第五話 名無しの権兵衛
チュンチュンと、鳥のさえずりで目を開ける。
もう、朝か………
まぶたを擦り、ベッドの上で伸びをする。
ちょうどその時、コンコンと控えめにノックの音がした。
あまり喋りたくはないが、起きている以上、応えないと失礼になるだろう。
「はい………?」
「起きてる?リズよ、入ってもいい?」
どうやら昨日のお嬢様のようだ。
「はい………、大丈夫です」
言ったあとで、ベッドに横になったまま挨拶するのはおかしいなと焦る。
起き上がりベッドを降りようとしたところで、彼女は扉を開けた。後ろには昨日会った夫人もいる。
「ああ、いいのよそのままで。起きているようなら朝食をと思って、来てみたのよ。調子はどう?」
夫人ににこにこと穏やかな笑みを浮かべて訊ねられた。
朝食………。そういえば昨日残したサンドイッチは……
視線をサイドテーブルに向けるがそこにはなく、代わりに昨日はなかった水差しとコップが置かれていた。
「あの……昨日の……」
「サンドイッチ?あれは夜中に下げたわ。ずっとそのままだと硬くなってしまうもの。同じものが食べたかったらまた作ってもらうけど……」
「えっ、捨てちゃったんですか!?」
思わず大声を出してしまった。食べ物を捨てるなんて、なんて勿体ないことを。母と二人暮らしのときは、毎日食べる物にも困るような生活だった。母と死に別れてから――まだ数日しか経っていないはずだが、やはり食べ物には苦労した。悪魔の子と蔑まれ、それでも私は自分が悪魔ではないと証明するために、盗みなどの悪さはしないと決めていた。元よりこの世に未練などないし、あのまま死んでも構わないくらいの気持ちだったのだ。
ただ、最後まで抗いたかった。悪魔の子という汚名を、返上したかったのだ。
その為に、ますます食べ物にありつくのは困難を極めた。この街に来てからは私の曰くを知る人もいないようで、孤児だと思ったか、お店の廃棄品をくれる大人もいた。だが長居はしたくなかった。積極的に死にたいとは思っていなかったが、こんな惨めな生き方をずっとしたいとも思っていなかった。
けれど、食べるに困る生活を続けていた為、下げたと言われたことがショックだった。
「?いいえ、捨ててはいないわ。手を付けていないようだったし、私達の夜食にしたのよ。せっかくシェフが作ってくれたのに、勿体ないもの。あなたも、それを気にしてくれたのね。いい子ね」
夫人が頭を撫でてきた。私はホッとした。自分の母でさえ、こんなふうに平然と頭を撫でてきたことはなかった。いつも何かに怯えてーーいや、私の中の悪魔が覚醒するのを恐れてーー、そうならないように、愛情をかけて育てなければという、義務感のようなものだったのだろう。そんなことを思い返すと、知れず涙がこぼれてきた。
なんの涙なのかわからない。それくらいに自分の感情は麻痺していた。
安堵の涙なのか。母に受け入れてもらえなかった悲しみなのか。それとも。涙の理由を探す。
ああ、わからない。何故私は泣いているの?
だがそれすらも、夫人は代弁してくれた。
「色々あって、混乱しているのね。そんな中で申し訳ないのだけど、私も貴女の事を聞かなきゃいけなくて。言えることだけでいいわ。そうね、まず………名前を聞いても?」
私はビクリと身動ぎし、静かに首を横に振る。
「言いたくないの?」
リズが不安そうに訊ねてくる。
「………そう、じゃ、なくて………」
言ってもいいものだろうか?名前がない、と。逡巡したが、事実を打ち明ける情けなさより、心を閉ざしていると思われたくない気持ちが勝った。
「名前…………ないから。誰にも、付けてもらってないから」
途端、夫人とリズが息を呑む。しかし、すぐに夫人は取り繕って、
「………そう………。それじゃあ私達が名前を考えましょうね。ふふっ、二人目の娘が出来たみたいで嬉しいわ。どんな名前がいいかしら」
明るく穏やかに笑った。
「紫色の髪がキレイだから……、大人っぽい名前がいいと思うわ!」
リズもはしゃぐ。
「そうね、だけどゆっくり考えましょう。まずは朝ごはんよ。みんなで下に降りましょう。シェフが準備万端で待っているわ」
母に促され、リズは脇に抱えていた服を渡してきた。
「そうだったわ!これね、私のお洋服。それは寝衣だから、こっちに着替えてね。一人で着れる?」
渡された白のワンピースはフリルの襟が付いていて、センターに上から下までボタンがたくさん付いていたが、痩せぎすの私は外さなくても頭からすっぽりかぶれそうだった。
「大丈夫だと思う……。」
「わかったわ。それじゃあ、部屋の外で待ってるわね」
夫人は娘と共に部屋を出ていった。
私は急いで着替え、扉の外で待つ二人の元へ向かった。