鬼の居ぬ間に
例の一言で、トシュテンは父親から爵位やら領地やらいろいろ譲ってもらったらしい。
レリアは今、あの小屋にいたころとは比べ物にならないほどいい暮らしをしている。豪華な食事が望めばいつでも出て、綺麗な服を余るほど与えられた。
しかしその代わりのように、トシュテンが人目もはばからず付き纏ってくるようになった。二人きりだった小屋の中よりもスキンシップが大胆になっていく。辛うじて純潔を奪われてはいないが、これはもう時間の問題だとレリアは確信していた。
しかしもうすでに二度逃走に失敗してしまったのだ。レリアは半ば諦めかけていた。だから、このままここにいればかつてのトシュテンが戻ってくるのではないかと、そう思うことにしたのだ。
「少し出かけてくるよ」
荘厳な正装を纏い、トシュテンは玄関の前でそう言った。レリアはきょとんとしたままどこへ行くのかと尋ねた。すると彼はなぜかうんざりしたような顔で「宮廷に行く」と言ってレリアの額にキスをした。
「えっと……いってらっしゃい」
「……うん、いってきます」
トシュテンは名残惜しそうに最後までレリアの指先に触れて、馬車へと乗り込んだ。
レリアはゆっくりと進む馬車を見送りながら、周囲から雪がなくなり始めているのに気が付いた。だからどうというわけでもない。だが、ただ、気分が落ち込んだ。
馬車を見送ったあと、真っ赤になった鼻に触れながらレリアは部屋の暖炉の前で呆けていた。
すると突然扉が開かれた。
「いるか」
トシュテンよりも低く、偉そうな声にレリアはすぐトシュテンの父だと気が付いた。
「な、なにか御用ですか?」
普段の虚ろな様子はすっかりなりを潜め、彼の目はいきいきと輝いていた。
「話がある」
生気に満ち溢れた彼の顔を見て、レリアは思わずうなずいてしまった。
彼が使用人に用意させた紅茶から漂う湯気越しに、レリアはこっそりと目の前にいる男を観察した。
陰険な雰囲気を漂わせているが、所作から漏れ出る優美さがそれを打ち消していた。それに、不健康そうな顔をしているというのに眩い金髪は衰えることなく光を湛えている。
レリアの視線に気が付いた彼は小さく笑った。
「そんなに見つめるな」
「す、すいません……え、えっと」
「アレクサンデルだ。この間はすまなかったな」
高貴な雰囲気の漂う彼に謝られると、彼に認められたような気になった。それが嬉しくなって「大丈夫です」と答えてしまっていた。自分が何を口走ったのか気づいた時、目の前の彼は優雅に紅茶を飲んでいた。ああ、これが貴族なのかとレリアは感心するのであった。
「あの、話というのは……」
「……まずは私の話を聞いてくれ」
悲しみを滲ませた声色で彼は続けた。
曰く、彼にもトシュテンのような出来事があったらしい。
しかも、トシュテンの母はレリアと同じく有翼人だったという。
「きっとあいつも私と同じような過ちを犯してしまうだろう。だから、同じことを繰り返す前に防ぎたい」
「過ちって……」
アレクサンデルは気まずそうに口を引き締めると、観念したように言った。
「む……」
「む?」
「……無理矢理娶って羽を削いで孕ませた」
レリアは咄嗟に口を抑えたが、思わず叫んでしまった。
「サ、サイテー!!」
羽は有翼人の誇りであるというのに!
「だから言っているのだ!それを防ぎたいと!」
「どうしてトシュテンさんが同じことをすると確信しているのですか!」
「いいか、よく聞け。かつての私もあいつと同じことをした。無理矢理父から当主の座を奪い取り、屋敷の中に彼女を囲った。その次は……わかるな?」
レリアは深刻な声色のアレクサンデルの話術に思わず唾を飲んだ。
「で、ですが……」
現実を認めたくないレリアは涙声で続けようとしたが、アレクサンデルは苛ついたようにそれを遮った。
「それに!……彼女はこっちの気候が合わなくて、死んだ。あいつにもこんな思いはしてほしくないし、お前に死んでほしくもない」
少しの沈黙の間、部屋の中はしんみりとした空気に包まれた。そしてその沈黙を破ったのはレリアの一言だった。
「それ、トシュテンさんにも言った方がいいと思いますよ……」
「……あいつの顔を見ると彼女を想起させて冷静でいられなくなるんだ」
レリアは可哀想なものを見る目ですっかり萎縮したアレクサンデルを見たのだった。
その後、あれよあれよという間にアレクサンデルは私財をはたきレリアを元いた国に戻す手筈を整えた。レリアはトシュテンに何も言わず残さずというのは良くないと思ったのだが、アレクサンデルが必要ないと言うのでやめてしまった。
「あいつは予定では三日後に帰ってくる。早く出発しないとな」
レリアは不安だった。確かに逃げてしまいたいとは思っていたけれど、本当に彼の元から逃げていいのかと。
アレクサンデルはそんなレリアの様子に気付いたのか、声をかけてきた。
「どうした?」
「私……本当に逃げても良いのでしょうか」
「何?」
「……トシュテンさんは、私のせいであんなふうになってしまったのに、その当の私が逃げてしまっても良いのでしょうか?責任を……取らなくてはならないのだと、ずっと思っていて……」
アレクサンデルは俯いたレリアの頭に軽く手をのせると、そのまま優しく撫でた。心地よいそれは、彼がかつては良い父親であったことを示していた。
「全てはあいつの落ち度だ。成人したてとはいえ、理性のない行動をしたのは褒められたことではない。あいつも、妻が気候のせいで死んだのは知っている。それでお前を無理矢理引き止めるなど全く学んでいないではないか。
……それに、お前の事を呼び寄せたのは私だ。私が責任をもって家へ送り届ける義務があるだろう」
レリアはアレクサンデルの言葉に感動しながらも、そういえばこの人が奴隷を買ったせいでこんなことになったんだと思い出した。
「あ、当たり前ですっ!全く、最低ですね!」
突如怒り出してしまったレリアに、かつての幸せな日々を思い出したアレクサンデルはただ幸せそうに目を細めるだけだった。