二人だけの-トシュテン
トシュテンは愛しいレリアが遠くから自分の名前を呼んでいるのに気が付いた。悲鳴に近い声で、何か非常事態が起きたに違いないと思った。
実際にそうだった。レリアは元婚約者のウリカに襲われそうになっていた。
トシュテンはすぐさま彼女の傍に駆け寄り、あの吹雪の日のようにやさしく防寒着をかけてやった。
するとレリアの体から力が抜けた。トシュテンは安堵のあまりそうなってしまったのだと思って、動けない彼女の体を大事に両手で抱きかかえた。
レリアを大切にするトシュテンに耐えきれなくなったのかウリカが声高に言った。
「あなたのことを愛しているの!」
歌劇のようにドラマティックなシチュエーションだと思った。そのせいか、レリアほど可哀想に見えなかったがそれなりに気持ちは分かった。
「気持ちだけで婚姻はうまくいかない」
「どうして!?こんなにあなたのことを思っているのに、どうして受け入れてくれないのよ!」
トシュテンのレリアを抱く腕へ無意識に力がこもった。
「俺は鬱陶しい女は嫌いだ」
「……っこの!!一生その羽の生えた化け物と暮らしてればいいじゃない!見ず知らずの私にミルクなんか出しちゃって……ふんっ、滑稽だったわ!警戒心なんてまるでない、馬鹿な女!こんなの、すぐ死ぬわよ!すぐに!!」
打って変わって無理にトシュテンたちを蔑むような表情を作った目の前の女の話が、聞き捨てならなかった。
レリアとの思い出を汚された気分になった。それに、レリアが初対面のこの女にトシュテンとの思い出を差し出したのが心底気に入らなかった。
家の中には茶葉がいくつもあって、レリアはお茶を淹れるのが得意だと言っていたのに。どうしてわざわざミルクを出して、沸かして、注いで、渡した?
トシュテンは怒りを抑えるために少し息を吐いた。
腕の中のレリアに被せた上着を少し避けて、レリアの意識がないのを確認した。そしてレリアを片手で抱きかかえた。すぐさま、トシュテンはウリカを殴り飛ばした。確認したのは、レリアに目撃されて嫌われたり恐れられたりしたくなかったからだった。トシュテンはなんの感動もなくもう一度目の前のうざったい女を殴った。
トシュテンはレリアが思うほど優しくなかった。好きだから優しくしていたのであって、彼の本性はレリアの頬を打った領主とそう変わらないのだ。
「なにすんのよ!」
「苛ついたから」
「は、はあ……!?」
何か言おうと口を動かしたのを、トシュテンは見逃さなかった。間髪入れずにウリカの目を狙って殴った。力を込めた拳は真っ白になるほど強く握りしめられていた。
この女は、トシュテンとレリアの幸せな生活を台無しにした代償を支払わなければならないのだ。
レリアが身じろいだ。トシュテンは彼女を落としてしまうのではないかと不安になって両手で抱えることにした。
そして今度は雪の上に転がるウリカを蹴り飛ばした。呻くウリカを気にもとめず、トシュテンは蹴り続けた。
「も、もうやめて……ごめんなさい、私が、私が悪かったから……」
懇願の言葉を言う機はもうとうに過ぎていた。
トシュテンは血を吐くウリカをそのまま蹴り続けた。
動かなくなってしまったが、トシュテンはそのまま二人の家へと帰った。
実に理性的な決断だったはずだ。トシュテンは上がった息を整えるために深く呼吸しながら、自分にそう言い聞かせた。
家へ帰り、トシュテンはレリアが目を覚ますまでの間ずっと考えていた。
彼女は危なっかしい。ここまで生きて来れたのは豪運だと言わざるを得ない。が、彼女のお人好しと抜けているところは、どうも彼女の人生において害しか与えていないように見える。
明らかに怪しいウリカのことを最初にどう思ったかはわからないが、その警戒心のなさは愚かだとも言える。
トシュテンは、彼女の姿を初めて見た時から感じていた欲求がなんなのかようやくわかった気がした。
――彼女に害なすものを全て排除して、彼女が一生幸せに暮らすことの出来る環境を創りたい。
そこまで考えて、トシュテンは正気に戻った。
これでは父と同じではないかと。
ああ……危ない。気狂いの二の舞になるところだった。
無理に微笑を作り、トシュテンは彼女になんと秘密を打ち明けようかと考え始めた。
レリアはトシュテンから聞いた話に大きな反応を見せなかった。ずっとなにかを考えていて、それはトシュテンに関係ないことなのだとすぐにわかった。
トシュテンは貴族だと見当がついていたとしても、もう少し興味を持ってくれてもいいのに。トシュテンは少し不貞腐れながらも、思惟する横顔を眺めていた。
やはり彼女はかわいらしい。大柄な女ばかり見てきたせいか、小柄な彼女は物珍しかった。
トシュテンが惚れたのはそのせいだけではない。レリアの顔だちは整っている。いつ見てもトシュテンを夢中にさせてやまない容姿が好きだった。今も、彼女の空色の目は悩ましげに伏せられていて、小ぶりな唇が少し開いているのがあどけなくも蠱惑的だった。
性格だって……性格までもが可愛らしい。悩みの種である危なっかしさが庇護欲を唆って、自分がいなくてはならないと思わせるのがたまらないのだ。
ああ、どうしたら彼女と一生一緒に暮らせるのだろう。
何度振り払っても頭を支配する邪念は、トシュテンの一番の願望でもあった。いくつかの方法を思い浮かべては却下するのを繰り返している。
――なにか物理的なもので縛り付けるのも……例えば、妊娠だとか。いや、産む前に死んでしまいそうだ。なら羽をもぎ取ってしまうのがいいか?
どちらにしろ、父と同じだ。
レリアの横顔は依然として変わらない。彼女の頭の中が自分でいっぱいになればいいのに、と思ったところでトシュテンは閃いた。どうして一番安直で平和で安全な手を最初に思いつかなかったのだろうと後悔した。
レリアをトシュテンの虜にしてしまえばいいのだ。トシュテンがレリアに対してそうであるように。
何故かその時は自信があった。既に心を開いてくれているのだから容易に違いないと。
それから一週間後のこと。レリアはトシュテンの体に抱きつき上目遣いでトシュテンを見つめていた。
ただ、ロマンチックな雰囲気なんかではなく、レリアがトシュテンに我儘を言っているのだ。
「お願いします!私も市場へ連れて行ってください!」
自分がどんな目にあってここにいるのか忘れてしまったようだ。トシュテンは溜息をつきたいのを我慢して、優しく諭した。
「まだ体調は万全じゃないし、なにより危ないよ。どうしてここに来たのか思い出してみて?それに、この間襲われかけたよね?」
「で、でも……もう学びました!知らない人に声を掛けられても無視しますし、絶対にトシュテンの傍から離れませんから!」
結局、レリアのおねだりはトシュテンによって叶えられた。
そして今二人は市場の中、二人身を寄せあって歩いている。レリアはおおぶりなローブを着て、フードを深く被っていた。もちろん翼を畳んで。
彼女に触れてもらえるなら悪くないことのような気もしたが、よくよく考えればリスクの方が大きい。しかしそのような考えも想い人の笑顔の前では無意味だった。
彼女は興味津々に周りを見ていたが、決してトシュテンのそばを離れずにいた。
小さな声でこれはなんだ、あれはなんだと聞かれるのにトシュテンは頬を緩めずにはいられなかった。
「最後に服を買おうか。いくらでも買っていいよ、服は……彼女に見繕ってもらって。俺にはよく分からないから」
トシュテンはそう言って、馴染みの服屋の戸を叩いた。そして遠慮なく入ると、奥から女が胡散臭い笑みを浮かべながら出てきた。
「おやおや、いらっしゃいませ!お久しぶりです、何をしていらしたんです?――あれ?そちらのお嬢さんは……ウリカお嬢様……」
「……違うよ。彼女が着られそうな物をいくつか出してくれ」
「は、はい……わかりました」
女は不思議そうな顔をしつつもトシュテンの要望に従って店の棚を漁り始めた。
レリアは怯えた様子でトシュテンの上着の裾を掴んだ。
「こちらはいかがですか?」
目の前に掲げられた伝統衣装を見て、トシュテンは気をよくした。これをレリアが着たら、彼女がこの国に属しているような気分を味わえると思ったからだった。トシュテンはそのまま、レリアの顔を見ることなく即決して買った。
不安そうな眼差しを向けるレリアに気付かなかった。