コップの中のミルク
目を覚ますと、レリアはまず自分の体が体温を取り戻していたことに気が付いた。そして次にここが見知らぬ場所だということに気付いた。
起き上がろうにも体が動かず、目だけを動かして周りの様子を窺った。
素朴な雰囲気の家だった。暖かい家の中には似つかわしくないナイフが、カバーもつけずに壁にかけられていた。
「気が付いた?体調は大丈夫?」
思うように動かない体をどうにか動かして、声のする方に顔を向けると、意識を失う前に見た男の人がいた。しかし、南部の言語と北部の言語は異なっているためその男が何を言っているのかレリアにはわからなかった。
しばらく反応をしないままでいると、目の前の男はレリアの目をじっと見つめた。
「トシュテン」
レリアにも、それが彼の名前なのだということがすぐに分かった。復唱しようにも舌が動かず、掠れた声を喉から出すだけだった。
「まだ動かないか」
トシュテンはそう一人で呟くと、レリアのためにミルクを温めるため暖炉のそばへ向かった。そして小ぶりな鍋を使ってミルクを温めると木製のコップに注ぎ、甲斐甲斐しくレリアの体を起こして彼女の手にコップを持たせた。
レリアはコップの中身を覗くと、それはほんのり黄みを帯びていた。レリアは思わずぎょっとしてコップを遠ざけた。レリアはこれがミルクだとはつゆも思わず、何度もトシュテンの顔を見た。
トシュテンは頓狂な顔をしたレリアに思わず吹き出してしまった。そして疑り深い彼女のために両手に抱えられたコップを取ると中のミルクを飲んだ。
そしてレリアを見て微笑みかけると、レリアは差し出されたコップを再び受け取り中の黄色いミルクを恐る恐る飲んだ。
「おいしい……」
口に入れるとすぐに中の液体がミルクなのだとわかった。記憶よりも濃厚で甘いそれはレリアの体に染み渡るようなおいしさだった。まともな食べ物も与えられず、挙句の果てには雪の積もる森の中に置いてけぼりにされた時のことを思い出すとよりおいしく感じるのだった。
そしてレリアは熱いミルクのせいか、思わず涙をこぼしてしまった。
突然泣き出したレリアに戸惑うトシュテンはただ涙を流すレリアの背中をさすることしかできなかった。最初は涙だけだったのが、トシュテンが背中をさすっているうちにレリアは嗚咽をもらし、そのうち号泣へと変わっていった。
レリアが泣き止み、ミルクが温くなった頃、トシュテンは少しの間席を外した。戻ったかと思えば、レリアに手を出すように促した。
レリアがその通りに手を出すと、掌サイズの赤い馬のおもちゃが乗せられた。レリアは一目で友人が話していたおもちゃなのだと分かった。私が街へ行った理由、そして元凶がこの手に収まるほどちっぽけな物だと分かった途端、なんてばからしいことをしてしまったのだろうと後悔した。
息をのみ、動かなくなってしまったレリアの顔を覗き込んだトシュテンは、彼女が泣いているだろうと思っていた。しかし彼女は笑いをこらえていたのだ。
きっと頭がおかしくなってしまったのだと思われても仕方がないが、彼女にとってはこれが自分を守る精一杯の方法だった。笑い飛ばさないと、自分で自分を殺してしまいたくなるような気持になるだろうから。
レリアが笑うのを見て、トシュテンは呆然としていたが空元気でも前を向こうとしているレリアを否定する気にはなれなかった。
ひとしきりレリアが笑った後、レリアは手の中にあるほんのり暖かいミルクを飲みほした。そしてトシュテンの目を見て言った。こんなに優しくて素敵な人と交流しないのはもったいないと思ったのだ。
「私、ここの言葉を学びたいです」
「いいよ」
レリアは目を見開いた。まさか通じると思っていなかったのだ。それに、独りよがりな独り言だったのに。
トシュテンは言葉を失うレリアの様子に笑みをこぼし、そのまま流暢に話し始めた。
「偶然だけど、実は君の国の言語を学んでいたことがあるんだ」
レリアが生まれた国は文化の中心地で、他国の流行すら意のままに操っていた。流行の最先端であるかの国に乗り遅れないようにと、他国の貴族はこぞってレリアの国の言葉を習得したと聞く。レリアは平民であるはずの彼が、どうして喋ることができるのかと疑問に思い尋ねようとした。しかしレリアが口を開く前に彼は矢継ぎ早に喋り、その勢いに圧倒されたレリアは結局何も話すことができなかった。
彼はたくさんのことを教えてくれた。勿論彼自身のことも。地図を出して今いる国とレリアの国がどれほど離れているかをわざわざ見せてくれたり、ここ一帯を支配している領主は酒の飲み過ぎで頭がおかしくなってしまった事も教えてくれたりしてくれた。
彼はほかにも幼少期の話、ここで暮らすのは町で暮らすよりも不便だが楽しいということ、それに婚約者がいたが事情があって白紙になったことなど、他愛のない話であったがレリアは目を輝かせて聞き入った。
その後、レリアはトシュテンが作った夕食を食べ、わざわざお湯で濡らしたタオルで体を拭くよう勧めてくれた。そして一つしかないベッドにレリアを寝かせ、暖かい布団をかけてくれた。自分はソファで寝ると言って、暖炉の前に鎮座しているソファで本当に眠ってしまった。
夜中、レリアはなかなか寝付けずにいた。あんなに気を遣ってもらったというのに目が冴えてしまって全く眠ることができない。ベッドの中、レリアは重い毛布の中で耳を澄ました。
ぱちぱちとはじける火の音、そとでびゅうびゅうと吹く冬の風、ぎしぎしと時たま鳴る家鳴り。そして、今日出会った青年の小さくか細い呼吸音。
彼の寝息を意識した途端、レリアは恥ずかしさに身悶えそうになった。全く知らない人に世話になったばかりか、家主を差し置いてベッドを占領するという恥知らずなことをしているのだ。申し訳なくなったレリアは思うように動かない体を起こし、暖炉のそばで眠るトシュテンに近付いた。
大きな体を窮屈そうにソファに収め、獣の皮でできた布を一枚だけかぶる彼を見て、レリアはもっと申し訳なくなった。
少ない毛皮をほとんどレリアに使わせたせいで、彼の手元にはこの一枚しか残らなかったのだろう。レリアはベッドから一枚厚い毛皮を持ってきて彼の体がはみ出ないように、そして起こさないように注意しながらかけた。
そこまですると、レリアはようやく眠気を感じ始めてベッドに戻り先程のように布団の中身もぐりこみ目を瞑った。
「あっ!あれは何ですか?」
何日か経つと、レリアの体調は改善し、体もよく動くようになってきていた。今日は外に出たいというレリアの要望を叶えるために、トシュテンは狩りのついでに彼女を外に連れ出したのだった。
レリアは遠くに見える動物を指してそう言った。
「あれはオオヤマネコだよ。君の所にはいない?」
「猫は見たことあります。でもあんなに大きくて強そうなのは見たことがありません!」
興奮して言うレリアの頭をなでながら、トシュテンは笑った。しかし二人の気配を感じ取ったのか、オオヤマネコは逃げてしまった。
逃げた姿を見て落胆した声を漏らすレリアのため、トシュテンは詳しく説明してやろうと服のポケットを探った。しかしポケットの中には二、三枚の小銭しか入っていなかった。
仕方がなくトシュテンはレリアに家にある紙と木炭を持ってくるよう頼み、そして自分は狩りに集中した。トシュテンは肉を食べて喜ぶレリアの顔を想像しながら何日か前に罠を仕掛けた場所へ向かった。