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逃げられない




 レリアが頷いたあの晩、トシュテンは微妙な顔をしてナイフを元あった場所に戻した。そして特に何かするわけでもなく、いつものようにソファへ横になった。


 鼻水にまみれた口元から間抜けな声が出てしまったが、トシュテンはそれを気にかけることもなくそのまま夜が明けてしまった。



 次の日の朝、昨日の出来事がなかったかのようにトシュテンは爽やかに笑ってみせた。レリアは思わず身構えてしまったが、その度に無表情になるトシュテンが恐ろしくて、レリアも前のように振舞った。


 レリアだけがトシュテンを警戒して過ごすのは凄まじく疲れた。


 午後になると、トシュテンはレリアに出掛けようと言った。また市場に出掛けるのかと思ったレリアは「行きません」と、トシュテンの顔色を窺いながら言った。



「困るなあ。今日は市場に行かないから……着いてきてくれるよね。レリア」



 レリアはトシュテンの顔を恐る恐る見た。


 昨夜のようにぞっとするような笑みを浮かべていた。しかしレリアの心には恐ろしいという感情よりも罪悪感が巣食っていた。


 自分が、優しい彼を変えてしまったのだと。昨日面と向かって言われて気付いてから、レリアはトシュテンに逆らえなくなってしまった。罪悪感と憐憫が含まれていたこともあるが、昨夜の出来事がトラウマになってしまったせいもある。


 レリアは「ごめんなさい」とまた呟いて、トシュテンの後ろを着いて行った。




 足元だけを見て歩き、しばらくするとトシュテンが止まった。レリアは前を見ていなかったせいで硬い背中にぶつかってしまった。



「そそっかしいね。全く、目が離せないんだから」



 痛む鼻。それよりもかつてのように優しい兄として見ていた頃の彼が戻ってきたような気がして、しかしそれは確実に偽りだと分かっていて……レリアは泣きたくなった。



「着いたよ」



 レリアはトシュテンの向こうにある建物に目をやった。

 そこは、レリアが奴隷として連れてこられたあの領主の館であった。そこは領主の館でもあり、トシュテンの実家でもあった。



「な、なんで……」



「父さんにもそろそろ引退してもらわなきゃ」



 レリアはこれから何が起こるのかわかったような気がした。きっと彼は、父を、殺すか何かして当主の座を奪おうとしているに違いない。


 やはりおそろしい人だ。変えてしまったという申し訳なさからくる責任感はかなぐり捨てて、レリアは後ろを向いた。



 再び逃げ出そうとした。何か(よすが)がある訳でもないが、とにかく、今逃げ出さないともっとおぞましい事が起こるような気がした。


 トシュテンから逃げる術を思いついたわけでもなく、ただただレリアは走り出した。現実逃避をするには短すぎる時間だった。


 十歩と走らないうちに、すぐさまレリアはトシュテンに捕らわれた。



「怖い?」



 市場での記憶が蘇る。また失敗した。



「俺が、怖いの?」



 本当の本当に、終わりだ。


 きっと誰も助けに来てはくれないだろう。


 後ろからまとわりつくトシュテンの両腕はまるで鎖のようだった。





 レリアは掴まれた腕を振り払うという無駄な抵抗をすることもなく、トシュテンに従った。これから起こるであろう悲劇に身を震わせながら。


 しかし予想に反して、トシュテンはなにか武器を持つでもなく、普通の様子で屋敷の中へと入っていった。


 レリアは戸惑ったまま、なんの躊躇いもなく進み続けるトシュテンの後頭部を見ていた。



「父さん、帰ったよ」



 ある部屋の前で止まると、トシュテンは勢いよくそのドアを開けて言った。


 部屋の中にはやはりあの輝かしい金髪の男がいた。彼は(くう)見つめていて、大きな物音をたてたトシュテンを気にも止めていなかった。


 前に見た時の怒りに満ちた顔とは打って変わって、まるで魂が抜けてしまったような顔をしていた。



「父さん、帰ったって」



 トシュテンが部屋の中に乗り込んで男の前に乗り出すと、かっと目を見開いておよそ人のものとは思えないほどの恐ろしい咆哮をあげた。


 そしてトシュテンに掴みかかろうと立ち上がり手を伸ばしたが、痩せ細った体は健康なトシュテンの力には敵わなかった。トシュテンは伸びてきた腕を捻りあげると、男はそのまま床に倒れ込んだ。



「今日は父さんに紹介したい人がいるんだ」



 そう言うと、トシュテンは部屋の外にいたレリアの腕を引っ張って、男の前に連れていった。


 恐ろしくは思えなかったが、異様な光景にレリアは萎縮しきっていた。



「この前、出会ったんだ」



 トシュテンは流れるような手つきでレリアの羽織っていたローブを脱がせた。


 すると隠れていた羽が畳まれた状態で顕れた。


 トシュテンが羽を出せるようにとわざわざ切り裂いた服の背中から飛び出る羽を、男が見た。


 するとみるみるうちに顔が青ざめていき、トシュテンと揃いの深い海の色の目には絶望の色が浮かんでいた。



「お、お前……っ、お前…………!」



 驚愕のあまり彼は言葉を紡げずにレリアを指さして口をあんぐり開けていた。そうしてしばらくすると、諦めたような顔をして自嘲した。



「忌々しい系譜だな」



 これ以上話す気はないようで、先ほどと同じようにどこともわからぬ場所を見つめ始めた。


 レリアは会話はもう終わったかと思って背を向けて退出しようとした。しかし後ろにいたトシュテンがレリアのレリアの羽根を優しく掴んで耳元で囁いた。



「まだだよ」



 レリアは背筋が凍る思いだった。必死に首を縦に振り、羽をできるだけ小さく畳んでトシュテンの望む通り傍に寄った。すると彼はいたずらに笑った。



「父さん、そろそろ隠居してもいいんじゃない?」



 男はトシュテンの方を見ないで吐き捨てるように言った。



「……好きにしろ」





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