前編
恋に溺れていた子が、婚約者を見限って婚約破棄を突きつける話が書きたかったのです。
全三話です。
「お姉様、お身体の調子はもう宜しいのですか?」
ソフィー・ヘイリング伯爵令嬢が久しぶりの紅茶に舌鼓を打っている時、目の前で共にお茶を飲んでいた妹――オリビアが恐る恐る訊ねる。
妹の顔には姉を気遣う想いが溢れていた。
彼女は姉が目の前で倒れるのではないか、と気が気でないのだ。
実は今まで滅多に体調を崩すことのなかったソフィーが、三日三晩熱に浮かされていた。
顔色は体調を崩している時に比べれば良くなってはいるのだが、まだ体調が回復しきってないのか少しやつれている。
姉の体調を懸念するオリビアの様子に、ソフィーはにっこりと微笑みながら言った。
「オリビア、大丈夫よ。お医者様から許可は頂いているもの。昨日今日と部屋に篭ってばかりだったから、少しでも気分転換したかったの。それにもし気分が悪くなったのならすぐ部屋へと戻るようにするから、そんなに気を揉まなくてもいいわよ」
「なら良いのですが……」
そう穴が開きそうなほど見つめてくるオリビアを他所に、ソフィーはとても気分が良かった。
以前は結構な頻度で頭の中に靄がかかったような……そんな倦怠感に襲われていたのだが、この高熱によってそれが吹っ飛んだらしい。
今では頭が冴え、以前に比べて数倍も頭の回転が速いような気がする。
だから正常な判断ができるであろう今のうちに、決めなくてはならない事があった。
そのためにオリビアをここに呼んだのだから。
表情が芳しくないオリビアを安心させるよう、彼女は美しく微笑んだ。そして――。
「ねぇ、オリビア。それよりも教えて欲しい事があるの。学園を休んでいた間の……ジュリアンの様子を教えていただけるかしら?」
紅茶に口をつけようとしたオリビアが息を呑む。
目をまん丸にしてこちらを見ている妹の様子に、ソフィーは再度首を傾げて綻んだ。
以前のソフィーは愚かだった。
勿論、最初から愚かだったわけではない。
これでも彼女はヘイリング伯爵家の令嬢として父から爵位を継ぎ、伯爵家を盛り立てようと努力していた。
周囲からの評判も悪く無かったと思う。
努力家で控えめ、領民想い。
可愛らしい外見ながらも、決めた事はやり遂げる頑固なところも当主として相応しい、そう評価されていたと聞いている。
彼女の両親である夫妻や妹のオリビアも「ソフィー(お姉様)が継ぐなら将来は安泰ね」――そう言ってくれていた。
だが、ある茶会……現在婚約者となっているジュリアンと会ってから少しずつ変わっていた。
ソフィーは茶会でジュリアンに助けられた事で一目惚れし、「彼と婚約したい」と主張する。
娘の唯一の我儘だから、と彼女の願いを叶えたいと思った両親は、念の為先にジュリアンの素行調査を行った。
だが、そこで驚愕の事実が判明する。
婚約者はいなかったが、ジュリアンには当時恋人がいたのだ。
彼女は目を見開いたが、諦め切れずに「婚約の打診だけで良い。断られたら諦める」と両親に伝えた。
それなら、と両親は婚約を打診したのだが――数日後。
彼は「別れてソフィー嬢だけを愛します」とソフィーたちの前で誓った上、その後本当に彼女と別れてきたのだ。
その後数ヶ月ほど様子を見たが、本当に別れたと判断し、両家の婚約が結ばれたのが昨年の話。
今思えばその時点で、婚約の打診をしなければ良かったのだ。
ソフィーは困惑する両親に打診を依頼した自分の愚かさに胸が痛む。
彼は最初こそソフィーを大切にしていた。
だから彼女はジュリアンに愛されている、と感じ、日に日に恋心を募らせていく。
しかし、婚約を結んで半年ほど経った頃――ジュリアンの元恋人であるカーラという令嬢が学園へと入学すると一変した。
それまではよくソフィーと過ごしていたジュリアンだったが、カーラが現れると彼女を連れて歩くようになり、人目のあるところで仲睦まじい姿を見せていた。
――完全に切れていたわけではなかったのだ。
その時点でソフィーは婚約解消なりすべきだったのだが……。
それだけではない。
婚約者としての最低限のマナーである贈り物や手紙。
それすら届かなくなったのだから、ジュリアンはソフィーを完全に下に見ているらしい。
ちなみにソフィーは彼の初めての誕生日に彼に届けた万年筆、それすらお礼の返事はなく……。
それだけならまだしも婚約者にくっ付いている元恋人が、その万年筆を使っていたのも見た事があった。
贈り物の件をソフィーがやんわりと指摘すればジュリアンは「貸しただけ」と言う。
横にいる女は蔑んだ笑みをソフィーに向けているというのに。
それでもジュリアンとの婚約を望んでいた自分に、ソフィーは目の前が暗くなった。
だが、幸いな事にソフィーはまだ学園生。
ジュリアンと婚約しているが、結婚しているわけではない。
――どう足掻いても過去は変わらない。なら未来を変える。
そう腹が決まったのだった。
そして現在。
先程までソフィーを見つめていたオリビアの視線が下がり、顔色が悪くなったのを見て眉を顰める。
きっと優しいオリビアの事だ。
病み上がりの姉の負担になるのではないか、と葛藤しているのだろう。
彼女にそんな表情をさせた自分が情けない。
ソフィーは微笑みながら、オリビアが話してくれるのを待った。
しばらく間が空いてから……彼女はポツポツと小さな声で話し始める。
「ハノーベル伯爵令息は、お姉さまがいない間も……いつも通りでした。今日も伯爵家の令嬢と仲睦まじくされていましたわ……」
婚約者は顔がいい。そして元恋人の伯爵令嬢も美しい。
並ぶと絵画のような美しい二人を応援している者たちもいる。
特に婚約者であるソフィーは何度も「貴女はジュリアン様に相応しくない」「ジュリアン様を縛り付けて」とカーラの友人から口撃を受けていた。
その度に無言で躱しつつも、最終的に結婚すれば自分の元へ戻ってくる――私だけを愛してくれるだろう、とソフィーは考えていたのだ。
両親は、贈り物や手紙の返事がない事は知っているが、学園での事は知らないと思われる。
知っているのはオリビアだけ。
オリビアは何度も「彼で良いのか」とソフィーに疑問を投げかけてきた。
けれども、それを突っ撥ねたソフィーは随分と独りよがりで頑なだったな、と今更ながら思う。
「お姉様がいない事で更に過激になっておりまして……学園でハノーベル伯爵令息は、婿入りの際に元恋人のストライド伯爵令嬢を愛人にして連れて行くのでは、と噂されています。あと……」
言葉に詰まったオリビアの顔は青褪めていた。
まさかこんなに婚約者が愚かだったとは……ソフィーは自分に見る目が無かった事に気づく。
そのせいで可愛いオリビアに辛い思いをさせてしまった。
ソフィーはテーブルでカタカタと震えるオリビアの手の上に、自らの手を優しく乗せ、「覚悟は出来ているわ」と話す。
その言葉にオリビアも踏ん切りがついたようだ。
「これは私が偶然聞いた言葉ですが……ハノーベル伯爵令息は伯爵令嬢に『将来僕たちの子どもに伯爵家を継がせよう』と言っているのを聞きました」
その瞬間、ソフィーは頭を殴られたような衝撃を受ける。
彼は我がヘイリング伯爵家を乗っ取ろうとしている、という事だ。
どこまでもソフィーを舐め腐っているジュリアンの態度、それを許容していた己に反吐が出る。
オリビアも学園ではさぞかし肩身の狭い思いをしていただろう。
そこに考えが至り、自分の不甲斐なさを責めた。
「ごめんなさいね、オリビア。貴女にまで辛い想いをさせて……」
お腹から辛うじて絞り出したソフィーの声は掠れていた。
彼女の言葉に驚いたオリビアは、思わず姉の顔を見つめる。
その表情には、いつもの姉と、違う……と書かれているようだ。
「今まで本当にごめんなさい。私、目が覚めたの。今までの事が許されるとは思わないけれど、これから私は変わるから……オリビア、見ていてね?」
「はい、お姉様……」
姉の言葉にオリビアの瞳から涙が大量にこぼれ落ちる。
ソフィーは彼女の涙が止まるまで、優しく背中を撫で続けていた。
ソフィーは茶会を終えたその足で、父の執務室へと向かった。
彼女の父はその手腕を買われて財務副大臣として王城へと出仕しており、高位貴族の方々と関わる仕事が多い。
この数日間は彼女が体調を崩していた事から、屋敷での業務が認められているので、今は執務室にいるはずだ。
ただでさえ心労が絶えないであろうところに、今度はソフィーの婚約の話である。
父には申し訳ない、と思う一方でまだ影響の少ない今だからこそ終わらせるべきだと、彼女は感じていた。
予想通り、父は執務室にいた。
執事であるトムに案内され、机とは別に置かれている来客用のテーブルと椅子のある場所に案内される。
きりが悪いから、とソフィーは仕事が落ち着くまで長椅子に座って待つ事になったが、ふと気づけば膝の上に置いた両拳が小刻みに震えている。
ああ、きっと恐怖だ。
今までの愚かな自分が父にどう思われていたのかが、怖いのだ。
震え上がっている身体を叱責し、胸に手を当てて深呼吸する。
胸の高まりが落ち着いたところで、折よく父の仕事が片付いたらしく向かいの椅子に座った。
「どうした、ソフィー。お前が執務室に顔を出すのは珍しいな」
父の表情には、こちらの身を案じるような様子が窺える。
トムによれば、父も仕事がいち段落する度にソフィーの様子を見に、部屋を訪れていたらしい。
「ソフィーの初めての我儘だから」と様子を見る事を許してくれた父に申し訳ない、という気持ちばかりが膨らむ。
「お父様に――いえ、伯爵様にご相談したい事がございます」
最初は身震いしていた身体も、言葉を発すれば自然と収まり声も和らぐ。
土壇場ではあるが彼女の覚悟が決まったのだ。
その事に勘付いたのか、伯爵も姿勢を正した。
「……言ってみなさい」
「私、ジュリアン・フォールズ伯爵令息との婚約を破棄したいと思いますの」
そうソフィーが告げれば、伯爵は目を丸くしてこちらを見ている。
まさか婚約についてソフィーから言われるとは思わなかったのだろう。
過去のソフィーはそれ程ジュリアンを好いていたのだから。
彼は少しだけ考え込んだ後、ソフィーに顔を向けた。
「どうして婚約を破棄したい、と思ったのか教えて欲しい」
「あの方に愛想が尽きましたの。嘘を吐く人と生涯夫婦にはなれませんわ。学園でも婚約者である私を放置して、元恋人と仲睦まじくされているのですから」
言い切って思う。
ソフィーは想像以上にジュリアンの事を見限っていたようだ。
以前は「ジュリアン」と名前を呼ぶだけでも熱に浮かされたような気分だったが、今では全く心が弾むことすらない。
なんとなくではあるが、ジュリアンと出会う前の自分に戻れたような気がした。
そんな気が晴れた彼女を伯爵は注視している。
ソフィーの本心を探るためだろう。
彼女がこの状況を静観していると、伯爵と視線がぶつかる。
ソフィーが微笑を漏らせば、胸を衝かれた彼は目を細めた。
「そうか……分かった。お前がそのように決めたのなら良いだろう」
「……伯爵様、私の我儘でご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
居住まいを正してそう告げれば、伯爵はかぶりを振った。
「お前だけを責めはしないさ。彼の言葉を信頼してお前を任せたが……惜しむらくは……我々は見る目がなかったのだ」
様子を見るに、彼も学園でのソフィーの扱いを知っているかもしれない。
「さて、トム。これは家族会議が必要だ。セレストとオリビアを呼んできておくれ」
「畏まりました」
トムがそのまま部屋から退室すると、父の表情は柔和なものに変わる。
「よく決断してくれた」
その言葉だけで、家族が自分の事を信頼して首を長くして待っていたのだろう、と察する。
彼らに対して面目が立たない、と俯いていたソフィーの頭を父が優しく撫でると、彼女の目から数滴涙がこぼれたのだった。
トムに呼ばれた二人が執務室へと訪れると、開口一番に父は「フォールズ家に相手有責で婚約破棄を申し込む」事を告げた。
母はその言葉を聞いてソフィーの身を案じて振り向く。
彼女はそんな母の思いに気づき、口元が綻んだ。
きっと目が潤んだ事に気づいているはず。
だが、その事に触れない母の優しさに感謝した。
「調査の結果を把握した上で判断するが、婚約破棄、もしくは婚約白紙……この何方かで考える。まあ、後々の事も考えたら婚約白紙が良いのだろうが……」
「お父様、お待ち下さい」
「どうした、ソフィー」
あの男を完膚なきまでに叩きのめさなければ、被害に遭う令嬢が次に出て来る可能性がある。
お家乗っ取りを企てるような輩だ。
ここでどうにかしなければ。
「先刻、オリビアに話を聞いたのですが……フォールズ伯爵令息とストライド伯爵令嬢は我が家の権力奪取をお考えのようですわ」
「なんだって?! 本当か、オリビア」
「はい……数日前、空き教室でお二人が話しているのを聞きました――」
オリビアの言葉を聞き、一番最初に鬼の形相で父へと迫ったのは母だった。
「旦那様、ここまで虚仮にされて黙っていられませんわ。とっととフォールズ家と縁を切りましょう」
「ああ、セレストの言う通りだ。明日よりフォールズ伯爵令息の調査へと入る。オリビア、お前は普段通りの学園生活を送ると良い。ストライド伯爵令嬢に何かされてはいないか?」
「学級も異なりますし、滅多に関わる事はありません」
「なら問題ないだろう。ソフィーは体調不良という事で学園を休むように。それと、トム」
「調査の件、承知いたしました」
「うむ、よろしく頼む」
足早にトムが部屋から退室し、家族だけの空間になったからか、母はソフィーに話を振った。
「ところでソフィー、フォールズ伯爵令息の事は本当に大丈夫なのかしら?」
「ああ、好意を寄せていたのだろう? こんな事になってしまうなら、最初から婚約させるべきではなかったな……」
後悔の念が表情に表れている両親を見て、ソフィーは骨身に堪える。
そんな表情をさせた事に申し訳ない。そう思った彼女はせめて自分だけは、と微笑んだ。
「お母様、お父様、ご安心ください。むしろ私、胸がすくような思いですの」
そう事も無げに伝えれば、呆気に取られたのか目が点になった。
「あら、そうなの?」
「はい。むしろ何故今までこうしなかったのかが不思議なくらいです。とても身軽になりましたわ」
あっけらかんと言うソフィーに、母は吃驚する一方で、父は何やら思案している。
数秒にも満たない時間で結論を出したのか、彼はすぐに顔を上げた。
「ソフィー、少々考えがある。婚約者候補を一人呼ぶから、会ってくれないか?」
「フォールズ伯爵令息との婚約解消が終わっておりませんが、よろしいのですか?」
「問題ない。会うまでには終わらせる」
宣言通り、ソフィーの婚約は相手有責で破棄となったのだった。