無人駅
どうしても外せない用事があった。
私は歩いて駅に向かう。
田舎町。通り過ぎていく景色の中に、私と同じように歩いて何処かへと向かう様子の人はほとんど見当たらない。遥か昔に舗装され、今は酷くボロボロになったみすぼらしいアスファルトの道を辿る。
道の傍にそびえ立つ木々は、例外なく橙色に染まっている。
シャッターが閉まった店や無人の建物が、ポツリポツリとルートに点在している。そのどれもが、私の興味を引くほどには至らない、実に安っぽい雰囲気を町にもたらしていた。
駅に着いた。
ギリギリ無人駅とまではいかないが、ほとんどそれに近いような貧しい駅だ。
自動改札などあろうはずが無い。年老いた駅員が気まぐれに通行人に声を掛けては、切符を持っているかどうかを確認する、ただそれだけ。脆弱な仕組みなので、その気になれば、十分な切符代を払わずとも駅員の目を掻い潜ってこの駅を出ることができるし、この駅から無断で電車に乗り込むこともできなくはないだろう。
勿論私はズルなどせず、窓口で半分眠りこけていたシワだらけの老人から、50円もする入場券を一枚だけ買って、それを使って駅のホームに入った。
ホームには、この寂れた駅にとっては非常に珍しいことに、鉄道マニアであろうか、沢山の人がカメラや時刻表を手にしつつ次の電車を待ち構えていた。
いつもなら一人、多くてもせいぜい二人しか、このホームにいる人間はないというのに。
私は気になって、集団の一番後ろの方にいる、比較的若い男性の肩を叩いた。そして尋ねた。
「皆さんは何を待っているんですか?こんな駅に来る車両なんて、くたびれたようなやつばかりでしょう?」
男性は答えた。
「いいえ、だからいいんですよ。ほらほら、貴方も前の方へどうぞ。」
彼の声と共に、集団が一斉に私の方を向いた。途端、モーゼの十戒の海のように人混みが真っ二つに割れ、私は押し出されるようにして最前列に連れてこられた。
私は、先程とは別の、次は年配の男性に声を掛けた。
「あの、今日は何か特別な時間に電車が来るんですか?そろそろやってくるのは、いつも通りの時刻に来る車両だと思いますが?」
その男性は答えた。
「だからいいんです。ほら、そんなに焦らないで。」
そう言うと、彼は線路に向けてカメラを構えた。次に来る電車、シャッターチャンスを逃すわけにはいかないのだろう。そのあとどんなに話しかけても、彼は反応を示さなかった。
あと数分ほどで電車はやってくる。
うっすらと、踏切の警報機の音が遠くで鳴り響き始めた。
私は、この異様な雰囲気の中で、本来の用事を達成することは不可能だと考えた。嫌だと思った。
今日は帰ろう。
私は人混みを掻き分けて元の出入り口へと進む。
まるでぬかるんだ泥水の中を泳いでいるようだ。もたついて仕方がない。
人々は皆ぼうっとしていて、これから来る電車のことしか頭に無いように見えた。
両手でもがくようにして、私はやっとのことで集団から逃げ出した。ようやくまともに息が吸える。
空は暗くなっていた。ホームの明かりが眩しい。
さて、これからどうしようか、と考える。
考える。
それだけを考えようとする。
それなのに。
忘れようと思ったのに、背後の集団がやはり気になってしまう。背後が気になってしまう。
どうしても気になってしまう。
よし、一回だけ振り向いて、一回だけ振り向いて、あの人達の様子を少しだけ確認したら、あとは走って帰ろう。
私はゆっくりと、目線を後ろへと持っていく。
当たり前のことだ。そのとき、振り向くべきじゃなかった。そんなの当たり前だった。
そこには、私の眼前には、極限まで近付いた彼らのにこやかな顔があった。
祭りのお面の屋台のようにぎゅうぎゅう詰めで並んだ数々の頭の、異様な程ぎらついた目線が、全部私の方を向いていた。
その顔のうち見知ったものが一つ、最初に話しかけた若い男性の顔が、過度に口角を歪めながら言い放った。
「やだなあ、なんで居なくなっちゃうんですか?皆、貴方のことを今までずうっと待っていたのに。」
彼らの手が私の方へ伸びてきた。抵抗しようとする余裕もなく捕らえられ、私はなす術もなく持ち上げられた。
胴上げされているみたいに、私の身体は跳ねる、跳ねながら、性能の悪いベルトコンベヤーに載せられたかのようにホームの一番前へと向かっていく。
いつの間にか、ガタンゴトンと重苦しく響く音がすぐ近くに聞こえた。
「「あとちょっとだ、あとちょっとだ」」
全員が、呪文を唱えるように同じ台詞を口にする。
あとちょっと、それは電車が来るまでの時間のことじゃない。
私の身体は、ちょうどバスケットボールが籠に向かって投げ入れられるようなアーチを描くようにして、ポーンと向こうへと投げ入れられた。
あとちょっとだ、あとちょっとだ。あとちょっとで、
私の人生が終わる。
電車のヘッドライトが鼻先にあって、それは余りにも綺麗な光を私に向けていた。
例え軽々しくだって、自殺なんて考えるべきじゃなかったんだ。
ドン、という音がした。
沢山の何かが私の身体から千切れたのが分かった。
口の中から、鉄の臭いのする暖かい液体が溢れ出てくる。
そのまま、線路脇の砂利道に落下した。
右の頬に硬くて冷たい砂利石が当たっている感覚が、これまで経験したことが無いようで、なんとも不思議だった。
私は眼を瞑った。
視界がぼやけていくのをはっきりと感じるのが怖かった。
私はこれから何処へ行くんだろう?
私は、本当は何処へ行きたかったのだろう?
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「全く、折角僕がこれから自殺しそうな人を見つけてきたのに、皆がこんなに密集して集まったせいで、あの人、危うく踏み留まるところだったじゃないですか。」
「そんなの仕方ないでしょ。鉄道好きの我々であってもなかなか見ることのできない電車の人身事故の場面が見れると聞いたら、そりゃ全国から真のマニアが集まってくるに決まってますよ。」
「…まあ、そうか。僕だって、鉄道会社の死体処理の対応をなんとかして見てみたかったものだからこの素晴らしい計画を立てた訳ですしね。ところで、君は何に惹かれてこの計画に参加したんですか?」
「ああ、私は『音』ですね。人間が車体に勢いよくぶつかる音、緊急のブレーキ音、慌ただしくなる車掌達の声、どれも一度は聞いてみたかったんですよ。」
「そうですか。その他にも、この計画には轢死体の写真を撮りたいと思っている人や人身事故に伴うダイヤの乱れを生で体験してみたい人なんかが参加したんだっけ?主目的は違えど、皆人身事故を待ち望みにしている人ばかり。」
「沢山の鉄道マニアの願望が達成されたんです。結果的に私たちがその背中を押す形になってしまったとはいえ、本来はただ他者に迷惑をかけるだけだった自殺をこれだけ素晴らしいものに昇華させることが出来た訳ですから、あの轢かれた方もこうやって自殺できて本望なんじゃないですか?天国で喜んでいるに違いありませんよ。」
「全くその通り。」