『いつか来た門出』
そして一人でも日常茶飯事を熟せるようになって数日過ぎた頃。ちょうど最近雨の勢いが和らぎ続けていたのが反転、降るたびに雨足を強くし始めていた。
この日、偶然同じ休憩小屋でスオさんと雨宿りをすることになった。
別行動している時はともかく、同伴している時は相変わらず私の体力に合わせてもらう形になっている。
薄れつつあったがそれに対する憂慮はまだ少し残っていたようで、小屋に入って僅かな時間、先客の彼女との間で沈黙が流れた。
しかしそんな風に振舞う必要は最早無い。対等とまでは言わないけれど、もう私達は半ば一蓮托生の仲。にこりと微笑みかけながら話題を提供しようとして……今度は彼女にとって現人神様とはどのような存在なのか聞いた。
「前に現人神についての説明をしてもらったけど、スオさんが思う現人神様ってどんな存在?」
出来るだけ軽く聞いたつもりだったが彼女は表情と姿勢をきりりと改めて返答した。お互い立ったままだったところで急に正座されたため、衣擦れの音に振り返った私とスオさんは俄に見下ろし、見上げる形になった。
「そこにいらっしゃるだけで私の生活の糧となり心の支えとなる御方です。」
気を抜いていたところに想定より重い返答。自分の意識との乖離に気が行った。
その感情が表情に現れていたのだろうか。スオさんは寂しそうな顔をしながらこう続けた。
「祖母の名前、ミオっていうんです。昔はこの名前を聞くだけで、同時に現人神様をも思い浮かべる方が多かったそうです。それくらい村にとって村長と現人神様の繋がりは重要視されていたのです。ええ、自覚しております。私もその意識が抜けてはいないのでしょう。」
「しかし今は私の他にこの深雨森の正式な住民だった者は居ません。」
「ですから現人神様……秋宮どのには出来るだけ自由に心地よく過ごしてほしいと思っています。どうかお気になさらず──」
そこまで話してハッと
「いえ、少し余計なことを口走りました。忘れてください。」
顔色を変え、冷たい秋風に吹かれたような笑みを口元に浮かべつつ目を逸らす彼女。
雨は一旦夕方までに止んだ。けれど、この笑みは数週間寝床に現れ続けた。男には忘れられない女の顔が一つはあると友人が吹聴していたことを思い出す。これがそうなのだろうか。
「スオさん、さっき見てきたんですが二つ目の倉庫が荒れてましたよ。中の保存食が壊滅してる。動物でも入ったみたいです。」
「困りましたね……。」
報告に行った先で少し頭を抱える彼女。割とかなり重大な事態だと思ったのだけれど、それほど深刻な表情ではない。
「以前にも同じことが?」
「よくあることです。けれど私一人でしたから他の倉庫が全部やられてても土の中に隠しておいた非常食でなんとかなります。味はお察しですが。」
「倉庫は全部で八つ。全て満杯になることはないでしょうけど、余裕は結構ある感じだったんですね。」
そう言うと、それとはまた別に問題が、と言ってまた何か考えている様子。生活計画について何か考えているときはいつもこの表情だ。
寝起きのような瞼の動きと、森を見上げる真剣な目。
「住人が居なくなれば全ては森に還る。」
「伝え聞いた話です。……私が生まれるずっと前から。」
そう言ってまた物を考える表情。
口には出さなかったが今はわかる。
将来の不安を感じているのだ。
このままでは森の中の環境が大きく変わらない代わりに細々と暮らしていく生活に変化が訪れることもない。それは緩やかに私たちが老いて死んでいくことを示す。
元の世界に戻るという希望を持っている私とスオさんは違う。
もし帰れないことが確定的になったらきっと私もいずれ同じ心境に近づくことだろう。若い二人が終生を此処に決めて慎ましく年月を割いていく。全く受け入れがたいというのが当事者にとって最も自然で歳相応の感情だろう。
だが彼女は言外に「この森で静かに生を終えてもいい」と語った。変化を遠ざける無意識の働きによるところもあると思うが、それだけではない。
南屋、村長筋として云々以上の感情を現人神様という存在に持っている。彼女の思考決定の中心と言ってしまっても相違ない。
主体性と力に溢れた女性だという南屋スオへの私の第一印象は変わらない。そこに一本の添え木をしたい。願わくば、この森に現代文明と同じくらい人間の暖かさを取り戻したい。
「スオさん。話があります。」
「……なんでしょう。」
そしてある日の午後、思い切って提案してみた。
「私とスオさん。現人神と村長二人だけの集落という現状を変えませんか。」
「それは、もしや」
「ええ。」
いつものような静かな返事にうっすら期待の色が乗っている。
「深雨森を村として再生させましょう。」
あの時の感触では村自体の再生も彼女は求めていたに違いないのだ。それは今思うと先代の現人神に代わる存在として私を見つけたときの反応に最も顕著に表れていた。
それでも彼女は迷う様子を数分見せた。けれど。
「そう仰っていただけて大変嬉しいです。」
とだけ言って沈黙。抱擁。
そこには単に寂しい場所に一人暮らしていただけの少女とは違った重みを感じた。
巨大な森にあって唯一の村の長の血筋。さらに彼女は村の栄えていた頃を知っている。
喪失を幾つも越えてきた、そんな涙が私の袖に染み込んでいった。