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非日常




 レリアは息を切らしながら懸命に逃げていた。腕の中のミュリエルは一向に泣き止む気配がない。しかしどうにか村へ帰らなければならない。


 どうしてこんな目にあってしまったのだろう。ただ今日もいつもと同じように買い物をしに街へ出かけて、その途中でミュリエルがぐずりだしてしまったから人気のないところであやそうと思っただけなのに。どうして彼がここにいるのだろうか。


 四年前に経験した悪夢のような出来事がまるで昨日のことのように鮮明に思い出される。肌を刺す北の地の寒さ、人から向けられる悪意、そして彼のじっとりとした恐ろしい視線。


 レリアは逃げ続けようと試みていたが、一年ほど経ったといっても産後の体に激しい運動は悪手だった。汗だくになり、異常なほど呼吸の頻度が高くなって、そしてお腹のあたりが急に痛み始めた。


 レリアは立っていられなくなってその場にしゃがみこんだ。しかし後ろからは追手が来ている。レリアは這って近くの物陰に隠れた。


 レリアは息を潜められるが、ミュリエルはまだそんなことなんてわからない。ミュリエルは泣き続けた。レリアは必死にお願いしてあやし続けた。すると思いが通じたのか、ミュリエルは泣くのをやめてきょとんとした顔でレリアを見た。レリアは安堵と我が子のかわいらしさに頬が緩んだ。


 このまま腹の痛みが治まるまで隠れ続けたら、また平穏に暮らせる。レリアはジェルヴェの羽の白さと肌触り、そして包まれる安心感を思い出した。


 呼吸を整え、レリアは今一度腕の中の我が子を見た。二人から受け継いだ亜麻色の髪はジェルヴェににてくるくると渦巻いて、大きな瞳は榛色で、すこし青が散った幻想的な色をしている。自然を切り取ったような美しい目が、レリアは好きだった。レリアはミュリエルに微笑みかけた。





「やっぱり運命だ」



 上からかけられた声に、レリアは動きを止めた。



「今度は逃げないで、レリア」



 トシュテンは床に座り込むレリアの腕からミュリエルを奪い取った。驚いたせいで力が抜けていた。レリアはすぐに立ち上がって、トシュテンからミュリエルを取り返そうとトシュテンの服を引っ張った。



「返してください!ミュリエルを返してっ……!」



 トシュテンは笑っていた。必死にもがくレリアをあざ笑っているようだった。



「じゃあ俺についてきて。逃げたら、君の子を殺す」



 レリアは口を何度か開閉して、怒りのあまり涙がこぼれてきた。しかしここでまた反抗すればミュリエルは魔の手に侵され死んでしまう。レリアは必死に頭を働かせて、今すぐにではなくても、どうにか助けを呼べないか考えた。



「て、手紙!手紙……じゃなくても、何か一言夫に……」



「俺には何も残さなかったのに?」



 トシュテンは切羽詰まった表情のレリアに近付いた。

 レリアは周囲の音が消えてしまったような感覚に陥った。    

 レリアは思わずごめんなさいと呟いていた。見ると、ミュリエルを抱いたトシュテンがかつてのように穏やかな笑みを浮かべている。


 幸せそうな彼を見たら、こんな風にしたのは自分のせいなのだという呪縛が再びレリアの心を縛り付けた。




 トシュテンの後ろをついていった先で、見知った顔が馬車の前で目を見開いて待っていた。土で汚れたショールをその人にとられると、レリアはトシュテンの手で無理矢理馬車に乗せられた。トシュテンに抱えられていたミュリエルは使用人の手に渡ってしまった。



「あ、あの……まだ、ひ、人見知りで、私がいないと泣いてしまうんです。逃げないから、あの子を返してください……」



 トシュテンに泣きながら頼んだが、トシュテンはレリアの懇願を受け入れる気はなく、レリアと同じ馬車に乗り込んだ。



「もう信じないよ」



「じゃ、じゃあお乳はっ、飲ませないと死んでしまいます!」



「君は心配しなくていい。全て、使用人がするから」



 レリアは絶望して、大粒の涙を流した。それと同時に馬車の扉が閉まった。そしてようやく戻った日常は非日常に成り代わってしまった。




 使用人が乗った馬車は離れているはずなのに、レリアはミュリエルの声が聞こえている気がしてならなかった。

 焦燥しきったレリアは馬車の窓から後ろが見えないかと試み続けている。



「レリア、少し話をしようよ」



「…………」



 レリアはトシュテンの方を見向きもしなかった。わざとではなく、我が子のことが気が気でなかったのだ。



「……レリア」



 無視し続けていると、トシュテンがレリアの肩を掴んだ。



「これから君と、君の子供がどうなるか気にならない?」



「……っ私のことはどう扱ってもいいけれど、その代わりミュリエルに手を出さないでください」



 レリアはトシュテンを睨みつけてそう言った。


 しかしトシュテンは笑った。



「本当にいいんだね?」


「えっ……ええ、どうぞ!」



 レリアは強がったが、トシュテンにはお見通しだった。


 トシュテンはレリアに近付いて、警戒する彼女の目の上にキスを落とした。レリアは驚いて小さく悲鳴をあげた。しかしトシュテンはおかまいなしにレリアに触れ続けた。


 レリアは体を強ばらせてトシュテンの一挙一動にびくびくと怯えていた。トシュテンがそんなレリアを哀れに思ってか、ふと「あとで君の子の顔を見せてあげるから、そんなに怖がらないで」と言った。レリアは少しの希望に安堵した。


 すると忘れていた腹の痛みが思い出したかのようにレリアを襲った。思わずお腹を抱えて唸った。


 下の方を見ると、レリアの着ていたワンピースが血に(まみ)れていた。


 レリアはショックのあまり悲鳴をあげると、そのまま気が遠くなってしまった……。



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