平穏な日々
レリアはアレクサンデルが付けてくれた護衛や世話役のおかげで無事に元いた国へ帰ることが出来た。道中、何度か自然の脅威にされたれたことがあったが、人に襲われなかったのは強面な護衛のおかげだろう。
「あの、私の故郷へ人を連れて行ってはだめなので、皆さんはここまでで大丈夫ですよ。本当に、今までありがとうございました」
レリアはあと少しというところで、惜しまれながらも旅の仲間たちと別れた。
そしてレリアは駆け出した。暖かい日差し、風。美しい花々の甘い香り。あそこにはなかったものが、全てここにある。
雪は珍しいだけで、楽しいと思えなかった。温かみ溢れた故郷が、やはり一番なのだ。
懐かしい土と青臭い匂いに思わず涙が零れそうになる。
レリアは村の奥まった場所にある我が家へと全力で走った。切れる息がどんどん気持ちを昂らせる。
家の前に着くと、レリアは深呼吸をした。そして意を決してドアを開けた。
「お母さん、ただいま!」
母はレリアを見て、持っていた本を驚いて落とすと、泣いてレリアを抱きしめてくれた。そうしているうちにレリアも泣けてきて、二人で泣きじゃくった。
母は羽でレリアの体を包みこんで抱きしめた。それは愛しているという意味の行動だった。それが余計にレリアの涙を誘い、抱きしめる母の体をより強く抱き締め返した。
「だから行くなと、あれほど言ったのに……でもあなたが無事に帰ってきてくれてよかった……本当によかった……」
母はあの日、人の街で祭りがあることを知っていたらしい。人になれていないレリアが人混みの中でまともに歩けるわけがないと分かっていたようだ。レリアが聞く耳を持たないせいで、理由を言えずずっと後悔していたようだ。
そのあと、今まであったこと(トシュテンに襲われかけたことは恥ずかしいから除いて)を話した。
そして二度と母の忠告を無下にしないと約束して、レリアは母の作ってくれた料理を食べて母と一緒に眠った。
そうしてレリアはようやく元の生活に戻ることが出来た。その代わり、レリアは人の街に興味を示すことはなくなった。
それから約二年の月日が流れた。レリアは友人の紹介で、ある人とお見合いをすることになった。
特に結婚願望はなかったが、いいんじゃないという母の一声で受けてみることにしたのだ。
彼は当たり前だが同じ有翼人で、そして他の村の人らしい。初めて別のコミュニティの同類と会うということで、レリアは妙に浮かれていた。
母に頼んで髪を結ってもらい、綺麗な花を髪に挿して白いワンピースを着て出迎えることにした。
村の入口、麻のローブを被った背の高い男が向かってくるのが見えた。レリアはそわそわしながら近くに来るまで待った。
彼はレリアを認めると、ローブを外して爽やかに笑った。
「遠いところからわざわざ御足労をおかけしました。レリアと申します。本日はよろしくお願いしますね」
すると彼は優雅な所作で、出迎えたレリアの手を取ってキスをした。
「もちろんです、レディ。僕はジェルヴェと申します……ああ、こんなにも美しいお嬢さんと知り合えて、嬉しい限りです」
彼は少し馴れ馴れしくレリアに近付き、にっこり笑うとレリアを抱きしめた。レリアは少し戸惑ったが、隣で微笑むジェルヴェの顔を見たら何も言えなかった。そしてレリアはそのまま我が家へ彼を招待した。
家にあった質素な茶菓子と紅茶を出して、レリアは改めて真正面からジェルヴェを見た。
彼はレリアと同じように亜麻色の髪で、甘いマスクをしていた。蕩けるような優しい榛色の瞳がレリアを見つめていた。レリアは恥ずかしくなって思わず顔を逸らしてしまったが、ジェルヴェは不機嫌になることもなく笑った。
「緊張していますか?」
「は、はい……すみません、男性に慣れていなくて……」
ジェルヴェは赤くなったレリアを見て微笑むと、自分のことについて話し始めた。
彼の村ではこちらよりも人と触れ合う機会が多いらしい。と言っても、正体を明かしているわけではなくこちらよりも規則がゆるいというだけらしい。
「興味を引くかと思いましたが……あまり人の街は好きでないですか?」
「……少し苦手意識があって、怖いんです」
「ふむ、そうでしたか。でしたら、僕と一緒に今から街へ出かけませんか?」
「えっ?」
「思い立ったが吉日ですから、さ、早く行きましょう!ローブを着ると逆に目立つので、ショールを羽織った方がいいですよ」
レリアは口をあんぐりとあけてジェルヴェを見た。今まで、友人たちがそうしていたようにローブを被らなければバレてしまうと思っていたからだった。
「そ、そうなのですか?知りませんでした……」
「はい。羽をできるだけ小さく畳んでいれば案外バレないものですよ」
ジェルヴェはウインクをしてそう言った。レリアはどうしてか目を逸らしてしまった。
街の中、レリアはジェルヴェに手を引かれていた。自分の頬が熱くなっているのを感じながら、繋がれた手をじっと見ていた。少し日に焼けた手は大きくて、温かかった。
ある店の前で止まると、ジェルヴェはオレンジを手に取りレリアに手渡した。そして慣れたように店主と値下げ交渉をすると、呆れた顔をした店主に小銭を一枚渡した。
彼は勝ち誇ったような顔をしてレリアに笑いかけた。レリアも思わず頬が緩んだ。
レリアは知らず知らずのうちに優しい笑顔のジェルヴェに惹かれていた。
色んな店を見て回るうちに、ジェルヴェはレリアに色々な物を買い与えてくれた。それだけでなく、人と関わることをそれほど恐れなくてもいい、楽しいものなのだと教えてくれた。
「レリアさんはどうして人の町が苦手になってしまったんですか?」
少し小高い場所にある寂れた塔で、ジェルヴェは買った果物を頬張りながらレリアに聞いた。
「……ええと、少し怖い目にあったもので」
「怖い目?」
レリアは口を結んで、言おうか言わまいか迷っていた。本当に結婚するならまだしも、ただのお見合い相手に言って良い事なのかと。
「言いづらいなら、いいですよ。その代わり僕のことはジェルヴェと。それに、堅苦しい態度を取るのもやめてください」
ジェルヴェはそう言ってレリアの手をそっと握ってくれた。
「わ、わかっ……た」
レリアは恥ずかしくなって顔を逸らしたが、ジェルヴェの手を握り返した。
「僕は、君と結婚したい」
「けっ、結婚!?」
思わず振り返ってジェルヴェの方を見た。彼は耳まで真っ赤にしてレリアを見つめていた。優しい眼差しはくたくたになるまで煮込んだりんごのフィリングのようだった。
「こんな短時間で惚れたと言うのは信じられないかもしれない。けど、本当に君が好きだ。最初君を見た時から愛らしい人だと思っていたけれど、話せば話すほど君のことが気になって仕方がないんだ。君が他の人とお見合いするのも嫌だ。だから、僕との縁談を受け入れてくれない?」
レリアは水面に顔を出した魚のようになってしまった。そして緊張で震えるジェルヴェの手に視線を落とした。彼が本気だということは嫌でもわかった。
彼の好意は、トシュテンのものと比べて美しいもののように思えた。だから思わず頷いてしまったのだ。
優しく情熱的に求められたレリアは呆気なく陥落してしまった。
ジェルヴェはその場限りでレリアの事を好きと言ったのではなく、本気でレリアに惚れているようだった。遠い所からわざわざ毎週末レリアに会いに来るものだから、レリアもすっかりジェルヴェの事を好きになってしまったのだ。
そして二人は結婚した。祝福された結婚だった。
レリアは故郷からジェルヴェの村へ住み移り、そこでジェルヴェとの甘い蜜月を過ごしていた。その甲斐もあって、二人はすぐに子供を授かった。
子供は女の子だった。名前はジェルヴェがミュリエルと名付けた。
二人は小さくて愛おしい天使を溺愛した。
レリアは夫の大きな羽に包まれ、ミュリエルをあやす時間が一番好きだった。
今ならはっきりと言える。荷馬車の中でであった美しい女性に。救い出してくれたのは確かに貴族かもしれないけれど、幸せに暮らすには貴族や金持ち以外がいいと。
レリアは人と関わることにも慣れ、これからミュリエルの成長を見届けながらジェルヴェと幸せに暮らすはずだった……。