだ安定しています』


 その時俺は初めて感じていた。俺は一人じゃない。この地上152メートルの孤独な空の上で、俺は彼女というもう一本の命綱に繋がれているのだ、と。


 作業は完璧に成功した。朝日が水平線の向こうから昇り始める頃、俺は最後のガラスファイバーマットを貼り終えていた。


「……終わった。風見、お前のおかげだ」


 俺がそう言うと、インカムの向こうで彼女がほっとしたように息を吐く音がした。


『……お疲れ様でした、夏嶋さん。今……あなたの背中から朝日が昇っています。とても綺麗です』


 その言葉はただの業務連絡ではなかった。それは俺の凍てついた心に差し込んできた最初の光だった。



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