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06 王女の出立

 まぶしいほどに月が輝く夜だった。


『おまえには世話になった。感謝してもしきれないと思っている』

 メフィストの目を盗んで書いた手紙は、朝すぐに気が付くように調合用の机ではなくテーブルの上に。

 物音を立てないように慎重にベッドから起き上がり、ソファの上で足を組んで頭から毛布をかぶって眠っている恩人に深く頭を下げてからドアを開けた。


 

『いままで生きていて知らなかった、たくさんのことを教えてもらった』


 この数日、思い返せばメフィストはやけに明るく振る舞っていた。小屋の近くに作った薬草園にベアトリスを案内してくれたし、【黒雪の森】に固有の貴重な植生を教え、採集にも連れて行ってくれた。予感していたのだろうとは思う。引き留めるでもなく、ただ何も触れずに接してくれる優しさに救われてもいた。


『もう、会うことはないだろう。何も返せなかった私を許せとは言わないが、この気持ちだけは伝えておきたかった――ありがとう、メフィスト。おまえに出会えてよかった』


 通い慣れた道を通り、泉までたどり着くとスノウフレイクが待っていた。出立が近いことを感じていたのかもしれない。蹄が待ちきれない、とばかりに砂を蹴る。

「待たせてすまないな、スノウフレイク。また、私と走ってくれるか――?」


 スノウフレイクの鬣を撫でながら、穏やかな停滞を望む気持ちを振り切るようにベアトリスは相棒のしなやかな筋肉によりかかった。

 もう、此処に留まることは出来ない――何を為すべきかもはっきりとは定まらなくても、このまま過ごしていれば余計な感傷が増えていくだけだ。


「さすがに薄情すぎやしませんかね。さんざん振り回しておいて、別れの挨拶は書置きだけですか?」

 低い声音で紡がれるひねた物言いに、はっと顔を上げる。泉のほとりで休んでいたスノウフレイクが耳をぴくりと動かした。


「よしよし、あんたも馬も元気そうで何よりです」

 月光に照らされて桃色の髪が禍々しく光る。

 背中に翼こそ見えないが、蒼闇の中に立つ男の凄みさえ感じる形相は【悪魔】そのものだった。その迫力に押し負けて、ベアトリスは思わず後退る。近づくな、とでも言いたげに鼻を鳴らしたスノウフレイクを見て、メフィストがため息を吐いた。


「言わせてもらいますけどねえ、ベアトリス王女殿下」

「何だ」

「あんた阿呆なんですか?」

 

 しばらく間をおいてからベアトリスは尋ねた。

「なあメフィスト、『阿呆』とは、どういう意味だ?」


 ベアトリスの問いにメフィストはぐったりと肩を落とした。

「……『愚か』という意味です」

「なるほど、そうか」

「そうです……」


 聞き慣れない言葉だったので確かめただけなのだが、失望させたようだ。申し訳ないような気持ちになったところで、メフィストが「あんた世間知らずすぎなんですよ!」と声を荒げた。


「すまない」

「だからそれじゃあ済まないんですって! 大体あんたいまひとりでどっか行こうとしてますけど金は持ってるんですか? このままじゃ物も食えないし宿屋にも泊まれないんですよ?」

「金……そうか、通貨を支払い、対価として役務や物を得るんだったな。ない場合はどうしたらいいのだろう」

「そりゃ、あんたの言う『役務』を通して金や物を得る、しかないでしょうね」

「私に出来る役務か。肉体労働は得意だ、荷物運びでも何でもやってみるとしよう」

「……ダメだこりゃ。あんたひとりじゃ悪人に騙されて素っ裸にされて娼館で客取らされますよ。グリティア金貨百枚賭けてもいいです」


 メフィストはうんざりしたように天を仰いだ。つられてベアトリスも空を見上げる。月ばかりではなく星も綺麗だ――砂糖菓子をばらまいたように夜空に零れ落ちた輝きを見ていると、どうしようもなく――腹が減った。

 ぐう、とベアトリスのお腹の虫が鳴いたのをメフィストは聞き逃さなかった。


「……食料ぐらい持っていけばよかったのに」

「あの家にあるのは、おまえと、おまえの大切な人のものだ。私が無断で拝借していいわけがないだろう」

 ああもう、と叫びながらメフィストは桃色の髪を掻きむしる。


「あんたってひとは――ほんっとうに、世話が焼ける女ですよ!」

 大股で歩み寄って来たメフィストはベアトリスの目の前にどん、と鞄を置いた。

「食料と水、いくらかの路銀が入ってます。餞別にどーぞ」

「メフィスト……」

「って、言おうと思って追いかけてきたんですけどやっぱやめます」


 ベアトリスが受け取る前にメフィストが鞄をひったくった。

「あんたをこのままひとりっきりで放りだしたら俺がおかしくなっちまう。この中に他にも必要そうな荷物まとめいといたんで、適宜使うんですよ。ていうか、どうせ使うタイミングもわからなさそうなんで俺が預かっておきますね。あんた絶対無茶するから休憩もぜんぶ俺が指示しますしぜんぶ管理してやります」

「メフィスト……?」


 両頬をメフィストの掌がふわりと包んだ。真正面から見合って、メフィストの菫色の双眸に自分だけが映し出される。


「俺を、あんたが果たすべき目的のために使ってください。しかたねーから……【黒雪の森】の『悪魔』としてあんたに仕えてやりますよ」


「おまえはそれでいいのか? 何かやることがあって此処にいるんだろう」

「……厄介な性分でしてね。考えるより先に感情で突っ走る。そういうのもそろそろやめどきだって思ったからこの森に引きこもってたのに」

 全部、あんたのせいです。そう言ってメフィストは苦笑した。


「ただしその対価はいずれ、あんたからもらいますよ、いまじゃなくて、ずっと先に。だから俺は何と言われようがついていきますんで」

「そうか。それは、困ったな……」

 ベアトリスの言葉にメフィストは若干傷ついたような表情をした。


「困るのかよ……そんなに嫌がられるっつーのも、堪えるもんですね……」

「ああ、なんというか嬉しいな、すごく」

「……えっ」

「ん?」


 メフィストをじっと見つめ返すと、噎せたのか勢いよく咳き込み始めた。どうした、体調でも悪いのか、と尋ねても「いいから放っておいてください」と顔を背けてしまった。

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