前髪おろしただけなのに
「お前を愛することはない」
「そんなん私もじゃボケ」
結婚式の披露宴後。
私たちは互いの認識を再確認し、健やかに別々の寝室に就寝した。
私はアンジュ・ティエール。
大の男嫌いだけど、ちょっと配偶者が入り用だったので嫌々ながら親に勧められた男と結婚したバリキャリ志望の文官である。
夫?子供?そんなのいらない。
この不景気な時代、安寧な老後生活のため、そんなものにかまけているわけにはいかないのだ。
……が、仕事に明け暮れ色々な人と関わるうち、こんな価値観を知ってしまった。
「いい年して結婚していない人って、なんか信用できないのよねぇ」
私は衝撃を受けた。
独身というだけで信用できない?
既婚者だけど信用ならないやつだってザラにいるだろう。
そう内心突っ込むと同時に、どこかで完全否定しかねる自分もいた。
………確かに結婚していない、イコール訳ありな人ととられても、この貴族社会ではおかしくないのかもしれない。
そうと決まれば婚活だ。
私は母に頼み込み、私の人生に絶対に邪魔してこない、都合のいい男を見繕ってもらうことにした。
それが私の配偶者、レオナルド・ティエールである。
しかしこの男、とてつもなく嫌みな男だった。
「げ、よりによってお前かよ。アンジュ・ドルーパ」
この男は、私の寄宿学校時代の同級生だった。私は監督生で、よく学園の風紀を乱すこの男を取り締まりくだらない言い争いをしていた気がする。
端的に言えば私たちは相性が悪かった。
もちろん、母には他の男を紹介するようせがんだ。しかし母は呆れた顔で首を横に振るだけだ。
「いないわよ、あんたのいうようなそんな都合の良い男。むしろレオナルドくんが見つかっただけ奇跡だわ」
最悪である。
そしてなんとレオナルドのほうも、私と同じようだった。
因みにこの男の指定した条件は
仕事に口出ししない
女と話していても騒がない
長期出張可
だった。馬鹿にも程がある。
「仕方ねえ………おい、アンジュ・ドルーパ。お前と結婚してやる」
「は?どうか結婚してくださいの間違いじゃないの?この勘違い男」
そうして私たちは互いの利益のもと、嫌々ながらに結婚したのだった。
仕事と将来設計のため………そう言い聞かせ結婚したが、やはり同居していれば、いやでも顔を合わせてしまう。
たとえば朝の食卓。
私が優雅にボイルドエッグを口にしてると、正面に座った奴が嫌みな顔で突っかかってくる。
「うわ、ボイルドエッグとかありえねー。朝といえばスクランブルエッグだろ」
「あらあらまあまあそんなにケチャップをかけちゃって……それでは素材の味がわからないでしょ?もしかしてバカ舌なの?」
「んだとゴラ」
たとえば仕事からの帰宅時。
大量の生傷をつくり帰ってきた奴に、無視しようと思ったが堪らず声をかけてしまう。
「……ちょっと、まさかその状態でうちの敷居を跨ぐ気?」
「あ?チッなんだようるせー女だな。あとで掃除するからいいだろ」
「そうじゃなくてとっとと浄化して手当てしないと化膿すんでしょって言ってんのよ馬鹿レオナルド」
「は!?ちょっ、おい!」
私は聖属性の魔力を持っており、微力だが浄化と治癒の魔法を使うことができるので、仕方なく奴の手当てをしてやる。治してやると言っているのに頑なに断ろうとする姿は全く可愛げがないが、終わった時に「………りがとよ」と小さく言う姿は悪くない。
今日遭遇したのは、シャワーを浴びたあとのことだった。
今日は蒸し暑く汗をかいたから、シャワーを浴びてから夕食を食べようと思ったのだ。
簡易的なドレスを着て食堂へと向かっていると、ちょうど帰宅したらしいレオナルドと遭遇した。
レオナルドは一瞬いつものように嫌みな顔を浮かべたが、私の姿を捉えた途端、明らかに目を見開き、硬直した。
そしてみるみる顔を赤く染め、聞いたこともないうわずった声で叫んだ。
「え……おま……前髪おろしただけでそんな変わることあるか!?」
こいつ、何言ってるんだろう。
それ以来奴とは会っていない。
奴が長期の出張に行ったからだ。
うざったい相手のいない邸は快適───のはずなのに、なんだか静かすぎて妙に居心地が悪い。
あの後奴とは妙な別れ方をしてしまった。
『んな姿で外出歩くな馬鹿アンジュ!』
そんな捨て台詞と共に部屋に駆け込んでいった奴には相変わらず生傷があったが、治してやれなかった。
出張先で増えていなければ良いが。
………別に奴が怪我しようとどうだって良いけど。
奴が出張に行ってから2ヶ月が経った。
なんだか仕事をするにもやる気が出なくて、ミスを連発し、心配した上司に有給を3日ももらってしまった。
………やることがない。
なんだか最近あまり眠れないし、ご飯も美味しく感じない。ぼーっとしていると遠方でまた生傷をつくっているであろう奴のことがつい気になってしまう。
「………街にでも行くか」
私は気晴らしがてら、王都に買い物にいくことにした。
「………せっかくだからおしゃれでもしてみようかしら」
効率を重視していつも決まった服ばかり着ているから、クローゼットの中を漁るのは学生の時以来だ。
昔着ていたワンピースやドロワーズは、きつくもゆるくもなっておらず問題なく着れた。いつものひっつめ髪も今日はゆるくほどき、久々に編み込みをしてハーフアップまでしてみる。
鏡に映った自分の姿を見て、私は思わず笑みをこぼした。
「……やだ、私もまだまだいけるじゃない」
もう自分はおばさんだと思っていたが、案外若作りもしてみるものだ。
久しぶりに踵の高い靴を履いた私は鼻歌混じりに街へと飛び出した
ことを今後悔している。
「え、お姉さんめっちゃ可愛くない?ねえ僕とそこでお茶してこうよ」
ああ………そういえば街にはこういう輩がいるんだった。
私は街中で堂々と自分を口説いてくる軽薄な男を前に、盛大なため息を飲み込んだ。
ここ数年は勉強に仕事と忙しく街へ出ることなんてなかったから、すっかり忘れていた。
まずはカフェでランチでもと街中へ飛び込んだ数秒後にこの始末である。
明らかに遊び慣れていそうな男に壁沿いに追い込まれた私は、なんと追い返せばいいかわからず肩をすくめた。
調子に乗ってヒールのある靴なんて履いてきたものだから、走って撒くことができない。
しかも相手もお忍び中の貴族っぽいし、下手に刺激をして問題になるのは面倒だ。
────あいつを撃退する言葉ならすらすら出てくるのに。
私はこんな時にも無意識に契約結婚した夫の顔を思い浮かべていた。
仮にも妻がナンパされているのに、今頃あの男は何をしているのだろう。きっとまた無茶な戦い方をして怪我でもしているのだろう。
とにかく相手の興が削がれることを願って無視を決め込み俯いていると、突然顎を掴まれ、無理やり上を向かされた。
「ねえ、なんで無視するの?僕のこと怖い?」
その瞬間、背筋がぞわりとよだつと同時に、私の腕は誰かに掴まれ、あっというまに温かいものの中に包まれていた。
「こいつは俺の妻だ。手ェ出すんじゃねえ」
そして頭上からした予想だにしなかった低い声に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「レオナルド!?あんた仕事は!?まさかクビになったの!?」
「今いいとこだってのにぶっとばすぞてめぇ」
それは長期出張中のはずの夫だった。
彼は相変わらず打てば響くように私に返事をしてくるが、その黒い瞳は私ではなく、私の正面を睨みつけている。
そのあまりに獰猛な眼差しを見て、私は初めて、レオナルドが今まで自分に向けていた視線がかなりマイルドだったことに気づいた。
「な…っレオナルド将軍!?ということはこの女の子はまさかアンジュ女史!?冗談だろ!?」
男は真っ青になり譫言のようにそう呟くと、足をもつれさせながらその場を去っていった。
呆然とその後ろ姿を見つめていると、急に掴まれていた右腕を引っ張られる。
「え!?ちょ、どこ行くのよ!」
「あ?帰んだよ」
返ってきた奴の声はまだ不機嫌だった。
奴はいつも不機嫌だが、ここまで不機嫌な声は聞いたことがない。
「帰るって…勝手に決めないでよ。私これからランチに行くんだから」
「はぁ?誰とだよ」
「1人でだけど?」
「………お前が?」
疑わしげな目でじろじろと見つめられ、思わず肩をすくめた。何だかとてつもなく失礼なことを思われている気がする。
せめて威厳を示すため下からギッと睨みつけると、何故か赤面された。ほんとなんなんだこの男は。
「……てめぇ、その顔やめろって言ってんだろ」
「言われてないわよ」
「じゃあ今言う。やめろ。今すぐやめろ」
「あんたが怒らせるようなこと言うからでしょうが。というかあんた、この間からなんで態度おかしいのよ」
思わず呆れ返って脱力すると、レオナルドはぐぬぬと唇を噛み視線を彷徨わせる。そんなところもおかしい。いつもだったら小気味のいい返事が返ってくるのに。
「…………飯には今度俺が連れてってやる。だから今日は帰るぞ」
「はぁ?なんであんたと行かなきゃなんないのよ」
「お前がそんな格好して野郎に狙われるからだろうが!」
今日だけで何度言ったかわからないが、やはり「はぁ?」と言う言葉しか出てこない。
どうしてこいつにそんなことを言われなくてはならないのか。
頭に大量のはてなを浮かべていると、先ほどまでの騒ぎようが嘘のように、奴は搾り出すような声で言った。
「………なんではこっちのセリフだ。俺の前では、そんな格好、しねーだろうが………」
え。
顔を逸らし、真っ赤な顔を片手で覆うようにしてそう吐き捨てる奴に、私は絶句した。
え、なにそれ。
そんな理由?
まさか、私が他の男とご飯に行くと思って怒ってたの?
「…っふふ、ふふふふふっ、ははははは!」
数秒後、私は数年ぶりに高らかな笑い声をあげていた。こんなに笑ったのは久しぶりだ。
案の定、レオナルドはさらに耳まで赤面して烈火の如く怒り出す。
「笑うんじゃねえ!」
「はは…っだってあんた…っそんなことで拗ねてたとか……っ!」
「拗ねてねえ!」
初めてこの男に対して可愛いと言う感情が湧いた。
笑いのツボが治るまで随分の時間を要した。
その間レオナルドはずっと何かを言っていて、この数週間乾いていた心がすっと満たされていくのを感じる。
はぁはぁ言いながらようやく笑うのをやめた私は、改めてレオナルドと向き合う。
レオナルドはびくりと肩をゆらし、どこかムッとした顔で言った。
「な、なんだよ。やるか?」
昔から勉強と仕事しかしてこなかった。
結婚なんて名字が変わるだけだし、デートなんてナンセンス。
そう思っていた。
だが、
「いいわよ」
手綱でずたずたになった奴の両手をギュッと握り、わざと上目遣いに奴の顔を見上げる。
案の定赤くなった耳に向かって、私はそっとささやいた。
「今度とびきりおしゃれして、あんたとデートしてあげる」
「~~~~ッッ!?」
どうしよう。
何か目覚めそうだ。