吹雪の中の天使-トシュテン
「……雪、止みませんね」
あの事件から一ヶ月もの時が経った。トシュテンからはこの時期にはもう雪は降らないと聞いていたのに、未だに外では雪が降り積もっている。
「ああ……今年は例年よりも冬が長いみたいだよ」
レリアは肩を落とした。最近になって毟られた羽にようやく少しだけ羽根が生えてきたのだ。しかし風切羽が生えてこないことには意味が無い。次の換毛期まであとどれくらいだろうかと、レリアは思案していた。
トシュテンは物憂げなレリアをじっと見つめていた。レリアはそれに気付かなかった。
トシュテンは焦っていた。長い時間を共に過ごしたはずなのに、レリアの心をこの地に、トシュテンに縛り付けることが出来ていなかったからだった。彼女の心は、翼は故郷を求めている。
初めて出会ったあの日、トシュテンは恋に落ちた。雪が視界を邪魔する中、雪と同化してしまうほど儚くて真っ白な彼女にひと目で心を打たれた。
いまにも命の灯火が途絶えてしまいそうだった。
それが、大層美しかった。
虚ろな目をした彼女の冷たい身体に己の防寒着をかける。すると彼女は気絶してしまった。死んでしまったのかと思って思わず彼女の胸に手をあてた。随分とゆっくりとした拍動だった。安堵して、トシュテンは彼女の華奢な身体を抱き抱えて家へと帰った。帰る途中、トシュテンは女性の胸を断りもなく触ってしまったと後悔するのだった。
彼女は下着のような服……というより、恐らく下着しか着ていなかった。何か悪いことをしているような気分になりながら、トシュテンは甲斐甲斐しく彼女の世話をした。家にあるありったけの布を彼女の体に巻き付けて、暖炉にも沢山薪を焼べた。
彼女が起きたのは次の日の夜だった。
不安そうな顔をしてこちらを見た彼女に、どうしてあんな所にいたのか聞いた。しかし彼女は不思議そうに首を傾げるだけで返事はなかった。トシュテンは、彼女が他のところからやって来た可能性があると睨み、自分の名前だけ教えた。
すると彼女は健気にも名前を呼ぼうとしてくれた。小さな舌を動かそうにもほんのわずかにしか動かないうえ、喉も乾ききって声が出ないようだった。
トシュテンは気を利かせて彼女に温かいミルクを飲ませた。少し熱くしすぎたかと思っていると、彼女は豆鉄砲をくらった鳩のような顔でミルクとトシュテンを交互に見た。
この色のミルクを見たことがないのだろうと察したトシュテンは、流れるように彼女の手からコップを取ると少しだけ中身を飲んだ。
彼女はその間ずっとトシュテンを凝視していて、トシュテンはどうもむず痒い気分になった。
もう一度彼女にコップを渡すと、彼女は覚悟を決めたように、それでもゆっくりとミルクを飲んだ。
彼女の空色の目が輝いた。彼女が愛おしくて仕方がなかった。
ミルク一つでこんなに愛らしい表情を引き出せるとは思ってもみなかった。口元に浮かぶ微笑がトシュテンの欲望を掻き立てた。大切そうにコップを両手で抱える彼女のためだけに、二人の思い出に、何度でも彼女にミルクを注いであげたいと思った。トシュテンが妄想をしていると、彼女が零れ落ちたように、ごく自然なふうに呟いた。
「おいしい……」
彼女が呟いた言葉から南部の方の者だとわかると、トシュテンは思い出したくもないほど厳しかった教育の賜物を用いて話しかけようとした。しかし目の前から啜り泣く声が聞こえてきたのだ。
彼女が泣いている。
トシュテンはどうしたらいいか分からなくなった。それでも彼女のためになにか出来ることがないかと、おずおずと手を伸ばし、背中をさすった。さすっているうちに彼女は声を上げて泣き出した。その様はひどく悲痛だった。
レリアが泣き止むと、トシュテンは純粋なこころから励ましてあげたいと思った。とはいえ、彼女が喜ぶようなものはこの家にない……と、少し考えたところで思い出した。
子供の頃、父に貰ったおもちゃがまだ家にある。彼女の年ではすこし幼稚すぎる気もしたが、何も無いよりはましだろうと思った。
彼女に一声かけると、トシュテンは記憶をたどっておもちゃを探し始めた。父との思い出の品は倉庫の中にしまってある。
父は、母が亡くなるまではまともだった。母が体調を崩して死ぬまでは、まともだった。
誰が悪いわけでもなかった。ただ、母が体を病んでしまっただけだった。晩年にはかつての明るい母はおらず、ただ薄暗い部屋の中でか細い呼吸音を聞くだけだった。
そういえばと、トシュテンは思い出した。母の背中には傷のような痛々しい見た目をしたイボのようなものがあった。滅多にそれを晒すことはなかったが、トシュテンはそれが不思議でたまらなくて、好奇心からよく強請って見せてもらった。
今思えば、母は彼女と同じ有翼人だったのだろう。そして、父もトシュテンと同じように吹雪に攫われそうな天使に恋をしたのだろう。
トシュテンはおもちゃを探す手を止めて自嘲した。悪性の遺伝だな、と。それに近くに反面教師がいたとは思わなかった。
ちょうどおもちゃも見つけ終えたトシュテンは、軽やかな足取りで倉庫を後にした。
彼女の傍に戻ると、トシュテンはサプライズをする前のようにもったいぶって彼女におもちゃを渡した。
そのおもちゃを目の当たりにして、彼女は目を見開き息をのんだ。
そしてそのままうつむいてしまった。亜麻色の髪に隠れた表情は一切見えず、トシュテンははらはらして彼女を見守っていた。また泣いてしまったのではないかと思うと気が気でなかった。
しかし予想に反して彼女は笑っていた。トシュテンという他者から見てもその笑いは健全なものでないと分かった。無理に笑っているように見えた。それでもトシュテンに彼女の心の内は理解できなくて、何もせずただ見守っていることしかできなかった。ただの、他人なのだから。
ひとしきり笑った後、彼女はこの国の言葉を学びたいと言った。
まさかと思った。彼女がこの国で暮らす覚悟をしてくれたのかと、嬉しくなって、彼女の国の言葉を口走ってしまった。それが彼女の帰属意識を思い起こさせてしまったのだ。悪手も悪手だった。
ただ、その時まではトシュテンも父のことがあったために彼女を無理矢理この地に引き留めるようなことはしたくないと思っていた。
その後、何か聞きたそうな彼女の先手を取って喋り続けた。自分がなぜ彼女の国の言葉を話せるのか詳しく話せば、自分が貴族であることが露呈してしまうからだった。もしかしたら彼女は既に気づいているかもしれないが、純粋な瞳で見つめてくる彼女が畏まるかもしれないのが、嫌だった。しかし真面目な顔をして一生懸命に聞く彼女の様子に、今すぐ秘密にしたことを打ち明けてしまいたくなった。結局しなかったが。
彼女は自分をレリアと名乗った。そしてここに来るまでの経緯をあっけらかんとした様子で話した。
その中で、トシュテンは自分の父が母の面影を探して有翼人を買い集めていることを察してしまった。その母の血を引く自分よりも種族にこだわるのかと、ひっそりと落胆した。トシュテンは母によく似ているのに。
父の考えがいつ変わるとも限らない。もしかしたら、レリアを連れ戻しに捜索を始めるかもしれないのだ。だから、トシュテンはいずれレリアを故郷に帰してやらねばならないと考えた。しかし真冬の中旅に出るのは危険だ。春になったら故郷まで送り届けてやろうと思っていた。それまでに恋した彼女との思い出を作ろうと決めたのだ。
それから兄のように自分を慕うレリアに歯がゆい思いをしながらも、トシュテンは可哀想なレリアを愛しんだ。
考えが変わったのは元婚約者が家に押しかけてきた時のことだ。前々から目障りな女だとは思っていた。しかしトシュテンは熱烈な元婚約者を上手にあしらって、穏便に婚約を解消したつもりだった。
あの女も馬鹿ではない。醜聞を避けて、婚約が解消されれば二度と会いに来ないだろうと思っていた。