後編
数日後。
学園に激震が走る。
ストライド伯爵――カーラの実家がお取り潰しになった、と学園中で噂になった。
話によると、ストライド伯爵は違法取引に手を出していたらしい。
カーラもその件に関わっていた事が判明し、毒杯が決定したと言う。
翌日、ソフィーは父に言われて学園を休学していた。
彼女の件ではソフィーが害を被っている。
学園に行ったところで、好奇の目に晒されるだけだろうと。
彼女は了承し庭のガゼボで一服していたところ、現れたのはハロルドであった。
「ソフィー、変わりないか?」
「ええ、お陰様で」
彼はソフィーの反対側の椅子にポスッと音を立てて座ると、付近に佇んでいた侍女にお茶を依頼した。
お茶を淹れる、という事はここに居座るつもりなのだろう。
まあ、話の内容はストライド伯爵についてだろうが。
侍女が茶を淹れ終わると同時に、彼女に目配せをする。
彼女は首を縦に振ると、そのまま声の届かないであろう場所まで引き下がった。
「それで、わざわざ私の体調だけを確認するために……ここへと来たわけではないですよね? ルド様」
「ああ。勿論」
「話はカーラ様の件ですか?」
「……それとお前の元婚約者、フォールズ伯爵令息についてだ」
「フォールズ伯爵令息の……?」
ストライド伯爵家のお取り潰しの件で、何故ジュリアンが関係するのか。
首を捻るソフィーにハロルドはため息をついて言った。
「あの女は禁忌とされている魔女の薬を使用していた事が判明した」
その瞬間、彼女は自分の耳を疑った。
「ルド兄、ちょっと待って? 魔女の薬、というのは伝説でしょう?」
予想も付かない話をされて、答えに窮したソフィーは被っていた淑女の皮を全て取り払って訊ねる。
この世には魔女の薬に魅入られ、破滅の人生を歩んだ者がいる――幼子が読む絵本の中に、そんな話があったはずだ。
でもそれは絵本の中の話だろう……と口を開きかけたが、彼の表情を見るに嘘ではないらしい。
彼の言葉が信じられないソフィーは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「いや、伝説ではなく本当にある。まあ、この事は上層部しか知らないから、ソフィーが知らないのも無理はない。今回表向きは違法取引という事になっているが、本来の理由は魔女の薬を裏で手懸けていたからだ。現在違法に流通している魔女の薬は『人の精神に影響を及ぼすもの』が大半だ。そのため、王家は躍起になってこれを取り締まっている」
「精神に影響を及ぼす……カーラさんが使用した薬はどんな効果だったの?」
「……『魅了』だ」
息を呑んだ。
彼女はジュリアンに薬を使用していた、という事か。
思わず口を衝いて出た彼女の言葉に、ハロルドは首を振る。
「いや、違う。使用したのはあの女だけではなく、フォールズ伯爵令息も使用していた事が判明した」
「何故フォールズ伯爵令息が…………そもそもカーラさんはいつから使用していたの?」
声が震える。
本当は今すぐに耳を塞ぎたい……いや、真実を知るためにも耳を傾けなければならない、相反する二つの想いがせめぎ合う。
だが、聞かなくてはならない。その一心で彼女は顔を上げた。
「あの女が言うには、学園に入学してからと言う話だ。理由はフォールズ伯爵令息がソフィーと婚約を結んだ事を根に持っていて、お前から元恋人を奪おうと画策していたかららしい。一応フォールズ伯爵令息の名誉のために伝えておくが、彼はあの女が学園に入学するまで彼女と接触する事はなかったそうだ。その時は彼も、ヘイリング家へ婿入りするからと……伯爵との約束事項を守っていたのは証明されている」
ジュリアンは薬を自らの手で使っていた。
普通であれば問答無用で処刑となるのだが、薬の影響下にあった事も考えて、生涯領地幽閉という処遇になったそうな。
薬が抜けた彼は正気に戻っており、ソフィーへと行った仕打ちを後悔しているという。
ジュリアンが薬の影響でソフィーを否定していたと聞いて胸を撫で下ろす。
まあ、だからと言って彼と元に戻るつもりは毛頭ない。
薬の効果だからと受け入れられるほど、ソフィーは懐が広いわけではないのだ。
ただ幸いなのは……カーラが現れる前のあの幸せだった時期が、彼女の中で良い思い出として昇華できる事だろうか。
安堵したのも束の間、ソフィーは疑問を持った。
ジュリアンと婚約破棄した後に、何故婚約者候補であるハロルドに擦り寄ったのだろうか、と言う事だ。
そうハロルドに疑問を投げかけると、彼は鬼の形相になる。
「……お前が傷つくのを見たかった、らしい」
忌々しげに言い放つハロルド。
一方ソフィーはそれを聞いて身体から力が抜け、テーブルに顔を埋めた。
カーラの逆恨み、か。
「そんなくだらない理由で……」
「ソフィーにとってはくだらないかもしれないが、あの女は何よりも大事だったみたいだぞ? 『あの不細工にジュリアンは似合わない。何故ジュリアンの隣を手に入れられたのか』と騒いでいたらしいからな」
ジュリアンが入婿を選んだ理由は、ソフィーが後継だからだろう。
文武の成績は共に中間である彼は、顔の良さだけでは生きていけない事を理解していた。
だから長男がおり後継になれないカーラではなく、ソフィーを選んだのだ。
その事すら理解できないカーラ。
彼女は一体何を学んできたのだろうか。
「少し考えれば分かりそうなものなのに……」
「考える頭がなかったのだろうよ。オリビアが聞いたと言っていたお家乗っ取りの発言も、お前から何もかも奪ってやろうと企んでいた事から来ているらしいな。……愚かすぎて反吐が出る」
嫌悪を滲ませた表情で、眉間に皺を寄せながらハロルドは続きを話す。
「話を元に戻す。フォールズ伯爵令息の学園での変わりようは薬によるものだと判明した。魅了の薬は使用を続けると、使用者の精神を汚染していく事が判明している。ジュリアンが人の話を聞かなくなったのは、元々の性格もあるかもしれないが……それ以上に薬の影響が強かったのだろうな。あの女はまずフォールズ伯爵令息を薬で堕とした後、ソフィーに会う時は薬……好感度が上がる香水と偽っていたらしいが、それをフォールズ伯爵令息に渡し、付けさせてからソフィーに会わせていた」
「つまり私も薬の効果で?」
「ああ。蔑ろにされても縋っていたソフィーを疑問に思っていた者も多いはずだ。お前の聡明さは周囲に知られていたからな。今回の件も、『若気の至り』と周囲も判断したようだしな」
ハロルドはそう言って肩を竦めた。
ソフィーからすれば黒歴史になってしまったのだが、きっと魔女の薬の存在を公表する事はないので、この件は笑い事として甘んじて呑み込むしかない。
彼女は知らなかったが、他にもカーラは「ソフィーさんが虐めるんですぅ〜」と噂を流していたらしい。
それを真に受けるのはほんの一部だけで、大多数の生徒は言われて当然だと内心思っていたようだ。
それもそのはず。
ソフィーが行っていたのは、ジュリアンやカーラに詰め寄り婚約者である事を主張しただけ。
正当な事を主張しているソフィーに、無作法なカーラ。
どちらが支持されるかなんて側から見れば一目瞭然である。
「この魅了の薬の効能は、相手の好意を最大限に引き出す事だ。しかも自分が好意を持つ相手のみを対象としているため、周囲には只の香水としか思われない。ソフィーとフォールズ伯爵令息はあの女が近づくまでは、仲睦まじく過ごしていただろう? そこを突かれたのだろうな……ちなみに、フォールズ伯爵令息があの女と共にいるようになってから、変わった事はなかったか?」
「そう言えば、頭に靄がかかったように……ぼんやりとしてたかな?」
「ああ、確かにそれは薬の副作用だ。魔女の薬も合う合わない、があってな。匂いを嗅いだだけで吐き気や頭痛をもたらす事もあるんだが、それ以上の拒絶反応が起こると熱に浮かされる事があると言われている」
覚えがある症状に開いた口が塞がらない。
「……もしかしてあの高熱は……?」
「ああ、薬への拒絶反応だろうな」
「でもちょっと待って、ならあの時何故ルド兄はカーラさんに魅了されなかったの? あの時、魅了の薬を二人はきっと使用していたんでしょう? 下手すれば私もフォールズ伯爵令息に再度魅了されていたかもしれないって事?」
彼女にとって魔女の薬は未知のモノ。
矢継ぎ早に彼へと尋ねれば、「落ち着け」と諭された。
薬の効能を知っているであろうハロルドが冷静なので、逸る気持ちはあるもののソフィーは胸に手を当てて深呼吸する。
胸の鼓動が収まってきたところで。
ハロルドは続きを話し始めた。
「ああ。俺といた時もアイツらが薬を使っていたのは確かだ。ちなみにソフィーは魔女の薬は万能薬のようだと考えているようだが、実際はそこまで万能じゃない。相手の好意を最大限に引き出す効能……つまり引き出す好意がなければ魅了に掛からない仕組みになっている。だから俺があの女に惹かれる事はないな。ちなみにソフィーは高熱を出した事で魅了の効果が切れていたのだろうな」
「そうなんだ……?」
つまり……ハロルドはカーラに対する好意が全くなかったため、魅了される事はなかったと言う事か。
そしてソフィーにおいては、高熱により薬の効果が切れた事で、引き出されていた好感度が一度下がったようだ。
そんな時にオリビアのあの発言を聞いたからか、好意が塵となって何処かへと飛んで行ってしまったため、魅了に掛からなかったのだろう。
もしかしたら薬への耐性もあるのでは、と言う話にもなったがそれは分からない。
ただ、ひとつ言えるのはあの時、ジュリアンに嫌悪を抱いていた。
だからきっとソフィーは魅了に掛からなかったのだろう。
それよりも彼女はハロルドに訊ねたい事があった。
「ねぇ、ルドに……ルド様は」
今まで我を忘れ、幼い頃のような口調でハロルドに話していた事に気づく。
今更ではあるが、言葉遣いを淑女のそれに戻すが、その行動に彼は不機嫌になった。
「ルド兄でいい。今更猫被っても仕方ないだろ」
むしろ昔のように話してくれ、と言われる。
数瞬眉を曇らせるが「分かった」と伝えれば、ハロルドは口角を少し上に上げた。
過去を懐かしんでいるのだろうか。
――それよりも彼女には気になる事があった。
「……ルド兄は、何で魔女の薬について知ってるの?」
「ああ、アシュクロフト家の表の顔は王宮魔導士だが、秘密裏に魔女の薬の調査、研究もしていてな。親父が研究部署の頭首を、俺とあと数人の魔導士で日々研究しているからだ。魅了の薬は危険度が高いから、と一番に効能を把握したからな。あの女が使用していた事もすぐに分かった」
ハロルドは事もなげに言うが、ソフィーからすれば背筋が凍るような感覚に襲われる。
今更ではあるが……上層部しか存在している事を知らない魔女の薬、その薬を研究する部署があるなんて国家機密に相当する情報ではないか。
一介の伯爵令嬢が知って良い情報じゃない。
「そもそもその話、この事を私に聞かせても良かったの?」
恐る恐る尋ねれば、ハロルドは目を丸くしてこちらを見ている。
「勿論良いに決まってるだろ。何でそう思ったんだ?」
「え、だって私はこの件が落ち着いたら、ルド兄の婚約者候補から外れるんでしょう? だったらそこまで知る必要はないと思って」
「候補? どういう事だ?」
訝しげにソフィーを見るハロルドに向けて、彼女は言葉を紡ぐ。
「だって、ルド兄は事情があって私の婚約者候補をされているのでしょう? 最年少魔導士で地位も安泰、顔も良くて性格も……良い?ルド兄が、傷物の私の婚約者になるわけないじゃない。お父様も『考えがあるから』と仰っていたし」
きっと今回の件を予想した父が、ハロルドを婚約者候補としてソフィーの側に置き、薬の影響かどうかを判断するように依頼したのだろう。
そう考えたら全てが繋がったような気がした。
だが、彼女の答えはお気に召すものではなかったらしい。
ハロルドは親指で眉間をぐりぐりと押すと、ひとつため息をついた。
「性格の時に首を傾げたのは後々追及しよう。……何故そう考えたのかは分からないが、お前は完全に勘違いしている」
「へ?」
「そもそも、婚約者候補、ではなく既にソフィーの婚約者だ。今後もお前と婚約解消するつもりもないし、結婚する気満々なのだが?」
確かに、ハロルドの友人を紹介された時、彼は彼女の事を「婚約者」だと言っていた。
あれは演技ではなくて事実だったと言うのか。
ソフィーは信じられない、と目を見開いた。
「え……? 本当にルド兄と婚約してるの……?」
「している」
「良いの?」
「今のところ返品予定はない」
思わぬ展開に考え倦ねる。
多くの情報と思考の渦に飲まれて状況の整理ができていないソフィー。
彼女が再度目の前のハロルドへ視線を送ると、そこはもぬけの殻となっていた。
「えっ?」
驚きで衝いて出た言葉と同時に、後ろから抱擁された。
振り向けば、ハロルドがそこにいる。
顔が近い。
一歩踏み出せば二人の顔が触れそうなほどの場所に彼がいる。
その状況を理解したソフィーは頬を染めた。
ジュリアンの時には有り得なかった異性との距離。
初めて感じる鼻をくすぐるハロルドの香り……爽やかでいてどこか色気を感じる。
五感から与えられる刺激に度を失った彼女は、顔を元に戻す。
だが、彼女は気づかなかった。
新たな刺激をハロルドから与えられる事に。
「なぁ、ソフィー。お前にとって俺は良縁だと思うんだが?」
「ひゃっ!」
囁くように話すハロルドの吐息が彼女の耳に当たり、うっかり漏れ出た声の恥ずかしさから顔を両手で覆う。
「ルド兄、やめて……」
少しでも抵抗を試みたソフィーだったが、蚊の鳴くような声しか出ない。
後ろではそんな彼女の様子が面白いのか、耳元に聞こえる程の声ではあるが楽しそうに笑っている。
それならば、と彼の腕に手を添え離脱を試みようと力を入れるが、身体に回された腕は更に強固となり、歯が立たない。
途方に暮れていると、また耳元で声を落とされた。
「止めるものか。やっと……手に入ったんだからな」
「え?」
身体ごとハロルドへ向けようと身じろぐ。
するとその動きを理解したのか、ハロルドの腕がソフィーから離れていく。
自由になった身体を彼へと向け、ソフィーは上を向いた。
そして彼と視線が交わる。
一見冷静に見えるその瞳も、じっくりと見ればまるで燃え盛っているかのような激情が込められている事に今更ながら気づく。
「幼い頃からソフィーが好きだ」
まるで独白をするかのように話し出すハロルドに、ソフィーは目が離せない。
「慈愛に満ちた目でオリビアを見つめるその瞳、俺を『ルド兄』と呼ぶ可愛らしい声、両親や領民の期待に応えたい、と努力をし続けるその姿勢……まあ、他にも色々あるが、一番は爵位を継ぐ、という重責に負けず前を向いて歩くソフィーを愛している」
「う……そ……」
「嘘なものか」
知らなかった。
ハロルドがこんな想いを秘めていたなんて。
「でも、私は……ルド兄以外の人を愛して……醜態を晒したのよ? それに……」
ソフィーはハロルドではなく、違う男性と婚約をしていたのだ。
愛想を尽かされても当然なはず。
それでも彼はソフィーを愛していると言うのか。
「ああ。フォールズ伯爵令息と婚約を結んだ……あれがソフィーからの申し出だと知った時には絶望したな。それよりも自分に失望した。何故先に動かなかったのだろうか、とな。気づいた時には二人は既に婚約を結んでいて仲睦まじく過ごしていたから、俺は身を引くべきだと悟って仕事に精を出していたよ。お陰でコネで入ったんだろう、と馬鹿にしていた奴らを見返す事ができたから、悪くはなかったが」
「だったら……」
ソフィーを忘れて他の人を好きになれば良かったのでは、と言う前にハロルドは肩を竦めた。
「……忘れることなんてできなかったさ。仕事で成果を出して褒められれば、ソフィーが誉めてくれた時の事を思い出すし、成果が出なくて苦労していた時でさえ、ソフィーを思い出していた……。これは一生独り身か、なんて思ったよ……まあ、ソフィーには悪いが、俺としてはフォールズ伯爵令息有責の婚約破棄になって良かったと思ってる。だって、俺の元に来てくれたんだからな?」
「ぴぇ」
蛇に睨まれた蛙の気持ちが分かったような気がした。
ソフィーは彼に勝てない。
ハロルドの獰猛で……どこか縋るような瞳に目を奪われているソフィーは、きっとこの瞳に囚われ続けるのだ。
そしていつかこの視線に縛り付けられる事を心地よく感じる日が来るだろう、と思った。
彼女の心境の変化を感じ取ったのか、ハロルドは微笑みながらソフィーの前に座り手を取る。
その手の甲に口付けを送った後、ニヤリと笑った。
「一生離さないからな」
そう言ったハロルドに向けて、ソフィーは表情を緩め首を縦に振った。
拙作をお読みいただき、ありがとうございます。
恋に溺れていた子が、婚約者を見限って婚約破棄を突きつける話と、元婚約者に縋る男がこっぴどく振られる話を書きたくてできたのがこの話になりました。
ちなみにジュリアンは魔女の薬が抜けた後、今までの行動を恥じて自ら領地にある屋敷へと向かい、そこで役人として一生を過ごす予定です。
様々な作品を投稿しておりますので、お時間があればぜひご覧ください。
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