消えた瑠奈
「フラれましたよ。先輩の思惑通りに……」
「……」
「なんか、一つの幕が上がり、降りたって感じです。別に悲しくもないし、なんだろうなあ……とにかく、終わったって感じです」
「そうか」
野神先輩はそれ以上、なにも言わなかった。
あの飲み会は先輩が仕組んでいたんだ。僕が瑠奈と別れるように……。
先輩と先輩の彼女からすみれさんに来てくれるようにお願いしていたに違いない。普段から瑠奈が仕事仲間に連れられて行く居酒屋で……待ち伏せするように合コンしようと……。そうでもなければ、すみれさんが下町の居酒屋みたいなところへ、あんな綺麗な格好をして来るはずがないじゃないか。少し考えれば分かることだった。
ああ……。なんか、終わったんだなあ。もう、仕事も恋愛もどうでもいい。夜行電車にでも乗って、どこか遠くの駅に行きたい気分になる。
先輩のように結婚を前提にした付き合いなんて、……僕には少しも考えられなかった。
「遊べ遊べ。俺たちはまだまだ若い。浮気だってなんだってありさ」
急に背中をバンと叩かれた。
「……そうっスよね。遊びます。遊んで遊んで遊びまくりますよ。ハハハ」
「そうそう、軽い男になれよ。水素よりも軽い男に!」
「ハッハッハ」
――? え、水素? それは軽過ぎるだろう……。
……でも、あの日の瑠奈の瞳は……寂しげで、それなのに僕を待っていてくれたように見せた笑顔が……。
――切ない。
もう会わないでおきましょうと言われたが、何度も電話を掛けていた。そして今までと同じように、携帯に瑠奈が出ることはなかった。
あの日から三日経ち、ある不安が脳裏をよぎった。
別れたあの日、瑠奈は黒色の会社用携帯をベッドの横に置いたまま出て行ったのが、脳裏に鮮明に描かれている。決して薄型ではない二つ折りの黒色をした携帯電話……。
――もしかしたら、そのまま放置されているのかもしれない――。急に不安が頭をよぎる。ちょうど今日は満月の日だ。
それに……瑠奈の部屋の合鍵だって、いつまでも僕が持っているわけにはいかない。
ガチャッ……。
鍵を差し込むと、部屋の扉を……開けた。仕事が終わった後、瑠奈のアパートに来ていた。もう辺りは真っ暗になっている。部屋の中は……外よりもさらに暗い。
瑠奈は当然のようにいなかった――。
あの日から部屋の時間だけがストップしていたかのようだ。ベッドの横に置いてある小さな丸いゴミ箱からは異臭が放たれている……。瑠奈が一度でも帰って来た形跡が……どこにも見当たらない。
「……瑠奈……」
商売道具と言っていたハーネスは掛けられたままだ……。
タリラリッチャン、ターリーラリッチャン、
タリラリッチャン、ターリーラリッチャン、
急に主人に放置された黒色の携帯が面白くもない着信音を鳴らし、思わず体が恐怖にビクッとしてしまった。
拾い上げてディスプレイを覗くと、番号だけが表示されている。
――誰なんだ。俺以外の男なのだろうか、それとも会社の上司……。それとも、恐い人……。借金の取り立て……とか?
嫌なことに巻き込まれそうな憂鬱感を振り払い、通話ボタンを押してそっと耳を近づけた。今は非常事態なのだ――。
恐い人だったら喋らずに通話を切り、急いでここから逃げ出さなければいけない。
『もしもし、瑠奈! 聞こえる? 私よ』
――!
聞き覚えのある若い女性の声。尋常じゃない慌てように、息を整えて冷静に答える。
「……もしもし、僕です、古河です。すみれさん? ですよね」
『え? 古河君なの。瑠奈と一緒なの? よかった……』
安堵するすみれさんの声に謝罪する。恐らくすみれさんの心配は何一つ拭いきれない。
「ごめんなさい。僕は今、瑠奈のアパートに来ているんですけど、三日前から帰っていないみたいです」
『……やっぱりそうなのね。携帯にも出ないし、会社の出勤データーが「無断欠勤」扱いになっているから心配で……』
「出勤データーのチェック? すみれさんはそんな仕事まで任されているんですか?」
『……内緒だけど。管理職の権限よ』
管理職の権限? ……聞かなかったことにしよう。
「そんなことより、瑠奈はどこへ行ったんでしょうか」
『それが分からないから心配しているのよ。もし前みたいなことがあったら……あの子――』
すみれさんはそこで言葉を切った。言ってはいけないことを言ってしまったように。
「前にもこんなことがあったんですか? 聞かせて下さい!」
『……』
「すみれさん――」
沈黙の時間が過ぎた。
小さい声ですみれさんが語り始めたのは、前に付き合っていた瑠奈の彼氏のことだった。
『半年ほど前に、瑠奈が仕事中の私に話し掛けてきたことがあったの。「彼氏ができたから化粧の仕方を教えて欲しい」って……。最初は彼氏のいない私に対する自慢かと思ったんだけど、瑠奈は必死だったみたいだから、一緒に化粧品売り場までいって試供品を使って教えてあげたの……』
……試供品……?
『でも、その彼氏に……酷いことをされて捨てられたみたいで……。その時も三日間くらい行方が分からなかったの』
「三日間――!」
冷たい汗が額から流れ落ちる。
『その時はうちのビルで倒れていたのが見つかったそうなんだけど……労災扱いになるからって内緒にされてたの。あの子も自分からは何も言わないし……』
――じゃあ、また今回もビルのどこかにいるんじゃないのか。
「瑠奈は今日も出勤していないんですよね?」
『ええ。瑠奈がエレベーターに乗ったら、私だって気付くはずだわ』
――いや、それじゃない。瑠奈が乗るエレベーターは中央の高速エレベーターじゃないはずだ。すみれさんは瑠奈が貨物専用エレベーターを使っていることを知らないんだ。
「今からミクスカスに入れますか?」
『無理よ……営業時間はとっくに終わってるんだから。入るには特別な許可書が必要なの』
特別な許可証か……ICチップが入ったものとかだったら、どうにもならないが……。
『私はもう少し瑠奈がよく行くお店とかを探してみるから、なにか分かったらまた連絡ちょうだい』
「分りました。この携帯を僕が持っておきます」
『お願い』
通話が切れた。
すみれさんはミクスカスにはいないと信じ込んでいるようだが、僕は逆に、あそこにしかいないと信じていた。
瑠奈が一番好きな、この辺りで一番高い場所に……。




