水ビジネス
「ええ? 野神さんは火星行きの宇宙船なんかに乗りたいんですか?」
台地がアスファルトで覆っているここは、工場の一角にある実験用プラント。当然だが、僕が務めている工場では、ロケットやスペースシャトルなんかは造っていない。
僕の名は古河文昭。高校を卒業して直ぐに大阪湾岸沿いにあるこの工場へと就職した。ちょうど二十歳になる。
大学に行きたかったのだが、家庭の事情で受験を諦め、丁稚奉公へと出されたのだ。両親の出費が……収入以上なのが歯痒いところだ。
ヘルメットを被ってダブルクリップで止められたA4の資料を片手に、一緒に仕事をしている野神俊樹先輩の言っている意味が……今は理解できずにいた。
「火星って……。あの火星ですよね?」
「ああ。人類初、火星に足跡を残せるんだぜ」
夏の日照りの下、流れる汗が作業服に汗染みを作っているが、うちの部署には男しかいないから気にもならない。
目の前では大きなタンクや訳の分からない装置がゴーゴーと物凄い騒音を上げている。
「でも、火星行きの宇宙船って、帰って来られないんですよね? 自殺行為じゃないですか。実験台ですよ」
ちょうど今、目の前で稼働している実験プラントのようなものだ。……この実験プラントもたぶん……駄目だ。海水を真水に変える装置らしいが、大掛かりな装置のくせにチョロチョロ程度しか真水が出ない。先輩も半ば諦め、雑談をしながら毎日仕事をしている。
「だが、俺の名は末永く歴史の教科書に書かれるさ。火星探査員第一号だ」
「阿呆らしい。先輩、そんなに頭良くないでしょ」
「なんだと」
「怒らないで下さいよ。先輩が宇宙船に乗れるほど頭良くないでしょって意味ですよ」
「ハハハ、それなら大丈夫さ。なぜなら一般人から公募してるのさ。海外のサイトで!」
めちゃくちゃ怪しい気がする……黙っていた方がいいのだろうか……。
やっぱり先輩、頭良くない……。
「――それって、世界中から募集しているんですか」
「ああ。……まあ、世界には命知らずがうじゃうじゃいるからなあ……。当たらないだろうなあ……。当たって欲しいなあ……」
宝クジじゃないんだから、当たらない方がいいだろう。それは……。
「もしそんなのに当たったら、彼女はどうするですか? 反対してないんですか?」
二歳年上で高専卒の野神先輩には、ラブラブの彼女がいる。写真はまだ見せてもらったことはないけれど、結婚も視野に入れて付き合っているそうだ。
「ああ、当たったら知人を三人連れていけるんだけど、「もし当たったら、一人でいってらっしゃ~い」って笑ってた」
ハハハと先輩が笑うと、つられて笑ってしまった。
「ハハハ、やっぱりそうでしょうね」
彼女さんの方がよほどまともな思考だ。
「だから当たったら、お前も連れて行くからな」
「遠慮させていただきます」
宝くじより確率が低くても、ぜんぜん魅力に感じない――。
はあ~と先輩はため息をついた。
「どうせ地球にいたって、核爆弾とかが落ちてきたらお仕舞いさ。ボカン。アンギャ―。核保有国ってのがある限り、どこに居たっていつでも危険と隣り合わせさ。そう思わないか?」
確かに地球上に絶対安全な場所なんて……ない――。核保有国ですら、他国の核やそれを狙うテロリストの恐怖に脅えなければいけないのだから……。
「火星の方がマシさ。もし火星人がいれば、人間なんかよりもよっぽど平穏、温厚だろうさ」
「……そうかもしれませんね」
ありえないだろうけれど、そう相槌を打っておく。僕の考える火星人のイメージは足の長いタコだ。
「こんな大きな浄水器を作って、飲み水に困っている国に支援したって、一方で戦争してたら何やってんのか分かんねーよ」
プラントの柱を安全靴で軽く蹴っ飛ばすと、ゴーンと金属の低く鈍い音が響いた。
「おい古河、水質のデータをちゃんと取っておけよ」
「あ、はい」
ポケットに手を突っ込んでプラント前から去っていくと、僕は手にしたA4のチェック用紙に、調節計などに表示されたデーターや丸い圧力計の数値を次々と記入していった。
まだ入社して二年の僕は、言われたことだけを毎日こなす仕事に明け暮れていた。