『かゆみのかたち』
足の甲がまた、かゆくなった。
夜になると、決まってその一点だけが、わずかに熱を帯びる。
指を当て、かすかにこする。音はないが、世界の下で何かが剥がれていく気がする。
——まだ、生きているらしい。
何年も前からそうだった。
季節の変わり目になると、皮膚の奥がうずいた。
ひとが見たら「乾燥肌」や「アレルギー」と言うのかもしれない。
けれど、自分には、それが身体の声のように思えた。
ただのかゆみじゃない。
皮膚の下で「誰か」が目を覚まそうとしていた。
ある日、試しに100円ショップで買った「あかすり手袋」を使ってみた。
風呂の湯気の中、足首からこすり上げると、驚くほどの垢が剥がれた。
自分の過去がはがれていくようだった。
その瞬間、妙な快感と恐怖が同時にきた。
——剥がれている。これが、わたしなのか。
不思議と、それからかゆみは少しずつ減っていった。
薬も塗っていない。ワセリンすら使わなかったのに。
別の日、鏡の中の自分の顔を見て思った。
右頬にあるシミ。
何年も変わらないその斑点は、いつからここにいるのだろう。
まるで、皮膚が古い記憶を閉じ込めているようだった。
——毒素。あるいは、傷跡。
そんなふうに考えて、あの日、指でこすった。
あかすり手袋で、静かに円を描くように。
次の日、そこは赤く腫れた。痛かった。
人にも言われた。「顔、どうしたの?」と。
でも、やめなかった。
なぜなら——痛みは、「更新」のしるしだと思ったから。
皮膚が、過去を剥がそうとしているのなら。
痛みは、そのプロセスの「声」かもしれない。
治癒には時間がかかった。
赤みは薄くなったが、まだ跡は残っている。
だけど、その部分には、以前にはなかった“柔らかさ”がある。
皮膚が生まれ変わろうとしている——そう感じる瞬間がある。
かきむしること、剥がすこと、痛むこと。
それらは「壊す」行為ではなく、
もしかすると「記憶の掃除」なのではないか。
身体は知っている。
どこに垢が溜まり、どこに毒素が残っているかを。
そして、意思が介入することで、再生は加速するのかもしれない。
皮膚の物語は、ひとつの意識の物語でもある。
その小さな声に、耳を澄ませる——
それが、私にとっての「生きる」ということなのだと思う。
(了)
この物語は、個人的な身体感覚と日常の中で感じた些細な変化をもとに、
一つの仮説を立て、それに思索を重ねた結果、生まれたものです。
現代医療や科学を否定する意図はまったくありません。
むしろ、医学や知識によって支えられている日々の中で、
それでもなお取りこぼされるような「微細な声」に耳を傾けてみた、
——そんな覚書のようなものです。
「かゆみ」や「痛み」は、たいていすぐに消したくなる感覚です。
けれど、もしそれが身体からの“語りかけ”であるならば、
ただ抑えるのではなく、少しだけ問い返してみることで、
自分自身ともっと深く向き合えるのではないか……
そう思った瞬間が、何度かありました。
本作は、その思索の記録を物語というかたちにしただけのものです。
万人に通じる「答え」ではなく、あくまで一つの個人的な体験であり、
検証の途中であり、仮の理解であることを、あらためてここに記しておきます。
読んでくださった方に、何か小さな気づきや、
自身の身体との対話のきっかけが生まれれば、それ以上の喜びはありません。
——ありがとうございました。