序章:翼のないイカロス
雲を突き抜ける。
眼下に広がるのは鉛色の冬の日本海。白波が巨大な獣の牙のように海岸線に打ち付けている。そして、その荒れ狂う海の中から天を目指して、何十本もの白い巨塔が聳え立っていた。
北海道石狩湾洋上ウィンドファーム。俺、夏嶋海斗の今日からの新しい「オフィス」だ。
AS365ドーファンヘリコプターが、そのうちの一基の風車の頂上部――地上高152メートルのナセルと呼ばれる機械室のヘリポートにホバリングする。このナセルの中には3メガワットの発電機が収められ、毎分15回転する巨大なローターによって年間約800万キロワット時の電力を生み出している。一般家庭約2200世帯分の年間消費電力に相当する、まさに空に浮かぶ発電所だった。
俺は背負った総重量35キロのロープアクセス機材と共に、躊躇なく眼下の鉄の床へと飛び降りた。ケブラー繊維で補強された11ミリ径のメインロープ、緊急時用のバックアップライン、そして命を繋ぐハーネス。これらの装備が俺の生命線であり、同時に世界中の風力発電所を渡り歩く俺の全財産でもあった。
轟音と共にヘリが飛び去っていく。後に残されたのは世界から切り離されたような絶対的な静寂。そして耳元を吹き抜けていく風の唸り声だけだった。
「……ここが俺の空か」
呟いた言葉は風にかき消された。
俺の仕事はこの白い巨人の巨大な腕――全長82メートルにも及ぶブレード(羽根)の点検と補修。ロープ一本に命を預け、空中で作業を行うブレード・メンテナンス技術者。業界では「ブレード・テクニシャン」、そして人は俺たちを「翼のないイカロス」と呼んだ。
だが俺は太陽を目指す愚かな若者ではない。俺は風を信じない。俺が信じるのは自分の腕とロープの引張強度35キロニュートン、そしてモニターに表示される冷徹な気象データだけだ。
三年前、チリのアンデス山脈にある標高3500メートルの風力発電所で、俺は風を信じすぎた。山の天候を侮り、自分の経験を過信した。その結果、俺のパートナーだった23歳の技術者、佐藤は突然の落雷の直撃を受け、二度とロープを握れない身体になった。
あの雷鳴と彼の悲鳴が今も耳の奥で鳴り響いている。病院で彼が俺を見つめた、あの許すような、それでいて深く傷ついた瞳も。
「海斗さんのせいじゃないです」
彼はそう言ったが、俺には分かっていた。俺が風向きの変化を読み違えた瞬間、佐藤の左腕に280万ボルトの電流が流れ込んだのだ。
だから俺は二度と誰とも深くは関わらない。風のように世界中の現場を渡り歩き、契約期間が終われば何も残さずに去るだけ。俺は孤高の渡り鳥。それでよかった。
ヘルメットに装着したデジタル無線機のスイッチを入れる。
「――こちら夏嶋。ポイントA-12、ナセル上到着。これより作業を開始する。地上の管制室、応答せよ」
しばらくのノイズの後、インカムから澄んだ女性の声が聞こえてきた。
『――こちら中央管制室。風見です。データ受信しました。ようこそ夏嶋さん……私の空へ』
最後のその言葉がほんの少しだけ詩的な響きを持っていることに、その時の俺はまだ気づいていなかった。それが俺の凍てついた心をやがて溶かすことになる、遠い呼び声の始まりだったとは。