高所恐怖症の理由
――人間はいつでも身勝手な生きものだ。それは人が地球上で生活を続ける限り、永遠に繰り合えされる。温暖化は阻止できず、絶滅危惧種は――危惧された後に必ず絶滅してしまう。人さえいなければ、地球の表面は砂漠にもアスファルトにもならず、本来の瑠璃色の青さを継続することだろう――。
――でも今、僕はこうして生きている。瑠奈だって、すみれさんや野神先輩、たくさんの人達が必死に生きているんだ。
だから、やめさせなくてはいけない――。
月落としなんて――。
僕の命に代えてでも――。
「高所恐怖症なんでしょ? 怖くて近づけない?」
「……怖いものか」
強い風が吹く中、仮設の足場を一歩一歩、瑠奈の所へと近づく僕の足取りに、震えなどはない。
ポケットに手を入れたままでも歩けるさ。
「……どういうことなの」
「ハハハ……。実は瑠奈が先祖代々の言い伝えを聞いていたように、僕も聞いていたのさ。大爺ちゃんから……。
――ホワニタマニタと歌うもの。呪いの力で月を落とそうと企てし呪いの民。満月の夜、踊り続ける女には気を付けろ。……月を落とそうとする者を……生かしておくな――。
……まさか本当にそんな「呪いの歌」を歌って舞いを踊る「呪いの民」なんかが、現代にまでいるとは思ってもいなかったけどな。運命すら感じるぜ」
「――!」
高度な文明はその姿を地に残せなくても、先祖代々からの言い伝えが真実を伝えることがあるんだ――。歴史調査員の親父が知ったら、歯ぎしりをして悔しがるだろう。
古くから伝わる血族の末裔が、今、僕の目の前にいるのだから――。
「そ、そんな――。そのことを知っていて私に近づいていたって言うの――?」
瑠奈は踊りをやめ、端の方へと後ずさりする。
「ああ。僕の先祖はそうやって――巨額の富を手にしたらしい」
じりじりと距離を詰めていく。
「巨額の富を手に入れて、僕だって富裕層になりたいのさ……。瑠奈だってそうだろ? すみれさんみたいになりたかっただろ? なんの不安や心配もなく、将来を約束された人生を過ごしたかっただろ? 他人を不幸にしてでも、自分が幸せになりたい生き物なのさ。人間って。
今までもそうだったし、これからもずっとそう。いつの時代にも――だな」
手探りでシャツの下に着込んだハーネスの金具の位置を確認し、巻いて吊るしてある作業用の安全ロープを見つけると、それを繋いで一度引っ張り、僕だけは身の安全を確保する。
僕が死んだら元も子もない――。
追い詰めた瑠奈の後ろには、もう仮設の手摺しか残っていない。
「「月落とし」なんてさせるものか! 瑠奈をここから「突き落とし」てでも!」
……微妙な親父ギャグが、一瞬の間を作った。
「……やっぱりそうよね。そうなっちゃうよね。その方が自然だよね……。みんなを道連れなんて、おかしいもんね。
死ぬのは自分だけでいいものね……。
さようなら……文昭、あなただけは、ちょっと好きだったわ……。でも忘れないで。呪いの歌を知っている人は、世界中にまだいるんだから――」
――涙だけを屋上に残し、瑠奈は軽やかに手摺に登ったかと思うと、ゆっくりと後ろに倒れるように……。
飛び降りた――。




